就眠儀式 三



その三 はじめ


 久住の手が、オレの手を掴んだ。
 忘れていたつもりはないのだが、高遠のことばかりが気にかかって、対策を考えていなかった。結果的に忘れていたのと同じことだ。
 何?
 久住に押し倒されかけたことだ。
 そりゃあ、まぁ、オレだって一応武士だし。男同士でするそういうことが、ある種の嗜みだってことくらいは、知ってる。けど、これまで一度も戦に出たことがないわけで、ずっと天守で仕事してたオレは、それに関する作法やもろもろなんか、学ぶひまも、機会もなかった。
 当然、心の準備もないわけで………。
 小姓たちの控えの部屋から、柏木に呼び出されて、案内されたのは、久住の部屋で、厭な予感がした。
 したからといって、逃げるわけにはいかないのが、城勤めの辛いところなのだろう。ただの城勤めですらそうなのだから、人質であるオレに、拒否権などもとよりない。
 この間は、高遠に関するどさくさで、お咎めなしだったが、今回も同様ってわけにはいかないんだろう。
 この辺で、腹を括らんといかんのだろうなぁ。
 久住の手が、着物の袖口から、するりと入り込んで、オレの腕を撫で上げる。ぞわりと、背中を走り抜けたのは………どう分析してみても、快感なんかじゃなかった。
 男にというか、久住にこんなことされるっていうのが、厭なんだけど。
 だって、久住のこと、オレは、好きじゃない。好きになれない。こういう感情など、邪魔なだけだろうけど、やっぱり、さ、そういうことするなら、せめて、最低限は、好きなヤツとしたほうが、気分的に違うんじゃないかなぁと、思うわけで。
 好きなヤツ………いないよなぁ。
 そう思った瞬間、頭の中に浮かんだのは、高遠の白い顔だった。
「うわっ」
 思わずのけぞったのは、他意があったわけじゃない。
 あまりにも思いがけなかったことに、自分でびっくりしてしまっただけで……。
 気がつけば、久住の手を振り払っているオレがいた。
 気まずい沈黙に、どうすればいいんだろうとか、はやく謝んないととか、怒ってるんだろうかとか、思考がぐるぐるとまわっていた。
「あ……と、すみま…………っ」
 とりあえず謝らないとという選択肢を選んだオレが、最後まで言葉を口に刷るより早く、久住が、オレの着物に手をかけた。
 無言のままの行為に、気まずさなんか吹き飛んだ。
 恐い。
 正直なところ、それだけしか、頭になかった。
 だから、オレは、無様にも――いや、多分、知らないが、作法的にはそうなるかもしれない――久住の腹を、蹴たぐってしまっていたのだ。



 あまりに予想外の行動だったのだろう。
 グゥと、呻きをあげて、久住がうずくまる。
 とっさの行動だったが、オレの背中に、冷たい脂汗が滴りながれた。
 やばい。
 最悪。
 どうしよう。
 たかが、閨房(けいぼう)でのことと、笑って許しては、くれないだろう………か。
 多分、もう、取り繕えないんだろうなぁ。――なんとなく他人事のように考えているオレがいた。
 こんなことで、自国に破滅を招くなんて、すっごい間抜けだ。けど、やってしまったあとに、なかったことには、できない。
 ゴメン―――隣国の家族に謝る。
 オレのせいで、戦が起きるかもしれない。久住に攻め入られては、それでおしまいだ。
 ゴメン。
 伯父や伯母、それに、まだ顔も見たことのない従妹に、謝る。
 ゴメン。
 一族郎党、それに、領民たちに謝る。
 本当に、ごめんな――――。
 ここまで最悪の事態を引き起こせば、後はなにをしても同じかもしれない。
 久住は、まだ、うずくまったままだ。
 そうだ、なにをしても、同じだ。
 なら、どさくさに紛れて、探してしまおう。
 とっとと、探して、奪ってしまおう。
 ここでもたもたしていては、柏木がくる。そうなってからでは、遅すぎる。

 家族たちの顔を振り切り、オレは、家捜しをはじめた。
 あってくれと、心の中で願いながら、あちらこちらを引っくり返す。
 そうして、物は見つかった。
 高遠を縛めている枷や鎖と揃いだとすぐにわかる、鍵は、久住の枕の小引き出しから転がり出てきた。
「うわっ」
 鍵を懐に仕舞おうとして、手首をつかまれた。
 うずくまって震えていた久住が、オレの手をぎりぎりと締め上げる。
 なんか変だ―――そう思った。
 よく考えれば、オレが蹴たぐったくらいで、久住が、こんなに弱るとは思えない。
 青ざめた顔が、のっぺりとした顔の中、細い目が、爛々と光って、オレを見上げていた。
「は、はなせっ」
 必死になって、オレは、久住の手を、振り払った。
 そうして、後も見ずに、庭にまろび出たのだ。
 追いすがろうとする声、もしくは、オレを留めようとする声が聞こえたような気がしたが、オレは、走った。

