緑陰の


 眼下に迫るのは、敵国の戦艦。
 きらめく波頭に悠然と水脈を引きながら、小艦を従えた威容は、まさに戦力の違いを見せ付ける。
 それは、黒々と不吉な姿だった。
   飛び交うB29が、機銃を正射し、味方の機が火を噴きながら落下し大破する。
 出陣前に喫した麻薬の酔いがあってすら、背筋に粟が立つのを抑えることは出来なかった。
 敵の攻撃を辛くも避けながら、それでも、迫りくるのは、間違いなく、彼自身の死。
 二度と戻ることは適わない、死に向かう、出陣。
 それは、何のためなのか。
 国のためか。
 誰のためなのか。
 陛下のためか。
 いいや、違う。
 ただ、自分の愛するものたちが、敵に蹂躙されないためにだけ。
 それだけを願って、彼は、目を閉じた。
 脳裏に浮かぶのは、白い面影。つややかな黒髪、色の薄い琥珀色の瞳。そうして、何よりも鮮やかな、くちびるの、朱。
 二十数年の人生で、彼が愛したものの面影が、くっきりと浮かび上がった。
 それは、出会い以降、彼を虜にしつづけた存在だった。

 高遠―――

 したたかな衝撃と、爆音が、彼の全身に襲い掛かかる。

 刹那、彼、猪川将佐は、十数年の時をさかのぼっていた。



 出会いは、夏。
 母親の田舎に避暑に訪れていた猪川将佐少年は、白い開襟シャツと半ズボンという格好で、細い山道を歩いていた。
 将佐自身には、どこに行くという目的があったわけではない。
 ただ黙々と歩いていたのだ。
 緑の匂いと、木の間から差し込む陽射し。蝉時雨がうるさいくらいにすだまいて、獣道に近いような道野辺にはもっさりと草が生い茂り、ヤグルマギクやそのほか名も知らない花が、かすかな風に吹かれていた。
 将佐が暮らしている街中より、はるかに涼しかったが、それでも、夏は夏である。
 にじむ汗が、肌着を湿らせて、気持ち悪い。
 開襟シャツを脱ぎたかったが、脱いだシャツを手に持つのもわずらわしい。どこかに忘れたとして、母が怒るとは思えなかったが、おそらく、だらしないと、祖父が機嫌を損ねるだろう。そうなると、母と祖母とがおろおろとうろたえるだろうことが、目に見えるかのようだった。
 その音は、少し前から聞こえていた。ただし、蝉時雨とどちらが大きいかという程度だったのだ。
 最後の茂みを抜けると、空気が変わった。
 湿り気を帯びてひんやりと澄んだ空気だった。
 ほっそりとした絹糸にも似た滝の流れが岩肌にはじけて、虹を生みだす。
 滝つぼは豊かな水量をほこり、水枯れを知らぬかのような川となって、流れている。
 美しいとしか言いようのない光景から、
「すごいな」
 しばらくの間、将佐少年は、見入られたように目を離すことが出来なかったのだ。
 黙って立ち尽くしていた将佐だったが、
「かまわないよな」
 目の前の誘惑には抗えなかった。
 澄んだ水がきらきらとまぶしい。
 その中を泳ぐ魚影が、なんとも気持ちよさそうに思えてならなかった。
 重怠い夏特有の空気とは無縁の、自由。心もとない空気ではなく、存在感のある水に支えられて、まるで空を飛んでいるかのような魚たちは、からだを動かす苦労を苦労とも感じてはいないのだろう。
 空を飛ぶ。
 それは、将佐の憧れだった。
 祖父も父もうんとは言わないだろうが、幼い将佐少年の胸には、大人になれば飛行気乗りになりたいという夢が息づいている。
 するり――と、まだ幼いラインを描く少年の肩から開襟シャツが滑り落ちた。
 いきおいよく黒い半ズボンを脱ぎ捨てる。
 すらりと伸びた足が力強く地面を踏み、飛び込みの体勢を作る。
 溜められた力が解放されようとしたその時、
「危ない」
 清んだ声だった。
 たたらを踏んだ将佐の腕を、力強く、それでいてやわらかな感触の掌が、握り締めた。
「ありがとう……………」
 ございます―――――――さいごまで、続けることはできなかった。
 白い手の持ち主に、将佐は息をすることすら忘れていた。
 やわらかそうな黒い髪がきらきらと光を躍らせている。白い小作りの顔の中、弓なりの細い眉が優美な線を描き、目尻の垂れた瞳は日に透けて琥珀を思わせた。通った鼻筋の下、口端の持ち上がったくちびるが、鮮やかな朱を宿して将佐の視線を奪った。
 かなり年かさに見える相手が、将佐の手を引っ張った。
「あのあたりは深さも深いけれど、藻が絡んでいてかなり危険なんです。泳ぐなら、こっちに格好の場所がありますよ」
「う……うん」

