魔法使いの夏



「ばっかじゃないの!」
   ざかざかと道を急ぐ。
   こみあげてくる涙をぐいと手で拭いながら。
   12、3才くらいだろうか。
   まだいたいけな少女が炎天下の道を歩いている。

   汗が流れているのだから、パーカーの前くらい開ければいいのに。
   35度を越える暑さ。いくら薄手だとはいえ長袖のパーカーをしっかり着込んでいるのは、どう考えても暑いのにちがいない。
   少女の名は、森島あかりと言った。
   蝉があちらこちらで鳴いている。あれが恋人を探すラブコールだと知ったのは、ずいぶん前のこと。声ではなく腹部にある共鳴板だか何かを擦り合わせている音なのだとも、その時に知った。
  「うるさーい!」
   一瞬だけ蝉時雨がやむ。しかし、本当に一瞬のこと。すぐに前にもまして喧しい大演奏会が再開された。

   立ち止まって叫んでみても、八つ当たりだとわかってるだけに気分は晴れない。
  「ばかーっ!!」
   足元の小石を蹴って、ミュールだったと気づいた。
   ミュールと呼ぼうが何と呼ぼうが、所詮はツッカケである。そうして、夏の履物はどれも爪先が露出している分、石を蹴るのに向いてはいない。
  「いったあ」
   爪先がジンジンと痛む。
   踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。
   その場にしゃがみこみ、うずくまる。
  「…消えちゃいたいよぉ………」
   ぽとん
   ぽとん
   麦藁帽子の下のあまりに悲痛なつぶやきは、こぼれた涙といっしょに地面に吸い込まれていった。
 
 見渡す一面緑の田。
   田んぼの中の一本道。
   しかし、真夏の昼間。
   うだるような暑さに人っ子一人見受けられない。
 いるのは、しゃがみこんだまま動こうともしないあかりだけだった。
   グイと涙を拭い、立ち上がる。
   遠く、緑の海に緑の島が浮いている。
   一面田んぼの中の、オアシス。
   こんもりと緑の深い、森。
   あれが私有地なのだとあかりは知っていたけれど、
  (ほかにいくとこないもんな…)
   できるだけ明るく自分を引き立てる。
  (どーせ、金持ちの別荘なんだし、金持ちが海もなんもないこんな田舎に避暑になんかこないって。避暑にならないもんね。だいいち)
  「ちょこっとぐらい入り込んだって、いいや」
  (いざとなったら、泣きまねするもん)
   何も持たずに出たのは、あきらかに無謀だった。   けれど、何もないのだ。
   そう。
   自分のものなど、何一つ、ない。
  「このままじゃ干乾しになっちゃうしぃー」
   わざと語尾を伸ばしてみる。
   そうして、あかりは道を急いだ。
 
ひんやりとした空気。
   麦藁帽子越しでもまぶしかった太陽を、絡みあった木々の枝と葉が遮ってくれたせいである。
   心地好い緑のかおり。
   ――私有地につき立ち入り禁止――
   武骨な鉄の鎖から吊り下げられている、板。
   しかし、そんなもの気にとめていては本当に干上がってしまう。
   汗はだらだらと流れるし、もう限界だった。
   だから、決心したとおり鎖を跨ぎ越したのだ。
   一歩踏み込んだだけで、そこは別天地だった。
   ここでは、鳴き交わす蝉さえもが穏やかなようで。
   あかりは、ほーと、息を吐いた。
   肩を落とす。
   肩を張っている必要などないのだと、木々が教えてくれているかのようだった。
   さわさわと、吹き抜けてゆく風に梢が鳴る。
   遠く、木々のトンネルの出口が白く光っている。
  「井戸があるといいなぁ」
   汗を拭きながら独り語ちる。
   ポンプ式の井戸でも、つるべを使う井戸でも、いい。
   贅沢なんか言わない。
   水が飲めるのなら。
   陽光を遮る深い木の下闇。
   闇を抜ければ、そこにはギラギラと凶悪なまでの日の光。
   まばゆさに目が眩む。
   炙られるような熱に、再び汗が滴り流れる。
   それでも、目の前に広がる光景は、
  「うっわー」
  (すごい)
  (絵本に出てきそう………)
   枯れて黄色くなった芝生。
   牧場ができるくらい広い庭。
   その中心に、赤い煉瓦の洋館が建っている。
   ぽっかりと口を開けて見ていたせいで、いっそうのこと喉が渇いた。
  (こんな家に井戸ってあるんだろうか)
   不安になりつつ、家のまわりを探ることにした。
   そうして、
  「ラッキー」
   ポンプ式の井戸。
   思わず駆け寄り、カッコンカッコンと手動のレバーを上下させる。
   出てこない。
   期待が大きかっただけに、あかりはその場にへなへなと頽おれた。
   喉の渇きはいっこうにやむ気配もない。
 