 その時、オレの頭の中には、ただ、高遠の白い顔だけが、浮かんでいたのだ。


その四 高遠


 息せき切って駆け込んできたはじめに、声もなかった。
 私は、ただ、はじめを見つめていた。
 はじめが、ここから連れ出されて、九日目。久しぶりのはじめの姿は、あまりといえば、あまりなものだった。

 乱れた着衣、荒い息。

 なにがあったのか、判るような気がした。

 久住―――ですね。
 ふつりと、胸の奥底から、湧き上がる、憎悪。
 はじめは、このxxxxの、もの――――――。
 憎悪と共に、脳裏にこだまするのは、不思議なほどの独占欲。
 はじめは、私のものなのだと。
 手を出すことなど、誰であれ、許しはしない。
 私のどこに、そんな気概が残っていたのか。それは、私の体内で、煮えたぎる。
 手を、はじめに伸ばそうとして、じゃらりと鎖が音をたてた。
 ――――煩わしい。
 おもわず、鎖を、手で引っ張っていた。もちろん、それくらいで、千切れることなど、ない。
 私の血を練りこむなどという、賢しらな呪を施してある、鎖と枷だった。
 鍵がなければ、血の主である私から、これらが離れることはない。
 居場所を移るたび、だからこそ、鎖と枷と鍵とは、いつも、私から、離れることはなかった。

「高遠っ」
 はじめの声は、切羽詰っている。
「手、手を出せって」
 はじめが懐から取り出したのは―――間違いなく、私をこの縛めから解き放つ、唯一の鍵だった。

 
 下から、声が、罵声が、聞こえてくる。

 落とし戸は、閉て切られている。
 それでも、近づいてくる気配に、そんなに時間がないだろうと、知れる。
 私は、はじめに、手を、差し出した。


 カチャリ―――
 軽い音を立てて、鍵が、縛めを解放してゆく。
 手が、足が、軽い。
 いったい、どれほどぶりの、自由だろう。
「高遠、立てれるか?」
 心配そうなはじめの声に、私は、口角をもたげることで、返事に変えた。
 差し出される手に、手を重ねた。
 久しぶりに感じる、はじめの熱に、私のからだが、震えた。
「はじめ」
 ありがとうと、口にしようとした刹那だった。
 無粋な気をまとって、男たちが、入り込んできた。
 はじめが、私の前に、立ちはだかる。
 小刻みに震える、はじめに、愛しさが、こみあげてくる。
 こんな場面で、はじめが私を守ろうとしてくれる。それが、どうしようもないほどの感動を、私に覚えさせたのだ。


その五 はじめ


 落とし戸を閉める。
 これでどれくらいの時間稼ぎができるか、わからない。それでも、きっと、高遠の縛めを解くくらいの時間はあるだろう。
 ――あって欲しい。
 じゃらりというなじみのある音に振り向けば、高遠が、鎖を弄っていた。
 まってろ、今、外してやる。
 息が荒く、声にすることができなかった。
 まったく、自分で自分が、情けない。いや、そんなことを考えているひまはない。オレは、高遠を、解放するために、やってきたのだ。
 呼吸を整える。
「高遠っ」
 思いもよらないほどの、鋭い声になってしまった。
 高遠が怯えなければいいのだが。
 よかった。顔を上げた高遠は、少しも怯えてはいないようだ。何かに耳を澄ませている。
「手、手を出せって」
 焦ってしまう。
 オレを追って、侍たちがやってきている。彼らの罵声が、オレを、急き立てる。
 高遠が、おとなしく手を、伸ばしてきた。あまり、やさしくは扱えないが、許してくれ。今は、速さのほうが大事なんだ。
 鍵を、枷の鍵穴に、差し込む。あまりにも手が震えて、数度失敗したが、どうにか、開錠できた。次々に、枷を外してゆく。
 高遠が、無言のまま、手首を、さすっている。
 大丈夫そうだ。
 よかった。
 これで、高遠は、自由にどこにでも行くことができる。
 こんな、狭く不自由なところなど、高遠には、あまりにも似つかわしくなさ過ぎたのだ。
 階が軋む音が聞こえる。追っ手の得物のたてる音が、背筋を粟立たせる。
 高遠を、解放することができた感慨に浸っているひまなど、今は、ない。
「高遠、立てれるか?」
 立つことができないというなら、オレが、背負ってやる。そう覚悟したオレの目の前で、高遠が、笑った。
 金の目が、少しだけ細められ、過ぎるほど赤いくちびるの端が、めくれ上がるように、もたげられたのだ。
 心臓が、ひとつ、耳障りな音をたてた。
 こんな、高遠など、オレは、知らない。
 後退さりたいほどの寒気が、背筋を這いのぼる。それを諌めてくれたのも、しかし、また、高遠だった。
 オレの手の上に、高遠の手が重ねられ、強く、握りしめたのだ。その手の、あたたかさが、オレを、我に返らせた。
「よっと」
 気分を変えるためにも、オレは、力を込めて、高遠を引っ張り立ち上がらせた。
「はじめ」
 耳もとに、高遠の、やわらかな声が、届いた。
 ああ、いつもの高遠だ。
 そう安心したときだった。
 落とし戸が、大きな音を立てて、開かれた。
 屈強な侍が、ふたり、次いで、見慣れた柏木が、天守に、踏み込んできたのだった。彼らの背後、階には、まだたくさんの追っ手の姿がある。
 オレは、それだけのことをしたのかもしれない。
 オレは、それだけのことをしようとしているのだ。
 声もない。
 震える。
 恐いのだ。仕方がない。
 それでも、高遠だけは、自由にしてやりたい。永かっただろう苦痛から、解放したいのだ。
 オレは、両手を広げて、柏木たちに対峙した。


