say you love me



 どこまでも続く暗い道。
 平坦な道ではなく、砂利を敷き詰めたような、険しい道。道は曲がりくねり、そこここには闇を宿したような赤い花が咲いている。今にも血をしたたらせそうな、剣咲きの薔薇。
 絡みあった荊が、ざわりと震えて枝を伸ばす。
 おいで―――と。
 おまえも、ここにおいで。
 ぽとり。
 こぼれたはなびらが溶け崩れ、どろりと黒い血だまりへと変わった。
 ぐぼっ。
 不気味にこもった音と共に、血だまりが盛り上がり幾筋もの粘りつくような質感の波紋を描いた。
 その中に転がるのは…………。
「!!」
 自分自身の悲鳴で目覚めた。
 今にも破裂してしまいそうな、心臓の鼓動。
 全身が震えている。
 荒い息。
 軋るように痛む喉。
 無意識にベッドから下りた森島あかりは、隣の部屋のドアを叩いていた。
 薄暗く狭い廊下。ずらりと並んだ同じデザインの安っぽいドア。
 カチャリ―
 永遠に感じられるほどの時間。しかし、実際はわずかの間でしかなかったのだろう。
 蛇のような動きで伸びてきた腕が、素早くあかりを捕えると室内に引きずり込んだ。
「どうしたんです? あまり目立つような真似は控えてもらわなければ」
 かすかに寝乱れた前髪を掻き上げながら、遙一がたしなめる。
「これでも僕は指名手配犯なんですから。それに、君も、家出人として殺人事件の重要参考人として捜索されているはずですよ。…出頭しますか?」
 もっとも、ことばの内容ほどには真剣でないのだろう。
 覗きこんでくる欝金のまなざしには、どこか面白がっているような光が宿っている。
 けれど、今のあかりには、そうと認識するだけの余裕はない。
 がたがたと震えながら、ただ必死で遙一に縋りつくので精一杯だった。
 夢の中、黒々と粘りつく血にまみれて自分を凝視していたモノ。
 それは、母であり、母の夫であった。
 血だまりの中から自分を見上げてくる、不気味なほど青白い容貌。
 べっとりと血に濡れ頬に額に貼りついた髪の毛から、重怠く滴り落ちる血液。
 ぬるりとすべり落ち、血だまりの中にゆるい波紋を描く。
 噛みしめられたくちびる。
 虚ろなまなざし。
 光をなくしでろりと見開いたままの2対のひとみが、あかりの脳裏を過ぎり消える。
 あかりがひときわ大きくからだを震わせ、引きつらせた。
「ああ、怖い夢を見たのですね」
 強ばりついた背中を撫でてくれるやさしい手の感触。 
 この人がたくさんの恐ろしい犯罪を犯したのだとは。
 何かの間違いだと、打ち消してしまいたくなる。
 薄闇。
 恐ろしいくらいの静けさに閉ざされた居間。
 伸ばされた、腕。
 足元の血だまりの中に事切れている、母の骸。
 母の夫の、奇妙に白んだ顔。
 狂ったような光を宿した、まなざし。
 何かを喋る、歪んだくちびる。
 悪魔―――
 そう思った。
 山羊の顔と下半身。醜悪な容貌の。
 薄暗がりの中、不思議とそれらを見てとることができた。
 掴みかかろうとする腕。
 手は、血に汚れていた。
 その手が、自分の首を掴み、絞めつける。
 殺されるのだと思った。
 母のように。
 霞む視界。
 苦しい息。
 抵抗しても、弛まない手の強さ。
 ひたひたと押し寄せてくる、絶望の波。
 死ぬのだ。
 そう思った時だった。
 瞠らいたままの視界に、白銀の軌跡がこびりついた。
 いつの間にか、闇があたりを包み込もうとしていた。
 視界が利かなくなる直前に、あかりはたしかに見たのだ。
 闇に愛されているような、白い容貌。
 ――美貌の死神。
 闇自体が、彼の翼のように見えた。
 永遠にも思える、一瞬。
 そうして、迸った熱い液体。
 それが、母の夫の首から溢れ出した血だと、本能的に悟っていた。
 この目で、現場を見たというのに。
 自分は、この手を、遙一の存在を、求めるのだ。
 遙一から与えられる安心感。
 それが嬉しくて。
 悲しいくらい、嬉しくて。
 ぼんやりと考えながら、あかりは、瞳を閉じた。


  ほの白く明けかけた朝の気配。


 ビジネスホテルの一室。


 ほこりっぽいカーテンを開けると、窓の外はコンクリート打ちの壁。手が届きそうな近くにある。
 申し訳ていどの緑は、隣のホテルのカーテンの色。
 窓を開ければ入ってくるむっとこもるような熱気。空気の匂いまでもが、違う。
 窓から身を乗り出して空を見上げても、見えるのは、ホテルの部屋のささやかな柵ばかりで。その隙間からかろうじて見える空は、青く澄んではいない。
 濁った、重そうな、空。
 眩暈がしそうだった。
 こんな都会の真ん中に自分がいることは悪夢のようで。
 都会に出たいと思ったことなどなかった。


 そう。


 父の残してくれた家。
 田畑。
 それらを守って生きてゆくのが自分だと、そう考えていた。


 けれど、守れなかった。
 何一つ。
 自分のものは、何一つ、ありはしないのだと―――。
 思い知らされた、父の死後。


 すべては、悪い夢のようだった。


 戻ってきた母。
 やって来た、母の夫。
 そうして、無理矢理開かされた、からだ。
 思い出したくもなかった過去の出来事。
 くらりと目の前が撓み歪む。ぞわりと押し寄せてくる嫌悪感に、あかりはカーテンをきつく握りしめた。
 何度となく追体験してしまった感情の渦が、また、あかりに襲い掛かる。
 苦痛。
 恐怖。
 絶望。
 悲しみ。
 憎悪。
 負の感情が渾然一体となって、死んでしまいたいと思った。