庭への不法侵入までならどうにかなると思っていた。
   しかし、それ以上になると、ブレーキが自然とかかる。
  (でも…背に腹は変えられないって……)
   あかりは玄関のドアノブを握り、きっかり20秒葛藤した。
   もちろんカギがかかっているのにちがいない。それに、もしかしたら水道は止められているかもしれない。けれど、カギをかけ忘れててペットボトルの1本や2本は置いてあるかもしれない。
  (あ…悪魔に魂を売ったっていい! すっごく喉が渇いてんだから)
   どんな理由があっても、これは悪いこと。
   だから、神には祈れない。信じていようといまいと、そういうものだろう――と思うのだ。
   エイッとばかりにノブを捻った。
   キィー
   一枚板の扉が、かすかな軋みをたてて開いてゆく。
   思わず硬直したのは、罪悪感のせいだろうか。
   それとも、人気のない家の薄暗さ静けさのせいか。
   そこは、2階まで吹き抜けのホールだった。
   薄暗い屋内。
   ホコリ避けの布がかけられている調度品。
   20畳くらいあるだろうか。
   扉の向こう正面に、廊下が奥へと伸びている。
   その廊下を挟んで左右シンメントりーに、優美なカーブを描く階段。
  (これで別荘?)
  「おじゃましま〜す」
   組木細工の床の冷たさが、ミュールを脱いだ素足に染みる。
   きょろきょろと周囲を見渡し、
  「台所ってどこよ〜」
   かすれた小声で喚く。
   少し前から彼女を見ている視線があることに、あかりは気づいていなかった。
 
 機能的なキッチンスペースは充分レストランが開けるだろう。銀に鈍く光るステンレスの調理台。磨きあげられたタイル張りの床が、清潔感をこれでもかと強調している。
  「あ〜、水道っ!!」
   後先考えずに駆け出してひねると、勢いよく水が迸り出た。
   蛇口の下に頭を突っ込んで、あかりはごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
   息をする間も惜しんで、これ以上飲めないというくらい、飲んだ。
  「はーおいしかった。ごちそうさま。生き返ったよ〜」
   お腹がたぷんたぷん言いそうなくらい、重い。それでも、この重さは、幸せの重さだ。
   まだ、幸せだと感じられる自分がいる。
   だから、あかりは両手を合わせて頭をさげた。
   水が髪の毛を伝ってぽたぽたと落ちる。汗でねばついた顔や首がさっぱりして気持ちがいい。しかし拭くものはなにもない。だから、猫のようにぶるりと頭を振ったのだ。
   瞬間。
   目の隅に、何かを捉えた気がして、あかりの背中がぞっと強ばる。
   後ろに何かがいる。
   薄暗い室内。
   お定まりのシチュエイション。
   夏の風物詩。
   強ばりついた全身に、ひりついた痛みのような感触を与えながら血が巡る。
   薄暗いキッチン。
   誰もいないと思い込んでいた、別荘の中。
   基本的に超常現象に属するお話は、苦手だった。切羽詰った渇きに、本能が生命活動のほうを優先させていただけで。生命の危機を免れたという安堵から思考能力が回復し、副産物でもある想像力がめまぐるしく働き出す。
   だから、動けない。
   かといって、後ろを見ないのも、怖い。
   怖いから苦手なのに、つい見てしまう心霊番組。都市伝説。再現VTR。様々なストーリーがお約束な展開とともに脳の中で再現される。
   震える全身。
  (だ、大丈夫。大丈夫…)
   呪文のように唱えながら、ぎゅっとつむった目蓋を開け、あかりは勢いよく振り返った。
   ドキン!
   黒いシルエット。
   人の形をしている。
   キッチンのドアに背もたれるようにして佇んでいる人影。
   軽く腕を組んだ、スタイルのよい青年だ。
   しかし、
  (悪魔…)
   咄嗟にそう思ったのは、青年が黒い服を着ているからだろうか。
   スタンドカラーのゆったりとしたシャツブラウスもスラックスも、黒。
   薄暗がりでもそれとわかる白く整った美貌を彩るまなざしは、焔を宿して欝金色。
   皮肉気に端が持ち上げられている薄いくちびるは、血のように赤いのかもしれない。
   それらを見てとったのは、青年がゆらりと一歩を踏み出したから。
   猫科の生きもののようなしなやかな動きは優雅で、同時に獰猛さを潜めている。
   ゾクリと背筋に戦慄が走った。
   思わず知らず後ずさり、とんとシンクの縁に背中が当たる。
   ココンと、ミュールが床に転がる音が耳に痛い。
  「………」
   思考までもが硬直している。
   いざとなれば泣きまねをするとの決意は、どこか遠くに転がってしまった。
   どうすればいい。
   そんなことすらも思いつかない。
   先ほどとは違う冷たい汗が、だらだらと背中を濡らしている。
  「勝手に他人の家に上がりこんではいけないと、君のお母さんは教えてくれませんでしたか?」
   よく通る声。
   皮肉げな響きを孕んだテノールが、うわんうゎんと、頭の中でヘしゃげてこだます。まるで、プールの中から人の声を聞いているかのようだった。
  「ご、ごめ…さ……」
   自分の声さえもが、同じに聞こえる。そうして、言い終えることができないままで、あかりはその場に倒れたのだ。
  (あ、あれ? なんか、わたしへん…じゃない………)
   青年の欝金のまなざしがかすかに大きく瞠らかれる。
   それが、この時あかりの見た最後の光景。
   だから、あかりは青年に抱き上げられたということに、気がついた後になっても思い至らなかったのだ。
 

