異説
ヘンゼルとグレーテル



(注:舞台は過去のドイツですが、名前は、お約束ということで。パラレルですパラレル。)
 

 さては、むかしむかしのものがたり。
   暗い暗い、シュバルツバルトの森の奥。
   道に迷った双子の兄と妹。
   ふたりの両親は、村人たちに殺された。
 

 当時はまだまだ貧しい国だった、ドイツ。群雄割拠は世の常とて、ドイツの国には小さな領地があまた点在し、領主たちが勝手気ままに戦争に明け暮れていた。
   そんな、時代。
   ジブシーたちは、戦火を潜り抜け、村々を経巡り生活をしていた。
 

 流行り病は村中を席巻した。
   病を持ってきたのはジプシーだ―――と、最初に口火を切ったのは誰であったのか。狂乱した村人たちに、滞在していたジプシーたちは惨殺された。
   ひとつところに集められ、火をかけられたのだ。
   虐殺から逃れたのは、森に遊びに出ていた双子の兄妹。
   森から、両親や仲間たちの無惨なありさまを、目撃したふたりは、森の奥へと逃れた。
   何日も何日も、木の根や草、そんなものを食べてふたりは飢えをしのいだ。
  「はじめちゃん」
   しがみついてくる妹美雪に、
  「だいじょうぶだよ」
   自分の不安を堪えて優しく囁く兄、はじめ。
   はじめの胸の鼓動を聞いているうちに、美雪はいつのまにか眠っていた。
  「さて、どうするべ?」
   自分で自分を奮い立たせるように、はじめは呟く。
   美雪の寝顔は可愛くて、守ってやらなきゃと強く思うのだ。
   両親や仲間たちの無惨な最期。
   復讐したいと思う。
   どうして、病気の原因をジプシーのせいにするのだろう。
   いつも、いつも。
   なにか、間尺に合わないことがあれば、すぐさま自分たちのせいにされ、石をぶつけられたりして追い払われた。
  (力が欲しい! そうすれば………こんな目には合わないのに)
   陽の射し込まない、暗い暗い森の奥。
   ぎゃぎゃぎゃぎゃ…
   ホゥホゥホゥ―――
   なにかの鳴き声。
   かさこそと下映えを踏み拉く音。
   さわさわと梢を渡る風。
   そのたびに心臓が跳ね、怖さに泣きたくなる。
   遠く、狼の遠吠えが聞こえた。
  「起きろ。起きろってば、美雪」
   こんなところにいたら、狼に食べられてしまう。
   焦って美雪を起こしたはじめは、まだ目を擦っている美雪の小さな手を掴むと、走り出した。
   闇雲に走って、もう、わけがわからない。
  「はじめちゃぁん。もう歩けないよぉ…」
   美雪が泣いている。
   ああ、どうしよう。
   ぼくだって、泣きたい。
   でも、ここでぼくが泣いてしまったら………。
   けなげに、気を引き締めるはじめだった。
 

