ケ・セラ・セラ



「あり? まよったっけか?」
 蝉時雨の降りしきる山の中の一本道で、はじめは立ち止まって後頭部を掻いた。
 車二台がすれ違うのがようようの細い道は、だらだらとした上り坂で、
「どっか、脇道を見落としたっけかなぁ………」
 振り返るはじめは、うんざりと肩を落とした。
 暑い。
 夏休みだから仕方がないが、とにかく、午前中だというのに、暑いのだ。
 これから、また、この道を引き返して、それから、バイトの面接がある会場まで歩かなければならないのだと思えば、肩が落ちるのも仕方がない。
(せっかく条件のいいバイトだったのにな)
 星の見える丘とかいう、女性に人気のペンションが、人手を募集していたのだ。自給もかなりよかったし、住み込みだし、山のペンションということで、気候も涼しいらしい。それに、なにより、女性に人気というのが、はじめの気を惹いた。とりあえず履歴書を送ってみると、応募が多かったので、面接をして決めたい。何日の九時三十分までに、ペンションに来てほしい――と、返信が来た。旅費を考えるとばかばかしいが、やっぱり東京よりも涼しい土地で、きれいな女性がたくさん来るだろうペンションでのバイトというのは、捨てがたかったのだ。が、腕時計を見れば、九時半をいくらか過ぎたくらいである。
「あ〜あ、こりゃかんっぺき遅刻だ……………面接、アウトだよな」
 かっくりとうなだれたはじめが、とりあえず、携帯で断りを入れんとなぁと空を仰いで道を引き返そうとした時だった。左側の竹薮が音をたてて揺れはじめたのである。
 はじめの頭の中を、さまざまな可能性が光速で駆け抜けた。
 逃げよう――と思ったのは、ほとんどの可能性が出尽くした後のことである。
 が、結局、はじめは逃げなかったのだ。

 それがよかったのかどうか、勿論、この時のはじめにはわからないことだった。

「おい、大丈夫かっ?」
 繁みから現われたのは、あちこちに木の葉などをひっつけて薄汚れた、ひとりの青年だった。
 一息吐く間もなく道に倒れ伏した青年の上半身を、しゃがんだ膝の上に抱え起こす。首からぶらさげていたペットボトルの水を、少しだけ顔にかけてやる。シャツの胸元をくつろげようと伸ばした手が、意外としっかりとした力のこもった手でつかまれた。
「ほら」
と、口元にボトルを近づけると、喉を鳴らして飲み干した。
「あ〜あ」
 戻されたボトルを逆さにふっても、数的の水がこぼれただけだった。
「送ってこうか?」
 どうせ、今日はもうダメだしなぁ――――と、青年に手を差し伸べた。
 青年が、はじめの手を取る気配を見せたとき、
「こっちだ」
と、低い切羽詰っているような声が聞こえ、はじめと青年とは、十人の黒服に囲まれたのだった。
 黒服たちに囲まれた瞬間、脊髄反射だったのか、青年は素早くはじめの手を掴み、頑として離さなかった。
 おかげで、今、はじめは、青年の部屋の立派なソファに腰掛けて、よく冷えたフレッシュジュースを啜っている。
 なめらかな本皮のソファは、少々腰の据わりがもぞもぞと落ち着かない。壁一面ガラス窓のロケーションは、崖の上らしく開けていてすばらしいが、夏の凶悪な陽射しが差し込んできてまぶしい。
 ブラインドを下ろしてもいいよなぁと立ちあがりかけたとき、
「はじめっ!」
 弾んだ声がして、この部屋の主が、奥のバスルームから走ってきた。
「わわっ」
 青年が抱きついてくる衝撃に、テーブルに戻していたグラスに手が当たり倒れかけた。グラスの中の氷が、騒がしい音をたてる。
「遙一さま」
 落ち着いた初老の男性が、はじめに目礼しながら、
「お着替えください」
と、シャツとズボンを差し出した。
 遙一は、タオル地のバスローブ一枚という格好で、はじめに抱きついている。
 男がどんなに引っ張っても、離れようとしない遙一に、内心肩を竦めながら、
「いるから、着替えてこいって」
と、口にする。
「さあさ。金田一さまもああ仰ってくださっているのですから、あちらでお着替えになられてください」
 男――長崎がはじめに感謝の目交(めま)ぜを送ってよこした。それにひらひらと手を振ったはじめは、
「ほら」
と、首の下に回されていた遙一の手を叩いた。
「うん!」
と、学童年齢前くらいの少年のような返事をして、足取りも軽く長崎についてゆく遙一を見送りながら、はじめは、ジュースの残りを勢いよく飲み干したのだった。




「うん。ああ、そう。夏休み中のバイトが決まったんだ。住み込み。今日からすぐって言うからさ。うん。そう。――――わーってるって。じゃな!」
 家にかけた携帯を切って、はじめはベッドに背中からダイブした。
 スプリングの効いたベッドマットが、全身をしっかりと支えてくれる。きしりとも軋まない。
(フミだったらめちゃくちゃ喜びそーなへやだよな)
 バイトといいながら与えられたゲストルームは、ヨーロッパとかのアンティーク調の家具が配置された、バストイレまでついている部屋だった。壁と同じ淡いグリーンの小枝や小鳥が描かれている天井を眺めながら、今日一日をはじめは思い返していた。
 バイトの内容は、あの遙一の、遊び相手というものである。
 バイト探さないとなと独り語ちていたはじめのことばを、長崎が聡く聞きとがめ、でしたら――と、紹介してくれたのが、遙一の相手というものだったのだ。
 曰く、
『今日のように勝手に抜け出されて、もしも怪我などなさったら、奥さまに申訳がたちません』
ということである。
 はじめにとっては、渡りに船のバイトだった。
 まぁ、どこを見ても男しかいない職場だが、バイト代が破格だったので、断るのももったいなかった。ふたつ返事で、引き受けたはじめである。


