異説 人魚姫2 |
ぷは〜っ! 夜の波間にひとつ、黒い影が現われた。 周囲を確認して、はじめは音を立てて波を掻き分け、少し離れた場所にあった岩場に移動した。 あまりに急いだため、疲れきっている。 大きな岩のひとつに腹這いになるようにもたれかかり、はじめは深い溜め息をついた。 やっとのことで、海王の城を抜け出したのだ。 「やってらんねーよな」 思い出すたび頭を抱え込みたくなる。 『王妃さま』と、呼ばれる苦痛が蘇える。 「俺は男だ〜!!」 頭をかき回す。髪がくしゃくしゃにもつれる。 ことあるごとに明智に抱き寄せられ、キスを奪われる。 「慣れねーってば」 (慣れてたまっか) 男だというのに、何の因果で海王の許婚者などにならなければならないのだろう。 「オレってば前世であいつのこと殺しでもしたのか?」 世を儚みたくなる。 男の王妃を持つことに、人魚族の誰一人として、反対を唱えるものはいない。いくら、先代のオババが『未来の王妃さまに』とまだ卵だったはじめに祝福を与えたのだとはいっても、孵ってみれば男だったのだ。その時点で、反故になっていたっておかしくはないと思うのだ。なぜ、どこかに『男の王妃などおかしい』と反対する者がいないのだろう。 実を言えば、その理由をうっすらとわかってしまっているはじめだったりするのだが、認めたくないのだ。基本的に、人魚族の王は、世襲制ではない。王妃がそうであるように、卵の時期に海の魔女であるオババが何らかのインスピレーションを受けて、多くの卵の中から選び出し、祝福を与える。だから、世襲制でないということは、別段王に子供が出来ようと出来まいとかまわないと言うことなのだ。――おそらく、そのせいで、はじめが男だろうと、誰も異を唱えないのにちがいない。 ただ独りきり、当人であるはじめが反対しているだけなのだ。 だって、どうして、男である自分が男である海王に嫁がなければならない? そんなのは、自然の意に反することじゃないか。 しかし、はじめの言葉には、反対しているのが当事者であるというせいなのか、明智のはじめにたいする執着を目の当たりにしているせいなのか、城のものにしたところで、恭しく扱うばかりで、耳を傾けることすらないのである。結局、はなはだ不本意きわまりないことに、はじめの未来の王妃の座は安泰ということなのだった。 「い〜や〜だ〜」 はじめがそう叫んだ時だった。 「何が厭なんです?」 丁寧な口調、しかしその響きは、氷点下の冷ややかさをはらみ、剣呑そのものだった。 はじめの全身が、硬直する。 振り返りたくない。そこにいるのが誰なのか、どんな顔をして自分を見ているのかわかっているからだ。 肩にかかっている手の感触が、恐ろしくて、はじめの全身が小刻みに震え出す。 「まったく。君は未来の王妃なのですよ。城を勝手に抜け出すだなどと、していいことと悪いことの区別がつかないのでは、これから先が思いやられますね」 そう一息に言ってのけたと思えば、わざとらしく溜め息などを吐く。 「……だっ」 「はい?」 「どーしてオレが王妃なんだよっ! 王妃は女がなるもんだろーがっ!!」 「なにを今更。これは、君が孵る前から決まっていたことです。どんなにわたしが、君の誕生を待ち侘びたか、知っていますか?」 肩を撫でさすってくる明智の掌の感触に、全身が逆毛立つ。 「私はこんなにも君のことを愛していると言うのに」 耳元で囁かれた甘い台詞に、うっとりとなるはずもない。 「オレは、愛してねーって」 「ったく。強情ですね、君は」 (強情なんじゃない。本音を言ってるだけなんだ。いいかげん通じてくれってば) フルフルと首を横に振っていると、自然に涙がにじんでくる。 「いいですか、これだけは覚えておきなさい。私がいつまでも紳士でいると思ったら、それは、大きな間違いですからね」 明智の言葉の意味を理解した途端、はじめの全身が硬直する。 (婚前交渉をしても、かまわないのですよ) 囁かれて、明智のほうへと全身を向き直させられる。そうして、はじめは、明智の整った美貌が視界いっぱいに迫ってくるのを呆然と凝視しつづけたのだった。 ※ ※ ※不毛の大地と言うのがしっくりくるような、赤茶けた土漠(どばく)の只中に、巨大な岩山があった。天を貫こうとする槍の穂先のような鋭い姿である。が、その頂きは、平らに均され、黒曜石めいた艶やかな石が一面に敷かれている。その中央に聳えるのは、やはり黒い石を切り出して造られたものらしい、壮麗な城だった。 