 オレは、高遠を、衝立の影に、押し込んだ。とっさの判断だったが、かろうじて、間に合った。念のために、手を広げて、柏木の意識をこちらに向ける。
『高遠、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
 押し込む寸前にささやいたのは、妄信に近い、確信だった。
 竜と呼ばれるからには、根拠があるはず。血を啜られる竜など、聞いたこともない。ならば、そうなる以前には、竜と呼ばれるだけの力が、高遠にはあったはずなのだ。

 ―――自由になってくれ。 

 オレは、心の中で強く祈り、柏木らと対峙した。
「もう、逃げ場はない」
 柏木が、厳しく、告げる。
 そんなことは、わかっている。オレには、逃げ場などは、ないのだ。逃げるにしても、オレの剣の腕はお粗末で、逃げ切ることなどできはしない。けれど、オレ自身のことなど、今はどうでもよかった。オレは、せめて、なんとしてでも、高遠を解放してやりたかった。それだけだ。
 オレは、ただ、柏木の目を、見返した。
「いったい、金田一の若君には、なにを考えておられるのか」
 どこか溜息交じりのことばだった。
「殿の御情(おなさけ)を受けることは、このうえない名誉。それを、恐れ多くも、殿を足蹴にして、逃げ出すだなどと。人質であるという、己が身をわきまえてはおられぬのか。あなたの国許が、滅ぼされてもかまわないと、まさか、考えておられるはずは、ございますまい」
 そんなことは、わかっている。今更―――だ。
 やってしまったことは、取り返しがつかない。
 許されることでも、許されようとも、思ってはいない。
 奥歯を、噛みしめる。
 と、不意に、柏木の口調が変わった。
「まさかと、思うが、金田一の若君は、竜に誑かされておしまいか」
 嘲るような柏木のことばが、オレの中の何かを、弾いた。
「それとも、すでに、ねんごろになられておられる――とか」
 ねっとりと、さげすむような声に、オレの中で形になりかけていたものが、崩れ去る。
「見目形は整っておれど、所詮人外。竜と呼ぶも、家畜に過ぎぬ。そのようなものに誑かされるとは」
 嘲笑う柏木に、オレの我慢も、限界だった。
「高遠は、家畜じゃないっ!」
 刀の柄(つか)に手がかかったと思った時には、抜刀し振りかぶっていた。
「名前までおつけか。物好きな。家畜と一つ身になられるようでは、殿の御情を受けるに値せぬが――殿はことのほか金田一の若にご執心のごようす。どうであれ、連れ戻れとのご命令」
 小太刀で、オレの攻撃をかわした柏木が、オレの手から刀をもぎ取った。
 その時だった。
 下のほうから、悲鳴が聞こえてきた。それは、まるで、この世のものとは思えないほどの、ありえぬものを目にした恐怖の、悲鳴だった。
「なにごと」
 柏木の声が、力をなくした。
 オレを捕らえている手が、小刻みに震えだす。
 オレもまた、今の自分の状況を忘れ去り、ただ、目の前を、凝視していた。

 目の前――落とし戸の矩形の入り口から、入ってくるもの、それは、本当に、
「と………殿」
 生きているのか。
 青白いというより、青黒い、そんな肌色の、人間が、うつろなまなざしで、こちらを見ていた。
 その口からこぼれ落ちているのは、赤い――血。その手にしているのは、ひとの、手―――だろうか。
 咀嚼する音が、怖気を、吐き気を、誘う。
 いったい、なにが起きているのか。
 ゆらりと、近づいてくる、その、おそらくは久住だろうモノから、オレは、目を放すことができなかったのだ。