 まさか、遙一の母親が、あの近宮玲子だとは。
 世界でもトップクラスの、有名なイリュージョニストである。ただし、残念なことに、彼女の公演が、日本でおこなわれたことは、まだない。衛星放送などで、たまに、ラスベガスのステージなどが放映されることがあるくらいだ。一度偶然見てから、はじめはその腕前に、幻惑された。正直、素直にすげーと感動できるマジシャンは、彼女が初めてだったのだ。
 それはともかく、バイトを引き受けるにあたって聞かされた話に、すっかり感心と同情してしまったはじめである。
 近宮というのは、彼女の結婚前の苗字だそうだ。離婚した今では、本名といっていいだろう。つい突っ込んでしまったのは、息子の名前が高遠遙一だったからだ。
 近宮のマジックのネタを、悪魔に魂を売ってでも欲しがっているものは、掃除機で吸い込んでも吸い込んでも追いつかないほどらしい。
 たくさんの弟子とスタッフ、それに、ファンや信奉者、求婚者に、自称パトロン、自他共に認める、ライバル達。それに、近宮側が把握していない敵が、相当数存在するだろう。
 だからこそ、彼女が何よりも大切にしている息子もまた、常に狙われている。幼いころに、遙一は幾度も誘拐されかけた経験を持っていた。彼に十人もの黒服、すなわち、シークレットサービスがくっついているのは、伊達などではないのだ。
 二年前のこと、近宮本人の命が狙われた時、遙一は、その身を挺して、彼女を守ったのである。
 犯人はすぐに捕らえられたものの、遙一は意識が戻らないほどの事態に陥っていた。若さが幸いしたのか、怪我は二ヶ月ほどで完治した。ただし、被弾箇所が頭部であったことが、今度は災いした。
 意識を取り戻した遙一は、記憶をすべてなくしていたのである。
 日常生活の常識も、ことばさえも忘れて、遙一は、赤ん坊に還ってしまっていたというのである。

 そうして、今。遙一は、比較的治安がよいという日本の別荘で、倍に増やされたガードたちと、使用人とで、暮らしていたのだった。
「はじめっ」
 外見は二十代前半の、黙って立っていれば、女性の十人中七、八人までは文句なく掴み取れるだろう、白皙、黒髪、琥珀の瞳の青年が、満面の笑顔で飛びついてきた。
「ぐえっ」
 腹にダイブされて、蛙が潰れたようなうめきをあげたる。
「ノックぐらいしろよ」
 しばらく腹を押さえて丸まっていたはじめだが、これだけは言っておこうと、隣にちょこんと正座している相手を、涙目でねめつけた。
「ご、ごめんなさい。でも……はじめが夏中ここにいてくれるって聞いて、嬉しかったんだ」
「だからって、ダイブはないだろ」
 しゅんとなった遙一に、
「ま、いっか。次からすんなよ」
と、手を伸ばして、頭を軽く叩いたのだった。
「うん!」
 二十代前半の男がテノールで答えるそのギャップに、ベッドに懐きたいのをはじめは堪えた。そうして、
(バイト、早まったかーーー?)
 ちょっとだけ、そう思わずにはいられなかったのである。