 そう。
 あの刹那、本当にそう思ったのだ。


 帰れない、家。


 帰りたくない家。


 咄嗟に家を飛び出して、そうして出逢った、黒い翼を持つ美貌の死神。
 あれから、まだそんなには経っていない。
 たぶん、学校はまだ夏休みの最中で。
 時間の感覚が、正常ではなくなってきていた。
 今日が何日で、何曜日なのか、朝毎にドアの隙間から押し込まれる朝刊を確かめなければわからない。
 彼と離れたくなくて、ついてきた。
 何も考えないと決心したけれど。
 夜毎の悪夢が、あかりを苛むのだ。
 よーいちと名乗った死神。
 彼の正体を、今は、知っている。
 遙一自身が、語った。
 そうして、
『ついてこないほうが、良いですよ。まぁ、ついてくるのは君の勝手ですけれど。君が邪魔になると僕自身が判断したなら、僕は迷わず君を殺しますよ。それでも?』
 と、付け加えた。
 感情のこもらない、淡々とした声で。
 白い顔の中、表情をなくしたまなざしと皮肉気にもたげられていた唇端との対比が、やけに際立って見えた。
 地獄の傀儡師―――高遠遙一。
 全国に指名手配されている、犯罪者。
 殺人、殺人教唆、死体遺棄………彼自身が語る罪状はどれも恐ろしいものだったけれど。
 彼についてきたことを後悔してはいない。
 ここで、彼が何をしようとしているのか。
 遙一の外出の理由。
 考えれば怖くてたまらないけれど。
 父とは全然違う、正反対のタイプなのに、なぜだろう、さっきのように抱きしめてもらうとどうしようもなく安心できる。まるで、父に抱かれているように。
 他人が聞けば、『何を馬鹿なことを』と、吐き捨てるかもしれない。
 相手は、恐ろしい人殺しだ―――と。
 殺人を芸術だと言う、狂った思考の持ち主なのだと。
 けれど、たとえどんな理由からであれ、自分を助けてくれたのは、彼――遙一なのだ。
 暇潰しでも、誰かを殺したかったという理由からでも、助けてくれたのは遙一なのだ。
 ほかの誰でもなく。
 出逢ってしまった。
 助けてくれて、拾ってくれた。
 どこにも行くところもなく、後は施設にはいるしかないだろう自分を。

『拾ったものは最後まで面倒を見なければいけないよ。もう一度捨てるくらいなら、いっそのこと殺してやるがいい。人の手を知った生きものは、最初から知らない生きものよりも辛い目に合う』


 ボール箱に捨てられていた、まだ目も開いていない仔猫。
 見つけてしまった3匹の仔猫たちを連れて戻ったあかりにそう言ったのは、父だった。
『殺してやるがいい』というのは父流の逆説で、それくらいの心構えがなくて拾ってくるのじゃないということだったのだけど。
 だから………。
 だから、もし、自分が遙一の邪魔になると判断したのなら、殺してくれてかまわない。
 見限られて捨てられるよりも、そのほうが、何倍もマシに思えるのだ。 
 そう、掴んでしまった手を離すことのほうが、怖くて。
 捨てられた仔猫が、親のぬくもりを求めて人の手を乞うように。
 気まぐれに与えられたぬくもりを追いかけるように。 
 失ってしまうのが、恐ろしかった。
(遙一……)
 切なくて。
 苦しくて。
 どうしようもないくらい、傍にいてほしい。
「だめっ」
 ぴしゃりと自分で自分の頬を両側から挟むように叩く。
 ヒリヒリとした痛み。
 涙がにじんでくる。
 別段、外出を禁止されているわけではない。
 ただ、自分から出歩こうという気力が湧いてこなかっただけで。
(いつの間にこんなに弱くなったんだろう)
 ふと湧きあがってきた疑問。
 このままでは、本当に、自分だけで何もできなくなってしまいそうだった。 
 だから、
「気分転換してこよう」
 自分で自分を鼓舞するように、あかりは独り語ちた。


※ ※ ※


「君、待ちなさいっ」
 追いかけてくる声。
 苦しい息。
 足は重く痛い。
 スニーカーを履いていたことだけが、救いだろう。
 ちらりと、頭の片隅を過ぎる思考。
「ご……なさ…い」
 ドンと誰かにぶつかるたびに謝る声も、不確かで。
 後ろを振り向くと、ライトグレイのスーツ姿のハンサムな男の人。
 ホテルを出て、どこへ行くという当てがあるわけではなかった。けれど、あのまま部屋に居たら、思考が止まらないような気がして怖くなったのだ。
 都会に出る気などなかったとはいっても、少しくらいなら興味もある。おしゃれなお店とか、可愛らしい服とか。そんなものを見ていれば気持ちも少しは晴れるかもしれない。そう思った。
 いざホテルを出てみると、外はどうしようもないくらい晴れて暑かったけれど。
 さすがに喉が渇き、適当に入ったファーストフードの店で冷たい飲み物を飲んだ。
 そうして、ホテルに戻ろうと思った時だった。
 突然肩を叩かれ、
「君、森島あかりさんでしょう」
 と、確信に満ちた声をかけられた。
 ドキン!
 刹那、心臓が跳ね、それと同時に駆け出していた。
 しらばっくれればよかったのかもしれないけれど。
 自信はない。
 路地やわけのわからない通りを駆けつづけて、確かめるまでもなく方向感覚を失っていた。
 闇雲に走って、もう限界だと思った時、
「ご、ごめ………さい」
 また、誰かにぶつかった。
「きゃぁ」
 髪の毛が、何かに引っかかった。
「ごめんごめん。カバンのジッパーに引っかかったみたいだ」
 謝りながらも、どうしてだか掴んだ髪の毛を離してくれない。
「金田一くん、その子を逃がさないで下さい」
 追っかけてくる人の知り合いだったのかと遅らばせながら気づいたが、相手はすでに、もう、背後に立っている。
「どーしたんだよ明智さん。いつから少年課に移動になったんだよ」
 ようやく髪の毛を離してくれた。代わりに、追っかけてきた人の手が、腕を掴む。
 ぞっと、全身に鳥肌が立った。
 気が遠くなりそうで。
 思わず振り払おうとしたけれど、もう、力も入らない。
 すべての力が足の裏から抜けてゆくようで、ジンジンと痺れて痛い。
 腕を掴まれてかろうじて立っているというありさまだった。
「そういうわけじゃありませんけどね」
 頭の上で交わされる会話が、奇妙に歪んで響く。
「実は、ロリコン、とか?」
「失礼ですね。あいかわらず。私がそうじゃない事は、君が身をもって知っていると思っていましたが」
「ばっ」
 後ろの男の人と、前に立っている高校生くらいの男の子との距離が狭まる。
 何が起きたのか。
 ただ、聞こえてきたのは、湿ったような、何かが離れる音。そうして、
「じゃあ。お礼は次に逢う時にしますから」
 不思議な会話だと、思った。
 そうして、それを最後にあかりの意識は現実から遠ざかったのだ。


