おつかいの帰りに



 それは、森の奥。
 隣村へのお使いの帰りに、鳩子は道に迷ってしまった。
 こんな道あったっけ―――
 村のすぐ近くの森である。
 鳩子にとっては庭のような、親しい森。入っていい道も、入っちゃダメな道も、どこに何が咲いていて、そこの木の実はとってもいいけど、別のところの木の実は取っちゃいけない、そんなことも身に染みている。ちょっと大げさだとは思うけど、目をつむっていたって、通り抜けられると自負していたりするのだ。
 なのに、ふと気がつけば、自分がどこを歩いているのか、わからなくなっていた。
「どこよ〜?」
 木々の連なりの間から方角を測ろうとしたが、わからない。
 まるで迷路にはまり込んでしまったかのようだ。それも、小さなころに家族で行った移動遊園地の、ミラーハウスだ。小さかった鳩子は、少し進んだだけで、鏡に映った自分の姿に眩暈がして、恐くなって、泣いたのだった。係員のおじさんがとんできてくれて、手を引いてくれた思い出は、時々家族の食卓に上って、笑いを誘う。
「たぬきにばかされたかな?」
 背中に粟が立つのは、祖母から聞いた話のせいだ。
 いつまで歩いても、同じところをぐるぐる回って、いっかな、ちょっと向こうに見えている家にまでたどり着くことができなかったんだ――と、祖母は結婚したばかりの頃に経験したことを話して聞かせてくれた。
 後になって、お舅さん(ようは鳩子のひいじイさんだ)から、そーゆーときは、煙草で一服しろと教わり、吸えないながら外出する時には荷物に煙草を一式入れて出るようになったんだそうだ。が………。
「んなの、もってないってば!」
 煙草を買って来いとでも父に言われなければ、煙草を持ったりなんかしない。吸ったことなんて、もちろん、ない。煙草を吸えるのは、二十歳を過ぎてからなのだ。まだ十二の鳩子が、用もないのに手にしたりしたら、大人からお目玉を貰うこと、必至である。
「そういえば」
と、しゃがみこんで地面すれすれに顔を倒してみる。案の定、
「ばーちゃんの言ったとおりだ」
 鳩子は、自分が立っている周囲一面が、ふさふさとした銀色の毛並みに覆われていることを確認した。
「たぬきの千畳敷って本当なんだなぁ……」
 普通に立っていれば何の変哲もない森の道なのに、しゃがんですかせば、銀色のふかふかとした感触を確認できる。――――ここで、たぬきの千畳敷とはたぬきのなにが変化したものなのかなどと、野暮なことは忘れることにして。
「どーしよっかなぁ」
 煙草を持っていない場合の脱出方法など、ばーちゃんは言わなかったし。もしかして、ここをぐるぐると死ぬまで回りつづけないといけないのだろうか? 鳩子が、少しばかり怖くなった時だった。
 バシャバシャと水音が聞こえてきた。
 水音は、右の繁みの奥からのようだ。
 思わず、たぬきの水浴びの図が、鳩子の頭をよぎって消えたとしても、それはいたしかたのないことだろう。
 半分は自棄、半分は恐怖から、鳩子は、繁みに入り込んだのだ。


