赤ずきんちゃんと野獣



(注・あのコップのようなのを頭にのっけるのではなく、民族衣装はそのままで、防空頭巾のような、絵本で馴染みの深い赤いずきんということにします。タイトルからわかるかな?)
 

 ◆◇◇◇◇◇◇
 

 昔むかしの物語。
  「おふくろ。これ、なんなんだよ?!」
   村はずれの一軒家。
   少年の声が響く。
  「なにって…見ての通りだけど。う〜ん。やっぱり似合わないわねぇ」
   上から下まで息子のようすを矯めつ眇めつしているのは、息子によく似た母親である。
   当の息子――金田一はじめ――は、母親の前で真っ赤になって震えている。
   その赤は、怒りなのか恥ずかしさなのか。それとも、女ものの赤いずきんのせいなのか。
   フルフルと震えるはじめを見て溜息をついていた母親だったが、一転、
  「何を言ってるの。あんたが悪いんでしょ。あれだけ気をつけなさいって口をすっぱくしてるのに、この耳は飾りなの? この耳はっ!」
   強気にはじめの耳を引っ張る。
  「イテ。痛いってば」
  「わかってる? そうそう服の替えなんてないのよ。一着ダメにしたら、繕うか布を買ってきて新しいのを縫うかしかないんだから。あんたかあさんの裁縫の腕は知ってるわよね」
   不器用というほどではないが、とにかく時間がかかるのだ。
  「わるかったよ。でも……」
   しゅんとなるはじめにからだを擦りつけているのは、縞の仔猫。
  「ええ、ええ。その猫を荷車から助けようとして、そうして服をひっちゃぶっちゃったのよね。捨て猫や捨て犬をほおっておけない。そこはあんたのいいところよ。母さんだって認めるのにやぶさかではないわよ」
   捨てられた犬や猫を、見捨てられないからと、拾ってくるのだ。それを受け入れる家族も、まぁ太っ腹といえば太っ腹だろう。
  「で、も、ね」
   ああ説教がはじまると、はじめは心の耳栓を準備する。
  「後先考えないのが、あんたの短所よ。もうあんたの服はないんだから、出来上がるまでそれを着ときなさい。とってもお父さんのは貸せないわ。だから、わたしのお下がり。こんど破ったりしたらしょうちしないわよ」
   ぶちぶちと、説教プラスお説教。
   はじめが着ているのは、女もののくるぶし丈のスカートに白いエプロン。ブラウスにベスト。とどめは、赤いずきんである。
  「気をつける………」
   しゅんとつぶやくはじめに、母親はとどめの一撃を加えた。
  「そう。わかったなら、はい」
   バスケットにはいったお菓子とワイン。
  「?」
  「これを、おばーちゃんに届けてちょうだい」
   ゲッとばかりに後退さるはじめだった。
  「この格好で、外に出ろって?」
  「そうよ」
   母親がけろりんぱと肯定する。
   こういうときの母親には逆らうだけ無駄なのだと、はじめは経験上知っている。
  「う〜」
   だから、唸りながら、バスケットを受け取ったのだ。
  「そうそう、森の中を通るのは危ないからダメよ」
  「へーい」
   生返事をして、はじめはしぶしぶ家を出たのである。
 