 遙一の遊び相手というのは、案外、性にあっているらしい。
 一緒に暮らしているけれどフミは、あくまで妹のような存在で、はじめとしては、一人っ子によくあるように、弟や兄に憧れてしまう。
 兄のような外見の、弟のような存在というのも、慣れてしまえば、なんと言うこともない。
 テレビゲームや昆虫採集、乗馬、プールでの水遊びなど、遙一が遊びたいというもので遊んで日々を過ごすのだ。
 さすがに、庭にある厩舎に連れて行かれて、乗馬をねだられた時はさすがに驚きもした。やったことないというと、遙一がしっかりと教えてくれた。おかげで、まぁ、馬の背中から落ちないくらいにはなった。そのせいで、朝は馬で散歩などという、はなはだ健康的な日課が加わったりしたのだが。ラジオ体操をやらされるよりは、ましだろうと、はじめは諦めた。
 また、五十メートルのプールに入ったとき、遙一のスタイルのよさに、コンプレックスを刺激されなかったといえば、嘘になる。すらりとした長身に、痩せぎすではあるものの、見苦しくない程度にはバランスのよい肉付き。肩から背中、腰にかけての、理想的なライン。オー脚でもエックス脚でもない、まっすぐで長い、足。ま、まだオレは成長期なんだから……と、自分で自分を慰めるのは、少々寂しい経験だった。が、これもまた、毎日のように、遙一に誘われてプールに入るようになると、慣れてしまった。きれいなおねーさんがいたりして、遙一ばっかりがちやほやされたりしたら、ふてくされるのも虚しいだろうが、そういうことは、幸か不幸かない。だから、はじめは、遙一に渡されたアヒルのゴムボート(ちなみに遙一は、イルカだ)を膨らせて、その上でぼへーと昼寝をしたりするのだった。
「ほら、はじめっ」
 呼び捨てにされるのは、遙一が外国生まれの外国育ちだということで、注意することは諦めた。まぁ、最初は、日本語喋ってんだから、さんくらいつけろよなと口を酸っぱくしたのだが、ほかは素直な遙一が、このことに関してだけは、頑として己を曲げなかったのだ。それに、見てくれだけなら、たしかに、遙一が年上である。
(なんか、オレって、つくづく順応性が高くないか?)
 そんなことを考えながら、遙一を振り返る。
 差し出されている掌には、なにもない。と、きれいな軌跡を描いて翻った白い手が再び開かれると、そこには、赤い大振りのビー玉がひとつちょこんと乗っかっていた。
「おっ、よーいち。すごいじゃん。よし、なら、こーゆーのって、知ってるか?」
 むかし祖父に教えてもらった初歩の初歩なマジックを数個披露する。それだけで、「お母さんみたいだ」と、遙一の尊敬を得たのだった。
 そうして、一週間がなにごともなく過ぎた。
 夕食を終えたはじめと遙一とは、一階の食堂にほど近い遊戯室でカーペットに座り込んで、チェスをしていた。
 出入りがいちいち面倒だという理由でもあるのか、遊戯室にはドアがない。廊下に面した入り口は、来るものは拒まないという感じに、開けっぴろげである。十五畳位はあるだろう広い室内には、ビリヤードテーブル、カードテーブル、酒の並んでいないバーコーナーや、アプライトピアノにオーディオセット、ダーツの的、ソファセットまでもがある。収納棚の中には、ボードゲームが各種揃っている。なんかもう、設備の立派さや部屋数の多さや部屋の広さなどに、いちいち驚くこともなくなっているはじめである。
 なんでまたチェスかというと、ボードゲームをふたりでするとなると、オセロとかチェスとか囲碁将棋くらいしか思いつかなかったのだ。で、はじめは、将棋とか囲碁はなんとなく知っているが、チェスになるとまったく知らない。が、逆に、遙一は、チェスは知っているが、囲碁も将棋もわからない。チェスとそれらとは似ているとはよく耳にするが、もとよりなんとなくていどの知識で、遙一に手ほどきをすることはできない。オセロにするか――と提案するはじめに、しかし、遙一は、チェスをどうしてもしたかったらしく、手取り足取り、はじめにルールからコマの進み方まで、懇切丁寧に教えたのだった。
 チェス盤を睨みながら、はじめは、うなっていた。
 なんだか、どう逃げても、次の手で、チェックな気がするのだ。
 ああいってもダメ、こう進めてもダメ。三回対戦して、これで、連戦連敗である。はじめは、肩を竦めて、両手を挙げた。見れば、すでにわかっているのだろう、楽しそうな表情の遙一で、遙一がはじめを見ていた。
「おまえの勝ち」
「はじめって、チェス弱いね」
「オレは初心者なの」
 得意そうな口調に、つい、ムキになるはじめだった。
「じゃ、練習しよう」
 にっこりと笑う遙一に、はじめが辟易した時、
「失礼します」
と、長崎が、電話を持って入ってきた。
「あれ? もうそんな時間なんだ」
 遙一が、長崎が近づいてくるのを、待つ。
(母親からのナイトコール―おやすみ―なんだから、ふつう自分から取りにいかねぇか?)
 おっとりと、育ちがいいというのだろうか。
(オレだたら、走ってってるよな)
 腰の横に両手をついて、はじめは座ったままで仰け反り背筋を伸ばした。
「え? ほんとっ。わ。うれしいな」
 はしゃいだ声に目を向ければ、受話器の通話口を両手でつつみこんだ遙一が、嬉しそうにこくこくと何度も頷いているのが目に飛び込んできた。
「じゃ、待ってるからね」
と、受話器を長崎に手渡せば、長崎が一礼して下がってゆく。
 ぼんやりと、ふたりを眺めていると、はじめの隣に、遙一が座って、
「お母さんが来るんです」
と、報告をした。
「よかったじゃねーの」
「うんっ!」
 そう首を大きく振ると、遙一は、ビリヤードのキューを取り上げて、ひとつ、玉を突いた。
 固いものどうしが、勢いよくぶつかり合う、小気味の良い音がして、十のボールが台の上に散らばった。
 コンコンコンと、慣れたしぐさで、白い手玉をキューで操り、九つのボールをポケットに落としてゆく。
 はじめは、ほけらと遙一の流れるような動作を眺めていた。
 時々、遙一は幼げないつもからは信じられないような、優雅な動きを見せるときがある。男に関心のないはじめでさえもが、見惚れてしまうほどなのだ。からだで覚えているものは、そうそう簡単に忘れることはないというが、おそらく、記憶をなくしてしまう前の彼は、何事につけ優雅優美と、人目を惹きつけづにはいなかったのに違いない。
 そんなこんなを考えながら、はじめは、チェスを片付けたのである。




 使用人たちが並ぶ玄関ホールは、張り詰めた空気で満たされている。さりげない配置で、黒い服のシークレットたちも、散らばっている。
 アプローチを進んでくる黒塗りの高級車が、五段の階段から数メートル離れた場所に停まる。次々と、計六台の車が、ずらりと並んで停車した。
 階段下で遙一と並んで待っていた長崎が、前から二台目の車の後部座席のドアが運転手に開けられると、
「お帰りなさいませ」
と、いとも丁寧に腰を折った。
「ただいま」
 堂々と車から姿を現したのは、にっこりと微笑む、近宮玲子である。
「お母さん」
「遙一、元気だった?」
 遙一にやわらかな微笑で応え、彼を抱きしめる。
「うん。お母さんも元気そうだ」
「もちろん。ステージは、気力と集中力、それに、体力勝負だからね」
「お母さんの活躍を直に見れないのが、寂しいです」
 しおれた風船のように肩を落とした遙一の肩を抱き寄せた近宮が、
「遙一の病気が治ったら、いくらでも見れるよ」
「もう元気です。はじめと一緒に、乗馬も水泳もしています」
 胸を張る遙一を見つめる近宮のまなざしには、あふれんばかりの愛情と痛ましさとが垣間見える。
「そっか。いい遊び相手ができてよかったね」
「はい」
「で、遙一は、わたしにそのお友達を紹介してくれないのかな?」
「はじめっ」
 歩きながら喋っているふたりの後ろで、手持ち無沙汰にゆっくりと歩いていたはじめは、遙一に呼ばれて、ホッと息を吐いた。
 遙一に手を握られたままカ階段下につれてゆかれてから、近宮のほうのシークレッツや、おそらくはスタッフや信奉者たちのものだろう視線が、痛くてならなかったのだ。
(気にするこたーない)
と、心の中で唱えはするものの、シークレッツはともかく、新たなゲストたちの胡乱そうなまなざしは、不遜で傲慢な熱をはらんでいる。
(オレは、遙一も、遙一のかーさんのネタも、狙ってなんかいないんだ!)
 心の中で怒鳴ったまさにその瞬間に、はじめは、遙一に呼ばれたのだった。
 しかし、
「ああ、君が金田一はじめくんだね。わたしは、近宮玲子。遙一の母親だよ、よろしく」
 そう言った近宮を取り巻いている、ある種独特の雰囲気を、何と例えればいいのか。
 あらゆる意味でハードなショウビジネスの世界のトップに、その才覚と胆力とで長年君臨している、王のような女性である。
 思っていたより小柄なからだから放出されている、オーラとでも言うのだろうか、それは、生半な男では太刀打ち不可能な、燃えさかる金の焔のようなものに思えた。ましてや、はじめは、一介の高校生に過ぎないのである。
「き、ん田一はじめっす。はじめまして」
 胴震いをひとつして、差し出された手を恐る恐る握り返すのがやっとだったのだ。
「遙一は、君のことをとても気に入ってるようね。これからもよろしく。頼むわね」
 にっこりと微笑む近宮の表情は、息子の白皙にどことはなしに似ている。惹きつけられて、目を離すことができないのだ。
(ああ、そっか。これが、カリスマってことなのかもしれないな………)
 抗えない吸引力に、視線を外すことができないまま、はじめはそんなことを、ぼんやりと考えていたのである。