※ ※ ※


 警視庁の中にある、医務室。
 必要以上に清潔な部屋の中。
 森島あかりは眠っていた。
 苦しい眠り。
 襲い掛かるのは、不快な夢ばかりで。
 あまりの寝苦しさに、意識が徐々に覚醒してゆく。
 ツンと鼻をつく、薬品の匂い。
 一旦気になってしまえば、煩いくらいで。
 フッとあかりの目の前が明るくなる。
 見たことのない白い天井。
 上半身を起こしてみれば、そこは、記憶にない部屋だった。
 無機質な、白い室内。
 あかりは、病院のようなベッドの上にいた。
(ここは、どこなんだろう)
 なんとなく学校の医務室に似ていると思った。
 あれよりはずいぶんと綺麗だけれど。
 パーテーションで区切られた向こう側に、人の気配がある。
 記憶をまき戻し、
「あっ」
 何が自分に起きたのかを思い出した。
 ゾワリ―
 恐怖と不安が、押し寄せてくる。
 自分で自分を抱きしめたその時、キャスターが軋る音をたててパーテーションが動いた。
「気がついたのね。あなた、軽い貧血を起こして倒れたのよ。きちんと食事を摂っている?」
 白衣を着てメガネをかけた、女の人が顔を覗き込んでくる。そうして、あかりの手首を軽く握り脈を取りはじめた。
「いいですか?」
 硬い、声。
「警視。…そうですね。大丈夫だと思いますけど」
 記憶にあるハンサムな、男の人。その背後には、彼よりもかなり年配の厳つそうな男の人が立っている。
(警視? 警察官…事情聴取される……の……………)
 あかりは目を剥いた。
 思わず顔を伏せる。
『これでも僕は指名手配犯なんですから。それに、君も、家出人として殺人事件の重要参考人として捜索されているはずですよ。…出頭しますか?』 
 遙一のことばがよみがえる。
 からだが自然と硬く強張りつく。
 じっとりと冷たい汗が全身を濡らし、抑えても抑えても小刻みな痙攣がやむことはない。
(どうしよう)
 思い切って見上げると、メガネ越しの瞳が自分を見下ろしているのとぶつかった。
 からだが大きく震える。
 もぎ離すようにして、ぶつかったままの視線をあかりはようやくのことで断ち切った。
 ベッドを挟んだ右横に女性が腰をかけ、左側に2人の男性が腰を下ろす。
「森島あかり。12才。本籍地……………。XX中学1年在学中。間違いはないかな」
 思ったよりも穏やかな口調で年配の男性がファイルを見ながら確認してくるのに、あかりは目を伏せた。
(黙秘…とかいうのがあったっけ)
 テレビの刑事ドラマを思い返しながら、あかりは決意した。
(口を利いちゃダメ。頷いたり首を横に振ったりしてもダメ)
 膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
(きっと、違うと言っても、言い切ることなんかできない……)
 黙っていれば解放してくれるとは思えないけれど、どうすればいいのかわからないのだから自分にできる方法を選ぶよりないのだ。
(遙一に迷惑だけはかけちゃダメ……)
 遙一の顔が脳裏を過ぎる。
 これで、さよならかもしれないと思えば、悲しくて、辛くて。
 でも、遙一がここに来るとは思えない。
 遙一とはもっとも相容れない場所。
 敵対関係にある場所だと言ってもいいだろう。
 そんな危ない橋を遙一が渡ったりするだろうか?
 2度までも手を差し伸べてくれたけれど、3度目があるとは考えてはいけないのだ。
「返事がないのは、どうしたわけですか」
 ハッと気がつけば、目の前にメガネの男性のハンサムな顔。
 自分をここまで連れてきた男の人の声。たしか、警視と呼ばれていた。
「ただ、知りたいだけです。だれが、ああも見事にあなたの義理の父親の喉を切り裂いたかと言うことを。心当たりがあるのではありませんか?」
 静かな声。
 しかし、その声は確信に満ちていた。
 刹那の光景が、あかりの脳裏を過ぎる。
 白い残像。
 迸る赤い液体。
 その熱があかりに降りかかってきたあの刹那。
 あの、恐怖。
 あの男にされた、唾棄したい記憶。
 あの男の、手の、舌の、からだの、あらゆる感触。
 ぞわり…背筋が逆毛立つ。
(あんな…あんな男っ! 死んで………当然…)
 涙があふれる。
(自分で殺せばよかった)
 そう思う。
 心の底から。
(自分で殺していれば、遙一の手を汚さずにすんだのに…)
 そう。
 代わりに、殺してくれたのだ。
 どうしても自分の手を汚せないと、怯えた自分に代わって。
(ごめんなさい。…ごめんなさい。ごめんなさい、遙一!!)
 当然のように、遙一に縋っている自分。
 今なら、遙一の瞳を拒まずに、あの男を殺せるだろう。
 自分の心を縛る憎悪を認めて、そうして殺せただろう。
 自分の手を汚して。そうして…………。
 遙一と同じところにまで堕ちてゆけばよかった。
 ずるい、自分。
(なんて、ずるい………)
 すべてをずたずたにした男。
 自分を汚し、母を殺して。
 足元に広がる、どろりとゼリー状になっていた母の血。
「…ヤ………」
 あの独特の生臭い匂いが鼻孔を満たしたような気がして、全身が震えた。
 抑えようとして抑えられない、全身の震え。
 なにもかもが怖くて。
 自分さえも恐ろしくて。
 耐えられない。
「イヤッ!!」
 突然の思いも寄らぬ行動に、一瞬彼らの反応が遅れた。