 ◆◆◇◇◇◇◇
 

 ずきんのおかげで顔が隠れるのが、不幸中の幸いだった。
   なるべく友人に気づかれないようにと、うつむき加減に歩くはじめである。
   しかし、こういうときに限って、世間様は目敏かったりするのだ。
   ちょうど町から帰ってきていた年上の幼馴染みが、はじめを見つけた。
   知らん顔をしてすまそうにも、相手は何でもひとより優れているエリートさまである。
  「ああ、やっぱり。はじめくんじゃないですか。いったいどうしたんですその格好は」
   高い位置から降ってくる明智の呆れたような声。
   上目遣いに明智を睨みつけて、
  「ダメにしちゃったんだよっ」
   フンと横を向く。
   町から帰ってくるたびに何かとからんでくる明智が、幼馴染みとはいえちょっとばかり苦手だったりする。
  「おやおやご機嫌斜めですね。今度は何を助けたんでしょうねぇ。いいかげんにしておかないと、自分で自分の首を絞めてしまいますよ」
  「明智さんには関係ないだろっ」
   吐き出すようにして言うはじめの顎を手で持ち上げて、
  「心配してあげてるんですよ。君は、わたしの可愛い幼馴染みですからね」
  「………心配してなんていらない。それに、可愛いなんて言うなっ!」
   真っ赤になって怒鳴る。
  「そんな格好をして怒鳴っても、こわくありませんよ、赤ずきんちゃん」
   くすくすとふくみわらいまでする明智に、
  「ばかっ。明智さんのおたんこなすっ!!!」
   真っ赤になって駆け出したはじめだった。
   その背中に、
  「寄り道しないでお使いするんですよ」
   明智の忠告が突き刺さる。
  (明智さんのバカやろう。いつまでオレのことガキ扱いすんだよっ。オレがガキだったらあんたなんかオジンじゃないかっ!!!)
   歳より若く見える明智だが、はじめの記憶が正しければ自分よりも10才くらいは年長のはずである。
   プンプンと腹を立てながら、はじめはずんずんと歩を進めた。
   なんだか、ひとが自分をじろじろと見ているような気になって仕方がなかった。
  (う〜)
   気のせいなのか、事実なのか。
   わからないが、どうにもイヤでたまらない。
  (もういいやっ)
   だから、はじめは、森へと分け入った。
   ひんやりと薄暗い森。
   針葉樹のつんとした香り。
   細い踏み分け道が、木の間越しの陽射しにぼんやりと浮かんで見えている。
  「気持ちいいじゃんかよ」
   他人の視線がない森の中、自然背中が伸びる。
   ちょっと遠回りになってしまうものの、今の自分をあまり見られたくないこともあって、都合がいい。
  「あーあ。とっとと済ましちまおう」
   伸びをしたはじめは、目指す祖母の家にざかざかと向かうのだった。
  (あり?)
   ぼりぼりと頬を掻く。
   ぐるりと周囲を見渡して、
  「迷っちまった…か?」
   はじめは呟いた。
   どこで間違ったのか、道は一本のはずなのに。
  「うーん。どーすべぇ」
   引き返すしかないだろう。
   この道を通ったのは、かつて父親と一度だけ。
   迷ってもしかたがないと言えば言える。しかし、あの時も、一本道だった。
   まあ、もともとが猟師たちがつけた踏み分け道だから。道自体が変わってしまったと思って間違いではないのだろうが。
  (しゃーない。引き返すか)
   振り返ったはじめはその場に硬直した。
   道がないのだ。
  「うっそー」
  (なんでなんでなんで???)
   シュバルツバルトの深い森。
   魔物が住むという噂がある。
   しかし、いまどきそんなことを信じる者などいない。
   ―――多分。
   はじめもどちらかといえば、リアリストに属するので。
  「道があるんだから、進めばいいや」
   おまけに、楽天家でもある。
   それがいつも良い目を出せばいいのだが………。
   懲りない性格が、丁と出るか半と出るか。
   それは、なかば、賭けだったりするのだ。
   方向感覚も失せ、体内時間もあやふやで。
   後ろを振り向けば、『眠れる森の美女』の逆バージョンで。
   はじめは半分自棄だった。
   矢でも鉄砲でももってこいである。
  (なるようにしかなんないんだもんな)
   自分で自分に言い聞かせながら、とりあえず、目の前に伸びている踏み分け道を逸れずに進む。
   やがて現われたのは、石造りの壮大な城。
   錬鉄の優美な門には、手を触れるのがためらわれるほど蔦がびっしりと絡んでいる。
  (すげ……)
   ふと見上げれば空は、重苦しい鉛色。