※ ※ ※
 

 ひんやりと、大きな手。
   その手で頭を撫でてもらうのが好きだった。
   大好きだった、お父さん。
   ごつごつとした、けれどやさしい掌。
   大きくて逞しい、大好きなお父さん。
   太陽の下で働いて、流れた汗を無造作に拭う。
   そんな父にやかんを抱えて運んでゆくのが、あかりの役目だった。
   井戸で冷やした一抱えもあるアルマイトのやかん。
   たっぷりと麦茶が冷えている。
   たぽんたぽんと、地面とあかりの足を濡らした麦茶。
   あかりは必死で運んだのに、父は無造作にひょいと片手で持ち上げる。そうして、注ぎ口に直接口をつけて飲むのだ。
   広い田。
   パラソルをさしたトラクターが進む。
   父がとても格好良く見えた幼い日。
   どうしても三角にむすべなかったおむすびが、それまで笑っていた父の手から転がり落ちる。
   口がOの字に開いたまま、父が地面に倒れた。
   それが、最期。
   救急車が来たけれど、遅すぎた。
   大好きだった父。
   離婚して出て行った母が、どうして知ったのか戻ってきたのは1月も過ぎた11月だった。
   農家の暮らしを嫌って出て行った母は、新しい父を連れてきた。
   思い出したくない。
   恐怖と嫌悪に、全身が小刻みに震える。
   母よりも若い、こぎれいな男。
   鼻につくオーデコロンとタバコの匂い。
   田を切り売りしては、車を買ったり、高価なブランドのスーツやアクセサリーを買ったり…。
   反対しても、鼻であしらわれた。
   すぐに手が出る相手。
   母は何も言わずただ見ているだけで。
   影響力のない子供でしかない自分が悲しくて、辛くて。
   母の夫が怖くてならなくて。
   近寄らないようにしていた。
   広くて古い日本家屋。
   彼がいつもいるのは勝手口に近い居間だったから、近づかないようにできた。
   なのに、あの悪夢が起きたのだ。
   思い出したくない。
   思い出したくないのに…。
   襖に鍵はかけられない。
 