 静かだった館が、近宮がいるというそれだけのことで活気づく。彼女のSPに加えて、弟子と熱狂的な取り巻き、合計して二十名が一気に増えたのだ。
 遙一とふたり、向かい合って済ませていた食事も、夕食時は略式の正餐に変貌を遂げてしまった。
 テーブルの上座に、女王然として座る近宮。その右脇には、遙一が位置どる。以下、十二人のゲストが座を埋めてゆく。そこに、自分の席はないだろう。なんといっても自分はバイトなのだから。それはそれで堅苦しいことの苦手なはじめには、助かることだったのだが。その認識は、覆された。はじめは、遙一のすぐ隣に席を与えられたのだ。辞退したかったのだが、遙一の泣き落としと、遙一にねだられたらしい近宮とに迫られては、しどろもどろになってしまう。どちらかといえば、こだわりのないおおらかな性格のはじめに、ふたりは、鬼門なのかもしれない。結局、はじめは押し切られた形で、席につく羽目になったのだった。
 総勢十五人の晩餐は、にぎやかにはじまる。
 シャンパンがそれぞれのグラスに注がれると、遙一の正面に座している外国人の中年男が、
“Bottoms up!”
と、グラスを持ち上げた。――どうやら、彼が、取り巻きの中心人物のようである。
 グラスを触れ合わせる音が、しばらくダイニングに響いた。
 やがて前菜が運ばれ、カトラリーのたてるかすかな音が、トーンを抑えた会話の合間に混ざる。
 和やかで笑いの絶えないテーブルだったが、この場のイレギュラーであるはじめに、粘つくような興味の視線が、まとわりついて、口に運ぶものの味がわからなかった。
(?)
 その中に、ほんとうに漠然とだが、異質なものが混ざっているような気がして、はじめはテーブルにつくひとたちを観察しようとした。
 ひとつやふたつではない、突き刺すような視線の主を、十二人の中から探し出すのは、意外と難しい。テーブルを立つわけではないが、全員が好き好きに動いているのだから、当たり前ではある。
 ここまで来ることができた弟子は、高弟というやつらしく、同時に公演準備に明日からスタッフとしても働くらしい。それが、四名。残る八名が、取り巻きだ。総勢十二名のうち、男が七名、女が、五名。こうして見てみると、女のうち四人が、遙一を意識しているらしい。ぼんやり、うっとり、ねっとり、ウィンクを投げかけたり、恥ずかしそうに視線をすぐ料理に伏せたりと、様々ではある。残る一人は、弟子の一人の世話を何かと焼いている。同様に、男たちは、近宮に惚れていたり心酔したりしているようだった。鞘当てとでもいうのか、彼女の気を惹こうと、次々と話しかけている。
 会話を拾ってみると、お取り巻きの男女は、どうやら、金も地位も、かなりなものばかりのようである。
(別世界だよな………)
 遙一に懐かれなければ、自分には一生縁のないだろう世界である。会社の社長やらグループのオーナー、有閑貴族らしいやからまで、人種も国籍もまちまちで、日本までついてこれなかったものが、地団太を踏んでいるだろう――などと笑っているあたり、この何倍の取り巻きがいるのか、考えるだけで空恐ろしいほどである。
「どうしたの、はじめ。気分でも悪い?」
 目の前で、琥珀色の瞳が、心配そうに揺れている。
「あ? ……いや、別に」
「そう。よかった。お母さんはもてるからね、みんな必死なんだ」
 はじめの退屈を見抜いた遙一に、一瞬心臓が跳ねた。
(時々、鋭いんだよなぁ)
「それで、おまえは平気なのか?」
「うん。僕はね、お母さんが幸せでいてくれるのが嬉しいんだ。お母さんに恋人や婚約者ができるのはいいんじゃないかなって思うよ」
 首を傾げてそう答えた遙一の髪を、くしゃりと掻き乱して、
「えらいな。遙一は」
 笑ったはじめは、いつの間にかテーブルが静まり返っているのに気づいた。
(やべっ)
 はじめは、慌てて手を引っ込めた。


 近宮が日本に来た理由のひとつには、日本でのショウの契約があるというのもあるらしい。
 翌日、契約先との打ち合わせで出かけた彼女は、ちょっとした怪我をして帰ってきた。
 左手の白い包帯を見て、恐慌に陥った遙一に、
「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだ。ショウにはさしつかえない」
と、近宮は、遙一を抱きしめて笑ってみせたのだった。




 夜、夢うつつでノックの音を聞いたような気がした。
 返事をしたような、そんな記憶もうっすらとある。あるが、これはどうしたことだろう。
 寝返りをうったはじめは、自分の邪魔をする何かに、ぼんやりと目を開けた。
 寝返りをしきれなかったのだ。
(うう………なんだよいったい〜)
 目にかかる前髪を払ったはじめは、
「っ!」
 かろうじて悲鳴を飲み込むことに成功した。
 起こさないように気をつけて、そろそろと上半身を起こしたはじめは、詰めていた息を吐き出した。
 まだ心臓は、ついさっきの驚愕に、ドキドキと激しく打っている。
 目の前に、漆黒の乱れた髪と白い顔があった、その衝撃は、笑い話では決してすまない。
 なにが起きたのか………。
 脳が目覚めるまで、じっくり数秒が必要だった。
「びっくりしたなぁ」
 気持ちよさそうに寝息をたてて熟睡しているらしい遙一を、カーテンを閉め忘れたほの明るい部屋で見ていると、すっきりと消えたはずの睡魔が、再びもやもやと集ってくる。
「ま、ガキんちょだし…………いっか」
 ふにゃりとつぶやいて、はじめはもう一度ベッドに寝転がったのだった。
 朝食の支度が整ったと告げに来た長崎が見たのは、額をつき合わせるようにして眠っているふたりだった。
 長崎が無言のまま、ベッドサイドでたっぷり一分間は硬直したのを、知るものは、いない。