   森の木々も、黒々とした常緑樹ばかり。
  (あ、怪しすぎる…)
   思わずおののくはじめだった。
   かといって退くもならず。
   ならば、進むしかない。
   ないのだが。
   何度目かの認識に、はじめは唾を飲み込み進む。
   その時、きゅるるるるぅと、はじめの腹が鳴った。
  「腹減った〜」
   ぽそりと呟くはじめだった。
   そう、朝食べてから、水の一滴も飲んでいないのだ。
   かといって、祖母に持ってゆく菓子とワインをガメるわけにもゆかず。
   視線はバスケットについつい泳いでしまう。
   もとより、食い意地が張っているはじめである。欲望に負けてしまいそうだった。
  「腹減ったよ〜」
   はじめがその場にへたり込みそうになった時、蔦の絡んだ門が、ギィ〜と不気味な音を軋ませて開いた。
   あまりにも計ったようなタイミングのよさに、
  「ご…招待……?」
   おどける口調が、震えてしまう。
   ぐぅっと唾を飲み込んで恐る恐る覗き込めば、門の奥、不気味に赤い血色の薔薇が、石畳のアプローチの両側にびっしりと花開いている。
   こぼれるはなびらは、まるで赤い絨毯。
   薔薇のアーチは剣を捧げる騎士の列のようで。
   気圧されたはじめは、それでも恐る恐る足を踏み入れた。
   どれくらい進んだだろう、城の入り口が見えてきた。
   そうして、お約束。
   ほっと、気が抜けたその時、薔薇の一枝が、はじめのずきんに引っかかった。
   引っ張るとわさわさと薔薇がついてくる。
   動けなくなったはじめがおたおたとしている間に、ポキンと音をたてて枝が折れた。
  「ありゃ、折れちまった………」
   はじめが独り語ち、枝を眺めていると、アプローチの彼方、石の階段の上にある城の入り口が軋みながら開いた。
   現われたのは、ひとならざる野獣。
   ここで怯えるのが礼儀というものなのだろう。
   見下ろしてくる、遠目にも炯と燃える黄金のまなざし。
   はじめもまた、両目を丸く見開いて、登場した相手を凝視した。
   顔はひとではない。
   大きく裂けたくちびるからこぼれる巨大な白い牙。それは、紛うことなき肉食の証。
   しかし、首から下は、人間である。
   隙のないそれでいて優美な身ごなしにつれて、上質の絹らしい着衣が優雅にからだにからみつく。そのさまは、思わず見惚れるほどで。
   人間じゃないにしても、身分のある存在だと思えた。
  (魔物の、王………?)
   ごくんと、はじめの喉が鳴る。
  「空腹だというから招いてさしあげたというのに、わたしの大切な薔薇を傷つけるとは。それが君の礼だというのですか」
   深い響きのテノール。
  「あ…ごめん」
   慌てたはじめはそれだけを言うのがやっとだった。と、
  「おや、君は、少年ですね。それが、君の好みなのですか」
   すこし、からかうような響きのこもった声。
  「ち、ちがう。これ、は、服が全部ダメになっちまったから…それで、おふくろが………」
   わたわたとしたはじめの説明は、遮られた。
  「まぁ、どうでもいいことですが。それより、君は、わたしの薔薇を手折りました。それが、君の意思であろうとなかろうと、結果はそうですね。いいでしょう、その枝は君に差し上げましょう。そのかわり、君はこの城の住人になるのですよ」
   一方的な主張にはじめが反論しようとするより早く、軋む音を響かせて、錬鉄の門が自然に閉じた。
   今来た道を駆け戻ったはじめが引っ張ろうが押そうが、どんなにしても、門は開かない。
   よじ登ろうとすれば、蔦がまるで意志を持っているかのように邪魔をする。
   途方に暮れて地面にへたり込む。
   ふわりと薔薇の香りを漂わせて魔物が近づいてきた。そうして、魔物ははじめを立ち上がらせたのだ。
  「逃げることはないでしょう。別に君を取って喰うとか、奴隷にするとか言っているわけではないのですから」
   剣呑な台詞に、はじめの顔が青ざめる。
  「で、でも、オレ、これをばーちゃんに届けないと…」
   バスケットを目の前に持ち上げる。
  「そんなことなら、わたしにだとて可能ですよ。だれかに届けさせましょう」
  「あっ」
   魔物は、バスケットを取り上げた。
  「ああ、これから一緒に暮らすのですからね。わたしは、高遠というのですよ。君は?」
  「ん?」と、訊ねてくる魔物――高遠に、
  「………はじめ」
   と、返す。
   こうして、はじめと高遠は森の奥に鎖された城で共に暮らすことになったのである。
 