 鳩子は、目を見張った。
 繁みの奥には、大きな湖が広がっていたのだ。対岸まで、数百、いや、数キロはあるかもしれない。
 ぽっかりと木々の連なりが途切れ、さんさんと夏の陽射しが降りそそぐ。
 たくさんの小さな波が、銀鱗のきらめきのように反射して、きらきらとまぶしい。
 しかし、鳩子は、こんな湖の存在なんか、知らなかった。聞いたこともない。
 不思議さと、景色の美しさに、何もかも忘れて、鳩子は見入った。
 どれくらいそうしていただろう。いつしか耳に馴染んでいた水音が、ふと大きくなったことで、鳩子は我に返った。そちらに視線を巡らせて、自分よりも年上だろう少年に気づいたのだった。
(十と、う〜ん、五、六、七のどこかくらいかなぁ)
 少年は、村の真っ黒に日焼けした男達を見慣れていた鳩子にとって、ひどく珍しいものとして、映った。
 真っ白というのではないけれど、夏の陽射しを遮るものさえない空間にあって、少年は、村一番色が白いと評判の友人よりも、滑らいだ象牙色の肌をしているのだった。
 きれいだ――と、これまで田んぼ仕事の後に井戸端で上半身を拭ってる父や兄を見て思ったことがないような感想を、鳩子は覚えていた。
 自分が今、たぬきかなにかに化かされて森から出られないでいることなど忘れて、眺めていた。
 ふと自分がしていることに気づいて、鳩子はどうしようかしばらく悩んだ。盗み見なんて、いけないことだ。それに、相手は、水浴びをしている。いやらしい子なんて言われたくない。声をかけないと、と、木陰から出ようと、足を踏み出した。弾みで、足元に落ちていた木を踏み割った。小さな木のかけらが、思いもせぬほど大きな音をたてる。
 明るい日差しの中、少年の褐色の瞳がきらめいた。
 まなざしが鳩子に向けられ、ほんの一刹那だけ、全身が、氷漬けになったかのような寒気を覚えた。それは、本当にほんのわずかな感覚で、すぐに鳩子は、忘れてしまった。なぜなら、陽射しが滝のように降りしきるなかで、少年が、にっこりと笑ったからだ。
(うわ〜)
 邪気のない笑顔とでも表現するべきだろうか。まるで、三つ四つの子供が心から笑っている――そんな表情に、鳩子の心臓がとくとくと鼓動を速くした。
 少年が鳩子のいる岸のほうへと歩み寄り、湖から上がろうというようすを見せた。
 少年の上半身に、光を縫い取りした水の衣が、流れる。
 見惚れずにはいられないような後景だったが、鳩子は、ふと、
(もしかして…………)
と、慌ててくるりと後ろを向いた。
「ごめん。もういいよ」
 しばらくして、少年の声。振り向いた鳩子のすぐ近くに、慌ててまとったのだろう、じっとりと湿った着物を着て、照れたように笑っていた。
「どうしたんだ、こんなところに」
 少しだけ小首を傾げて、少年が訊ねた。
 紅潮した肌、やわらかな鳶色の瞳。さっきまでの、どこか現実離れした雰囲気は、着物を着たからなのか、それとも喋ったからなのか、きれいに消えてしまっていた。鳩子の目の前にいるのは、今は、単にやさしそうな、お兄さんだった。だから、
「たぬきに化かされたのっ」
 そんな、突拍子のないことを、言うことができたのだ。
 詰め寄ると、鳶色のまなざしが、大きく見開かれてゆき、色を薄くした。次いで、少年は、弾けたように、大爆笑をした。
 湖面に、木々の隙間に、開けっぴろげな笑いが、広がり流れる。
 あまりに遠慮のない笑い声に、鳩子の頬が、ぷぅと膨らんだ。
「真剣なのにっ」
「わりぃわりぃ……」
 ぼりぼりと後頭部をかきながら、少年が謝る。
 すっごくかわいい――などと、きっと相手が知れば目を剥くだろう感想を、鳩子は覚えた。
 鳩子が知る、少年と同じくらいの年のお兄さんたちは、黒い詰襟を着て、帽子を目深に被り、いつも眉間に皺を寄せて、難しい外国語のようなことばで団体で喋ったりしている。そのようすは、とても、気軽に話しかけられないくらい、恐い。近くを通るのすら、緊張するくらいだ。こんなに簡単に笑わないし、たまに笑ったって、声が野太くて、軽やかなんかじゃない。
「そ、そっか。たぬきね。きみは、たぬきに化かされたんだ」
 喉の奥で、まだ笑いながら言うのに、
「あたし、鳩子。お兄さんは?」
「……はじめ。じゃ、鳩子ちゃん。笑ったお詫びに、オレが送ってってやるよ」
 そうして、はじめが、鳩子の手を取った時、一陣の風が、ふたりの間を駆け抜けた。
「うわっ」
「きゃぁ」
 鳩子がつむった目を開けると、いつの間にか、はじめのとても近くに、鳩子に背を向けて立つすらりとした後姿があった。
「どこに行くんです」
 涼しい声と共に、暑さを忘れるような、ひんやりとした香が鳩子の鼻腔をくすぐった。
「はじめ。ひとりで、どこに行くのです」
 やわらかく耳触りの好い声に、寂しそうでいて背筋がこそばゆくなるような調子が混じっているのを、鳩子は、感じ取った。
 なんともいえないしばしの沈黙の後、
 鳩子の正面にいるはじめは、真っ赤になっていた。  鳩子の位置からでは、新しく現われた男の表情は見えない。ただ、はじめの紅潮した顔に、ふたりの関係ってなんだろう――と、興味を覚えたのは確かである。
 疑問を抱えたまま立ち尽くしている鳩子の目の前で、突然、
「うわっ。よせって、たかとー! 相変わらず羞恥心のないヤツだなぁ………」
 たかとーと呼ばれた男が、腰をかがめて、はじめを抱きしめた。
 しかも、たかとーは、
「この地は、私の結界の中。いわば、私と君の家でしすからね。羞恥心など、無用ですよ」
と、言いのけざま、はじめにくちづけたのだ。