その六 高遠

『高遠、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
 押し込まれる寸前にささやかれたのは、はじめの妄信に近いほどの、きつい確信だった。

 ―――自由になってくれ。 

 はじめの、血を吐くばかりの願いが、感じ取れた。

 聾がわしいほどの音をたてて入ってきた男たちが、そのうちのひとり、見覚えのある男が、はじめを嘲りはじめる。滴る悪意に、あの男が、はじめを妬(ねた)んでいると、察した。
 はじめのからだの震えが、切ない。
 はじめのことを、抱きしめたかった。
 どれだけ、ここから飛び出したいと思っただろう。しかし、今飛び出したところで、はじめを助けられはしない。元の木阿弥どころか、本末転倒でしかない。はじめのしたことのすべてが、無駄になる。それは、痛いほどに、真実だった。
 はじめの願い。
 それは、私が、自由を取り戻すこと。
 しかし、はじめは、知らないままだ。自由を取り戻したとして、傍にはじめがいない自由では、今の私には、もはや意味がないということを。
 はじめがいてこその自由こそ、私が欲する唯一のものだと言うことを、はじめは知らないでいる。
 だからこそ、私だけで逃げろと、そう、言うのだ。
 自由にだけしておいて、私の願いを、知らない。
 はじめさえいてくれれば、はじめのぬくもりを胸の中に感じてさえいられるならば、実は、ここで閉ざされつづけていようと、かまわないとまで、思えるのだ。
 こんなにも、私は、はじめを、愛している。
 ―――そう、愛しているのだ。
 逃げるなら、はじめも共に逃げるのでなければ、意味がない。
 それを、知ってもらわなければ――――私の中で、何か得体の知れないものが、ぞろりと、鎌首をもたげた。それは決して不快なものではなかった。このまま、この衝動に、身をまかせてしまいたい。内なる誘惑に、私は、逆らうことができなかった。
 はじめに、私がどれほど君のことを愛しているか、知ってもらわなければなりませんね―――――
 私であって私でないものが、歌うようにつぶやく。まるでそれが合図ででもあったかのように、くらりと、すべてが、揺らぎ、溶け消える。
 私もまた、溶けてしまう。
 その灼熱の酩酊を、私は、ただ、黙って、受け入れた。

 焦りを感じるほどに長い時間と思われたそれは、しかし、あっという間の出来事に過ぎなかった。

 はじめが、振りかぶった一撃を、男が受け流す。
 はじめを、捕らえ、何事かを、はじめに告げる。
 それらが、まるで、匙の端からながれおちる蜂蜜のように、ねっとりと間延びして見えた。
 そうして、新たな登場人物の、不快な姿までもが、私の視界に入ってきたのだ。

 久住―――

 驚きはない。
 むしろ、それは、当然の姿だった。
 喉の奥が、可笑しなように震えた。
 クスリ――と、笑いがこみあげ、止まらない。
 面白い。
 そう、今日は、ちょうど、十日目。十日前に、久住は、私の血を啜った。一度の吸血の効果は、今日で、切れる。
 私の血には、常習性がある。
 一度くらいならまだしも、強い薬効のある薬がそうであるように、飲めば飲むほど、きれるときの苦痛は、はかり知れない。私の血は、人間のどんな病も癒すとされているが、常習しなければ、意味がないのだ。
 きれたからといって、死にはしない。死ぬことはないが、おそらく、本人は、死を心から望むだろう。――正気を保ってさえいればだが。大半が、あまりの苦痛に、今目の前にいる久住のように、狂い、見境なく血肉を貪るものに成り果てる。
 成れの果て――を、嘲りたくて、たまらない。
 あれは、私を、閉ざし貪った、当然の報いなのだから。
 こみあげる、悪意。おさまりきらずあふれる、狂気。
 喉も弾けよと、私の喉の奥から、哄笑がほとばしった。


その七 はじめ


 凝然と、まるで魅せられたかのように、久住から視線を離すことができなかった。
 誰かの腕から滴る血を啜る姿は、まるで、昔話の『酒天童子』さながらで……、あまりのおぞましさに、目を逸らすことができなかったのだ。
 それは、多分、柏木も同じだったろう。
 城主に刀を向けるわけにも行かず、逃げ腰な他の侍たちも同様だったにちがいない。

 まるで時が止まったかのように、血を啜りつづける久住以外は、その場から、動くことすらできないでいた。

 次に、あの腕の持ち主のようになるのは、誰なのか。
 おそらく、誰も彼もが、そんなことを考えていたのに違いない。

 再び時が動き始めたのは、突然の、哄笑のためだった。

 誰も彼もが、動かない、そんな、空間に、突然響いた、腹の底からの、笑い声。

 この場の誰ひとりとして、笑い声の主が誰なのか、きっと、わからなかったのに違いない。
 オレもまた、それが、誰のものなのか、わからなかったのだ。
 笑い声がほとばしったのは、オレの背後。オレが、高遠を隠した、衝立の裏だった。