 これが、猪川将佐と高遠遙一と名乗った青年との出会いだった。


 浅葱の軽やかな紗をまとった高遠は涼しげで、汗ひとつかくことはない。
「ほら、獲物だ」
 いきおいよく跳ねる大振りの岩魚が二匹あたりに水を撒き散らす。
「漁師さんで食べていけそうですね」
 くすくすと笑いながら、高遠が楽しげに言った。
「漁師にはならないよ」
 ぷいとむくれて、将佐が川から上がった。
 犬のように頭を振る彼から飛沫が飛び散る。小麦色に焼けた肌が光を弾く。幼さの残るからだつきにいささか均整悪く伸びた手足が、少年が大きくなるだろうことを予感させていた。
「空を飛ぶのが、夢――でしたっけね」
 将佐のシャツを取り上げた。
「そうさ。絶対に叶えてみせる」
「うらやましいですね」
「なんで」
 シャツに袖を通しながら、将佐が見下ろした。
「夢くらい、だれにだってあるだろ」
「僕の夢、ですか?」
 ズボンをはいて腰を下ろす。集めてあった枝に火をつけた。
 ぱちぱちと音をたてて枝が燃えはじめる。それに、串つきの岩魚を二匹突き刺した。
「あるだろ?」
 香ばしい匂いが鼻を満たす。将佐は焦れて、首をかしげた高遠の顔を覗き込んだ。
 赤いくちびるが何かを喋っている。声にならないことばが、繰り返し繰り返し、つぶやかれる。それを見続けていた将佐は、やがてそれが、たった一言であることに気づいた。
 ――――ミツケテ。
 くちびるをなんども読み返し、見当をつけた。
 なにを見つけてというのか。
 夢であるなら、見つける――と言ったほうが正しいだろう。
 いぶかしげに尚も高遠を見続ける将佐の目の前で、出会った瞬間に琥珀を思い出させた色の薄い目が、遠くを眺めている。
 いや、何も見てはいないのだと、将佐は直感していた。
 琥珀は擦れば物をひきつけるのだと、母が言っていたのを思い出す。
 まさに自分をひきつけたのは、琥珀のまなざしだった。だから、自分は、毎日ここに来ているというのに。なのに、今は、そのまなざしは、わずかも、自分に向けられてはいない。
 それが、無性に悔しくてならなかった。
 自分が振った話が原因であっても―――である。
 悪戯そうな笑いが、将佐の頬を過ぎって消えた。
 すっと首を伸ばして、触れる。
 将佐のくちびるに伝わったのは、ひんやりと乾いた感触だった。
 ゆっくりと、まばたきすら忘れていた高遠の瞳が大きく見開かれる。
 ゆるゆると白い手が動き、それまで将佐が触れていたくちびるを隠すように、覆った。
「悪かった」
 琥珀色のまなざしに自分が映っている。
 照れて頭を掻いている自分の姿を見ながら、将佐は謝罪した。
 しかし。
 軽く水音がたった。滝の音よりもかすかな音は、なぜか、将佐の耳に大きく響いた。
 それが合図だったかのように、風が吹きはじめた。
 梢が揺れる。
 忘れ去られていた焚き火が大きく揺れ、消えた。
 そうして―――――――
 将佐の前から、高遠は、消えたのだ。
 焚き火から立ち上る煙よりもよほどはかなく、ただ。
 はじめからそこには高遠などいなかったのだとでもいうかのように――――――
「高遠?」
 あわてた将佐が立ち上がり、周囲を見渡した。
   「高遠!」
 緑陰の中、浅葱色の一重の背中を見たと思った。
 追いかける。
 必死だった。
 将佐を捕らえていたのは、不安と、焦燥、それに、いくばくかの恐怖――であったろうか。
 高遠に対しての恐怖ではない。
 これで、二度と高遠に会うことができなくなるのではないか―――それに対するものだった。
 滝つぼの近く、出会った場所に、高遠が立っていた。
 後姿に、安堵の吐息が将佐のくちびるからこぼれ落ちた。
 その時、高遠が、将佐のほうを振り向いた。
 琥珀の瞳が将佐を捉え、ふわりと笑んだ。
 まるで陽炎のように。
 そうして、そのまま、再び消えたのだ。
「たかとうっ」
 まさか水に落ちたのではないか。
 そんなはずはないと理性ではわかっていたものの、それならば、助けることが出来る。
 駆け寄り水中を覗き込む。
 深い淵の奥、見えるものといえば、揺らめく水藻ばかり。
 いや。
 よくよく瞳を凝らして見つめる将佐の視線の先に、何か、白いものが揺らぎ過ぎる。
 繰り返し。
 繰り返す。
 水面すれすれに顔を近づけ、尚も確認を取ろうとする将佐の手が、濡れた淵から滑る。
 そのまま、水に転げ落ちた。
 手に、足に、胴に、ゆらりと絡みつく水藻に、将佐が気づいたときには、すでに縛めは完了していた。
 空気を求めて首を伸ばす。
 動きにつれて、水藻が絡む。
 あまりの苦しさに、肺が焼け付くようだった。
 目の前が暗くなる。
 もうだめだ。
 飛行気乗りになる夢をかなえることも出来ないのか。
 もう二度と、高遠に会うことも、叶わないのか。
 そう思った将佐の目に飛び込んできたもの。
 将佐の両目が大きく見開かれた。
 こもった音をたてて、口から大きな気泡があふれ出す。
 水藻に染まった水中にあって何よりも白い、それは、誰かの頭蓋骨だった。
 気が遠くなってゆく。
 もう死ぬんだ。
 そう覚悟した将佐が目を閉ざした。
 その時。
 なにかが、ふわりと、将佐の頬に触れたのだ。
 かすかに開いたかすむ視界に、
 ―――たかとう…………。
 寂しげに微笑む白い顔を見たと、思った。
 ごめんね――――――と、謝罪のことばを聞いた気がした。