「はじめ……」
 枕を抱えてドアのところに立ち尽くしている遙一は、テディ・ベア柄のパジャマ姿だ。昨日は青い縁取りで青い蝶ネクタイのくまだった。一昨日は紫、今日は黄色だ。明日は赤か緑か、もしかしてピンクだろうか。ともあれ、同じ柄で色違いを揃えているらしい。
「またかよ」
 ぼそりとつぶやいたのが聞こえたのか。
「だめ?」
 枕を潰すほど抱きしめて、上目遣いしてくる。
(うわぁ………)
 背中がぞわぞわするのが否めない。あの日、近宮が怪我をした日から、遙一は悪夢を見ると言って、はじめのベッドにもぐりこんでくるのだ。ひとりで眠るのが恐いが、近宮と一緒には、恥ずかしくてお願いできないらしい。
 おねだりされるくらい懐かれているのは、悪い気もしないが。それでも、遙一の外見がひっかかるのだった。
(ま、な。おふくろさんも、んなこといわれた日には、困っちまうだろうしなぁ)
 ボランティアボランティアと、自分に言い聞かせながら、細身とはいえ外見はしっかり成人男性な遙一と、ベッドを共有することに目をつぶるはじめなのだった。
「ほら。来いよ」
 ぱふぱふと自分の隣を叩くと、ぱっと遙一の表情が、たとえようもないほど明るくなる。
「うんっ」
 返事と同じように弾んで、遙一がベッドにダイブする。
 大きく揺れるスプリングに身をまかせながら、
「電気消すからな?」
 布団を顎の下まで引きずり上げて、遙一が首を縦に振るのを確認して、はじめは、ベッドサイドの照明を消したのだ。
 照明が点いていては眠れないというのだから、しかたがない。
 遙一が来るまで読んでいた雑誌を床に落として、はじめは目を閉じた。
 夜が静かに更けてゆく。聞こえるのは空調の音と、遠く波のような近宮とゲストたちのかすかなさんざめきばかりだった。
 肇の特技の一つに、どこででも熟睡できるというのがある。この夜も、それは変わらない。リズミカルな寝息が室内に満ちる。やがて、心地好さげなそれに、不協和音が混ざった。次第に大きくなる苦しげな、詰まった息に、押し殺した呻きが混ざる。どれくらいつづいただろう、はじめが気づいたようすはない。しかし、
「う……うっ」
 遙一が小刻みに首を左右に振る。ぱさぱさと、長めの前髪が、枕を何度も打つ。
「ぐっ」
 突然、声が止まったと思った次の瞬間、
「う……うわぁっ!」
 悲鳴が、遙一の喉からほとばしった。
「えっ? あっ………どうしたっ」
 さすがに飛び起きたはじめが、ベッドサイドのランプを点す。
「遙一っ。おいってば」
 オレンジの暗い光に、脂汗をにじませた遙一が照らし出される。整った眉間がこれ以上ないくらいに顰められていた。
 いくら揺すっても痙攣のように震えている遙一に、頬を軽く叩く。
 名を呼びながら、連続して、叩いた。
 薄い瞼が、何の前ぶれもなく開いた。
「おっ。遙一………?」
 安堵に顔を覗き込み、はじめはなにがしかの違和感を覚えた。目尻の下がった色の薄いまなざしが、ランプの光を宿して、色を濃くしている。――それが、遙一をまるで見知らぬ男のように見せたのかもしれなかった。眩しさにか眇められた双眸が、はじめを捉え、瞬きを忘れたかのように、凝りついた。
 よく研いだナイフを首筋に当てられたかの粟が、背中にぶつぶつと立ってゆく。
 ほんの少し、はじめ自身そうと意識せずに、尻でいざり下がる。その時、複数の慌しい足音がして、向かいの部屋をノックする音が聞こえてきた。
 向かいの部屋は、遙一の部屋で、もちろんのこと今、部屋の主は不在である。それに気づいたのは、長崎だろう。
 はじめの部屋のドアがノックされ、開いた。
 一番最初に入ってきたのは近宮だったが、ドアから数歩踏み込んだだけで、立ち止まった。そのせいで、他のものたちは止まる羽目になった。近宮とドアとの隙間から、内部を覗き込み、一瞬だけ、誰が吹いたのかわからない口笛の、高い音が、薄闇を劈(つんざ)いた。
「……金田一くん。これは?」
「へ? ちか、みや、さん。いや、遙一が一緒に寝ようって………」
 男同士が一緒に寝てるのって、別段何もめずらしかないだろう――と、首をかしげたはじめに、
「それだけ?」
 少々硬い近宮の声が、届いた。
「それだけって……ほかになにが………」
 自分と遙一との今の状況に思い至り、
(げっ)
 真っ青になった。
(もしかして、変な勘違いしてたり? いや、まて。いくらなんでも、そっちに頭を向けるか?)
 ヤな予感を後押しするかのように、
「ほんと?」
 遙一の瞳の色よりも、濃い色の双眸が、はじめの鳶色のまなざしを凝視している。
 たたみかけるような、念押しに、回転速度だけは人後に劣らないはじめの脳が、音たててショートする。
 近宮の細められた瞳に、さっきの遙一にそっくりだ――などと、とぼけた感想が湧いていた。
 背中に流れる脂汗。
(どうしよう………)
 どこかから救いが現われないか、と、リフレインが頭を占める。
 それは、思いもよらないところから、差し出された。
「お母さん? どうしてそんな顔をしているんですか」
 むっくりと起き上がった遙一が、ベッドの上からまっすぐに近宮を見上げていた。
「よ、遙一こそ。どうして、金田一くんの部屋で寝ているの」
 変にひずんだ声が、いつも颯爽としている近宮の口から、転がり落ちた。
 ライトの光にもわかる、遙一の白い頬が、ポッと赤く染まる。それに、近宮の瞳が鋭さを増した。
 はじめも含めた全員の視線が、遙一に向けられている。
「え? ………だって、その、恐い夢見るから、ひとりで寝るのがいやで、だから、はじめにお願いしたんだ」
 ますます赤くなって、恥ずかしそうに肩を竦めた遙一に、
「ああ、………そうだったの。でも、あんまり、金田一くんにご迷惑をかけるんじゃありませんよ」
 近宮のことばから力が抜ける。
「はい」
と、遙一は、そんな近宮に、よい子のお返事を返したのだった。
 しかし、それで、遙一がはじめの部屋に来なくなったかといえば、そんなことはない。やはり毎晩、色違いのテディ・ベアのパジャマを着た遙一が、枕を抱えてやってくるのだった。
 はじめは苦笑しつつも遙一を迎えている。近宮も、あの後、変な誤解をして悪かったは――と、誤ってくれた。やっぱり変なこと考えてたなと、ちょっとショックだったが、彼らは、みんな外国生活が長いのだ。国内だけで生活しているものよりも、心配の種は抱負だったりするのかもしれない。
 そんなことを思いながら、はじめは、苦笑しつつ遙一をベッドに迎えている。
 それでも、あの夜に見た、遙一の冷ややかなまなざしは、ふっと脳裏によみがえる。あれがもしかすると、はじめの知らない、記憶喪失になる前の、高遠遙一なのかもしれない。そう思うと、喉元にナイフを当てられているような、あの刹那の怖じ気を感じて、全身に鳥肌が立つような、そんな慄(おのの)きに囚われてしまうのだった。