◆◆◇◆◆
 

   アフリカ。
   黄金色のサバンナ。
   女豹が子を宿した。
   精霊に属する女豹だった。
   子を産み育てる間、精霊としての力は失せる。
   しかたのないことだけれど。
   精霊は自然界を愛し守る存在。
   その愛が守護の意識が、すべて、己の仔へと向けられるのだ。それは、一時的ではあれ精霊としての資格を失うことだった。
   時折り興が乗った時には、人の姿となりサバンナを駆け巡ることもあった。それも、できなくなる。
   それでも、愛した豹の仔を産み育てることは、女豹にとってこのうえない幸福だったのだ。
   女豹が産んだのは、3頭の仔。
   2頭の仔は、金の毛並に黒い薔薇斑。
   残る1頭は、漆黒の毛並をしていた。
   女豹の幸せは、今しばらくは続くはずだった。
   灰色の石の床。
   ぐるりと周囲は同じ材質の壁で囲まれている。
   上空にはやはり灰色の空。
   ここは、G男爵の城の奥庭。
   館は数段高い位置にあり、G男爵は階段の途中に佇んでいる。
   手には、ワインの満たされた玻璃のグラス。
   一番下の広場には、4頭の豹が木の杭につながれている。
   みごとな肢体の、成豹。3頭までは、美しい金の毛並に薔薇の斑。
   残る一頭は、夜の闇のような漆黒の毛並をしていた。
   豹に向かうようにずらりと並んだ兵士たち。彼らの手には、銃が握られている。
   張り詰めた雰囲気。
   鼻面に皺を寄せ、それ自体が強力な武器である白い牙が剥き出される。
   低くこもる威嚇の唸り声。
   男爵が、ぐいと杯を干した。
   どんと、テーブルに杯の底がぶつかる音が、大きく響く。
  「やれっ」
   男爵の声に兵士が構えをとる、そうして、しばらくのタイムラグの後に凄まじい轟音をたてて、銃が火を吹いた。
   睨みつける、琥珀のまなざし。
   すぐそこに、母の骸。
   そうして、兄弟たち。
   美しい金の毛並に薔薇の斑。
   大地を染める、血潮。その命の流れ出る匂いが、むっと黒豹――高遠の鼻孔を射た。
   なぜ? 
   どうして自分は生きているのだ。
   高遠の胸を過ぎったのは、絶望に近い凶暴な疑問だった。
   満足そうな人間の男。
   首に絡む輪が、それに繋がる鎖が、忌々しくも煩わしい。
   これさえなければ、母を兄弟たちを殺した男に飛び掛ることができるのに。
   ガシャンガシャンと、鎖を引き千切ろうと力をこめる。
   鎖を引っ張るたびに、首の輪が喉に食いこむ。
   それを見下ろし笑っている、髭の男。
  「処置をしろ」
   髭を生やした男が、命じる。
  「毛皮を痛めるなよ」
   担ぎ上げられる、母の兄弟たちの、骸。
   毛皮が欲しいためだけに、こんな殺しかたをしたというのか。
   高遠の喉から、悲痛な叫びが迸った。
   自由に駆けた、大地。
   どこまでも青い空、黄金色の大地。
   巣立ちの時まで、母と兄弟たちと、サバンナを駆け巡る。
   そういう時間が流れてゆくのだと思っていた。
   人間という生きものに囚われるまで。
   鉄の檻。
   振り下ろされる棍棒。
   投げ与えられる肉。
   おそらく、高遠は、普通の豹ではないのだ。外見が違うことが、彼を他の兄弟たちと違った存在にしたのか、それとももとよりそうであったのか。与えられる肉を、空腹だからといって喰らうことはできなかった。
   それらはもとより、野生の誇りとは決して相容れるものではなかった。
   それでも、兄弟たちは、餓えに負けた。母もまた、高遠の「餓え死に」を容認しなかった。
   母の吐き戻す肉を喉の奥に幾度も感じた。
   復讐を果たすにも、逃げ出すにも、生きていなければならず。
   『だから、食べなさい。なにをしてでも生き延びなさい』
   そうして、母もまた、普通の豹ではなかったのだろう。
   母のことばに高遠はついに、膝を折った、振りをした。
   自由を奪われたことにより、誇りは鬱屈し、怒りとなって静かに胸に降り積もっていったのだけれど。
  「男爵さま。これは処置をなさらないので?」
   小男が高遠を指差す。
  (噛み千切ってやろうか。近寄って来い)
   憎しみのままに、高遠の口からぞろりと白い牙がこぼれる。
  「黒豹を飼うのも一興だろう。見ろ、黄金造りの首輪がよく映える、この艶やかな肢体を。F子爵が、さぞや羨ましがろうよ。黒豹は、ヤツの憧れだったからな」
  「しかし、飼いならすのは、ムリなのでは?」
  「なら、ひとしきり皆に見せびらかして、そののち、毛皮を取ればいいことだ」
  「はぁ」
  「なんだ」
  「いえ。黒豹は、体毛が保護色ではないかわりに、普通の豹よりも強暴だとか…」
  「そんなことか。何のための兵士たちだ。みごとに、3頭をしとめただろうが」
   はっはっはと、哄笑する男爵。
   それはそうなのだが、つながれた豹を銃で殺すなら、その辺の小娘でもできることではないか。
   小男が内心の危惧を隠し、追従の笑いを唇の端にのせる。
   ふたりがくるりと背を向ける。その瞬間、ガチッと不気味な音がした。それは、高遠を戒めていた鎖が切れた音。
   気づいていた者はいなかったが、先ほどの虐殺のおりに目標から逸れた弾丸が、鎖に傷をつけていたのだ。
   助走もなく、高遠はみごとな跳躍をした。
   優雅で力に満ちた身のこなし。
  「うわぁ」
  「ぐぅぇっ」
   兵士たちが銃を構えたのは、男爵の背後に従っていた小男が尾の一振りで広場に転がり落ちた後だった。
 

