遅れてきたバレンタイン








 あたし、今すっごく後悔してる。
「ああ〜」
 お気に入りのニット帽が風で飛んでった。
「うぷっ」
 風であおられて、自慢の髪が、雪と一緒に顔を打ち付ける。
 寒いよ。
 もう、一歩も歩けない。
 お腹すいた。
 食べ物はある。けど………これは、食べられないよ。
 これだけは、なくしたくない。
 手にした袋の中には、はじめて挑戦したチョコレートケーキがある。
 初めてにしては、結構美味しくできた、ザッハトルテ。
 だから、先輩に食べて欲しい。
 クスン―――鼻をすする。
 ピーコートの襟を掻き合わせて、マフラーでぐるぐると留める。
 ああ、あたしってなんて、馬鹿なんだろう。
 いっつも馬鹿馬鹿言ってあたしのことからかう、小憎たらしい弟の顔が頭の中に浮かんで消えた。
 かーさんの言うとおりにしてたらよかった。
 吹雪で、前が見えない。
 道がわからない。
 住んでる町を外れれば、山しかない。
 町とはいったって、田畑や牧場が結構ある、田舎の街だ。
 道を外れて視界が利かない。その上にこの吹雪。しかも、夜。
 こんな天気の日にチョコレート渡しに行こうなんて、ほんと、馬鹿だ。
『今は町になってるし高速道路もあるけど、昔この辺は本当に辺境で、ひとなんか住んでいない土地だった。ひとといえば、せいぜいが、猟をしにやってくる猟師さんくらいのものだったんだからね。休校になるような天気の日に出てくなんて、そんなの、大馬鹿者だよ』
 ごめんなさい。
 かーさん。
 ごめん。
 でも、どうしても、今日中に渡したかったんだ。
 ブーツの中の足が、かじかんで、痛い。
 寒い。
 寒い。
 寒い。
 前が見えない。
 お腹減った。
 誰か、誰か、助けて。
 あたしは、雪に埋もれるように座り込んでた。
  「大変そうですね」
 吹く風が、殴るような雪が、突然止んだ――そんな錯覚があった。実際には、まだ吹雪はつづいていたけれど。
 少しも大変そうだと思っていないような、そんな声だった。
「大丈夫ですか?」
 黒い髪、白い肌。赤いくちびる。そうして、琥珀色の瞳。
 微笑んで手を差し伸べてくれるのは、まるで吹雪の夜に浮かび上がったともし火のような、とてもきれいな男のひとだった。
 縋りつくようにして握り締めた手は、手袋越しにも冷たいように思えた。
「こんな吹雪の夜に、無謀なひとですね」
 くすくすと笑いながら、男のひとは手を引いてくれる。
「もう少し行けば、僕の家がありますから」
 家?
 あたしは、首をかしげた。
 けど、
「さあ。急ぎましょう」
 このことばに、あたしは、浮かびかけた疑問を、忘れてしまった。
 まるでこの吹雪の中視界が利くみたいに、男のひとは雪に埋もれた道を、さくさくと歩く。
   あたしは、ひっしになって、男のひとについていった。手を握ってくれてはいるけれど、気を抜いたら消えていなくなりそうな、そんな、頼りない感覚が、あたしを捕らえてはなさなかったのだ。

 どれくらい歩いただろう。
 もう少し――って言ったけど、そのもう少しが、とてつもなく遠く感じられた。
 あたしは、もう、息は上がってるし、視界は見えてないしって状態で、ただただ男のひとの手だけが、頼りだった。
 ぴくんと、あたしの手を握ってる男のひとの手が震えた。
 するりとあたしの手が、はずれる。
 途端に、あたしに襲い掛かってきたのは、どうしようもないほどの心細さだった。
「どう………?」
 したの―――最後まで言えなかった。
 男のひとは、独りで歩いてゆく。
「ま、まって」
 必死になって、あたしは、男のひとの背中を追いかけた。
 突然、男のひとが足を止める。
「いったあい」
 男のひとの背中にぶつかった鼻がジンジン痛んだ。
 涙目で見れば、オレンジの窓明かりが揺れていた。
 それは、木戸の隙間からも漏れている。
 とても、粗末な、木でできた小屋が目の前にあった。
 男のひとは、木戸の前で、立ち止まっている。
 木戸を叩こうかどうしようか、迷うように軽くこぶしにした手を折り曲げている。
 なぜだろう。声をかけちゃいけないような気がして、ただ、男のひとの後ろに佇んでいた。
 こくり―――音が聞こえたわけではなかったけれど、男のひとがつばを飲み込んだのが、あたしには判った。
 やがて、ひどくゆっくりと持ち上がった手が、やわらかく、やさしく、木戸を叩いた。
 木戸の向こう側のあたたかそうなところから、いったい誰が出てくるのだろう。
 永遠にも思える時間、けど、ほんとうは、数瞬にすぎなかっただろう時間が過ぎて、ばっといきおいよく木戸が開いた。
「たかとー」
 男の子の声が、切なそうに、名前を呼ぶ。
「ただいま。はじめくん」
 にっこりと、きっと満面の笑みをたたえているだろう男のひとの背中に、はじめくんと呼ばれた男の子の腕がまわされていた。 「おそいぞ。待ちくたびれちまった」
 拗ねたような男の子の声。
「すみません」
 たかとーと呼ばれた男のひとの声は、どこまでもおだやかで、切なそうで、なぜなんだろう、あたしは、泣きそうになっていた。
「あれっ、その子は?」
「ああ。忘れていました。少し向こうで、遭難しそうになっていたので連れて来ました」
 オイッ! 思わず、それまでのしんみりした気持ちが吹き飛んだ。
 なんだか感動的な雰囲気だったからしかたないのかもしれないけど、まるっと忘れられてたあたしって、なによ?
 ちょっとふくれっつらのあたしに、
「ひどいなぁたかとーは」
 笑いながら、
「さあ、どうぞ」
 はじめくんは木戸を大きく開いたのだった。