鼻をつく匂い。
   アルコールとコロンとタバコが混じった、吐き気がしそうな悪臭だった。
 

※ ※ ※
 

   2階の居間でクロスワードパズルを解いていた青年は、ふと自分以外の人の気配を感じたような気がして立ち上がった。
   気配を消す。そのさまは、まさに獲物を狙う黒い豹。
   しなやかで強靭な動き。
   2階の手摺から下のホールを見やれば、麦藁帽子を被った少女がひとり。
  「台所ってどこよ〜」
   かすれた小声で喚いている。
   青年が少女の後をつける気になったのは、ことばのわりには途方にくれている少女の様子のせいだったのか。それとも、単なる好奇心のせいだったのだろうか。
   突然その場に頽おれた少女。
   おそらく貧血だろう。
   抱き上げて、とりあえず2階の適当な部屋に運んだ。とはいえ、使用可能になっているのは、彼が寝室に使う部屋と居間だけで。
   かまわないだろうとベッドに横たえて、青年はその欝金の瞳を眇めた。
   赤いピンストライプのパーカー。
   ジップアップの前をきっちりと締めているのが、見ているだけでも暑苦しい。
   貧血も起きるだろう。
   青年はパーカーのジッパーを下ろした。
   そうして―――
   青年の秀麗な眉間に深い皺が刻まれる。
   双の瞳に宿っている光が炯と輝きを増すのとは逆に、いつもは皮肉気に持ち上げられているくちびるの端が表情を無くす。
   何が少女に襲いかかったのか。
   一目見ればどんなに鈍い者でも察しがつくだろう。
   無惨にも破かれた、ブラウス。
   その下に散る無数の痣が、何を意味するのか。
   これを隠そうと、パーカーの前を合わせていたのだ。
   幼げな少女を襲った凶行。
   汗でべたつく少女のからだを、青年は固く絞った濡れタオルで拭った。
   目覚めはあまりにも突然で。
   薄暗い室内は、今が明け方なのか夕暮れなのか、教えない。
   あかりはぼんやりと起き上がり、見慣れないベッドに自分が眠っていたことを知る。
  (ここはどこだろ)
   ゆっくりと、そんな疑問が湧き上がる。
   生活臭の稀薄な、ホテルのような印象。
   かすかに鈍い頭の痛み。
   遮光カーテンを開き、刺し貫くような赤光に目が眩む。思わずカーテンから手を放した。
   ピンクやグリーンの光が、視界でうごめく。
   それと同時に、今日の出来事があかりの脳の中からはじき出される。
   怒涛のような、悪夢。
   恐怖。
   怒り。
   苦痛。
   嫌悪。
   悲しみ。
   ありとあらゆる、不の感情。
   こんなもの、どうすればいいのか。
   こんな感情など、知らなかった。
   知りたくもなかった。
   なのに。
   持て余す感情。
   自分自身の感情なのに。
   震えが止まらない。
   こみあげてくる吐き気。
   涙が、しゃくりあげが、とまらない。
  「お父さん…」
   救いを求める相手は、疾うにこの世に亡い。
   痛いほどわかっている喪失。
   それでも、あかりは、縋る存在を、ほかには知らなかった。
   かすかに開かれたドアの外。欝金のまなざしが、あかりを見つめている。
   何かしら物騒なものをひそめた視線。
   青年がなにを考えているのか。
   知ってしまえば後悔してしまうのではないか、そんなひんやりとしたまなざしだった。
  「もぉヤダッ!!」
   突然の雄叫び。
   長く一本に束ねた髪が、頭を振るたびにあかりの頬を叩きつける。
  「いつまでもいつまでもいつまでも………」
   呪文のように続けられることば。
   青年の瞳が、かすかに大きく見開かれる。それは、突然の思いもよらないあかりの反応に驚いたからなのかもしれない。
   あかりは青年に気づいてはいない。
  「こんなことじゃダメ! ダメなんだからっ」
   パシパシと自分で自分の頬を叩く。
  「いったぁ………」
   あまりの痛さにその場にうずくまった。
   その時、
   クックックッ………
   圧し殺しそこねたような笑い声。
  「だれっ」
   思わず誰何して声の主を探したあかりの目の前で、すでにかすかに開いていたドアが開く。そうして入ってきたのは、記憶にある黒ずくめの青年だった。
  「これは、失礼」
   青年が、まだかすかに笑いを滲ませた口調で謝罪を口にした。 
 