 ―――<インターミッション>昔の銃なので、構えたからといって撃てるなどというものじゃない。種子島と呼ばれる銃をイメージしてもらえればいいのじゃないかと思うのだけど―――
 

 男爵を押し倒し、上から肩を押さえつけ圧し掛かり、高遠は首筋に牙を立てようとした。
   しかし…。
   銃のタイムラグに思い至った兵士の1人が、火を消し握りの部分で高遠を殴りつけた。
   したたかに打ち据えられ、刹那視界がぶれる。
   頭を一振りした高遠は、邪魔をした兵士を視界に捉え、威嚇した。
   琥珀色のまなざしが、凶暴な白い牙が、四肢の鋭い爪が、兵士をその場に呪縛する。
   背筋を這いずり上がる恐怖。
   思わず後退さった兵士。それは、ほかの兵士たちにも影響を及ぼした。
   そうして、最後の一押し。
   それは、銃の暴発だった。暴発といっていいのか、恐怖から銃の存在を忘れていた兵士たち。彼らの手にした銃が、火を吹いたのだ。
   目標を失った弾丸の一つが、高遠の足を打ち抜いた。
  「追え。殺すな。捕まえろ」
   無理な注文が、我を取り戻した男爵の口から発せられる。
   しかし、その頃には、高遠は疾うにG男爵の城を後にしていたのだ。
 

◆◆◇◆◆
 

 さて、思い出してくださいね。これは、『ヘンゼルとグレーテル』。誰がなんと言おうとも、それをベースに進みます。読者の皆さんは、グリム童話集『ヘンゼルとグレーテル』を思い出してください。
   さまよったふたりが見つけたのは、お菓子の家。
   そこに住んでいるのは、ひとを食べる恐ろしい魔女。
   ふたりは魔女に捕まりました。
   兄はじめは、檻に入れられ太らされる。最初に魔女の餌食となるのだと決定されています。
   妹美雪は、下働きをさせられる。
   いいですか。思い出せましたか?
   はい。ではここではじめちゃんと美雪ちゃんの兄妹に戻ります。
   舞台はシュバルツバルトの奥にある魔女の家。
   時間は少しばかり前後します。
 