 ◆◆◆◇◇◇◇
 

 はじめの母の心づくしの見舞いの品は無事に祖母のもとに届けられた。
   しかし、はじめが帰らない。
   はじめの捜索が行われた。
   しかし、はじめの行方は杳として知れない。 
   日々が無為に過ぎるうちに、村人たちに諦めの色が現われ始めた。
   声に出しては言わないが、はじめは森で迷って死んだのだろう―――と、そう思っているのが見え隠れするのだ。
   諦めきれないのははじめの両親と祖母、それに幼馴染みの明智だけだった。
   しかし、明知には町での仕事がある。いつまでもはじめの捜索に関わっていられない。そうして、後ろ髪を引かれる気分はたっぷりとありながらも、明智は町に戻っていったのだ。
 

 ◆◆◆◆◇◇
 

「あのな、高遠」
   テーブルについたはじめは、テーブルを隔てて正面の位置に座っている高遠に呼びかけた。
   きらきらとシャンデリアの灯を弾く銀食器と玻璃のグラス。
   真っ白なテーブルクロスの上に、これでもかというほど豪華なフルコースが並んでいる。
   気のせいではなく、美味しそうな湯気が「食べてくれ」と主張している。
   いつもならその主張に真っ先に飛びつくはじめだったが、居心地が悪くて食べる気にならないのだ。
  「なんです」
  「これ、あんたの趣味なのか」
   ビラビラしたレースの襟飾り。
   袖口まわりにも、同じ趣向の蜘蛛の糸で編んだようなレースがついている。
   そう、はじめは、まだ、女装のままなのだ。
   しかも、レベルアップバージョン。
   赤ずきんが飾りといえば飾りの、シンプルとはいかなくてもかろうじて許せるだろう範囲の民族衣装。しかし、今着ているのは、レースにフリルにリボンがこれでもかとつけられたクリーム色のドレスなのだ。
   絹の海におぼれるような、壮絶な布の質量。それに、貴金属類。
   指輪くらいなら、まぁ許容しよう。しかし、腕輪に首飾に耳飾。胸元のブローチに、結ってもいない髪に挿されたダイヤのピン。
   おまけに化粧ときたひには、はじめは乾いた笑いをこぼすよりなかった。
   ピンクの口紅、アイシャドウ、チーク。わけのわからない化粧品のビンや用具が、ドレスや装飾品と同じくひとりでに飛び上がり、逃げるはじめを追いかけて、最終的にマニキュアまでもほどこしたのだ。
   もちろん、自分の姿が怖くて、鏡なんか見てはいない。
   細く華奢なヒールの靴。足の甲にストラップを渡して留めるようになっていた。
   足を捻りそうな踵の高さ。一歩を踏み出すのがこわくて、それでも恐る恐るどうにか階段までたどりついた。そうして、次は階段をどうやって下りようかと、マジで悩んでいるはじめだった。
   ドレスの裾を踏みそうだし、踏んでしまったら、高い階段を転がり落ちそうで。
   靴を脱いでしまえばよさそうなものだが、靴のストラップに手が届かない。なぜならコルセットをつけられていて、動きも自由にならないのだ。
  (これって、拷問だよ〜)
   靴が脱げないなんて理由で死にたくなんかない。
   それでうなっていたはじめに背後から声をかけたのが、高遠だった。
  『これはこれは』
   その感想をどう受け止めればいいのか、はじめはしばらく考えた。
   この格好をさせたのはどうせ高遠なのだ。気色悪くても我慢すべきだ。
   このときは開き直ったはじめなのだったが………。
   すぐに後悔した。
  『うわっ』
   高遠に横抱きにされたのだ。
  『なっなっ…た、たかとお』
   なさけなく上擦った声。
  「お、おろしてくれ」
  『だから、おろしてあげるのでしょう?』
  (こ、こいつ性格、悪い………)
  「下ろしての意味が違う」
  『どうちがうのです? 階段を下りられない君を助けるためには、こうするしかないでしょう』
  『な、なにもこんな抱き方をしなくても……』
  『ああ、これですか。いいじゃないですか別に。どちらにしても重いめにあうのはわたしなのですから、抱き方くらい好きなようにさせてくれてもかまわないでしょう』
   なんというか、変な理屈をこねる高遠に、はじめはどう答えればいいのか混乱したのだった。
   そうして、今だ。
  「女装は、君の趣味でしょう」
   高遠はワインの入ったグラスを一旦テーブルの上に戻して、そう返した。
  「ち、ちがうっ」
   ふるると震えるはじめに、
