贄 |
猪川がその少年と出会ったのは、残暑の厳しい秋の初めの頃のことだった。 その日、しぶしぶの墓参りの帰路、彼は、道に迷っていた。 彼岸とはいえ、墓参りを毎年するほど猪川は殊勝ではないし、暇でもない。その彼が、家人に尻を叩かれたからとはいえ菩提寺に向かったのは、突然の休暇に、退屈したからに過ぎなかった。 頼むから有給を消化してくれと上司に泣きつかれ、猪川は、とりあえず――と、上司に言われるままに休暇届を書く羽目になったに過ぎない。 『ひまだー』 久しぶりに顔を見せた実家の濡れ縁に胡坐をかき、空を仰ぎながらタバコをふかしつぶやいていたのを、祖父に聞かれ、 『いい年して、恋人のひとりやふたりおらんのか』 と、呆れられた。挙げ句、 『そんなに暇なら、墓参りのひとつくらいして来い』 と、尻を叩かれた――いや、正確には、蹴たぐられたというべきか。 「いーい天気だ」 桶と柄杓を元の場所に返し、猪川は、秋晴れの空を見上げた。 空には、雲ひとつ浮かんでいない。 夏の空とは違い、やけに高く、空気が澄んでいる。 このまま帰るのも、面白くない。 「ふむ。………ドライブでもするか」 家に戻って、祖父の愚痴の相手というのも、疲れる。 愚痴ならまだしも、厭味になってしまうと、休暇を返上したくなるだろう。 彼岸だしと、らしくもない孝行心を出して実家に帰ったのが、間違いだったのかもしれない。 「じーさまも悪年寄せてるからな」 祖母は、ころころと楽しそうに笑いながら耳をかたむけるだろうが、自分では、苦虫を数十匹噛み潰してしまうのが目に見えている。挙げ句、聞きたくもない説教に矛先が移行するのは、想像に易かった。 猪川は、愛車に乗り込んで、エンジンをかけた。 秋の空と何とかはあてにならないというが、路肩に車を寄せて止めた猪川は、新たに取り出したタバコを咥えて、肩を竦めた。 突然の土砂降りは、雷鳴までもを引き連れていて、ワイパーが役に立たない。数メートル先がぼんやりと見えるくらいの視界の悪さに、無理に車を進めては、事故の元である。そのうえ、 「迷ったか」 方向感覚に自信があっただけに、それを認めることができなかったのだ。 「こうなると携帯もただの箱だな」 携帯電話は通話圏外を示しているし、いつもオフにしているせいか、カーナビはスイッチを入れても、うんでもすんでもない。 空は、暗さを増している。 雨足も激しくなる一方である。 空を引き裂く閃光と雷鳴とはスペクタクルと言えなくもないが、いつまでも動けないのでは、苛立ちばかりが募ってしかたがない。 目の前に見える細い道の奥に家らしきものが見えている。そこで電話を借りたほうがよさそうだ。 腹を括った猪川は、車から降りた。 家そのものと見えたのは、家の門だった。白い化粧壁の上に、瓦屋根を葺いている。かなり立派な門構えである。 「俺んちには負けるが、なかなか」 不遜なひとりごとをつぶやきながら、濡れそぼったままで、猪川はインターフォンを押した。 『はい?』 まだ少年の声が、インターフォン越しに聞こえてきた。 「すみませんが、電話を貸していただけますか」 猪川だとて、これくらい殊勝なことばを使えるのだ。 『あ……と、今、行きますね』 微妙な沈黙の後に返ってきた答えに、猪川はほっと、溜息をついた。 やがて、門扉脇の勝手口が開いた。 「こっちから、入って」 先ほどの声の主だろう、少年の声が、かけられた。 「おっ、すまない」 振り向いた猪川は、勝手口の奥から相手は顔を見せずに手招きされている状況に、ふと首を傾げたが、もとより、そうそう小さなことを気にする性質でもない。敷地に入り、手渡された傘を開きもせず肩にかけた。 そんな猪川を、少年が見上げていた。 「傘、ささない?」 見上げてくる大きな瞳が、暗がりで、鈍く光っている。 「今更さしても、かわらんだろ」 肩を竦めると、猪川の全身を、少年が確認した。そうして、 「確かに」 そう返すと、ニッと笑った。 とりあえずこの部屋使ってと、通されたのは、奥、庭が見渡せる十畳ほどのこざっぱりとした部屋だった。 庭には、築山や橋のかかった四阿(あずまや)つきの池、小川までもが流れている。どうせ、錦鯉も泳いでいるのだろう。築山の向こうに、対の屋とでも言うべきか、別の棟がぼんやりと見える。 「風呂はいる?」 