◆◆◇◆◆
 

「どれどれ、もうそろそろ食べごろに太ったろうねぇ」
   でっぷりと太った魔女が、どっこいしょと椅子から立ち上がる。
   曲がった腰を叩きながら、はじめが囚われている家畜用の檻を覗き込んだ。
   しかし、この魔女は目が悪い。窓の小さな薄暗い家の中。家畜用の檻は家の隅にあるから、なおさら暗くて、魔女には中の様子がわからない。
   だからといって、美雪に確かめさせようものなら、いつまで経っても「痩せている」と返ってくるのがわかりきっている。
  「太った」と答えようものなら、兄が食べられ、その次は美雪の番なのだから。
  「久しぶりの子供の肉。早く食べたいものだねぇ」
   ケッケッケッケ…と、期待に満ちた魔女の笑い。
  「さて、ぼうや。手を出してごらん」
   魔女に答えて檻の隙からはじめの腕が突き出されます。
   それは、前に食べられたのだろう、こどもの骨。はじめが美雪に探させたものだった。
   目の悪い魔女は、それをすりすりと撫で擦り、
  「なんでだろうねぇ。おまえは、いっこうに太りゃぁしない。骨ばっかりじゃないか。まったくいまいましいったら。妹に言って、もっと肉を食べさせなきゃねぇ……」
   ぶつくさとぼやきながら、魔女が落胆に足どりを重くして引き返してゆく。
   はじめは、ほぉーと、胸を撫で下ろした。
   こんなことがいつまでも通じるはずがない。
  (どうすりゃいいんだー!)
   食べ物に不自由はないが、最終的に自分や美雪までもが食べられるのでは割に合わない。
   返す返すも自分の意地汚さが悔やまれてならない。
   それでも、
  (あの時食わなきゃふたりして飢え死にしてたんだから)
   自分で自分を慰める。
  (どうにかしなきゃな)
   最終的には、せめて美雪だけでも助けなければ。
   そうはじめが決意を新たにした時だ。
  「はじめちゃん」 
   こそりと、這いよってきた美雪の声。
  「どうしたんだ?」
   美雪の声に、今までにない響きを感じて、不安になる。
  「おまえを食うって言ってんのか」
  「ちがう。あのね。黒くっておっきな猫を見つけたんだけど、怪我してるの。どうしたらいい?」
   こーんなのよと、美雪が示す大きさが本当だとしたら、
  「それ本当に猫か?」
   疑わしい。
  「わかんない。でも、とっても苦しそうなの。たくさん血が出てるの」
  「矢傷か? ナイフか?」
  「こーんな穴が前脚のつけ根に開いててそこから血がでてるの」
   指で小さな丸を作る。
  (銃?)
   猟師が持って帰る獲物。その傷口がそんな感じだろうか。
  (やばいかも。いや、チャンスか??)
   迷う。
   獲物を追ってきた猟師が助けてくれるだろうか?
   それとも…。
   せかす美雪に応急手当の仕方を教え、はじめは、考えた。
 