※ ※ ※
 

   『よーいちでかまいませんよ』
   そう言った青年。
   今更帰れない。かといって行くところもなくて、なんとなくここに居続けているのに青年は何も言わない。
   何を食べているのか、キッチンに立つ様子もない青年――よーいちに、なんとなくおさんどんのような形で食事を作るようになっていた。
   そうして、10日。
   いつの間にか着替えの服も揃っていた。
   だから、居てもいいんだと思った。
   けれど………。
   たいていよーいちは紅茶を飲みながらクロスワードパズルを解いている。
   いつ起きるのか、今日こそはよーいちよりも早く起きようと決意して行動しても、先に起きれたことはない。
   まさか、眠っていないのだろうか。
   そうとしか思えなかった。
  「どうしました?」
   まじまじとよーいちを見ていたのに気づいたのだろう。
   欝金の瞳が、向けられた。
   ドキンとする。
   瞬間的に怯んでしまうのだ。
   肉食獣の瞳だと思う。
   見据えられると、動けない。
   視線が合うと、外せない。
   少しでも動いたり、視線を外したりすれば、ずたずたに引き裂かれるのではないか。
   別に、よーいちが粗暴だとか、いつもぴりぴりしているとかじゃない。それとは逆に、樹上で休息をとっている猫科の大型獣のようにリラックスしているように見える。
   木の幹から手足や尻尾をだらりと垂らして眠っている豹のような。
   そんなイメージ。
   目の色のせいなのだろうか。
   きれいだけれど、同時に怖い、瞳。
   なにもかもを見透かすような。
   そうなのだ。
   なにもかもを、よーいちのまなざしは知っているような気がする。
   だから、落ち着かない。
   いつまでいられるのか。
   そんな不安のせいもあるだろう。
   追い出すつもりなのなら、早いほうがいいのに。
   そうなったら行くところはないけれど。
   不安な思いでここに居続けるよりは、いいと思うのだ。
   昨夜の夜遅く、あかりは偶然見た。
   ロマンスグレイの髪をオールバックに撫でつけた訪問客。
   玄関の明かりが灯っているだけの暗いホール。見てとることができたのは、それだけで。
   1階のホールを見下ろせる2階の手摺の裏に咄嗟にしゃがみこんだのは、何故だろう。
   『――さん、お手数をかけてしまいましたね』
   穏やかなよーいちの声の響き。
   相手の声は、押し殺しているのか、聞こえなかった。
   ただ、アタッシュケースからA4サイズほどの茶封筒を取り出し、よーいちに手渡すと、引き返していったのだ。
   ねっとりと暗い夜の闇に、溶け消えるように。
   よーいちは闇の中でも目が見えるようだった。
   玄関の明かりが消える寸前、封筒から書類を取り出しているのをあかりは見たのだ。
   そうして―――
   真っ暗になったホール。
   耳を澄まさなければ聞こえてはこない、本当にかすかな足音。
   たゆみなく、蹴躓く気配もなかった。
   『こんなところで何をしているんです』
   感情のこもらない声が降って来た。
   『え、えーと…』
   ヘヘっと、笑ってごまかすしかなかった。
   多分何をしていたかなんか、わかっていたのにちがいない。
   少しだけ、よーいちというひとは意地が悪いかもと、あかりは思ったのだ。
   遙一の問に対するあかりのこたえは、ない。
   ぼんやりと自分を見つめてくる鳶色のまなざし。
   その色は、ある少年を思い出させる。
   彼のライバルである、ひとりの少年を。
   決して相容れることのない平行線。
   しかし、いつも背中合わせに存在する、アンビバレンツ。
   打ち負かそうとして返り討ちに合う現実。
   それを一興だと思うくらいに、遙一は酔狂ではある。しかし、それがこのうえない屈辱だということもまた、疑いようのない現実で。
   香港での一件の後、すぐさま脱獄を果たし、そうして彼――地獄の傀儡師こと高遠遙一は、ここに来たのだ。
   あの敗北は、思っていたよりも彼を打ちのめしていたらしい。
   繰り返し思い出す屈辱の瞬間。
   『あんたは筋金入りのマジシャンだからな――』
   少年のことば。
   思いだにしなかった。
   彼が自分のことをそんなふうに見ていたとは……。
   ことばもなかった。
   そうして、去り際のことばは、そんな自分に苛立った挙げ句の、間違いようもない負け惜しみ。
   そんな自覚があった。
   だからなのか、彼の心は、揺れていたのだ。
   舞台からリタイアするかどうか。
   この時期、地獄の傀儡師と呼ばれ恐れられている希代の犯罪者、高遠遥一は一種の虚脱状態にあったのだ。
   そんな時に迷い込んできたひとりの少女。
   森島あかり。
   中学1年だという幼げな少女が家を飛び出す決意をするほどの、凶行。
   それを想像するのは、たやすかった。
   あかりの象牙色の肌に散った、赤いあざ。
   手に入れた、少女に関する資料。
   材料が揃えば、考えるまでもない。
   以前の自分なら、あかりをマリオネットに芸術を築き上げただろう。
   そこに、迷いの生じる隙はなかった。
   あかりが、完璧なマリオネットとなりきるかどうか。
   心に掛かることといえばそれだけだったに違いない。
   なのに、今の自分は。
   ふっと、遙一の口もとに自嘲の笑みが刻まれた。
  「どうかしたの?」
   あかりの声。
   恐る恐るといったように、訊ねてくる。
   それが、癪に障った。
   大人気ないとわかっていたが、あの少年を思い出させる鳶色のまなざしが苛立ちを掻き立てるのだ。
   だから、遙一は仮面を被った。
   血にまみれた芸術を演出するプロ――地獄の傀儡師の仮面を。
 