「ばっかやろう。鳩子ちゃんが目ぇむいちまってるだろ」
 コツンとひとつ、はじめがたかとーの頭をグーで殴る。
「鳩子ちゃん?」
 いぶかしげな声に、
「気づいてなかったっつーのかよ……」
 あきれたようすで、はじめが頭を掻き毟る。
「ほら、あんたの後ろ。たぬきに化かされたって、迷い込んできたんだよ」
 そう言って、思い出したように、くすくすと笑う。
 笑うはじめに言われて、はじめて鳩子に気づいたらしい。くるりと振り返ったたかとーに、鳩子の瞳が、これ以上ないくらい大きくなった。
(うわ。うわ〜)
 たかとーが、涼やかな声に似合った、信じられないくらいきれいな男のひとだったからだ。
  「たぬき……ですか?」
「そ」
 はじめが、腰に手をあてて、何度も首をたてに振る。
 そうして、ずいと、鳩子に顔を近づけたかと思えば、
「鳩子ちゃん。こいつが、たぬきの親玉だからな」
と、可笑しくてたまらないといった悪戯そうな表情で、たかとーを指差したのだった。
「へ?」
 たかとーというきれいな男のひととたぬきとは、どうやっても、一致しない。たかとーを見上げて目を白黒させるばかりの鳩子は、
「なんです。その、たぬきの親玉というのは」
 やはり困惑しているらしいたかとーと、
「だってさ、ここら辺に結界張ってるのはあんただし。だとすっと、鳩子ちゃんが迷った原因は、たかとーじゃん。で、鳩子ちゃんはたぬきに化かされたって思ってんだから、この場合のたぬきってーのは、たかとーしかないじゃん」
 ほぼ無理矢理な三段論法を披露しているはじめの声とを、耳にしていたのである。
「しっかし、傑作だよな〜。オレがたぬきっつーのは言われたことあっけどさ。あんたとたぬきって……に、似あわねぇ………」
 腹を抱えて笑うはじめに、
「えーえー。どうせ、私は、たぬきの親玉ですよ。で、そういう君は、なんなんです? たぬきの親玉の、奥さんですよね」
 最後のひとことに、はじめの笑いが、ぴたりと止まった。
 ばつが悪そうに、かすかに横を向いたはじめの顔が、鳩子には、なんとなく、ドキドキするようなものに思えてならなかったのだ。
「オ、オレは、奥さんなんかじゃねー!」
 しばらくの沈黙の後で、はじめが絶叫した。
 してやったりと笑ったたかとーの顔は、壮絶なくらいきれいで、鳩子は、そのまま、何もわからなくなったのだった。


「鳩子。はーとーこ」
 ぴたぴたと頬を張られる感触に、はとこは、気がついた。
「おかーさん」
 上半身を起こしてきょろきょろと周囲を確認すれば、そこは、見慣れた自分の家である。
「まったくこの子は。お使いひとつするんにいつまでかかっとるん。もう、心配すっでしょうが」
「………ごめんなさい」
 「まーまー」と、祖母が口を挟まなければ、鳩子は、いつまでも母のお小言に付き合わされる羽目になっただろう。母はすぐに夕飯の続きに取り掛かろうと、台所に引っ込んだ。
「あ、ばーちゃん。あたし、たぬきに化かされたんだ」
 祖母が淹れてくれた麦茶を飲みながら、鳩子がそういうと、
「そりゃ、難儀じゃったなあ。煙草も持たんのに、どうやって、抜けれたんな」
「え、えーと。たぬきの親玉と奥さんとが、送ってくれた」
 どうやって家に帰ったのか覚えてはいないが、ここにいるということは、送ってくれたのだろう。
 そう言って、鳩子は、祖母に、帰りのことを話して聞かせたのだ。
「ああ。そりゃ、鳩子。すごいかたたちに会ったんやなぁ」
「凄い?」
「ああ。そりゃ、たぬきなんかじゃないわ。竜神さんと、その奥さんじゃな」
「奥さん? 奥さんったって、は……あれ? 名前なんていったかなぁ。忘れちゃった。あれ?」  混乱する鳩子に、
「ああ。慌てんでええけん。きっと、竜神さんたちが、忘れさせたんじゃって。神さんの本名なんぞ知ったら罰が当たるけん。忘れさせてくれたんや。で、何が聞きたいん?」
「だって。奥さん、男の子だったよ」
 鳩子のひとことに、祖母のうっすらと濁りかけている目が、大きくなった。ほっほっほと笑いながら、
「神さんやけんなぁ……あんまり男、女ってこだわらんのやろうな」
 そう言って、祖母は、鳩子の頭を、撫でたのだった。
「ま、めったに見られんもん見て体験して、よかったな」
 よっこらしょと立ち上がった祖母は、
「ほら、お母さんの手伝いしぃや」
と、手をひらひらさせたのだった。
 ひとつ返事をして、鳩子は立ち上がり、台所に向かったのだ。
 母に手渡されたねぎを刻みながら、鳩子は、二柱(ふたはしら)の竜神さんたちを思い出していた。

 それは、夏の午後、お使いの帰りに体験した、不思議でおかしな出来事だった。



おわり



up 2004/07/13


あとがき
 体験談、ぐるぐると回って家に帰れなかったと言うのは、大叔母の実体験です。ねたにしてやる〜と思ったものの、見事に、玉砕xx
 少しでも楽しんでくださると嬉しいです。
 神さんの数え方は、一柱二柱……なnだそうです。
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