 ぱちぱちと、火が燃えている。
 薪ストーブひとつの火がこんなにも暖かいなんて、あたしは知らなかった。
 床の上の薄いカーペット、部屋の隅に畳んだ布団がある以外、他には何にもない、がらんとした部屋の中、あたしたちは、あたしが作ったザッハトルテを食べていた。
 食べ物がなんにもなくて、困った顔をした高遠さんとはじめくんに、あたしは、お礼をしなくちゃと思ったのだ。
 どうしてなんだろう。
 なぜなんだろう。
 はじめくんは、健康そうで明るい男の子なのに。
 高遠さんも、なんでもできますって感じの男のひとなのに。
 あたしは、なにかをしてあげなきゃと、きりきりと感じたのだ。
 そうして、あたしに出来ることは、先輩に上げるつもりだったバレンタインのケーキをあげることくらいで。
 バレンタインなんか明日でも明後日でもいい。
 今朝までだったら絶対思わなかったことだ。
 いつだって、あげられる。
 いつだって、告白くらいできる。
 あたしは、生きているんだから。
 そこまで思って、ギクリと、背中が震えた。
 どうして、生きているから――なんて考えたんだろう。
 あたしは、部屋の中を見渡した。
 改めて見渡せば、薪ストーブの前にある黒ずんだ薪が、気にかかってしかたない。
 どうして、はじめくんも、高遠さんも、あれを、薪ストーブにくべようとしないんだろう。
「どうかしました?」
「ぽぉっとして、疲れた? 眠いんだったら、あそこに布団あるから、使って」
 指差されて、あたしはなぜだかふらふらとはじめくんのことばに従ってしまった。
 ぼんやりとしたまま布団を敷いて、ふたりに背中を向けて横になった。
 目を閉じると、ぱちぱちという気持ちいい音と、ふたりのささやき交わす声が、あたしの子守唄になった。 おいしいね、これ。
 ほんとうに。
 高遠が食べ物を持ってきてくれたから、オレもう、大丈夫。
 はじめとの約束を守れて、僕も、満足ですよ。
 高遠が笑ってる。
 はじめも、ですよ。
 彼女には、感謝だね。
 ほんとうに。彼女の無謀なまでの行動が、実を結ぶことを祈りましょう。
 ほんと。幸せになって欲しいよな。
 オレらの分まで。
 ええ。僕たちの分もね。



 次の日、あたしは、たった独り、小屋の中で目覚めた。
 凍えつきそうな朝の空気の中、薪ストーブの前にある、三人で食べたはずのケーキが、手つかずのまま残されていた。
 それを見て、あたしは、納得した。
 不思議と恐怖はなかった。
 ただ、寂しくて、切なくて、哀しかった。
 彼らは、生きたひとではなかったのだ。
 疾うに亡くなった、ひと。
 薪ストーブの前に転がっていた薪は、薪なんかじゃなかった。
 ずっと昔の、今となっては身元もわからない、古い古い人の骨。
   けれど、多分、それは、あの男の子のものなのだろう。ずっとこの部屋で高遠さんを待ちつづけていたのだ。何処かで亡くなった高遠さんを待ちつづけて、そうして、はじめくんも亡くなったのだ。
 お腹をすかせて。
 寒さに震えて。
 愛しい相手を思いながら。
 あたしの頬を、冷たい涙が滑り落ちた。

おわり

start 13:00 2008 02 17
up 15:54 2008 02 17




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