※ ※ ※
 

   夜毎の夢に魘されているというのに。
   そんなにも苦しんでいるというのに他人のことを思いやれる。
   そんな心の動きが、あの少年を思い出させ、遙一の神経を逆撫でするのだった。
   だから。
   そう。
   だから―――。
   自己嫌悪に陥るとわかっていながら、言わずにはいられなかったのだ。
  「わたしのことを心配している場合ではないでしょう。違いますか?」
   あかりの心の傷を抉り、流れる見えざる血で新たなる芸術の幕を上げよう――と。
   くすり――と、ことさらに甘い毒をしたたらせた声で、囁くように惑わせる。
   たちまちあかりの顔が蒼白になる。
   すっと血の気が引き、全身が一瞬にして冷えた。
   鳥肌立った全身が、ヒリヒリと痺れる。
   ああ――――。
  (やっぱり………)
   すとん…と、確信がゆく。
   よーいちは知っているのだ。
   何があったのかを。
   誰にも知られたくない、悪夢を。
   強ばりついたあかりの耳もとで、遙一が囁く。
  「憎い相手を殺したいとは思いませんか?」
   やわらかで丁寧な口調とは裏腹に、いっそストレートな問いかけがあかりの耳を打つ。
   その場にしゃがみこんだあかりが、首を振る。
   そんなこと、考えない――と。
  「考えたことは、ないのですか?」
   聞こえない。
   両手で耳を塞ぐ。
  「本当に?」
   聞きたくない。
  「本当に、憎い相手を殺したいとは考えなかった?」
   考えない。
   考えたくない。
   そんなこと!
   しかし、どんなに耳を塞ごうと目をつむろうと、誘惑の毒を孕んだ遙一の声は、あかりの意識を絡めとってゆこうとするのだ。
   できるだけ小さくなろうとするかのように、まるで胎児のようにしゃがみこんだままで、あかりは震えている。
   思い出したくない。
   なのに。
  「思い出してごらん。あの男が君にしたことを」
   穏やかでなのに抗いようのない、ひりりと染みる毒のささやき。
   したたる致死の甘い毒は、あかりの心に入り込もうとする。
   イブを誘惑したサタンのように。
   フラッシュバックする過去。
   頬を張られた、頭の芯からぶれる痛み。
   恐怖。 
   押さえ込まれた四肢。
   怖くて怖くて。
   どうしてと問うてみても、答は返らなかった。
   恐怖は屈辱へと変貌を遂げ、そうして――――!!
   更なる苦痛を孕んであかりに襲いかかった。
   視界の隅に、母を見たと思った。
   『助けて』
   救いを求めて、叫んだ――はずである。 しかし、それは果たして声となっていたのだろうか。
   貫かれた刹那の、わずかばかりの希望を断ち切られた、絶望の熱。
   身を灼き心をずたずたに引き裂かれた、あの時。
   目の前が灼熱の白へと変わってゆく。
  「それでも、許すことができる? 忘れることができる?」
   白熱の視界へ、悪魔のごときささやきが滲む。それは、紛うことなき、血の赤。
   視界がじわりと血の色に染まってゆく。
   あかりの震えがひときわ大きなものになる。
  「怖れることなど、何一つありませんよ。憎悪もまた君のあるべき姿なのですから」
   それまで遠くから降りそそぐようにあかりを翻弄していた声が、ふいに耳元に聞こえた。と、顎を持ち上げられる感覚にあかりは大きく震え、硬直した。
   かすかに、笑い声が耳を射たような気がした。
  「さあ、目を開けて。自分の憎悪を認めてしまいなさい」
  「怖れることなどないのだと、気づくでしょう」
   抗いがたいトーンの声。
  「さあ――――――」
   惹かれるように、それでも恐る恐る瞼をもたげたのは、なぜだろう。そうして、あかりはそこに、欝金のまなざしを見出したのだ。
   驚くほど間近に迫る燠火のようなまなざしが、あかりのすべてを絡め取り煮溶かしてゆく。
   くらり―――
   足元が揺らぐ錯覚に囚われ、視界が歪み撓む。
   煮溶けた感情。揺らぎつづける足元。
   彼女に襲いかかったのは、あかりのキャパシティを悠に越える、マグマの対流にも似た感情の滾りだった。
   その後、数日間の記憶があかりにはない。
   がつけば、そこは、一面の海。
   どろりと半ば凝りかけた黒味の強い血の海だった。
   その海の只中にうつぶせているもの。
   それは――
  「お、母―――さ……」
   すべてを言うことはできなかった。
   なぜなら、
  「人殺しっ!」
   叫び声があかりの意識を占めたからだ。
   声の主。
   忘れもしない。
   カッ!!
   あかりの顔が憎悪の朱に染まる。
   それは、あかりが誰よりも憎む相手。
   母の夫の声だった。
   物の影がかろうじてわかる薄暗い室内で、母の夫が叫ぶ。
   人殺し――――と。
   発条のきれかかったオートマタ(からくり人形)のように、ギクギクとあかりが首を振る。
  「ち――う、ち、が、う――わたしじゃ、ない」
   否定の声が力なく床に砕け散った。
   わからない。
   なにがどうなっているのか。
   いつ家に戻ってきたのだろう?
   懐かしさよりも忌わしい記憶のほうが勝ってしまった家は、もはや帰れる場所ではなくなってしまっていると言うのに。
   霧にもやる頭。
   闇に鎖されてゆこうとする視界に、何故だろう、やけにクリアに母の夫の顔が映る。
   のっぺりと白く歪んだ男の顔。
   陽に焼けていた父の顔とも違う。
   いつもかすかに笑んでいるような、皮肉げな白皙の顔とも違う。
   それは、内面の醜悪さが隠し切れずに滲み出ている容貌にほかならなかった。
  (おやおや…)
   半ば強引にあかりの心の憎悪を掻き立てて煽り、どうにか開幕へとこぎつけたというのに。
  (思わぬアクシデントと言うやつですね)
   どうしても人を殺したくないと拒絶反応を見せる明かりに、『仕方ないですね』と珍しくも折れたのは遙一だった。
   無意識での拒絶をねじ伏せるのは、あまり得策ではないからだ。
   幕を上げる前にマリオネットが壊れてしまっては、元も子もない。
   そう。
   なのに、何故自分が折れてまであかりのステージに拘っているのだろう。これは遙一自身よくわからない感情のありかただった。
  (まぁ、たまには血を流さないステージというのも一興かもしれませんしね)
   やはりまだ自分はあの少年の台詞に拘っているのかもしれない。
   壊れてしまったマリオネットは処分する。
   それが遙一の信条ではあったが。
   処分するのに忍びないのだ。
   それは、あかりがまだ子供だからなのか。
   それとも、同情しているのだろうか。
  (しかたありませんね………)
   半ば闇に溶けるようにしてその場に佇む遙一のくちびるの端がクッと持ち上がる。
   能面を思わせるアルカイックスマイルは、見るものの心を凍らせるような、ひんやりとした危うさをたたえていた。
 