「金田一さま、どうかなさいましたか?」
 暑さの厳しい外とは違い、程よい空調の効いている屋内は、午後ということもあってか、少しばかり気だるい。いや、そんなことを感じるのは、遙一に付き合ってはじめが昼寝を決め込んでいたからだろうか。遊戯室で、いつの間にか肩にもたれてきて舟を漕ぎはじめた遙一につられて、「まいっか」と、はじめはそっとカーペットの上に横になった。そうして気がつけば、三時前。起きたはじめは、遙一がいなくなっていることに気づいて、館の中を探し回っていたのだった。
  「あっ、長崎さん。遙一見なかった?」
「遙一さまですか?」
「そう」
「二階のサンルームでお見かけしましたよ」
「そ。サンキュ」
「後からお茶をお持ちいたします」
と、長崎が声をかけるのに、手を振って応えたはじめはサンルームに向かった。
「よーいち、いるか?」
 二階の廊下のつきあたり、当然日当たりのよい開放的な一角が、サンルームである。入り口にドアはない。たくさんの観葉植物が置かれている。はじめには、葉っぱを見て楽しむ趣味はないので、妙な形の木や葉や蔦だよなとしか思わない。しかし、見るものが見ればかなり珍しい種類が混ざっているらしい。崖に向かって張り出したガラス張りの部分の天井は強化ガラスで、一層のこと開放的な印象を強めている。そちら側の天井からは絞め殺し植物のしだれた葉が茂っている。枝垂れた葉を透かして、緑と琥珀のまだらに、室内が染まっているような気がする。普通の家より天井が高いから、威圧感はあまりない。
 入ってすぐのテーブルの上には、ミルク色にぼやけたアイス・ティがのっている。遙一は、この部屋に、いたのだ。
 しかも、テーブル中央の灰皿に、煙草がまだくゆっていることを見れば、はじめの知らない誰かと一緒にいたのだろう。
「なんか、面白くないな」
 自分と今まで遊んでいたポアロが、フミが来た途端に自分から離れていった時に感じるような、そんなつまらなさだった。
 嘯いたはじめが踵を返す。
(なんだ?)
 いわは、それは、直勘だった。ほんの些細な、かすかな、気配を、はじめは感じて、部屋の中をもう一度、今度はじっくりと観察した。
 空調の風に、観葉植物の葉末が気持ちよさげに揺れている。ほかには、ひとの気配もないような、静かな室内は、しかし、南側の崖に張り出した一面ガラスの壁の前にだけ、衝立が置かれている。
(レースのカーテンを引いてあるのに衝立まで置くか?)
 さっきまで無視できたことだったのに、趣味とか嗜好とか、色々理由があるのだろうが、なんとなく気になった。
 そうして、衝立の奥を覗き込んだはじめは、目の前の状況を理解するのに、かなりな時間を必要とした。
 衝立を無理矢理スライドさせて、
「なにやってる」
 声が、低くかすれた。仁王立ちしたはじめの鳶色の瞳は、厳しく眇められている。
 遙一を背後から抱きすくめているのは、近宮の取り巻きのひとりだった。
(たしか、結婚してほしいとかいってるやつだよな)
 ひとに見られては言い訳のしようがない体勢に、焦った男が遙一を放す。
「はじめっ」
 遙一の空白だった表情が、くしゃりと歪んだ。
 伸ばされた手を掴んで、はじめは遙一を手繰り寄せた。
 肩に額を伏せて震えている遙一の背中を軽く叩いてやりながら、はじめは男を睨んだ。
 スタイルのよいハンサムな部類に入るだろう、背の高い男が、退路を探るように、視線を巡らす。
「あんた、なんてことを!」
 詰め寄るはじめに、男は首を左右に振った。
「ち、違う…………」
「なにが違うんだよ」
 一歩踏み出したはじめにつられるようにして、男が後退する。
「そ、そいつが誘ったんだっ!」
 男が指し示すのは、遙一だった。
「あんた、言い訳なら、も少し考えろよな」
 息を吐いて激昂をなだめながら、
「遙一。も、大丈夫だかんな」
と、今度こそほんとうに踵を返したはじめだったが、
「っ……せ、ん…………彼女に、言うのかっ」
 言わないでくれと、縋りつかれて、
「……………………」
 首をかしげた。こういうのを見逃しにするのは本意ではない。かといって、告げ口するみたいで、後味が悪いというのも、事実だったりする。
「遙一は、どうしたい」
 決めかねたはじめは、遙一に振った。
 遙一が、ゆるゆると顔を上げる。
(まただ)
 はじめの背中を、戦慄が駆け抜けた。鋭く研ぎ澄まされたナイフの刃先が向けられたような気がして、はじめの全身が、おののきに震える。
「よーいち?」
 はじめが掠れた声で呼んだ時には、遙一はいつもの育ちのよい坊ちゃん然とした表情を引き攣らせて、男を見ていた。
「言いません。けど、次にまたあんなことをしたら、今度は、お母さんに、言いますから」
 しかし、口角の持ち上がった、男にしては赤いくちびるから、押し出されるようにして言ったことばは、しっかりとしたものだった。
「わ、わかった。もう二度と、君には近寄らない」
 汗をしたたらせながら、男は、それだけを投げつけるように言うと、サンルームから逃げ出したのだ。
「落ちつけねーかもしんないけどさ、ちょっと、そこに座っとけよ」
 遙一をソファに腰掛けさせて、はじめは乱れたレースのカーテンと衝立とを元のように戻して、遙一の向かいに座ろうとした。と、
「こっち」
 自分の横のスペースを叩いて、遙一がはじめを呼んだ。
 すとんと、思い切りよく腰を下ろしたはじめに、遙一は、
「ありがとう」
と、つぶやいた。
 その双眸の色に、はじめは惹きこまれてしまいそうだった。
 ぼんやりと魅せられたように、遙一を見返していたはじめは、
「失礼いたします」
 ワゴンにティー・セットをのせてやって来た長崎に、我に返ったのだった。