 ベッドから下りようとして、あかりはバランスを崩した。
 ガタン。
 宙を泳いだ手がパーテーションを倒し、派手な音を響かせる。
「きみっ」
 3人3様の声がだぶる。
「知らない。知らない。イヤァー」
 リノリウムの床の上でできるだけ小さくなろうと縮こまったあかりに、落ち着かせようと差し伸べられた腕。
 パシッ!
 拒絶され、
「イヤッ! 触らないで。イヤァ。近寄らないで来ないで」
 あまつさえ、耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びが室内に響き渡る。
 あの日のことを思い出した途端、脆くも崩れ去った決意。
 自分のずるさを痛いほど感じながら、それでも、遙一に居てほしいのだ。
 どんなに嫌われても、遙一に傍にいてほしい。
 どんなに謝っても、足りないけれど。
 どんなに感謝しても、足りないけれど。
 だから、絶対に、遙一のことだけは、喋らない。
 それくらいなら。
 遙一の罪が1つ増えるくらいなら………。
 あかりの中に芽生えた決意。
 様々な感情が、思考が、吹き荒れつづけている。自分自身見切りをつけられないような荒れ狂う心の中で、それは、次第に育ってゆく。
 部屋が別でも、遙一が居てくれれば、こんな無様なさまなど曝さなかったのに。
 遙一が居てくれれば、こんなにも震えないのに。
 こんなにも、怖くないのに。
 どうしても、喉を引き裂こうとする悲鳴の圧力。
 あの広い胸の中に、目には見えない闇色の翼の中に、くるまれたい。
 今すぐに。
 それほどまでに恋しかった。
 でも、きっと、もう、できない。
 逢えない。
 別離。
 喪失。
 心が引き裂かれそうだった。
(遙一が捕まるくらいなら、わたしが殺したのだと告白するから…)
 だから、きっと、もう、逢うこともないだろう。
(ごめんなさい。遙一。ありがとう…………)
 あかりの頬をなみだがこぼれ落ちた。
 あまりの反応に途方にくれた3人の大人たち。
(いいですか?)
 女医の無言の確認に、警視――明智がかすかに頷く。
 ベッドから離れしばらくして戻ってきた女医の手には、注射器が握られていた。
「君、森島さん。落ち着いて」
 年配の刑事――剣持がそっと肩にかけた。その手を払おうと振り上げた手を、明智が握り女医が手早く消毒する。
「いやぁ!」
 なおもあかりは藻掻く。
 自分を捕えようとする他人の手。
 それが、どの記憶をフラッシュバックさせているのか。
 もはや当のあかりにもわかってはいない。
 ただ、ゾッとするほど怖くて、気持ち悪くて。
 やみくもに逃げをうつからだ。
 混乱しきった思考。
 心の中で、決意と本能が互いにぶつかり合いもつれ合う。
 脳の中では電気信号が激しく明滅しているのに違いない。
 チクッとした痛みを腕に感じた。
 途端、自分を捕えていた腕が離れてゆく。
 脱力と同時に、息苦しさで目が回る。
 壁際までいざり逃れて、できるだけ小さくなるようにと膝を抱えて自分を抱きしめる。
(遙一……遙一………)
 ぶるぶると震えながら、縋るように遙一のことだけを考える。
「………ち…」
 気を失う寸前に小さく呟いた一言は、その場にいた誰の耳にも正確には届かなかった。


※ ※ ※


 コンコン!
 遙一が頑丈だが安っぽいドアをノックする。
「あかり?」
 返事はない。
 眠り込んでいるのか。
 あかりが不眠気味なことには、気づいている。
 このホテルの部屋の鍵は一応はカードキーだが。
 これくらいのドアの鍵など遙一にとってはあってないようなものだ。
 何をどうやったのか、一瞬の後にはロックは解除されていた。
 入ってすぐ右側がユニットバス。左側が、クローゼット。その奥が、寝室になっている。ベッドと書き物机、テレビがあるだけのささやかな空間。
 シンと静まりかえった室内に、ひとの気配はない。
 外出を禁止しなかったが。
 いつ出たのかは知らないが、もうそろそろ7時である。
「どこに行ったのでしょうね」
 ぽつりと遙一が独り語ちる。
 夏とはいえ宵闇の迫る、ホテルの一室。
 電灯もつけず、ひとり遙一は佇んでいる。
 ひたひたと胸に迫って来るものがあった。
 この感情が何なのか。
 かすかに眇められていた欝金の瞳が、少しずつ見開かれてゆく。
「!!」
 瞠らききった瞳。
 驚愕。
 同時に、呼吸を忘れたかのように、その場に硬直する遙一。
「クッ!!」
 しかし、次の刹那遙一の薄めのくちびるを割って出たもの。
 室内に、遙一の圧し殺した笑い声が響いた。
 ひとしきり笑った後、片手で目から上を覆い、前髪を掻き上げる。
 さらりと、質の良さそうな前髪が指の隙間からこぼれ落ち、次の瞬間には額を覆う。
 覗き込んだ、自分自身の感情。
 暗く底の見えない心の奥津城に、思いも寄らないものが芽生えていた。
 ことばにすれば、他愛のない、しかし、認めてしまっては自分自身の存在を危うくしかねないもの。
「なんとも………」
 地獄の傀儡師として存在しつづけるために、一度は捨てたものだった。
 相容れてはならない、感情。
「あんな子供相手に…」
「……危険ですね………」
 本能的な、警鐘だった。
 遙一は、脱力したようにベッドに腰を下ろし、何事かを考え始めた。