◆◆◇◆◆
 

 深い息を一つこぼして、高遠は目を閉じた。
   じくりと、傷口が燃える。
   追ってくる気配。
   うるさい猟犬の吠え声。
   馬の嘶き。蹄の地面を蹴立てる音。
   忌々しい人間の、匂い。
   ゆたりと、高遠が起き上がる。
   弱ったところを見られたくはない。
   それに、まだ、あいつらを殺れるくらいの力は残っている。
   久しぶりに滾る、血。
   しかし、猟犬は襲いかかってはこなかった。
   人間たちも、なぜなのか銃を手にしてはいない。
   人間たちの手には、それぞれ縄や鎖が握られているばかりだった。
   これならば、高遠が負けるはずもない。
   迎えうつ高遠。
   後には、累々たる屍が築かれた。
   しかし、高遠も無傷というわけではない。
   城で撃たれた傷が広がっていた。
   足を引きずりながら、高遠はシュバルツバルトの奥へと入り込んでゆく。
   大地には、彼の流した血が、滴り落ちた。
  「だいじょうぶ?」
   人間の匂い。
   しかし、この匂いは、これまで高遠が嗅いだことのないものだった。だから、反応が遅れた。
   少しばかり甘く、しかしその大部分は恐怖と悲しみと心配とに満ちている、匂い。
   うっそりと瞼を持ち上げて、高遠は相手を見上げた。
   霞む視界。しかし、威嚇することは忘れない。
  「こわくないよ」
   幼い声。
  (こどもか…)
   高遠は威嚇をやめた。
   高遠は、我を忘れてはいない。
   人間は憎いが、それは、男爵たちであって、このこどもではないのだ。
  「ちょっとまっててね。お水、飲んでいいから」
   声とともに木製の粗末なばけつが目の前に置かれた。
   そうして、少女はどこかへ駆けていった。
   地面に吸い込まれるように、瞼が落ちる。
   知らぬ間に眠っていたらしい。
   気がつけば、そこに少女の裸足の足があった。
  「いたいけど、我慢してね。どうしたらいいのか、はじめちゃんに聞いてきたから」
   新しくなったばけつの水。
   びりびりとやぶった生成りのエプロンを水に浸し、美雪は高遠の傷口を拭った。
   見たこともない巨大な猫。
   美雪を見る琥珀色のまなざしに、今は威嚇の色はない。しかし、警戒はしているだろう。
  「これは、血止めの薬草よ」
   よく揉んで、傷に当てる。
   瞬間、ちょっとだけ鼻に皺がよったような気がした。
   しかし、べつに美雪に襲いかかるようすはない。
   少しだけ残っていた緊張を解いて、美雪はやわらかな下着の裾を破りぐるぐると薬草を巻きつけたのだ。
  「水汲みにいつまでかかって…なんだねぇおまえ、その血のにおいは」
   魔女が美雪をじろじろと眺める。
   目がほとんど見えないとわかっていても、気分のいいものではない。
  「ご、ごめんなさい。大きな猫が怪我をしてたの」
  「助けたのかい。ものずきだねぇおまえも。そんなことをしてる暇があるんだったらさっさと夕飯の支度をおし。おまえの兄さんの食事はいつもより多めに作るんだよ。………それを一週間続けるんだ。それでも太らないなら、あきらめてさっさともう食ってしまおう。骨と皮でもスープくらいなら取れるからね」
   最後のほうは独りごとらしかったが、それこそが美雪を真っ青にした。
  (ああ、どうしよう。はじめちゃんがたべられちゃう)
   最後の肉親までもを亡くしたくなかった。
   独りぼっちになったら、どうすればいいのかわからない。
   兄が食べられないようにするには、どうすればいいのだろう。
  (はじめちゃんが食べられないですむのだったら、わたしなんだってする)
   美雪はぎゅっと手を握りしめた。
   食事の支度の途中、手が空く時がある。
   そっと、魔女の目を盗み、美雪ははじめの捕らえられている檻へと近づいた。
  「はじめちゃん。はじめちゃん」
   ほとほとと鍵のかかっている檻の壁を叩き、はじめを呼ぶ。
  「どーした。美雪」
   はじめに、魔女の独りごとを教える美雪だった。
   はじめは真っ青になったが、あえてなんでもない振りを選んだ。
  「それよか、でっかい猫はどーなった?」
  「うん…あの場所から動きたくないみたいだったから………。後で様子見に行ってくる」
  「そうか。早くもどれよ。魔女に見つかれたらどやされっぞ」
   努めて明るく手を振るはじめだった。
   美雪が台所仕事に戻ってゆく。それを見送って、はじめはごろりと寝藁の上に転がった。
  (あと一週間…か………)
   焦りが恐怖へと変化する。