  「冗談ですよ。ただ、ここには女もののドレスはあっても、男ものはわたしのしかありませんから」
  「そうなのか? なら、おまえのを貸してくれ」
   がたんと椅子から立ち上がり詰め寄るはじめに、
  「サイズが合わないと思いますが、試してみますか?」
  「う〜」
   力は高遠には適わない。それは、さきほど体験済みだ。身長も高遠のが高い。しかし、自分のほうが横に大きいような気がする。
  (気のせい…じゃ、ないよな)
  (どーせ………) 
   むくれてしまうはじめを、
  「そうむくれないで。そのうち、君のサイズにあった男物の服を用意しますから、それまで我慢してください」
  「……そのうちって、いつだよ」
  「…さぁ、それは………。まぁ、ここにいるかぎり、君のその姿を見るのはわたしだけですから。今更恥ずかしいこともないでしょう。我慢してください」
  (いまだって、じゅーぶん恥ずかしいわっ)
   怒りを食欲に転換させて、皿を取り上げるはじめだった。
   自分と高遠しかいないはずの広大な城。
   しかし、食事はもとより家事一切は、自分が知らない間に終わっている。
   美味い食事に文句はないが、気にならないといえば、嘘になる。
   高遠に遊ばれるのはイヤだったが、相手になるのは高遠しかいない。
   うんざりするほど膨大な蔵書。だからといって独りで静かに本を読んだりする趣味はないから、宝の持ち腐れである。 あまりにすることがなくて、暇で暇でたまらなくて、結局高遠を探して遊んでもらうことになる。
   高遠の性格が悪いのは最初の日に知ったが、決してそればかりでないこともわかってきたはじめだった。
   薔薇の手入れは高遠の趣味らしく、一日も欠かさない。
   約束どおり男物の、はじめにぴったりと合うサイズの服ができてきた。
   目が覚めれば、枕元にあったのだ。
   そうして、動きやすくなったはじめも高遠の薔薇の手入れを手伝うようになっていた。
 

 日々が過ぎてゆく。
   少しずつ少しずつ、はじめは高遠にうちとけた。
  もともとが、さして他人を嫌わない性格である。
   そうして気に入ってしまえば、一方的にでも友達と決めてかかる。
   それは、はじめの憎めない一面でもあったが…。


 ふと気がつけば、2週間近くが流れていた。
  (みんな心配してるよな)
   豪華な広い寝室。
   天蓋つきのベッド。
   はじめが5人はゆうに眠れるだろう。
   あっちにコロンこっちにコロン。
   眠れない。
  (オレがいないあいだに家が火事になったり、ドロボウに入られたり、おやじやおふくろやばーちゃんが病気になったり死んだり………)
   不安ばかりがふくらんでくる。
  (あいつらも元気だろーか)
   拾って育てた犬や猫。
   ちょっとばかり苦手な、幼馴染み。
  (あ、そうだ)
   ぽんと手を打つ。
  「確かこの辺に………」
   ベッドから下りたはじめは、何かを探し始めた。
   以前高遠がくれた、銀の鏡。
   細工はみごとだが鏡を見て喜ぶなどという趣味はないので返そうとした自分に、高遠が言ったことば。
  『ご両親に会いたくなれば、これを覗きなさい。君が望むものを見せてくれますよ』
  「あ、あった」
   木製のチェストの中に放りこんで、そのままわすれていた。
   高遠のことばを疑ったわけではない。
   ただ、何故だかためらわれたのだ。
   見て、家族が普通どおりの生活をしていたら―――そんな不安があったのかもしれない。
   考えてみれば、そんなことなどありえないのだが。
   引っ張り出した鏡の鏡面に息を吹きかけ、袖で拭う。
  「みんながどうしているか、知りたいんだ」
   呟く。と、はじめのことばを待っていたかのように、刹那の間もおかず、鏡面から光が迸った。
   硬直してそれを見つめているはじめ。
   やがて、様々な光の乱舞はおさまり、なめらかな凪いだ湖のような銀色の中に現われた映像。
  「おやじっ、おふくろ、ばーちゃんっ」
   まるでそこにいるかのような、3人。
   彼らの足元にいる犬や猫。
   泣いている母親を、父と祖母が慰めているのだろう。
   みんなが、自分のことを心配しているのだ。
   目が、喉が、鼻の奥が、熱くなる。
  (やべっ)
   思った時には遅かった。
   はじめは、枕に突っ伏し、声をころして泣いた。
 