 夜の帳が下りきってしまうまで。

 気がつけば、室内は闇に閉ざされていた。
 都会特有の、薄ぼんやりとした闇。
 欝金の瞳だけが、かすかな光を弾いて輝く。
 机の上の時計を見れば、9時を過ぎている。
 都会の闇よりも深い闇をまとい、遙一がしなやかに動く。
 遙一は、誰に気づかれることもなくホテルを後にした。


※ ※ ※


 森島家の惨劇は地元警察の管轄だった。
 事件を通報したのは500メートル離れた隣の家の主婦で、腰を抜かした彼女に代わり姑が通報したのだ。
 森島家の家族構成は、3名。
 死体となって発見されたのは、2名。
 行方不明者が1名。未成年の少女で、名前を森島あかりという。
 中学1年。通っていた学校でもクラスでも、別段これといって目立たない少女だったようだ。
 近頃とみに増加してきたキレた未成年者の犯行かと、色めきたった所轄だった。
 やがて森島家の複雑な家庭環境が報告され、死因となった刃物の種類、死傷痕の極端な違いなどが明らかになってゆく。
 それとともに、森島あかりは、依然重要参考人でありながら、被害者である可能性も考えられるようになってきていた。
 森島あかりの実の父親喬一は、都会暮らしのエリートサラリーマンだった。が、ある時なにが彼を駆り立てたのか、田舎に土地を買い退職した。農業に従事したのだ。森島あかりはその時まだ乳幼児の域を出なかった。
 夫の180度の変化。妻は、田舎暮らしと農家の生活を嫌って離婚。娘を置いて出て行った。
 数年後に喬一が突然死するまで、森島家は森島あかりと父親の2人家族だった。
 森島喬一に親類係累はいない。
 喬一の死を知った元妻が戻ってきた時、彼女には新しい夫がいた。
 年下の、派手好きの夫。
 そんな2人が田舎の生活で満足するはずはない。が、都会で生活基盤を作ることに失敗した挙げ句の渡りに船という状態で森島あかりの後見となったのだ。
 当然経済状況は最悪だった。派手な生活だったらしい。土地の切り売りで高級車やブランドの洋服などを買いあさっていたとは、近在の住人の弁だった。先に我に返ったのは妻のほうで。先行きの不安になんとか状況改善を図るようになった。隣の住人の紹介で、パートに出るようになったばかりだった。
「そうして、あの事件…ですか」
 ファイルを閉じた明智が何気なく天井に目をやった。 
 明智が森島あかりを見つけたのは、まったくの偶然だった。
 殺人事件の重要参考人もしくは被害者として送られてきたファックス。
 別段興味を惹かれるような事件ではなかったが、データとして記憶していた。
 それが、偶然見かけた少女と一致しただけのことで。
 地元警察から専任の刑事がやって来た時、しかし、森島あかりはとうてい質問に答えられる状況ではなく。そのまま警視庁の医務室に泊まることになっていた。
『入院の必要はないですね。ただ…とりあえず今は落ち着かせるのが先決だと思いますよ。質問は、それからですね』
 女医のその一言が、決定打となった。
 今、あかりは、医務室のベッドで鎮静剤の眠りにある。
 死亡推定時刻のずれ。
 2人の死亡時刻には、1時間以上のずれがある。
 1時間の空白。
「二種類の傷痕ですか……」
 明智が取り上げた写真の中、無惨な傷痕を見せているのは森島あかりの母親である。
 凶器の包丁による全身十数か所にもわたる創傷。直接の死因は、失血死。
 反して、義理の父親は………。
 もう1枚の写真。
 一文字に切られた喉。頸部切開による窒息死。
 切れ味の良いアーミーナイフのようなものが凶器だろうと、検察医の報告がある。
 ここにも、違和感。
 包丁のほうは、血だまりの中に落ちていた。
 なのに、父親を殺しただろう凶器は、どこからも見つかっていない。
 凶器の種類も違えば、傷痕にすら天と地ほどの違いがある。
「これは、どう考えても単独犯ではありえませんね」
 言ってしまえば、プロの手腕。そのみごとさ。それと、アマチュアの手際の悪さ。
 あのみごとなまでの傷痕は、幾人かのプロの殺人者を彷彿とさせる。データを絞り検索した人物の写真を確認しながら、明智の手が止まる。
 いったい何があったのか。
「彼女が正直に話してくれればいいのですが…」
 少女の見せた恐慌。
 あのようすは、どう考えてもただごとではない。
 ふっと、明智の視線がディスプレイ上に現われたデータの写真に釘付けになる。
 一見やさしげにも見える白い美貌。穏やかな好青年に見えるだろう。それを裏切っているのは、瞳にこめられた強い光。それと、かすかに持ち上げられている皮肉気な唇端。
 芸術犯罪をもくろむ希代の犯罪者。
 地獄の傀儡師――高遠遙一。
 彼が香港の事件の後、既に脱獄を果たしているのは知っていたが。
「まさか…ありえませんね」
 明智は打ち消した。
 あんな、彼が言うところの芸術にはほど遠い、顰蹙を覚悟で言ってしまえば泥臭い殺人事件。
 彼が関わるなら、そう、自分に、少なくとも自分とはじめとに何らかの示唆をしているはずだ。
 認めているわけではないが、あの男なら、そうするだろう。
 天才的な頭脳と、マジシャンとしての天賦の才。
 それらを使えば、トップクラスのマジシャンとして今は亡き近宮玲子――彼の母親と肩を並べることも可能であったろう存在。
「天性の犯罪者………」
 かつて彼を評して自分が言ったことばだったが。
 殺人を芸術だと言ってはばからず、血塗られたステージには観客が必要だと思っている、狂った男。
 彼は今もいずこかに潜み、その爪と牙を研いでいるはずだ。
 今度こそ、自分たちに勝つために。
 おそらくは………。
「こんなことにかかずらわっている暇はない――と、そう思いますが…」
 高遠が次に自分たちを巻き込むとすれば、香港の事件以上の悲惨なものとなるだろう。
 それを予測しながらも手をこまねいているしかない、自分。
「こればかりは」
 忸怩とした思いを抑えて呟いた自分に気づき、苦いものを飲み込む。
 逃亡中の高遠を見つけ出し逮捕しないことには、次の犯罪を止めようがない。
 当の高遠はどこに潜伏しているのか…………警察の網に掛かりすらしない。
 ふと、コーヒーの香が鼻孔をくすぐった。
「警視、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 顔を赤らめた婦警に礼を言うと、明智はメガネを外し鼻梁を押さえる。
 さすがに疲れが溜まっていた。
 デスク上に散らばった報告書の山。
 騒めいている室内。
 取り上げたマグカップに明智は口をつけた。