 頬に触れる優しい感触に惹かれるように、将佐の瞼が持ち上げられた。
 記憶にあるより端正な青年の顔をして、それでも涼やかに艶やかに、彼が、微笑んでいる。
 磁力を秘めた琥珀のまなざしに自分が映っているのを見て、将佐が口端に笑みを刻んだ。
 ―――迎えに来てくれたのか。
 ―――ええ。
 将佐が深い息を吐く。
 ―――高遠。
 ―――将佐。
 どちらからともなく、顔が近づいてゆく。
 静かに、ふたりのくちびるが触れあった。

 刹那。
 ふたりの周囲に、深紅の花が、爆ぜるようにして花開いた。



おわり



start 20:34 2008 04 26
up 12:21 2008 05 06 ◇ あとがきとかいいわけとか ◇

 某お祭り用の猪x高一発目です。が、あれ? な〜んじぁあ。どうやってもエロくはならんな。いつもの繰言ですみません。
 ゴールデンウィーク明けからということでしたので、フライングアップですが。
 どうにか間に合って、ホッと一息。う〜ん。近頃少々書いてなかったので、文章が、ぎこちないですな。反省。猛省。
 ネタは夢から。でもって、イノッチのモデルさんを考えると、イノッチ水軍さんねとかぐるぐるして、魚里が一等苦手な二次大戦中っぽい時代背景になってしまいました。苦手なんですよね、この時代xx ですので、資料も一切ございません。突っ込んで書いてもおりませんので、ご容赦ください。  少しでも、楽しんでいただけると、幸いなんですけど………ね。
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