※ ※ ※
 

 醜く歪んだ顔が、あの日のことをまざまざとよみがえらせる。
   アルコールとタバコとコロンの混ざった、体臭。
   押さえつけてくる、汗にべとつく掌。
   なめくじめいた舌の感触。
   そうして、不快でしかなかったその最後に、あかりに襲いかかった痛み。
   蒼白になり震えるあかりを見下ろし、ニヤリと男がいやらしく笑う。
   醜悪な、欲望のみの笑だった。
   ぞろりとくちびるを舐め湿すその舌の動きすら、人間であることの醜さを見せつけているかのようで。
   あかりの背筋にひりひりとした鳥肌が立つ。
   ゆらり――と、男があかりに一歩近づく。
   伸ばされる手、そこに、半ば乾きかけている赤黒い染みを見たと、あかりは思った。
  (ああ、この男が、おかあさんを殺したんだ………)
   しかし、導き出された答は、即座に頭のどこかへと消え去った。
   男があかりの肩を掴んだのだ。
   ヒッ! と、声にならない悲鳴を呑んで、あかりが竦み上がる。
   耳元でしゃがれた声がささやく。
  「――――――」
   2週間ほど前、初めて遙一を見た時、瞬間的にひらめいた単語。
   それは、勘違いだった。
  (よーいちは悪魔なんかじゃない………)
   捩れた角と山羊の顔、山羊の下半身。
   醜い異形の存在。
   ―――悪魔。
   それは、目の前にいるこの男をこそ指すべき単語だったのだ。
   薄れゆこうとする意識の中で、あかりは確信した。
   ブラックアウトする寸前あかりが見た光景。
   それは、閃くナイフの銀色の輝きが血に染まる一瞬。
   ――――まるで魔法のように、男の背後に現われた遙一が、男の首をナイフで掻き切った光景だった。
   ――闇がまるで漆黒の翼のように遙一を包み込む。
  (よーいちは、悪魔なんかじゃない。…死を運ぶ黒い神。黒い翼の、死神………)
   そうして、あかりは意識を失ったのだ。
 