手渡された大判のタオルで頭を拭っていた猪川は、顔を見せた少年に、 「おう」 反射的に、そう返していた。 飴色に磨きこまれた広い家の中、人の気配は、ない。 「おまえひとりか?」 「ん〜。まぁ、そうとも言えるかな。……とりあえず、留守番だな」 煮え切らない返事だった。 「じゃ、風呂はここね」 ひらひらと手を振った少年に、同じように手を振り、猪川は、濡れて張りつくシャツを思い切りよく脱いだ。 用意されていた浴衣を着こんで、猪川は、部屋に寝そべっていた。 少年は、姿をみせない。 勝手に他人の家を歩き回るわけにもゆかず、タバコをくゆらしていた。 雨足は、激しさを増すばかりで、いっこうに弛む気配もない。 同様に、雷鳴も、去る気配がない。 庭のいたるところにある樹木や、奥に見える竹やぶが、大きく撓り、葉を散らす。 「暇だ〜」 電話を借りたいのだが、少年は現れない。 いつの間にかうとうとしていたらしい。 「……さん。おじさん」 誰がおじさんだ――と、寝返りを打ちかけて、猪川は、目を開けた。 がばっと起き上がり、 「自己紹介がまだだったな。俺は、猪川将佐と言う。おまえさんは?」 起き上がるなり、開口一番そう言ってのけた猪川に、少年のただでさえ大きな目が、なおのこと見開かれる。次の瞬間、少年は、吹き出した。 「お、おじさんって呼ばれるの、気になるんだ」 「悪いか! 俺は、まだ三十二だ」 ククと、喉の奥で笑いを殺しながら、 「わかったよ、猪川さん。オレは、金田一はじめってーんだ」 ふと、猪川の脳裏に過ぎったのは、門扉脇にかけられていた表札だった。彫られていた苗字は、金田一ではなかったはずだ。 「晩飯できてんだけど」 はじめのことばに、猪川が、窓の外を見る。外は、いつしかとっぷりと暮れていた。 「わるいな」 他人の家で、たっぷりと寝こけたのかと、自己嫌悪に陥りながら、それでも、嵐のおさまったようすに、胸を撫で下ろす。 立ち上がるはじめについて立ち上がった猪川だったが、再びのはじめの爆笑に、憮然とならずにはいられなかった。 はじめは、ヒーヒーと、腹を抱えている。あまつさえ、涙を流して笑っているのだ。 「今度はなんだ」 笑い上戸には付き合っていられん――と、問いかけると、 「そ、その格好………」 指差してくる。 「おまえさんが出してくれたのは、小さすぎだ」 自分で自分を見下ろすまでもない。着替えた時に、裄も丈もついでに言えば、身頃も合っていないことは、確認済みである。 「しかたないだろ。ここじゃ、それが一番でっかいんだし」 「これを着るのは、おまえさんの、兄さんか、親父さんか? 小柄なんだな」 小柄というのは、語弊がある。猪川が、日本人にすれば規格外なのだから。それからすると、この浴衣の主は、幅はともかく、背丈は、高めの部類だろう。 何気に、そうつぶやいた猪川の目の前で、かすかに、はじめの顔が引き攣ったように見えた。 (名前からすると、長男だよな、こいつ) 「ま、気にするな。おまえさんもそのうち、背が伸びる可能性だけはある」 「可能性だけかよ……」 奇妙な雰囲気を追いやるべく、猪川は、はじめの頭をゴリゴリと撫でたのだ。 「やめろっ、禿る」 焦っては離れるはじめに、今度は、猪川が爆笑する番だった。 「ああ、忘れてたが、すまん。電話を貸してもらいたい」 「わかった」 教えられた場所には、 「おい。今時、使えるのか?」 でんとした存在感の、黒いダイヤル式の電話があった。 受話器を持ち上げると、ツーツーと電子音はしている。ジーコロジーコロというダイヤルする時の音が、懐かしかった。 深夜、猪川は、喉の渇きに目を覚ました。 冴えた月の光に、電灯を点さず部屋を出た猪川は、 「呆けたか?」 後頭部を掻きながら独り語ちずにいられなかった。 キッチンはこっちだったよなと、確信していたのにもかかわらず、かっきりと迷ってしまったのだ。 「おいおい………」 出てきた部屋の位置すら分からない。深い溜息をついた猪川は、ともかく、水だ―――と、ふらふらと他人の家をさまよった。 すっかり、眠気は去っていた。 猪川の足が、ふと、止まった。 嵐が嘘のように晴れた夜空に、真円の月がかかっている。 廊下に伸びるのは、自分自身の影。 風もないのだろう、庭の木々はさわとも揺れない。 すだく、虫の声。 一層のこと静寂を強めるばかりの澄んだ虫の声に、ともすれば掻き消されるものの、聞こえてくる、ひとの声がある。 