城に住むのは、地獄の傀儡師と呼ばれ恐れられている、ひとりの魔法使いである。 森羅万象すべてをほしいままにすることができる偉大な魔法使いであると噂される彼は、滅多に人と交わることはなかったが、ごく稀に人前に出ることもあった。そんな時、彼はいつも仮面で顔を隠し、なめらかな深紅のローブをすっぽりとかぶっていた。そのため、二目と見られない醜い男なのだろう―――とまことしやかに囁かれていた。 「あとは、竜の血液と、人魚の涙………ですか」 城の奥深くで、金の瞳の美貌の青年がつぶやいた。 大小さまざまなレトルトやわけのわからない器具があちこちに散らばる、広い部屋である。 「竜のほうは頼めば分けてくれるでしょうが。問題は人魚のほうですよね」 繊細な顎に手をあて、青年が独り語ちる。 人魚は排他的なのだ。元々は人と同じ種であったのにもかかわらず、人の世界を嫌って海をそのフィールドに選ぶくらいには、充分に。 「仕方ありませんね。少々手荒になりますが」 呟くと、青年は近くに置いてあった鈴を鳴らした。 鈴の音が消えてしまわない間に、扉を誰かがノックする。 扉が開く気配があった。 自分が呼んだ相手だと、わかっている。だから、 「しばらく出かけてきます」 振り返りもせずそう告げると、青年の姿はたちまち巨大な一羽の鷹の姿に変貌を遂げたのである。 入ってきた男が、深々と腰を折った。 つい先ほどまで美貌の青年であった鷹は、楽々と天窓を抜け、空高くはばたいたのである。 ※ ※ ※黒々と丈高い岩の頂きに、一羽の鷹が羽を休めていた。堂々とした体躯、鋭く弧を描いた嘴。闇に浮かぶまなざしは、炯々と輝く金色である。 海を見下ろしている鷹の目は、夜にもかかわらず、見えているらしい。 鷹が止まっている岩の下、激しい波頭が打ち寄せる水面では、はじめと明智とが言い争っている。 鋭い金のまなざしが、高みからそれを眺めていた。瞳に興味深げな色が浮かんでいると見えたのは、気のせいだろうか。 ふいに、冷たい冬の風が叫びをあげて駆け抜けていった。 天空を閉ざしていた黒々とした雲が、吹き流され、満ちた月が姿を現わす。 月光が、はじめと明智のキスシーンを浮かび上がらせた。 翼を開いた鷹は、鋭い視線を眼下へ投げかけると、数度羽ばたき、はるか上空へと姿を消した。 ※ ※ ※きらきらと輝く水面。 はじめは目を細めて海を眺めていた。 脱走が未遂に終わったあの日から、十日が過ぎていた。 あれ以来、明智の『紳士でいることを止めましょうか』攻撃に、へろへろの毎日だった。 明智は、本気で迫ってくるのだ。 よほどはじめの脱走が腹に据えかねているのだろう。 何度押し倒されかけたか知れやしない。しかも、所かまわずだ。 (あんたに羞恥心はないのか!) 喚いたところで、意味はない。未来の王妃と決まっていてもごく普通に育てられたはじめと、王としての教育をほどこされてきた明智とでは、周囲に対する認識には、天と地ほども隔たりがあるのだ。 周囲はすべて自分より格下。やることなすこと正しいと見なされ、いつも敬われている。そんな、王と呼ばれるものに羞恥心があるわけがない。 『今度逃げたら、容赦しないと思いなさい』 本気のまなざしで見つめられながら、そう釘を刺されたのは、昨夜のことである。 それでも、はじめは逃げずにはいられない。もちろん、明智が海王であるかぎり、海の中のどこに隠れようと、遠からず見つけられることは、わかっている。 わかってはいるのだ。 それでも逃げずにはいられない心の内を、誰かにわかってほしい。――そう思うのは罪だろうか? (最後の手段は、陸なんだよな………) 陸に上がるのは、苦しいと聞いていた。 はじめは本来根性があるほうではない。 できればぼんやりと一日を過ごしていたい。どちらかといえば、怠け者と謗られてもおかしくはない性格の持ち主だったりするのだ。 けれど、 (むかしは人魚だって陸で暮らしてたんだし、なんとかなるよな) 不条理きわまりない貞操の危機は、はじめを何時もよりも行動的にしていた。 深く考えることを止め、はじめは一路陸を目指して泳ぎ始めたのである。 「ひぃ……疲れた」 荒い息を吐いて、はじめは砂浜に手をついた。波の動きにつれて、からだが海へ引っ張られては陸に押し上げられる。 空気が冷たい。だからだろう、砂浜に人気はない。 まだ胸まで水につかったままで、ごろりと寝返りを打ち空を仰いだ。 どこか重苦しいような、灰色の空がどこまでもつづいている。 