  (死にたくない。喰われたくなんか、ない)
   震えをいなすために、はじめは自分で自分を抱きしめた。
  どうにもならない毎日。
   日々は確実にめぐってゆく。
  今夜は、魔女が洩らした最後の日。
  はじめの怯えは酷くなり、檻の隅にうずくまっている。
   そんなはじめを見ても、美雪に何ができるだろう。
   どうしたって、檻は開かず、壊れもしない。
   一見やわなつくりの、木の檻なのに、魔女でなければ開けられないのだ。
   ごそごそと、食べ物がいくらでも出てくる魔法の壺のから、はじめの最後の食事用の肉を引きずり出す。
  (こんなのがあるのなら、わざわざ人間の肉を食べなくてもいいのに)
   食事の支度をしながら、美雪は考える。
  「それは私がやろうから、おまえは、この甕を洗っておいで」
   魔女が言いつけたのは、巨大な甕を洗うことだった。
   何に使う甕なのか、考えるまでもない。
   甕を洗いに行くふりをして、美雪は高遠のところへと急いだ。
   夕方まで、あと数時間。
   はじめの命もそれだけしか残されていない。
   もはや、頼れるものは何もない。
   それでも、最後の、細い命綱。
   美雪は、高遠に賭けることにしたのだ。
   魔女の小屋からはなれた、小さな窪地。
   潅木の繁みに囲まれた、ささやかな。
   高遠の傷はほとんど良くなっていた。
   高遠は小動物を自分で捕まえて食べている。
   小動物では、空腹を満たすには充分ではない。それでも、自らの手で捕らえた獲物は格別だった。なによりも、精神面での充足を与えるものだったのだ。
  「はじめちゃんが、魔女に食べられちゃうの………」
   美雪がぽそりと呟いたのは、高遠の傷口をあらためた後だった。
   不安がふくらんで、破裂しそうだ。
  「はじめちゃんが食べられたら………………」
  「たすけて…」
  「おねがい、はじめちゃんを助けて。わたしを食べていいから」
   ぐるる…と喉を鳴らして、高遠が美雪を見上げた。
   ぴくっと、高遠の耳が揺れる。
   鼻面に皺が刻まれ、白い牙が剥き出しになる。
   はじめて見る高遠の剣呑な表情に、美雪が思わず後退ずさる。
   美雪を背後に庇うようにして立ち上がった高遠。
   しばらくして、美雪にも高遠を警戒させたものの正体がわかった。
   犬の吠え声が、馬の嘶きが蹄のたてる響きが、馬を操っているのだろう人間の声が、美雪の耳に届いてきた。
  (えぇぇぇ? なに?)
  「きゃあ」
   ザンッと音を立てて、猟犬が繁みを飛び越えてきた。
   続いて繁みを掻き分けるようにして、人馬が。
  (1,2,3………10)
   ぐるりと取り囲む10を数える人馬に、瞠目する美雪。
   美雪を背後に庇った高遠の尾が、左右に緩やかに揺れている。
   ぱたんぱたんと、地面を叩く黒く優美な、尾。
   鎖や縄を構えた男たち。
   彼らも、黒豹とともにいる少女に驚いてはいる。
  「おまえに用はない。そこから退きなさい」
   男たちの誰かが、美雪に命じる。
   しかし、美雪は動けない。
   男たちが、猟犬が、怖かった。
  「おまえに危害を加えるつもりはないのだから」
   苛立った声。
  「どけというのだっ」
  「きゃぁっ」
   苛立ち紛れに、鎖をふるう。
   振るわれた鎖が、地面を叩く。
   その音が、高遠を刺激した。
  「うわっ」
   鎖をくわえ、男を馬から引きずりおろす。
   馬が後ろ足でたたらを踏み、犬が吠える。
   前肢で男を押さえ込み、高遠は周囲を油断なく見渡した。
   飛びかかってくる犬を、前肢の一振り尾の一撃でことごとく撃退する。
   犬の苦痛の悲鳴が響き、もとより臆病な質の馬の意識に恐怖を植えつける。
   首を振り嘶き後退しようとする馬。
   乗り手の叱責、鞭や拍車の痛みなど、目の前の恐怖を超えるものとはなりえない。
   目の前にいる漆黒の生きものが、「死」を招く存在だと馬たちの本能は悟っていた。
   やがて、馬と同じく本能が調教より勝ってしまった猟犬たちが怖気づくと、人間たちにはなすすべがなくなる。
   G男爵――雇い主の命令とはいえ、命があってこそのことである。鎖や縄では、豹に敵うはずもない。そう悟った者たが、誰からともなく後退さる。
   逃げ去る人馬、猟犬。
   後には、一人の兵士と、運悪く息絶えた猟犬の骸だけが、残された。
   高遠が前肢を男の胸からのける。
   ずりずりと這いずり高遠から逃れた兵士は一目散にその場から遁走した。
 