朝食の時間だった。
  「はじめくん、どうしました?」
   高遠が顔を覗き込んでくる。
  「なんにも」
   淋しい、家族に会いたいなんて、恥ずかしくて言えない。
   どんな顔をして言えばいいのだろう。
   わからない。
   あれから毎晩、はじめは鏡を覗き込んでいる。
   そうして、切ないまでの恋しさに、声をころして泣いてしまうのだった。
  「熱でもあるんですか」
  (げっ)
   額に、高遠の先細りの優雅な手が当てられる。
   思わず身を退こうとするはじめだった。
 

 ◆
 

 薔薇の手入れも終わり、泉水のほとりに腰かけて、はじめはぼんやりとしていた。
  (いい天気だよな)
   木の間ごしの琥珀色の陽射しが、地面に琥珀色の模様を描く。
   そこここをリスや野鼠トカゲなど、色々な生きものが駆け回っている。
   寝不足もあって、あくびばかりが出てしまう。
   そのたびに、彼らはビクンと怯える。
   それでもこの庭から逃げ去ってしまわないのだが。
   彼らにとっては、高遠よりも自分のほうが恐ろしい存在らしい。
  (性格は悪いけど、やさしいとこあるもんな………)
   あの獣の顔だとて、馴れてしまえばなんということもない。
   友人とすれば、上等の部類に入るだろう。
   そんなことをなんとなく考えているうちに、いつのまにか居眠りをしていたらしい。
   何が、自分を起こしたのか、わからなかった。
   ただ、突然、心地好いまどろみから引きずり出された。
   その理由がなになのか、ぼんやりと霞みがかったような頭で懸命に捉えようとする。
   目の前にある、欝金色の闇。
   この色には記憶があった。
  (え…と、…………たしか)
   はっと、なった。
   がばっと立ち上がりかけて、膝が砕ける。
  『だいじょうぶですか』
   高遠のいつもと変わらない声。
   それが、はじめの感情を昂ぶらせた。
  『ばっ、なんで、だいじょーぶなんだよっ! あ、あんなことしといてっ』
  『そうですか? 別段変なことではないでしょう。わたしは、君を愛していますよ』
   何気ないふうに告げられた、ことば。
   高遠の思いもよらないことばに、はじめは刹那硬直し、真っ赤になる。
   欝金のまなざし。
  『そーゆーんじゃないだろっ。オ、レ、はっ、男なんだっ!!! 男どーしでキスしてどーすんだよっ』
   息があがる。
  『愛している相手にキスをしたい、抱きしめたい、それ以上をしたい――自然なことだと思いますが』
   きっと血圧が上昇しているにちがいない。
  『男どーしでどこが自然なんだよっ』
   息があがる。
  『わたしは、別段気にしませんけど』
  『オ、オレが気にすんだよ』
  『そうですか?』
  『そうだよっ!』
   しかたありませんね、君の気が変わるのを待ちましょうか―――などと呟いて高遠が城に引き返してゆく。
   その背中に向かって、
  『ぜったい変わんないからなっ』
   と、はじめは叫んだ。
   それが、昨日のことである。
   はじめが思わず身を退いたとして、しかたがないと言えるだろう。
   どくどくとはじめの心臓が鳴る。
   自然顔が熱くなるが、
  「熱はありませんね」
   発熱にはいたらなかったのだろう。
  「だから、なんでもないんだって」
   払いのけようとして、手をつかまれた。
  「なんでもないはずがありませんよ」
  「なんでだよ」
   睨むはじめのまなざし。
   目元が赤い。
  「どうしてって、見てごらんなさい」
   はじめの背後を高遠が示す。
  「?」
   振り向くはじめに、
  「以前の君ならこれくらいペろっと平らげていましたよ」
   食器の上ですっかり冷めてしまった食事。
  「あ…」
  (もったいない……)
   罪悪感。
   思ったものの後の祭り。
   胸がふさがっていて、これ以上食べられそうにもない。
  「まるで餓えた獣のようにみごとな食欲でしたのに…ね」
  「ご、ごめん」
   しゅんとしおたれたはじめに、
  「何も怒っているわけではありませんよ。心配しているだけです」
   少ししゃがんで覗き込んでくるのは、欝金のまなざし。
   とろりと溶けた、黄金色。
   いつもの皮肉っぽさがなりをひそめ、真摯なまでの光を宿している。
   そんなふうに感じた。
  「…………」
  「何が君をそんなふうにしたんです? 喋ってごらんなさい」
   静かなトーンの声。
   それは、はじめの心を動かした。
  「…そ、の……なん、だ、ホーム・シックってやつ?!」
   自分で言っていて、気恥ずかしい単語。
   つい語尾が跳ね上がる。
   我ながら、不似合いな。
   高遠が笑うのではないかと思えば、自然視線が揺れる。
   だから、高遠がどんな表情を瞳に宿したのか、はじめは知らない。
   欝金のまなざしが、揺れる。少し淋しそうな、何かを決意するような、色を宿して。
  「では、お戻りなさい」
  「え?」
   思いも寄らない高遠のことば。
   てっきり、返してくれないと思い込んでいたのだ。
   大きく瞠らかれたはじめの褐色の瞳。
   今にも眼窩からこぼれ落ちそうだ。
   クスリ…
   高遠が笑いをこぼす。
  「帰さないと思っていました? わたしは、鬼ではありませんよ」
  「でも………」
  「もちろん、ずっと戻っていていいとは言いませんけどね」
   片目をかるくつぶり、くちびるの前に指を3本立てる。
  「3日です。君は、3日後にはわたしのところに戻ってこなければいけません。わかりましたね。これさえ守れるなら、わたしは君を家に戻してあげられます。たった3日ではなおさら里心がつくと思うなら…」
  「いいっ。3日でも帰れるならっ」
   焦るはじめに、何かを懐から取り出す。
   それは、金の鎖に通されて、高遠の胸元にぶら下がっていた。
  「では、これを」
   それは、深い緑の小さな石が嵌めこまれた指輪だった。
   細かな彫金がほどこされている金の指輪を、偶然なのかわざとなのか、左手の薬指に通されて、
  「ちょ、ちょっとこれは…」
   はじめが狼狽える。
   抜こうとして、
  「そのままですよ」
   高遠に止められる。
  「どーゆーことだよっ」
   食ってかかるはじめに、
  「それは、魔法の指輪ですから。君が次に指から外して枕もとにおいて眠れば、翌朝にはこの城へと戻っています。しかし、それ以外で抜いてしまえば、君はどこへ行ってしまうかわかりませんよ。それは、月かもしれないし、ことばも通じない異国の地かもしれません。そういう呪文をこめていますから」
   恐ろしい台詞だった。
  「じゃ、じゃあ、これは、この城に帰る前の晩まで抜いちゃダメってことだな。……まったく、そんなぶっそうなもんをなんだってこんなややこしい場所に入れんだよ」
   ぶちぶちと呟くはじめに、
  「わたしの気持ちですからね」
   しれっとして言ってのける高遠だった。
  「!!…………」
   二の句を継げないはじめは、真っ赤になったまま口をパクパクと開いたり閉じたりしていた。
 