※ ※ ※


 血にまみれた暗い悪夢。
 悪夢から逃れるように目が覚めた。
 荒い息。
 ガンガンと頭が痛む。
 ここに遙一はいない。
 深い、喪失感。
(覚悟しなくちゃ)
 決意は覚えている。
 ぼんやりと上半身を起こし、水差しとコップとが置かれたサイドボードの上に、黄色いガーベラを見つけた。 
 多分昨日になるだろう――昨日は気がつかなかった、一輪挿し。
 心を決めたことが、周囲に意識を向けさせることになったのだろう。
 音もなく散った一片の花びら。
 かすかに湿ったそれに手を伸ばしていると、パーテーションが音をたててずらされた。
「起きてる? …みたいね」
 カサカサとコンビニの袋。
 白衣姿の女医が、
「お腹減ってるでしょう」
 と言いながら膝の上にのせる。
 首を横に振るあかりに、眉間に皺を寄せ、
「食べなさい」
 と、おにぎりの包装を破り口元に突きつけた。
 海苔の匂いが鼻孔を満たす。
「サラダもお茶もあるから、ゆっくり食べてなさい」
 明智警視が来るまでまだ時間があるから―――と、独り語ちる女医。
 そのことばに、メガネをかけたハンサムな警視を思い出す。
 ついぼんやりとしてしまったあかりに、
「食べなさい!」
 なおも女医が命じる。
 一口おにぎりをほおばったあかりに、
「よし!」
 とうなづく女医だった。
「しっかり食べておきなさい。あなたこれから質問されて、それが終われば移動することになるはずだから」
「…移動?」
「そう。あなたの住民票があるところに戻るの。事件はそこで起きたから」
(じゃあ、もう、逢えないんだ………)
 脳裏を過ぎるのは、遙一の白い面影で。
 淋しくて悲しくて、辛い。
 けれど、遙一をこれ以上巻き込まないと決意したのは、自分自身なのだ。
(絶対に遙一のことは喋らないから…)
 あかりは、おにぎりの最後の一口を飲み込んだ。


※ ※ ※


 移動すると言われて連れて行かれたのは、殺風景な部屋だった。
 ブラインドを調節すると外光が射しこみ室内を照らし出す。
 パイプ椅子と組み立て式の会議用テーブル。
「ここに座って。今警視が来ますから」
 女医が隣に座る。
(昨日みたいにはならない。絶対に!)
 正面の大きな鏡に、青ざめた自分の顔。
 決意も新たに、膝にのせた手をぎゅっと握りしめた。
「遅くなって悪かったね」
 一言声をかけてドアを開けたのは、昨日もいた年配の刑事だった。
 入ってきたのは、見知らぬ2人の刑事と、明智警視。
 3人が入ると、年配の刑事がドアを閉めた。
「森島…あかりさんだね」
 見知らぬ刑事が、口を開く。
「……はい」
 うつむいたままで答えたあかりに、おや? と、明智と剣持がかすかに瞠目する。
 専任の刑事だと男が自己紹介し、おもむろに本題に入った。
「君のお母さんと義理のお父さんとが殺された事件について少し訊ねたいんだが」
 シンと静まり返る室内。
 見る見るあかりの全身が強張りついてゆく。
 昨日のような恐慌状態になったときのために、女医が同席を許されている。
 はらはらと見守る剣持に、無表情に観察する明智。
「知っていることがあれば、喋ってほしい」
 うつむいていたあかりが、顔を上げる。すぐにうつむいたが、その表情に決意を見てとって、一同があかりの次のことばを待った。
「わたし…」
 くちびるをなんども湿らせ、
「わたしが、殺しました」
 あかりが、告白する。
 剣持がギョッと目を剥く。
「お母さんも、あの男も、大嫌いいだった。憎かった。だから、わたしが、殺しました」
 ぎしり――と、パイプ椅子が軋る。
「どうして殺したのかな」
 静かな声は、明智だった。
 ビクン。
 あかりの全身が、跳ねる。
「あ、の男、わたしを………」
 蒼白な表情で、あかりはぶるぶると震えている。
「君に、乱暴を、した?」
 明智の声に、ようやくのことでうなづく。
 女医が剣持が息を呑む。
「それに…お母さん、それを知ってたのに、知ってたのに、止めてくれなかった!」
 今にも倒れるのではないか。
 女医が、
「もう、今日は…」
 止めようとする。
「どうして、止めてくれないんだろうと、止めてくれなかったんだろうと思いました。思えば思うほど、憎くて。お母さんも、あの男も、許せないくらい憎くて、だから、殺したんです」