絶えんばかりのかすかな声に、猪川の足が、惹かれるように、動く。 どこもかしこも閉て切られている障子や襖。 ただ、庭側のガラス窓から、月が射し込む。 庭のようすから、今自分がいる場所が、泊まっている部屋の真正面だろうことが、見て取れた。 声は、障子の向こうから、聞こえている。 引き返すべきだ。 しかし、聞こえてくる声が、猪川に、それを許さない。 声は、時おり、切羽詰ったような悲鳴じみたものへと変わる。 本当に泣いているのかもしれない。制止や拒絶の、短い叫びが、交ざる。はじめの声に、ひそやかな、未知の男の声が、意味を持たないことばとなって、猪川の耳朶に届く。その、楽しんでいるような、嘲ているような、深いトーンの声に、猪川の背中に、粟が立った。 障子一枚隔てた奥で、なにがおこなわれているのか、わかっていた。 艶めいたものに聞こえるはじめの、声が、未知の男の声が、猪川の足を、その場に、縫いとめたかのようだった。 どうやって部屋に戻ったのか。翌朝、重い頭を抱えて布団の上に起き上がった、猪川には、記憶がなかった。 「連れ出してやろうか」 目元を腫らしているはじめを見ているうちに、するりと、ことばが出ていた。 食欲がなさそうに魚の切り身をつついていたはじめが、いぶかしげに猪川を見上げる。 着物の襟元に、いくつも、赤い色が散っているのを、はじめは気づいているのだろうか。 どこか幼さの残るはじめの表情に、それは、あまりに不釣合いで、居心地の悪さを感じさせるものだった。 「なに、どういうこと?」 「俺は、これから、帰る。が、おまえさん、一緒に行かないか」 いったい、どんなヤツが、こんなガキに無体を強いていやがるんだ――――居心地の悪さは、猪川に、怒りを覚えさせていた。 はじめの目が、大きく見開かれる。 顔を赤く染め、泣き笑いのような、複雑な表情を、する。 「なんで?」 「…………ここんとこな、見えてる」 しばらく何を言われたのか、わからなかったのだろう。ぽけっとした年相応の表情が、突然強張りついた。 慌てて、襟ぐりを掻き寄せる。 小刻みに震えるのは、羞恥だろうか。 「野暮なこたー言うつもりはないが、嫌々相手してるなら、つれて逃げてやる」 猪川のことばに、はじめのくちびるから、はは――と、乾いた笑いがこぼれ落ちた。 「無理だよ」 項垂れたはじめが、かさりと、つぶやく。 「猪川さん、あいつのこと知らないから」 それに……と、はじめが顔を上げる。 「それに?」 「オレ、ここ出たら、行くとこないし」 「ま、いざとなったら、おまえさんひとりくらい養ってける甲斐性くらいあるぞ」 わざとらしく胸を張ると、 「オレは」 「ぐだぐだ悩むくらいなら、行動あるのみだ。ほら、着替えて来い……と、なんか言ったか?」 「別に」 「なら、行って来い。必要なものがあれば最小限でいい」 猪川は、力強く、はじめの背中を押したのだ。 「うわっぷ」 突然の強い風に、猪川は、目を閉じた。 「怒ってる」 つぶやきに視線をやると、猪川の手に縋るようにして、はじめが震えている。 玄関から、門までの十メートル足らずが、やけに遠く感じられる。 周囲の木々がざわめき、吹きつける風に撓った戸が、うるさく音をたてていた。 「猪川さん、オレ、やっぱ、ダメだ。あいつ、めちゃくちゃ怒ってる。下手したら、あんたまで、危ないよ」 真剣なまなざしで見上げてくるはじめに、おまえさんの相手は自然現象を操れるのか――と、笑ってのけることもできず、猪川は困惑顔で、はじめを見下ろしていた。 はじめの顔からは血の気が失せ、青ざめている。 小刻みな震えが、真実、はじめが相手を恐れていることを、猪川に教えていた。 はじめをこんなにも怯えさせる名前すら知らない未知の男に、怒りが激しくなる。 「そんな物騒な相手ならなおさらだ。ほら、さくさく行くぞ」 猪川が、はじめの腕を、強く引いた。 はじめが、思い切ったかのように、猪川の腕を握っていた手の力を抜いた。吹きつける風に幾度となく押し戻されそうになりながら、猪川とはじめとは、門へと向かった。 勝手口の鍵を外す。 「よしっ」 そういえば、こいつ、ここから手だけ出して俺を呼んだよな。なんとなく昨日のことを思い返しながら、猪川が、尻込みするはじめの手を引っ張った。 難なく戸は開き、あっけなさに、拍子抜けする。 