 ◆◆◆◆◆◇◇
 

 気がつけば、家の庭に立っていた。
   手に持っているのは、両手いっぱいの深紅の薔薇の花。それに、宝物の入った小さな箱。
   あいかわらず本気なのだろう口調で、
  『結納の品ですよ。ご両親に』
   と、手渡された記憶がある。
  (オレんこと本気で嫁にする気なのか??)
   左手の指輪と箱を見比べながら、脱力するはじめだった。
  「はじめっ」
   その時、ばたんと大きな音がしたと思えば、それよりもひときわ大きな声がして、
  「うわっ」
   抱きしめられていた。
   深紅の薔薇が音もなく地面に散らばる。
  「お、おふくろ………」
   ぎゅうぎゅうと力まかせに抱きしめられて、息が苦しい。
   それでもひとしきり確かめて納得がいったのか、ようやくきつい抱擁からはじめを解放して、
  「ばかっ!」
   パシンと、はじめの頬が鳴る。
  「イテッ」
   音ほどには痛くない。
  「親をこれだけ心配させて、いったい今までどこにいたのよっ」
   涙を流しながら母親が喚く。
  「…ごめん」
  「もういいだろう? ほら、家にお入り」
   そう言って宥め役を買って出たのは、父親だった。
  「ごめん、おやじ」
  「しんぱいかけて、ごめん、ばーちゃん」
  「ほんとにこの子は」
   祖母が涙ぐむ。
  「いったいこの荷物はどうしたの。それに、その格好」
   心配事のなくなった母親は、すぐに現実に立ち返る。
   そうして、そこには、父がテーブルの上に置いた薔薇の花と箱とを、矯めつ眇めつする母がいた。
   はじめの上着の裾を引っ張り、布の具合や縫い目を確かめる。
  「こんな上等なの、どーしたの」
  「それに、その左手」
   目敏い母のことばに、ギクンと固まる。
  「まさか、誰かと結婚したとか言うんじゃないでしょうね」
   当たらずとも遠からずというか、なんというか。
   高遠はどうやらそのつもりでいるらしいということを考えると、なんと答えるべきなのだろう。
   はじめが悩んでいると、
  「きゃあ」
   と、母親の喚声がその場に響いた。
  「はじめ、なんなのこれは、ちゃんと説明なさい」
   蓋が開いた箱の中身。
   それは、様々な貴金属。
   一般的な村の住人には、手の届かないあまりにも高価な品々。
   金、銀、瑠璃、真珠、珊瑚、ルビー、エメラルド………きらきらと光を弾く、たくさんの宝石。
   説明と詰め寄られても、困ってしまう。
  「あんたまさか盗ってきたんじゃないでしょうね」
   母親の不安そうなことば。
   やはりここは、高遠のことばをそのまま伝えるべきなのだろうか?
  「はじめ、正直に話しなさい」
   しずかに父親が諭す。
   ハァと溜息をついて、はじめは、これまであったことを説明したのだ。
  「つまり、なにかね? これは、その高遠とかいう化け物がおまえのことを嫁にしたいからと寄越した結納だというんだな」
   父親のまとめに、
  「………そういうことだと、思う」
  「嫁になるつもりなのか」
  「そんなこと、できるわけないじゃん」
  「それで、おまえは、3日後にはまた化け物のところへと帰るつもりなんだな」
  「約束したからなぁ…」
   広くもない居間に沈黙が降り積もってゆく。
  「うむ。約束は守らなければならないな」
   なにかが一本抜けたような思考。
  「かあさんのせいだわね。わたしがあんたに女ものの服を着せて、そのうえお使いになんか出したりしたから」
   しゅんとなった母親に、
  「そーじゃないって。高遠にそんなのは関係ないってば」
  「そう?」
  「そー! だいたい、女装させられたのだって、オレが自分で自分の服をパーにしちゃったせいじゃないか」
  (高遠だってオレを女装させたけど。女ものの服っきゃなかったからだし。まぁ、結局男物を作ってくれたからいいんだけどさ)
  「まぁいい。おまえが無事だとわかったんだ」
   ぽんと、父親の手が頭にのる。
  「そーだねぇ。ほんとよかったよ」
   祖母が呟く。
  「……そうね」
   母親の複雑そうな呟きが、いつまでもはじめの耳に残った。
   今夜眠って目覚めれば、高遠の城に戻っている。
   それがイヤではない自分。
  (ま〜た嫁になれって言われるんだろうか…)
   すっかり嫁ぐ娘のような扱いを受けた3日間。
   時々、ふっと、高遠のあの魁偉な容貌が脳裏を過ぎった。
   恐ろしげな肉食獣の顔。
   しかし、不思議と穏やかな雰囲気を身にまとって、森の生き物たちさえも高遠を恐れてはいない。
   はじめだとて、高遠を恐れる気持ちなどは持っていない。
   ただ、嫁になれといわれて、「はい」と返事ができるはずがないのだ。
  (男だもんよぉ………。せめて、オレか高遠のどっちかが女だったら、悩まんよな)
   そこまで考えて、ハッと、気づく。
   高遠を受け入れている自分に。
  (すっかり毒されてんじゃん、オレってば)
  (やばいやばい)
   父親は仕事に戻った。
   理由がわかって安心したのだろう。
   もともとが不在がちの父親は、はじめの居場所さえわかっていれば安心して働けるということなのだろう。
   問題は母親だった。
   高遠に頼んで、時々は帰してもらえるようにするからさ――と、約束しなければならなかった。
  (えっと、寝る前に、指輪を抜いて枕もとに置いておくんだったよな)
   指輪を抜こうと、はじめが指に手をかけた時だった。
   がしゃんと何かが壊れる音がして、
  「きゃあっ」
   居間のほうで悲鳴が響いた。
  「おふくろっ?」
   慌てて居間に駆けたはじめは、床に散った血にクラりとその場にしゃがみこんだ。
  「どーしたんだよそれ」
   しばらくして、立ち上がったはじめは母親の手を取った。
  「あ、ごめんね。床の掃除してたら、ガラスを割っちゃって」
  「で、割れたガラスを拾ってたら指を切ったってか」
   びっくりすんだろうとぶつぶつ言いながら傷口を見れば、思ったより広くぱっくりと裂けている。
  「うわ、これ、医者いかないとダメだろ」
   村で一軒の医者のとこまで母親を送り届け、ドクターストップを申し渡された。
   傷口を縫った医者は、『しばらくは、家事をしてはいけませんよ。ばい菌でもはいれば、指を切断しなければならなくなるかも知れませんからね』と、言ったのだ。
  「ごめんねぇはじめ。約束破らせちゃって」
  「しかたがない。高遠には待ってもらう。あっちに行ってから謝るよ」
   そうして、はじめは、母親に代わってしばらく家の仕事に追われることになった。
 

 ◆◆◆◆◆◆◇
 

 高遠が死にかけている。
   錬鉄の門に続く薔薇の道。
   倒れている高遠は、ピクリとも動かない。
   ほろほろとこぼれる赤い花びらが、まるで高遠の流す血のようで。
  (高遠っ)
   駆け寄ろうとするはじめを、薔薇の枝が遮る。
  「………おっ」
   自分の声で、はじめは目覚めた。
   ドキドキと心臓が激しく波打っている。
   生々しい夢。
   はじめは、伏せたままにしていた鏡を手に取った。 
  「高遠を見たい」
   恐る恐る覗きこむ。
   そうして、そこに、夢で見たそのままの高遠を見出した。
   ズキン
   はじめの心臓が跳ねる。
  (ああ…)
  (約束を破ったから)
   それは、罪悪感だったろうか。
   自分が約束を破ったせいで、高遠が死んでしまう。
  (いやだ)
   高遠が、死ぬ。
   いなくなる。
   あの、性格が悪い、人ならざる存在が。
  (そんなの)
   からだが、震える。
  (ダメだ)
   すっと、血の気が引いてゆく。
  (ダメだ)
  (死んじゃ、ダメだっ)
   震える手で、はじめは、指輪を引き抜いた。
   眠れないとわかっていたが、それを枕元に置く。
   そうして、がくがくと瘧にかかったようなからだを抱きしめ、ベッドに仰臥した。
 