※ ※ ※


 あかりは梶原と神崎の2人に伴なわれて、警視庁を後にした。
 ブラインドをざらりと撓ませて、剣持が今まさにあかりが乗りこもうとしている車を見下ろす。
 夕方の気だるい空気。
 しかし、剣持の心はそんなものとは無縁だった。
 よもやと思った告白。
「あれは…」
「ええ。誰かを庇っていますね」
 明智の静かな応え。
「やりきれませんな」
 明智の前だったが、タバコを吸いたかった。
 剣持ががしがしと頭を掻いた。


※ ※ ※


「おい、梶原。道が違うぞ」
 助手席に座った刑事が、ハンドルを握った彼よりもいくぶんか若い刑事に注意する。
「いえ、神崎さん。これでいいんですよ」
 へ? と、神崎と呼ばれた刑事がマヌケな表情で梶原を凝視する。
 1秒か2秒。しかし、神崎には永遠にも思えただろう。
「おまえ、その声。……誰だ? キサマ、梶原をどうした」
 厳しい誰何。
 しかし、『梶原』は少しも堪えてはいないらしい。
 クスクスクス………。
 楽しそうな、ひとを嘲るような、笑い声。
「お疲れのようだったので、眠っていただいていますよ」
 リアシートに小さくなっていたあかりが、そのイントネーションにハッと顔を上げた。
 助手席の刑事が、窓に額をもたせかける。
「眠っているだけですよ」
 ハンドルを握ったままで、『梶原』が告げる。
「よういち?」
 恐る恐る確かめるあかりに、
「ええ」
 と、答えた時、そこにいるのは既にあかりの見知った遙一だった。
 あかりの表情が、泣き笑いになる。
 もう二度と会えないと思っていた。
 なのに。
 遙一は、助けに来てくれたのだ。
 彼の天敵だろう、警視庁の中にまで。
 たとえ、どういった理由からだとしても、嬉しくて―――。
 目の前には、遙一がいる。
 遙一が。
「ごめんなさい」
「何がです?」
 色んなこと。
 警察に捕まったこと。
 遙一に、あの男を、殺させてしまったこと。
 助けに来てくれたこと。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
 それに応える高遠のことばはない。
 車内に沈黙が降り積もる。
 どれくらいの間、沈黙がつづいただろう。
「邪魔、ですね」
 ぽつりと遙一が呟いたと思えば、ハザードの音が室内に響く。
 車が路肩に寄せられ静かに停まった。
 邪魔と言うことばにビクンと反応をしたあかりが何をするのだろうと見ていると、遙一が車から出る。
 後部のドアが開けられ、
「おいで」
 手が差し伸べられた。
 血に染まっているなどと信じられない、先細りの繊細な手。
 この手を、取ってもいいのだろうか。
 途惑っているあかりの手を、遙一が握る。
「…邪魔じゃないの?」
 あかりの鳶色のまなざしが、高遠の欝金のまなざしを見る。
 2人の間の空気が、奇妙な緊張に染まった。
「あれは、君のことじゃありません。それに…君のことが邪魔かどうか。それを決めるのは、僕です」
 それがどういう意味なのか、あかりにはわからなかった。
「何故です?」
 高遠の声。
 途方に暮れたようなトーン。
「なぜ、自分が殺したなどと嘘を言ったのです」
 高遠の欝金のまなざしが夕日に染まって、朱金の輝きを宿していた。
「だって…全部、わたしのせいなんだもの………」
「君のせい?」
「そう。だから……」
「………………」
 高遠には理解不能な思考過程。
「こんなところでする会話ではありませんね。さあ、この車は捨てますよ」
 どこをどう考えれば自分が殺したとそう告白する結論に達するのか。
 だから、高遠は、その会話をそこで切った。
「さあ」
 握りしめたままだったあかりの手を、高遠が強く握りなおした。
 高遠に手を引かれるまま車から降りて、あかりは歩いた。
 どこに行くのかも、これからどうなるのかも、わからない。
 すべては高遠しだい――それだけがあかりに判るすべてだった。
『なぜ、自分が殺したなどと嘘を言ったのです』
 その問が繰り返されることはなかった。
 なぜなら、答えられるような暇はなかったのだ。
 あのまま空港へと向かった高遠は、千歳行きの便に乗り込んだ。
 たくさんの乗客がいる中でする会話ではないからだろう。
「疲れたのなら、眠るといい」
 頭を撫でてくれる掌のやさしさ。
 心は、不思議と、穏やかで。
 あかりはいつの間にか、高遠の肩に頭を凭れさせて眠りに落ち込んでいった。
「お客さま、毛布を」
「ありがとう」
 客室乗務員が持ってきた毛布をあかりに被せ、高遠は自分も瞼を閉ざした。
 目が覚めれば、見知らぬ部屋。
 1月にもならない間に、似たパターンを何度繰り返しただろう。
 クスリ…。
 あかりが小さく笑った。
「あっ」
 笑うことができる自分に気づく。
 まだ、笑える。
 まだ、わたしは、笑えるのだ。
 なんともいえない感動に、あかりは起き上がり、ぼんやりと周囲を見渡した。
 上げ下げ窓でそよいでいるレースのカーテン。
 細かな薔薇の散った壁紙。
 趣味のよい家具類。
「目が覚めましたか」
 静かで落ち着いた声。
 振り向いたあかりは、そこに見知らぬ人物を見出した。 
 ロマンスグレイの、上品そうな男性。
 歳は、50よりも上だろうか。
「あなたは?」
「長崎功四郎と申します。森島さま」
「さま?」
 目をぱちくりさせたあかりの前で、長崎と名乗った男性がやわらかな微笑でうなづく。
「はい。森島さまは、遙一さまよりお預かりした方ですので」
「……………」
 長崎のことばを理解した途端、あかりがベッドから降りる。
「やだ」
「よーいち」
 追いかけようとするあかりを、長崎が押しとどめた。
 無言で、あかりの顔を覗き込み、首をゆっくりと横に振る。
 あかりの瞳から、涙がこぼれおちた。
「捨てるくらいなら、殺してくれればよかったのに………」
 高遠の手を汚すことは、本意ではないのに。
 そう呟かずにはいられなかった。
「邪魔なのなら、ひとこと言ってくれればよかったのに。言ってくれれば……」
 幼い少女の悲痛な呟き。
 それは、長崎の心を掻き毟った。
 この少女を抱きかかえて長崎の元にやって来た遙一。
 あの時の彼は、長崎の知る彼ではなかった。
 凍りついた絶望の炎。
 遙一の心の奥底で冷たく燃える絶望が、ほんの少しだけ揺らいだ。
 そんな印象を受けた長崎だった。
 そうして、それだけの影響を彼に与えたのが、この少女だと。
 この少女と彼の間に、それだけの通い合える何かが存在したのだ。
 確かに。
 だから、引き受けた。
「遙一さまは、またお見えになられます。それまで、ここにおいでなさい」
 少女の肩にそっと手をのせ、長崎はゆっくりと話しかける。
 やわらかく、ゆっくりと。
 そのやさしい響きが、少女の嘆きを癒す。
 遙一によく似た、声の響き。
「あなたは、遙一の何?」
 顔を上げた少女の涙をハンカチで拭い、長崎は言った。
「私は彼のお母さまのファンに過ぎません」
「ファン?」
「はい。近宮玲子さまは、間違いなく世界トップのマジシャンでした」
「近宮玲子?」
「ご存知ですか?」
「ううん」
 首を横に振るあかりに笑いかけ、
「それでは教えて差し上げましょう」
 遙一さまも、拒まないでしょうから。
 心の中でそう独り語ちる。
 あかりの手を取り、ベッドに腰掛けさせた。