◆◆◇◆◆
 

「甕ひとつ洗うのにいつまでかかってるのだえ? 甕をそこのかまどにかけたら、次は水汲みだよ」
   魔女に従いバケツを取ると、美雪は川へと向かった。
  「はじめちゃん。はじめちゃん………」
  「みゆき…か」
  「どうしよう」
  「…だいじょうぶだ。いい考えがあるんだ。ただし、美雪おまえにも手伝ってもらわないとこれはできない。おまえの力が足りなくてもだ」
   耳元で考え抜いた手段を耳打ちするはじめ。
  「いいか、できるな。チャンスは一度きりだぞ」
  「それならだいじょうぶ。あのね……」
   美雪がことばを返そうとした時、
  「それ、じゃまだよ。おどき」
  「きゃぁっ」
   やって来た魔女に美雪は突き飛ばされた。
  「美雪っ」
   くらくらするあたまをさすりながら、美雪は壁伝いに立ち上がった。
   引きずられてゆくはじめの足が、土間を掻く。
  (ああ、こうしていられない)
   縄でぐるぐるまきにされたはじめは、テーブルの上に様々な食材と一緒に転がされている。
   かまどの上には、湯が滾り始めている甕。なにやら魔女が巨大なへらでかき混ぜている。
  「魔女さん。魔女さん。火が消えそうよ」
   ドキドキしながらはじめに言われたとおりの台詞を口にする。
  「何をやってんだね。おまえはかまどの火ひとつ守れないのかね。使えない子供だよ」
   ぶつくさ言いながら、どっこいしょとかまどにしゃがみこむ。
   薪は燃え盛っている。
  「アチッ。いい具合に燃えているじゃないか」
   しゃがみこんだ体勢のまま美雪を振り向く魔女の不安定な格好。
   力まかせに体当たりした美雪は、しかし、魔女の大きな背中を転がすことはできなかった。
  「あっ」
   はじめは絶望に蒼白になる。
   どっこいしょと立ち上がる魔女の口は歪んでいた。
   ケッケッケ…と、気味の悪い笑いを響かせた後で、
  「おまえたちの悪巧みくらい、先刻知っていたよ。魔女をあなどればどうなるか。おまえも、一緒に喰らってやろう」
   奥襟を掴み、引きずりあげる。
  「美雪をはなせっ」
  「いやぁ」
   ぐらぐらと煮えている湯。
   湯気が美雪の頬をなぶる。
  「はじめちゃん。はじめちゃん。………たすけて」
   美雪が叫んだその時、ドンと大きな音を立てて小屋の扉が壊れた。
   高遠はぐるりと部屋の中を確かめると、魔女に体当たりをした。
  「ぎゃぁぁ」
   魂消る悲鳴。
   ひっくり返った甕と熱湯が、魔女に襲い掛かったのだ。
   魔女の手から離れて空中に放り出された美雪は、床にぶつかる寸前に高遠がその背中で受け止めた。
  魔女は、焼けた甕に押し潰され、死んでいた。
  助かったのだという実感は、ゆっくりと胸の奥底から湧き上がってきた。
  「あ…ありがとう………」
   高遠の首に抱きつき、美雪は額を押しつけた。
   グルルル…と、高遠が喉を鳴らす。
 

食べ物が出てくる壺を手に、2人と1頭は魔女の小屋を後にした。
   彼らの行方を知るものは、いない。
 

◆◆◇◆◆
 

「きゃぁぁ」
   女性の絹を裂くような悲鳴。
   駆けつけた兵士たち。
   G男爵は、寝間で死んでいた。
   ケダモノにずたずたに引き裂かれて。
   内臓が散らばり、部屋は男爵の血で真っ赤に染まっていた。
   男爵の寝間から豹の毛皮のコートがなくなっていることに、誰一人気づいたものはいなかった。
 
DAS ENDE
START 2001/05/13
up  2001/05/14
 
あとがき
 う〜ん。
 ほのぼの? デート? どこに消えたんだろう。
でも、とりあえず、2人と1頭でどこかに行くということで。だめ???
 ルフトハンザさん、こんなんなってしまいました。
一応目指したんだよ〜(-_-;)
 なのに、どこでどー間違ったかこんなんなってしまいました。
 高遠くんは人間じゃないし。これはいつものことでしょうか。でも人間に化身もしない高遠くん。
 こんな内容ですが、キリリクです。
 これでもめげずにいてくれると嬉しいんですけど。
ルフトハンザさんほんと、ごめんなさいm(__)m
 
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