 近宮玲子率いる幻想魔術団初の東京公演は、大盛況のうちに幕を閉じた。
 はじめは都内のホテルに、長崎と遙一と一緒に泊まることになった。家が近いからと言ったのだが、遙一にねだられては、どうも、断れない。結局、はじめは、遙一と同じ部屋に泊まり、ショウを毎日見に行った。それは、極上のシートで見る、すばらしい幻想世界だった。どれもこれも大掛かりでありながら、緻密で繊細な、めくるめくマジックのオンパレードに、魅了され幻惑されての一週間は、あっという間に過ぎ去った。
 そうして、関係者各位と各界からの招待客が集っての、打ち上げパーティーが彼らの泊まるホテルのレセプションホールを借り切って、おこなわれた。
 きらめくシャンデリア、生花のかおりに混じる、アルコール、香水、タバコの煙。きらきらと透明なクリスタルの水槽の中を泳ぐ、熱帯魚のように、フォーマルに身を包んだ男女が、笑いさんざめいている。その中には、有名なアーティストや、はじめでも知っているようなお偉いさんの姿もある。そんな会場に、借り物のフォーマルに着られているようなはじめがいる。
(場違いだっつーか、なんか、ついてけない世界だ)
 ワインレッドのソファに腰を浅く下ろして、みごとなまでの壁の花である。
 遙一は、近宮と一緒に、人の輪の中にいる。
 にっこりと笑って握手している遙一は、申し分のない、美青年だ。美男に慣れているだろう女優たちまでもが、頬を赤らめて、微笑みかけている。その、遙一が、近宮に呼ばれた際、はじめに、
『ここにいてね。勝手に部屋に戻ったりしないでね』
 などと、可愛らしく念を押したのを知るものなど、いないだろう。
 立食方式だったので、気兼ねなく旨そうな食べ物をあらかた味見したはじめは、おかげで腹いっぱいだった。
「退屈だよなぁ………」
 食べてしまえば、することもない。
 頭の後ろに腕を組んで、天井を見上げていた。と、通りがかったウェイターのトレイから、白濁した液体の入っているグラスを失敬して、はじめは傾けた。
 グレープフルーツのかおりのする液体が、するりと喉に滑り込む。
 胃の中で燃えるアルコールに、視界がうっすらとぼやけた。思うより強いカクテルだったらしい。
(やば………)
 寒いくらいに効いている空調の中にいるにもかかわらず、汗がにじむくらいにほてってしまった。
(オレって、酒に弱いのか? もしかして)
 新たな事実に、
(顔洗ってこよ)
 立ち上がったはじめの視界の隅に、それは映った。
 小刻みに揺れるシャンデリア、ティアドロップ型にカットされたの反射板兼飾り。
 はじめが見たのは、カクンと、直径二メートルくらいのシャンデリアが、下がった瞬間だった。
 クリスタルの飾りが揺れる。その、ちりちりという音が聞こえてきそうだ。
 シャンデリアの真下は、ちょうど、近宮と遙一と、彼らを取り巻いている人の輪である。
 誰ひとりとして、頭上の異変に気づいている気配はない。
「あ……………」
 たった一杯のカクテルで喉が焼けでもしたかのように、声が出ない。
 喉が、ひりりと、軋り、痛い。
(くそっ)
 もう一度と、はじめは、
「あぶないっ」
 喉も避けよと叫んで、走り出した。
 さんざめくひとを押しのけ、悲鳴と舌打、罵声を浴びながら、はじめは、かなうかぎりの速さで、彼らに、駆け寄ろうとしていた。