※ ※ ※


 長崎の元での毎日は、疲弊しきったあかりの心身両面を癒すものだった。
 長崎の穏やかなやさしさが、あかりの傷ついた心に染みてゆく。
 あかり自身そうとは意識していなかった不眠症が、わずかずつであったが癒されてゆく。
 そうして、日々が穏やかに流れていった。
 気がつけば一月が過ぎ二月が過ぎ。
 悪夢も間遠になったある夜のこと。
 北海道の秋。
 シンと冷えるようになった空気。
 それでもなぜだか窓を開けて寝る習慣はやまらなかった。
 秋も終わりの空気に揺れる、レースのカーテン。
 ウール100%のカーディガンの前を掻き合わせながら、窓辺に近寄る。
 絡まりあった木々の細い枝。その間に掛かったように見える白い月。
「遙一……」
 逢いたかった。
 切なさ。
 キュウと胸が握り締められるような、苦しさだった。
 一緒にいたのは、20日くらいだったろうか。
 けれど、ハッと気がつけば考えているのは遙一のことで。
 ずっと一緒にいたかった。
 逢いたくて、傍に存在を感じていたくて。
「ばかっ」
 思わず呟いていた。
 黙っていなくなるなんて…。
「遙一のばかっ」
 小さく呟いたあかりの背後に、かすかな人の気配がしたような気がした。
 振り向いたあかりは、我が目を疑い動けない。
 変わらない白い美貌。
 皮肉気な唇端。
 すっと通った、鼻梁。
 欝金のまなざしは面白そうに眇められていた。
「馬鹿と言われたのははじめてですよ」
 声。
 その響き。
「よ…いち」
「久しぶりですね」
「遙一!」
 意識するまでもなくあかりは駆け出していた。
 抱きつき、胸元に顔を埋める。
 かすかな、気がつくかつかないかていどのコロンのかおりが、鼻孔をくすぐる。
 顎の下に手を入れられて、顔を持ち上げられた。
「夢はもう見ませんか」
「まだ、少し…」
「それでも、ずいぶん元気そうになりましたね」
 よかった…と、遙一の瞳が語る。
「もう会えないかと思っていた」
「クスクス…」
「捨てられたのかと思っていた」
「一度拾ったものの面倒は最後まで見ますよ」
 そのことばに、弾かれた。
「ですから、ここにいなさい。時々、こうして逢いに来ましょう」
 それと、これを。
 ぱっと輝いたあかりの目の前に、紙包みが差し出された。
「開けていいですよ」
 出てきたもの。
 それは、古びた一冊のアルバムだった。確かめるまでもない。布装丁の表紙をめくれば、そこにはあかりと父の写真が貼り付けられている。
「遙一!」
 あかりが振り向いた時、遙一の姿はなかった。
 ただ、上げ下げ窓がさきほどよりも大きく開かれている。
 駆け寄ったあかりの目に、赤い色彩が留る。
 それは窓の桟に置かれた一輪の赤い薔薇。
 あかりは、アルバムを抱きしめたままいつまでも赤い薔薇を眺めていた。
start    12:14 2001/08/17
up     16:44 2001/08/22
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