「≪尻尾≫脱がなきゃな………」 あの逃亡劇の後明智に取り上げられていた、≪尻尾≫と俗に呼んでいる、泳ぐ速度や水圧を補助するための水着を、やっとのことで取り戻したのは、昨夜のことである。そのために、自分から明智にキスをしなければならなかったのだ。思い出してしまった恥ずかしさのあまり、 「うが〜」 と叫んだはじめは引き剥ぐようにして≪尻尾≫を脱ぎ捨てた。 ぺシャンと音を立てて海に落ちた≪尻尾≫は、波に揺られてどこかへ消えていった。 「さて……と、いつまでもここで休んでなんていられないよな」 うつぶせに体勢を入れ替え、よいしょと掛け声をかけて立ち上がろうとしたはじめだったが、たちまちその場にしゃがみこむはめになった。 周りに水がないということがどういうことなのか、はじめて知った。 からだを支えてくれるものがない。だから、ただ立つというそれだけのことがとても苦痛なのだ。 「うそだろ」 激痛に声が震える。 足が痛い。 自分の重みを二本の足が支えることの痛みを、まざまざと感じた。 それでも、海に戻ろうとは思わなかった。戻れば、男なのに王妃と言う前代未聞の将来が待っている。 のたうつようにして、はじめは砂浜を這いずった。 どれくらい進んだろう。 はじめのからだは砂に擦られて、あちらこちらに血がにじんでいる。 振り返ってみて、絶望を感じた。 波打ち際から、十メートルも進んではいなかったからだ。 「オレってば、はやまった? ………イヤッ。帰ったら嫁だぞ嫁!」 自分で自分を鼓舞した時だった。 バサバサバサと何か乾いたものが擦りあわされるような音と、強烈な風が襲いかかってきた。 「え?」 胸の下あたりに衝撃を感じたと思えば、いつしか空中に浮かんでいる。 「エエッ?!」 瞬間、なにが自分の身に起きたのかわからなかった。 自分を何かが持ち上げ、運んでいる。 鋭い鉤爪が、ガッチリと掴んでいる。恐る恐る見上げれば、信じられないくらい巨大な、鳥のようだった。 褐色の羽毛が、風に揺れている。 はるか下をすざまじい速度で流れ去ってゆく景色に、自分がいるだろう高度と運ばれる速度を漠然とだが理解する。 (頼むから落とすなよ) あとは、神に祈るよりなかった。 その頃、明智の乾いた笑い声が恐怖に凍りついた海の城に流れていた。 「そうまでして、この私から逃げたいと言うのですか」 やがて笑いがおさまったと思えば、明智の硬い呟きが、はじめの寝室に落ちて砕けた。 未来の王妃の捜索に出ていた兵士が、はじめのものらしい≪尻尾≫を持って帰ってきたのは、明智がとりあえず冷静さを装うことができてからのことだった。 「これは………」 差し出された≪尻尾≫を手にとり、明智の表情が厳しいものに変わった。 「まさか……」 「まさか、なんなんです?」 視線で促がされ、 「王妃は、陸のものに攫われたのでは?」 推測を述べたのは、壮年の男である。 海にいるかぎり、明智がはじめの気配を感じ取れないなどということはない。ならば、はじめは海にはいないのだ。しかし、陸に上がったとするなら、人魚であるはじめは、立つことはおろか、動くことすら容易ではないだろう。自分から陸に上がったとしても、発見できないほど遠くに行くことなどできはすまい。―――そう考えた明智は、 「可能性としては、否めませんね」 そう独り語ちたのだ。 ※ ※ ※裸に近い格好で空高く運ばれて、はじめは生まれて初めて寒いということを知った。 がたがたとからだが震えだし、気分が悪くなった。 そうして、はじめの意識は途切れたのである。 赤茶けた土漠を越え黒い城にたどりついた鷹は、変身を解き金の瞳の青年の姿に戻った。 「お帰りなさいませ。傀儡師さま」 見送ったのと同じ壮年の男が、青年を出迎える。 「そちらは?」 「ああ、人魚ですよ」 「攫っておいでになられたのですか」 「どうしても必要なものがあるので。人魚にはこうでもしなければ、頼めないですからね」 「それは、そうでしょうが」 「大丈夫ですよ。基本的に、普通の人魚は海から出ませんから」 (そう、この人魚は少し変わっているみたいですからね) 青年は、クスリと笑みをひとつこぼした。 つづく
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つ、続けてしまいました。ごめんなさい。自分で自分の首を絞めてどうする?!
シリアスは避けるぞ〜とばかりに張り切ってとっかかったのですが、なんだか、シリアスな展開になってしまいました。ふにゃ〜。こんなのでもたのしんでいただけるでしょうか? 祈りつつ。