 まさか………。
 オレは、俺の耳を疑っていた。
 悪意と歓喜に染まった笑い声の主が、オレの知る高遠とはうまく噛み合わなくて、いったい、なにが、衝立の裏にいるのか、不安になった。

 高遠は、結局逃げなかったのか。
 逃げられなかったのか。
 諦めたのだろうか。
 いったい、衝立の裏に、なにが潜んでいるのか。

 見たいような、見たくないような。
 知りたいような、知りたくないような。
 相反する思いがぐるぐると渦を巻く。
 オレは、途方にくれて、ただ、そちらを、見ていたのだろう。

 やがて、その影から姿を現わしたのは、まがうことなく、高遠だった。

 しかし、オレは、こんな高遠など、知らない。
 いや、一度、高遠を見知らぬものと思ったことがあったが、この高遠は、その時よりも、より一層の、違和感を、まとって、そこに立っていた。


「たか、とう………」
 柏木にまだ拘束されていることを忘れて、オレは、高遠の元に近寄ろうとした。
 しかし、オレは、
「はなせっ! ちくしょう」
 どれだけ暴れても、呆然としているように見える柏木の力は、相変わらずだった。
「くそっ」
 それでも諦められず、必死に暴れたオレは、突然の解放に、勢いあまって、蹈鞴(たたら)を踏んだ。
「殿っ」
 柏木の切羽詰った声につづいて、重いものが床にぶつかる音が響いた。オレは、打った膝の痛みも忘れて、顔を上げた。
 なにが起きているのか、確認しようとしたオレの視界に、白い、高遠の、繊細な手が、あった。手の輪郭に沿って視線を上げてゆくと、そこには、見慣れた、高遠の顔。
 ああ、高遠だ―――
 先ほど感じた違和感を忘れて、オレは、高遠の手を取ろうとした。
 しかし、それは、叶わなかった。
 オレが、高遠の手を握るよりも素早く、久住が、高遠に襲い掛かったからだ。
「たかとうっ!」
 思わず、オレは、久住の腕を、力任せに抱えこんだ。
「やめろっ。このっ。高遠は、おまえの家畜なんかじゃないんだ!」
 必死に引っ張り、高遠から遠ざけようとする。しかし、この、尋常じゃない力強さはなんなんだ。
 あんなに、ふらふらに見えたのに、今にも、膝を付きそうなほどに弱っているように見えたというのに、気を抜けば、オレは、振り払われそうだった。
「高遠、逃げろっ!」
 なぜ逃げない。
 なにをやってるんだ。
 いろんな感情がごったになった叫びに、しかし、返ってきたのは、
「逃げる?」
 冷え冷えとした、しかし、玲瓏と良く響く、声だった。
 オレの背中に、寒気が走った。一気に、先ほどの違和感がよみがえる。
「私は、逃げませんよ」
 クスクスと、この状況を楽しんでいるかのように、高遠が、笑った。
「たかとう?」
「勘違いしないでくださいね」
 そう言う、高遠の声には、滴らんばかりの憎悪がこめられていた。
 恐い。
 高遠が、恐ろしくてならない。
 オレは、高遠に、憎まれていたのだろうか。
 これ以上はありえないほどの、最悪の展開に、オレは、久住の腕を手放し、床に腰を落とした。
「家畜に甘んじると言っているのではありませんよ。単に、逃げる必要など、この僕には、ありはしないのですから。堂々と、正面から、僕は、この城を出てゆくことができるのですからね」
 やわらかい口調に滴る憎悪。
 オレは、ただ、震えていた。
 オレが、高遠を逃がしてやる――それは、高遠にとって、ただ、烏滸(おこ)がましいだけのことに過ぎなかったのだ。
「わかっているのですか」
 わかっている。わかった。ごめん。どう言えばいいのだろう。オレは、恐る恐る、顔を上げた。
「久住義時。あなたには、僕を止める手立てとて、残されてはいないのですよ」
 そう言いざま、ただ高遠に縋りつくようにしてなにごとかをつぶやきつづけている久住を、高遠は突き放した。
「殿」
 久住の、オレとは反対側の床の上にうずくまっていた柏木が、つぶやいた。それは、呆然と、ただ口に馴染んだ単語をつぶやいたとでも言うかのような、力のないものだった。
 床の上、オレを振り払おうとした怪力が嘘のように、久住が、よろぼう。
 ぽたぽたと口や目から、よだれや涙を流しながら、高遠を見上げ、手を伸ばそうとする。何度も何度も、手を伸ばしかけては、力なく、うずくまる。
 そのさまは、思わず、同情したくなるほど哀れなものだった。