※ ※ ※
 

   パタン―――
   かすかな物音に、あかりの眠りが破られた。
   ハッと気がつけば、いつの間にか見慣れていた天井。
   くらくらとする頭でがばっと起き上がり、あかりは駆け出していた。
   それは、本能的な行動だった。
   1階のホールに遙一がいる。
   左手にトランクを提げて。
   今にもここから出てゆこうとしている。
  「待って」
   渇きかすれた声は、遙一には聞こえなかったのか。
   ドアが開き、むっとするような外気が入ってくる。
  「待って、よーいち! お願い!!!」
   絞り出すような叫び。
   出てゆこうとする背中に、縋りつくように、慌てて追いすがる。
   そうして、階段を途中まで駆け下り、あかりの足がもつれた。
   瞬間的な空白。その後、星が散った。
   目の前が痛みで真っ白に焼ける。
   けれど、そんなことにかまっていられなかった。
  「おねがい! ひとりにしないで」
   心の底からの願い。
   よーいちの本性が悪魔でも死神でも、それ以外の何か得体の知れない恐ろしいものでもかまわなかった。
   眩み霞む視界。
   もがくように立ち上がる。
   ひとりになることのほうが、怖かった。
   それに。
   そう、それに。
   涙があふれ、頬を流れ落ちる。
   ヒック…。
   しゃっくりが飛び出す。
   覚えている。
   よーいちが、何をしたのかを。
   よーいちの白い手が、優美な奇跡を描き銀色のナイフを閃かせた瞬間。
   血色に染まった、幻惑されるような、悪夢。
   しかし、決して夢などではなく。
   現実のことだ。わかっている。
   けれど。
   けれど…。
   けれどっ!
   泣きじゃくるあかりの頭に、何かが触れた。
   信じられなかった。
   置いて行かれる――と。それは、悲しいまでの確信だったのに。
   ぐいと目元を乱暴に拭い、あかりは見上げた。
   遙一の顔を。
   あいかわらず皮肉げな笑みをくちびるの端にたたえた、白い顔。
   その欝金のまなざしが、怖いくらいに真剣な色を宿してあかりを見下ろしていた。
   ことばはなかった。
   なにを言われてもあかりの決意が翻らないのだと、遙一にはわかっているのだろう。
   ふっと、遙一のくちもとが、皮肉気ではない笑みをたたえたように見えた。それと同時に頭に置かれていた遙一の手の感触が消える。
   そうして、あかりの目の前に、白くきれいな手が差し出された。
   あかりは、無言のまま、遙一の手を取った。
   数日後、森島家の惨劇は衆目の知るところとなった。
   しかし、行方不明になった娘の行方も真実も、決して知られることはなかったのである。
 
END
start  13:12 2001/07/01
up   12:47 2001/07/31
 
あとがき
 う〜ん。これ、キリリクのつもりなんですが。お題は、高遠くんの休日。これ、休日でしょうか?広い意味では休日だと思うんだけど。
 高遠くんは十数年間イギリスで育ったので、クロスワードパズルとか好きだと思うんですよね。このあたりのイメージは、某推理小説からの影響だと思う。主役の警視さんの相手役の元貴族のオジサマが暇さえあればクロスワードパズルしてるんですよね。ご多分に漏れず魚里は、主役の相手役であるメルローズ・プラントという名前のオジサマが好きでこのシリーズを読んでいました。
 リクエストくださった、あずささま。ごめんなさい、こんなのしか書けなくて。1月かけて、こういう内容。も少しかっこいい高遠くんを書きたかったんだけどね。
 主人公、高遠くんじゃないですよね、これ。どう考えても、あかりちゃんが主役だよ〜(-_-;)
 健気な女の子書こうとしたんだけど。妙にキャラとして不安定な女の子になったような気が。
 時間流は、『金田一少年の決死行』の後、脱獄してからのつもりです。
 少しでも楽しんでもらえるといいなぁ。
 
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