 耳を聾する破壊音に、きらめくクリスタルの無数の欠片(かけら)。耳をつんざく悲鳴が、ホールに響いたのは、一呼吸遅れてのことだった。

「はじめっ」
「金田一くん」
 間一髪、はじめに力まかせに突き飛ばされた遙一と近宮とは、飛び散ったガラスの破片で、あちこちに細かな切り傷を負っていた。もっとも、それは、彼らの周囲に集っていたひとたちすべてに言えることではある。が、それ以上の怪我はなかったのが、不幸中の幸いであったろう。
 ただひとりを除いては――――ではあるのだが。
 遙一が、くっったりと力なく倒れ伏しているはじめを膝に抱きかかえた。
 青ざめ、瞼を閉じた表情は、いつもの明るいはじめを見慣れた遙一には、不安以外のなにものをも与えなかった。
 はじめの額からは、決して少なくはない血がながれ、幾筋ものねっとりと赤いラインを描いていた。
「はじめ………」
 名を呼ぶ声が、少しずつ、小さく、途切れがちになる。
 くらくらと、周囲が、揺れる。からだが揺れる。動悸が、激しくなり、背筋が一瞬だけカッと灼熱を感じたと思った次の瞬間には、信じられない速さで、熱を無くした。
(あ………)
 目の前が、虹彩をかたどったのだろう、ヤグルマギクめいた閃光を残して、青黒く、視野を狭めてゆく。
 喉が、詰まる。
 きりきりと、耳と顎の付け根のあたりが、痛みを覚えていた。それは、次第に全身へと広がり、やがて、遙一は、はじめの上に折り重なるように、意識を手放したのだ。
 意識を失う寸前に、遙一が覚えたのは、自身頭に受けた、信じられないほどの衝撃と灼熱の痛みだった。遙一の深く閉ざされ、忘れ去られていた記憶の扉を、はじめの流す血潮が、こじ開けてゆこうとしていた。
 守ろうとした母の、青白く血の気を失った顔が、どろりとした質感の、血の色の奥に消えていった。




「どうぞ」
 きれいに皮を剥かれたりんごの六分の一切れが、フォークに突き刺されて目の前に差し出されている。
「サンキュ」
 受け取ったはじめが、りんごを一口かじった。
「おいしいですか?」
 口角を引き上げて笑う、目尻の心持ち下がった白皙は、とてもよく見知った相手である。しかし、深いトーンの落ち着いた物言いと、それにふさわしい優美優雅な挙措とが、はじめの知る彼と、なかなか一致しない。
(これで、年相応なんかもしれないけどな………)
 いや、二十代で、日常生活で優美とか優雅とかの形容詞が似合う男というのは、珍しすぎるとは思うが、まぁ、割合としては少ないにちがいないが、皆無じゃないだろう。そう無言のうちに言い聞かせるのだが、認識はいっこうに改まらない。
(なんかなぁ………)
 にっぱりと笑って、懐いてくる、幼いイメージが、頭の中に固着しているのだから、仕方はないだろう。
 背中に当てられたクッションに、傷を刺激しないようにと注意深くもたれて、長い溜息をついた。
「疲れましたか?」
「え? あ? ちょっとだけ」
「じゃあ、横になるといいですよ」
 はい――と目の前に差し出された手に小首を傾げると、
「りんごです。食べてから、横になります?」
「も、いいです」
 ごちそうさまと、フォークつきのりんごを手渡せば、
「!!」
 半分以上残っていたりんごを、捨てずに、食べたのだ。
「よっよーいちっ!」
「はい?」
「おまえ……それ、食べかけ」
「もったいないでしょう」
 へろんと、なんでもないことのように、遙一は、言ってのけた。そうなると、気にするほうが、変な気がしてくる。
「あ……そ。…………って!」
 何気に額に当ててしまった腕が、傷にさわり、痛みに鋭く叫ぶ。
「大事ではありませんでしたけど、縫っているんですからね」
 あきれた口調でたしなめられては、気をつけます――と、返すよりない。はじめは目を閉じ、痛みが去るのを待った。
 見舞いの花と果物の香が、甘く鼻腔を満たす。
 都内の私立病院の特別室に、はじめは入院している。
 思ったよりも深く切れていた額の傷と手足の捻挫が、理由だ。なにより、近宮の感謝の心尽くしが、あちこちに現われていた。


 あの事故から、三日が過ぎている。
 遙一の記憶障害は、嘘のような話だが、はじめの事故をきっかけに完治した。それが、近宮にとって、金田一はじめを、息子気に入りの遊び相手から、息子と自分の命を救ってくれた特別な人間へとランクアップさせたのだった。
 記憶を取り戻した遙一は、はじめのことを忘れてはいなかった。それは、近宮に、母親としてある種の危惧を抱かせた。漠然としたものだったが、遙一の、はじめに対する態度を見れば、“ビンゴ”な気がしてならない。
 それは、遙一が退行していた間、わざわざはじめのベッドで一緒に寝ていたせいでもある。あの時はつい、取り越し苦労のせいで、はじめにきつく当たってしまった。しかし、ショウの間宿泊していたホテルでも同様だったことを知った時、近宮は、遙一のはじめに対する態度にこそ問題があるのだと、認識を新たにしたのだった。
 退行する以前の遙一は、万遍ない人当たりの良さで、他人に自分の領域にまで踏み込ませない、ある意味鉄壁の防御を周りに張り巡らせていたものだ。それが、記憶を取り戻した途端の、はじめに対する、あの態度―――である。
(やわらかいよね、雰囲気が)
 警鐘を鳴らすのは、母性の部分だ。
 にっこりと微笑み、はじめの食べ残しのりんごを食べてしまった息子を見て、近宮は、開けかけていたドアを静かに閉めた。
(取り越し苦労じゃないようだね………)
 しかし、世界規模でトップクラスのマジシャンの座を長年占めている近宮である。なによりも思考が柔軟でなければ、勤まらない。
(ま、わたしは遙一が幸せなら、それでいいんだけど。さて………)
 どう考えても、遙一の幸せイコール金田一はじめの幸せとはならないような気がしてならないのだ。
(ケ・セラ・セラ……なるようになるさってね)
 もう一度ゆっくりとドアをノックして、近宮は、病室に入った。
 遙一が近宮に気づき、立てた人差し指を口の前に立てた。その穏やかな表情に、近宮は微笑み返した。
(でも……やっぱり、わたしは、遙一を応援するけど)
 いつの間にか眠ってしまったらしいはじめを見下ろして、母と子は、共犯者の笑みをひそやかに交し合ったのだ。


おわり



TYPYING from 2004/07/29
     to  2004/08/06


あとがき
 長さの割には、時間がかかりすぎました。でもって、色っぽくないですxx いや、いつものことではありますが。
 なんというか、とある野望があって書き出したのですけど、みごとに玉砕。う〜ん、いつか、また挑戦しよう。
 少しでも楽しんでいただけると、嬉しいです。
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