 オレは、ただ、久住を見ていた。
 侍たちも、柏木も、誰ひとりとして、動こうとはしない。
 恐ろしいのだろう。
 おそらく、侍としての鍛錬を怠っていないだろう彼らには、すらりと佇む高遠の本質が、感じられるのかもしれない。だから、動きたくても、動けないのだ。
 ただ、久住の意味不明なつぶやきだけが、不気味なほどに、聞こえていた。
 オレもまた、高遠にとって、久住と同じ存在に過ぎなかったのだろう。いつ、彼に向かって、牙を剥くか知れない、危険な存在―――。そう思えば、高遠の顔を見ることなど、できなかった。
 見ないでいるから、だから………。
 もう、きっと、高遠を見ることはないだろう。
 それを思えば、ぱたぱたと、涙が、床を濡らす。
 ああ、ざまぁない。
 勝手に、正義感ぶって、高遠をオレは守るんだと必死になって、けれど、それらは、すべてが、高遠にとっては煩わしいものだったのに違いない。
 ごめん。
 ごめんな。
 オレは、袖で、涙を拭った。
 そうして、目を見開いた。
「うわっ」
 うろたえてしまったのは、オレの目の前に、金の目があったからだ。
 金の目――高遠の、きれいな、まなざし。
 少し距離をとると、高遠が、不思議そうにオレを見ているのがわかった。高遠は、無防備に、久住たちに背を向けて、オレの目の前に、膝をついている。
 つい――と、優雅に、白い手がひるがえる。そうして、高遠の指が、オレの目元を、すっと、なぞった。
「どうして、泣くのです?」
 先ほどの滴らんばかりの憎悪が嘘のように、高遠が、小首をかしげる。
「だ………オレのことだって、憎いんだろう。ほ、本当は、嫌ってるんだろう。だったら、こんなとこでオレのことなんかかまってないで、さっさと、ここから、出て行っちまえ」
 そっぽを向いて、目をきつくつむって、オレはことばを投げつけた。
 悲しいけれど、辛いけれど、オレは、憎まれてまで、高遠とは一緒にいられない。嫌われているのがわかっていて、一緒にいることなんかできない。
 スッ――――と、高遠の気配が遠ざかる。
 やっぱりな―――――やっぱり、嫌われてたんだ。すとんと、おさまり悪く、嫌われていたんだという事実が、オレの心に、降ってきた。
 馬鹿だよな。
 でも、高遠、オレは、おまえに憎まれても嫌われてても、おまえのことが、好きなんだと思う。
 オレは、柏木に言われるまでもなく、高遠に惹かれていたのだ。
 こんな時に、悟ってどうすんだ。遅すぎるだろ。
 なんだかな――と、肩を竦めたときだった。
「うわっ」
 オレは、二度目の悲鳴をあげていた。
 