外は、門の中が嘘のように、秋晴れのいい天気だ。 竹林の間を貫いている細い私道の外に、昨夜猪川が乗り捨てた車が見えていた。 「もうそこだ」 はじめを振り返った猪川の精悍な表情が、歪んだ。 「おいっ」 はじめは、門の前で、うずくまっている。 「大丈夫かっ」 猪川がはじめの横にしゃがみこみ、脈を取った。 全身の小刻みな震え、発汗。 (おかしな薬でも………) とっさにそんな考えが猪川の脳裏を過(よ)ぎる。 「ごめ……………い……かさん。ダメ………みたいだ…………っ」 大きな痙攣をひとつしたと思えば、はじめは、その場に力なく頽(くずお)れた。 「おい? 金田一っ」 抱き上げると、猪川の腕の中で、力なく仰のく。 「ごめ……」 少しだけ笑んでみせたはじめが、眉間に皺を寄せて、瞼を閉じた。 少しずつ死へと近づいてゆくはじめの全身の震えを、呆然と、猪川は感じていた。 医者に行かなければ――との考えは、浮かんだ瞬間に、消えてゆく。 はじめを抱きかかえたままの猪川の目の前で、軋む音をたてながら、正門がゆっくりと開いていった。 流れる水のような動きで、男がひとり近づいてくる。 ほっそりとしなやかな体躯に、黒と見紛うばかりの緋色の着物をまとった、印象的な男である。 白い端麗な顔の中穿たれた、金のまなざしが、凝然と猪川を見やり、彼の腕の中のはじめに逸らされた。 口角が、ゆるりともたげられ、壮絶な笑みを形作ってゆく。 ぞわりと、猪川の全身に、鳥肌が立った。 冷や汗がにじみ流れおちる感触に、猪川が胴震いする。 「僕のものを、返していただきましょうか」 白い、優美な手が、はじめの肩を抱き寄せる。刹那、それまで弱々しく瞼を閉じていたはじめが、首を振って藻掻く。それは、捕食者に囚われたものの、最後の死の舞踏にも似ていた。 「いや――だっ」 思いもせぬほどの激しさで、はじめが叫んだ。 「た……あ………かとう………もう、いやだ」 泣きながら訴えるはじめの瞳を、額が触れあう至近距離から見下ろし、 「ダメですよ」 男が、きっぱりと、断言する。 「君は、僕のものです。僕が、飽きるまで、君を死なせはしません」 男のことばに、いやいやと、はじめが、首を振る。 「君は、僕の、贄(にえ)なのですよ。昔過ぎて、忘れてしまいましたか」 「………もう、死なせ……てっ」 瞬間、男が、はじめの頬を、叩いた。 ながれおちる涙が、その瞬間、猪川の頬に、散りかかった。猪川の意識はある。しかし、動くことができない。目で耳で、死に瀕しているはじめと、男とのやりとりを見聞きしているよりなかったのだ。 「逃がしません。死なせません」 男は、食いしばるはじめのくちびるに、赤いそのくちびるを落とし、息を吹き込む。 はじめの眉間に、絶望が深く刻み込まれた。 「未来永劫、君は、この、高遠のものなのですから」 死の宣告よりもなおのこと禍々しい微笑を、端麗なその白皙に刻みながら、男は、はじめを抱き上げた。 はじめと男とを呑み込み、門扉が、音たてて閉じていった。 「どうしました?」 声をかけられ、猪川は気づいた。 通りすがりだろう老婆がひとり、猪川を気遣わしげに見下ろしていた。 竹林の中だった。 あの門も、家も、幻であったかのように、そこには、ない。 ただ、竹が、風に揺られて、葉擦れの音を奏でているばかりである。 「ざまぁない」 愛車に乗り込み、タバコを咥えた。 「どうしました? なんぞに化かされましたかの」 助手席に座った老婆が、顔を覗き込んでくるのに、なんでもないと返す。 街に行くと言う老婆に道案内を頼んだ猪川は、その道すがら、彼女から昔話を聞いた。 天変地異に見舞われたある年、この土地一の庄屋の家に攫われてきた少年が、庄屋の家に祀られていた土地神の生贄となったと言う、古い伝えである。 死なせて――と泣いた少年を思い出して、猪川は、火をつけていないタバコを、毟り取り、灰皿に押し付けた。 おわり
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あとがき
疑問とか、変とか、な、ところがありますが……。電話がなんであるんだ〜とかVV いえね、実は、昭和半ばくらいまでは、お家があって、住んでるひとがいたと言う設定があるんですが、入れられなかったのでした。
少しでも楽しんでいただけますように。