 目をつむっていたオレは、突然の、浮遊感に、瞼をもたげた。
 なにが起きたんだ。
「!」
 目を開けたオレは、自分の状況に気づいた途端、冬場の氷室に閉じ込められたみたいに、固まってしまった。
 うそ……だろ。
 信じられなかった。
 高遠がしたたかな変貌を遂げたことは、わかっていた。けれど、まさか、こんなことをするだなどと、考えもしなかった。
「ちょ、ちょっと、なにを考えてるんだ」
 オレは、場所も、状況も、何もかもを忘れて叫んだ。
 なんでって、その………オレは、高遠に、抱きかかえられていたんだ。しかも、膝裏を掬い上げられるようにして、所謂横抱きというヤツだ。
 これは、はっきり言って、どんな場合だっても、恥ずかしい。
「下ろせ。下ろせよっ」
 顔が赤くなっているだろう。なぜなら、首から上が、カッカするくらい、熱くてしかたがないからだ。
「誰が、はじめのことを嫌っていると言いましたか」
 高遠の、金のまなざしが、凝然とオレを捉えている。
「いや……だって………」
「感謝こそすれ、僕が、君を嫌ったり憎んだりするわけがないでしょう」
「え?」
「僕はね、はじめ、最初の夜から、君に惹かれていたんですよ」
 あっさりと、なんでもないことのように言った高遠の言葉を、オレは、たちまち理解することができなかった。
「君が、僕のそばにいてくれさえするのなら、いつまでここに閉ざされていてもかまわない――――そんな、愚かなことを考えるくらいには、君のことを、愛していますよ」
 うわ………。
 どうしよう。
 全身が熱くて熱くて、煮たっちまいそうだ。
「君は?」
 ささやくように、耳に吹き込まれて、オレは悩んだ。
 いや、答えることは、やぶさかではないのだが、やっぱり、場所や状況が問題だと思うんだよな。
「高遠」
「はい?」
 にっこりと微笑む高遠に、見惚れている場合じゃない。
 いつの間にか、久住が、忍び寄っていた。
 高遠の肩を挟んで、久住とばっちり目が合っちまった。
 どろりと濁って、赤と見間違うくらいに血走った、怖気に全身が震えてしまう、そんな、目だった。そんな目が、青黒く染まった顔の落ち窪んだ眼窩の中で、ぎろりぎろりと、動いている。
 情けないが、オレは、固まっちまった。
 いつの間にこんなにと思うほど、さらばえてしまった久住は、まるで、死者が動いているみたいだった。
「うしろっ」
 やっと、それだけを喉の奥から搾り出した時には、久住の尖った指が、高遠の肩に、首に、爪を食い込ませていた。
 しかし、考えてみれば、そんなこと、高遠が気づいていないはずがなかったんだ。
「鬱陶しいですね」
 それだけだった。なにをしたというのでもない。
 高遠の肌に食い込んでいた爪が、力なく外れ、すかすかと、悲鳴にもならないかすれた音が尾を引いた。オレは、きっと、この声を忘れることができないだろう。そう、予感したほど、それは、身震いするほど哀れな、音、だった。
 ぐずぐずと、久住が、床の上に、うずくまる。それでもなお、久住は動こうとしている。その、執念。それが、オレは、恐ろしくてならなかった。
 久住と柏木以外が、じりじりと、後退していた。階にいる侍たちも、上から順繰りに、後ろざまに、降りてゆこうと、しているらしかった。
「待て……」
 高遠が、一歩を踏み出した時、柏木が手にしたままだった小太刀が高遠に向かって投げられたが、それすらも、高遠に届く寸前で、音たてて砕けた。
 これが、決定打だったのだろう。
 誰が、あげたのか。
 鋭い悲鳴が、天守に響いた。
 それが、最後の糸を、断ったのだ。
 侍たちが、押し合いへしあいしながら、まろぶように、逃げてゆく。

 後には、オレと高遠、そうして、久住と柏木だけが、残されていた。

「それでは」
 高遠が、だれにともなく、つぶやいた。
「お、下ろしてくれ」
 このまま、横抱きのままは、恥ずかしい。
 オレを見下ろす高遠のまなざしからは、なにを考えているのか、わからなかった。
「下ろすのですか」
「そう!」
 きっぱりと、断言する。
「でもね、僕は、下ろしたくないんですよね」
「なんで」
「抱き心地がいいですから」
「な」
「それに、和むんですよね。君の体温と鼓動を感じているのは」
「………」
 オレは、脱力しそうになった。
 さっきまでの緊張感が、懐かしいような気がする。
 高遠の雰囲気が思いっきり変わったような気がするのは、気のせいじゃないんだろう。
 なんというか、何もかもを楽しんでいるような、底の抜けた明るさのような気がするが、これは、鎖を解かれた解放感のせいなんだろうか。
 そんなことを考えてると、
「まぁ、それは、冗談半分ですけどね。君が、捕まるのは、いやですから」
 そう言って、忌々しげに、視線を足元に向ける。
 見れば、高遠の視線の先には、久住が、いたのだ。
 執念としか言いようがない。
 とっくのむかしに、動くのすら辛いだろうに。
 骨と皮だけのような青黒い腕が、めくれ上がった袖からむき出しになって、高遠の足首を掴んでいた。
「君には、こうなった相手を、振り払うことは、できないでしょう」
 そう言うと、高遠は、無造作に、掴まれているほうの足を踏み出した。
 久住の手が、ぼとりと音をたてて落ち、その場で床をかきむしる。
 高遠は、そのまま、階に足をかけた。
「高遠……」
「なんです」
「久住は、どうなるんだ」
 気にならないわけがない。
「どうもなりませんよ。私の血は、人間にとっては副作用の強い劇薬と同じですからね。一度ならまだしも、つづけて口にしてしまったら、最後です。依存せずにはいられなくなるようですよ」
「なら、死ぬのか?」
 オレのことばの何がおかしかったのか、高遠が、クスリと笑った。
「そのほうが、幸せでしょう」
 悪意が滴っているようなことばに、オレの全身が、鳥肌立った。
「死ねない?」
「多分ね。よくはわかりません。けど、禁断症状は苦しいみたいですね。死ねるとしても、それまでに、どれほど苦しまなければならないか、僕には、わからないんですけど……」
 長く閉ざされ続けていた高遠に、それを知るすべは、なかっただろう。
「でも、自業自得ですよね」
 いっそ朗らかなほどに、高遠が、切って捨てた。
 確かに、自業自得だろう。
 少なくとも、高遠にとって、今の久住の苦しみは、それ以外のなにものでもない。
 オレだとて、久住がそうだと、わかる。それでも、やはり、見ているのは、辛かった。
「まぁ、火をつければ、ね。火はすべてを浄化すると言いますから、確実に死ぬことはできるはずですよ」
 苦しみ続けて狂うよりは、ましだと思いますけど、どうなんでしょうね。

 それが、オレと高遠とが、天守を下りるさいに話していた最後の言葉だった。


 後は、もう、あんまり話すこともないような気がする。

 城主がああなった以上、久住の侵略の恐怖は、まぁ、潰えたといっても過言ではないだろう。だから、オレは、自分の国に帰ってもかまわないんだろう。だけど、オレには、自覚があった。

 オレは、国よりも家族よりも、高遠を選んでしまったのだ。
 高遠とそれらとを秤にかけて、高遠のほうが重かった。
 オレは、オレの家族と国とを、見捨てたのだ。―――誰に糾弾されるまでもない。オレは、誰よりも強く、そのことを知っている。たとえ、結果的には、救ったことになったとしても、あの時のオレの心の動きを、結論を、自分だけは、知っているのだ。それは、小さな、しかし、鋭い棘となって、オレの心の奥に刺さっている。

 ―――どの面下げて、帰れるっつーんだよ。

 ぼんやりと、大木に背もたれて、オレは、炎を眺めていた。
 ここは、久住の城から山を二つばかり越えた、森の中だ。あの日から既に、三日が過ぎていた。
 木の葉が重なり合った隙間から、月と星とが見えている。
 ぱちぱちと、威勢よく燃える炎が、川で獲ったばかりの魚を炙っていた。食欲をそそる匂いが、立ち込めている。いつものオレなら、我慢せずに食べているだろう。しかし、我慢もなにも、心が定まらないせいで、どうも、食欲がわかないのだ。
 高遠が、そんなオレを、ただ黙って眺めている。
 高遠の、金の瞳が、白い顔が、揺れる炎に染まっていた。
 高遠は、ただ、あの日、オレに向かって、
『これからどうします?』
と、そう言ったっきり、オレにすべてをゆだねているらしかった。
 わからない。
 それが、実は、本心だった。
 高遠を解放することばかり考えていて、その後のことを考えてはいなかったのだ。
 まぬけだな。
 溜息が出る。
「なぁ、高遠」
「はい」
「おまえは、これから、どうしたい?」
 三日も考えてこれでは、呆れるよりないだろう。
「僕ですか?」
「そう」
 ぱちぱちと、音たてて炎が、燃えている。
「そうですね。とりあえず」
「とりあえず?」
 立ち上がった高遠が、オレの傍らに、移動してきた。
「確認したいことがありますね」
「なに?」
 高遠の左腕が、オレの左肩に回される。
 今にも鼻が触れ合ってしまいそうなほど近くに、高遠の白い顔があった。
 金の瞳に、オレの、間抜けな顔が、映っている。
「僕は、はじめのことを、愛していますけど、はじめは?」
 あまりにまっすぐな問いだった。
「オレも、高遠のこと、好きだ」
 言った後に、真っ赤になってれば、世話はない。が、まぁ、これは、オレの本心だ。
「家族よりも、国よりも、オレは、おまえのことを、愛してる」
 口にしてみて、オレは、心が定まるのを、感じた。ああ、こんなに簡単なことだったんだ。誰に罵られても、これが、オレの真実なんだ。認めればいい。高遠を愛したから、オレは、すべてを捨てたのだ。誰に何を言われても、真実がわかっているなら、かまわない。

 高遠が、オレを、見ている。
 オレも、高遠を、見ている。
 
 高遠が、静かに、オレを、抱き寄せ、くちびるを寄せてきた。
 オレは、黙って、高遠のくちびるを、受け入れた。

 ぱちぱちと、傍らでは、炎が燃えている。

 その夜、オレと、高遠は、はじめて、肌を合わせた。そうして、その後、それが、オレと高遠との、就眠儀式になったのだ。

 久住の天守が、火を出した。
 それをオレたちが知るのは、後しばらくしてからのことである。

 結局、オレは、国に帰ることはなかった。

 オレと高遠とは、人里はなれた山の奥に、ささやかな庵を建て、そこで、暮らすことを決めたのだ。
 
 オレが、オレの変化を知るには、やはり今しばらくの時が必要だった。
 高遠と共にあるオレは、いつまでも、十七才のままだったのである。



おわり
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あとがき

 まとめるだけなのに、遅くなりました。
 やっと終わった。けど、悔いがある。1、2でのいろんな齟齬がどうしても修正できなかった。細かいから、まるっと無視してください。ううう。
 あいかわらずのへたれですが、少しでも楽しんでくださると、嬉しいです。

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