 ◆◆◆◆◆◆◆
 

 気がつけば、そこは、高遠の城。
   馴染んだ、天蓋つきのベッド。
   感慨に耽る間もなく飛び起きたはじめは、記憶にある順路を通り、薔薇の道を目指す。
   そうして、
  「たかとおっ!」
   虫の息の高遠を膝に抱き起こした。
  「高遠、死ぬなっ! 死ぬんじゃない」
   抱きしめる。
   心臓のあたりに耳を寄せる。
   トクントクン…
   今にも消え入りそうな、心臓の鼓動。
  「たかとー」
   ほかに何ができるだろう。
   はじめは虚しく名前を呼び続けた。
   幽かに、高遠の瞳が開いた気がして、はじめは顔を上げた。
   欝金の、まなざし。
   しかし、すぐに鎖される。
   死に瀕した獣の、諦観。
   そんなものを感じた。
  「いやだ。いやだぞ。オレは、おまえに死んで欲しくないんだ」
  「どうすれば、どうすればいい? おまえが生きてくれるんなら、なんだってしてやる。だから、死なないでくれ」
   きつく抱きしめ、そうして、叫んだ。
   その、悲痛な叫びが通じたのか、だらりと地面に伸ばされたままだった高遠の手が、はじめの手に重ねられた。
  「たかとおっ」
   はじめの青ざめた頬に、朱がのぼる。
  「ごめん。約束を守れなくて、本当に、ごめん。おふくろが、怪我して…」
   今更だと思いつつ、告げずにはおれなかった。
   本意ではないのだ。
   自分は、帰ってくるつもりだったのだ。
   約束を破るつもりなど、髪の毛の先ほどもありはしなかったのだ。
   結果的には、破ってしまったけど。
  「言い分けだよな。わかってる。どんな理由があっても、破ったことに変わりないって。でも」
  「いいんですよ。君が、理由もなく約束を破るような人じゃないことは、わかっていましたから」
   お使いの品を途中で食べたりしなかったでしょう―――。
   悲しいくらい、小さな、声。
  「高遠………」
   なにか、はじめ自身が意識していない心の深みから湧き上がってきた衝動。それに突き動かされて、はじめは、高遠のくちびるに自分のそれを重ねていた。
   これが、最初で最後になるかもしれない、くちづけ。
   そっと、ふれるだけの他愛のない。
  (こんなことなら、あの時にかまわないと言っておけばよかった)
   そうしていれば、後悔なんかしないですんだだろう。
  「………はじめくん」
   高遠が、はじめの頬に手を当てた。
   その時。
   ぐらり…
   大地が軋んだ。
   梢の鳥たちがいっせいに飛び立つ。
   高遠の手が、地面に落ちる。
  「たかとー」
   思わず高遠のからだを庇おうと、はじめは高遠にかぶさった。
   それくらい、激しい大地の揺れ。
   城が歪み軋む。
   薔薇の花が血の涙を流しながら、からだを捩じらせる。
   なにが起きているのかわからなかった。
   ただ、高遠だけは庇いぬきたかったのだ。
   どれだけの時間が過ぎただろう。
   からだの下の高遠に何か変化が生じているのを、はじめは感じた。
   おそるおそる顔を上げ、そうして、硬直する。
   いつの間にか大地の揺れがおさまっていることにも気づかない。
   ただ、それを凝視していた。
   膝の上、そこに、高遠の顔はなかった。
   そう。
   これまではじめが高遠だと認識していたはずの、肉食獣の顔。
   いつの間にか親しみを覚え、そうして怖さを感じなくなった、厳つい、顔。
   今、そこにあるのは、黒い髪、白い肌、通った鼻筋、いくぶん薄めのくちびる。そうして――――。
   紛うことのない、ひとの顔だった。
  「た、かとう…なのか?」
   これだけは変わっていない、自分を映す欝金のまなざし。
  「………はじめ…」
   その声もまた。
  「君のおかげで、魔女の呪いが解けましたよ」
  「魔女の呪い?」
   はじめの瞳が大きく瞠らかれる。
   そんなはじめの頬に触れながら、
  「そう。告白されたものの受け入れなかったせいで、魔女に呪をかけられたのですよ。わたしが適わない相手ではなかったのですが、あの時は油断をしていたようですね。我ながらぶざまな目に合わされたものです」
   くすくすと思い出し笑いをする高遠を見下ろし、
  「聞いてもいいか」
  「なんなりと」
   高遠が上半身を起こす。
  「呪って、どんな呪だったんだ?」
  「"わたしが愛した汚れのない少年の、混じりけのない愛"を得られなければ、元の姿には戻れない。そういう呪です」
  「それってば、不可能に近くないか?」
   魔女の恨みつらみの深さがしのばれる呪の内容に気を取られたはじめに、
  「そうではなかったことが、証明されましたよね、今ここで。わたしの呪が解けたということは、わたしたちは、両想いと言うことですね」
   結納の品が無駄にならなくて何よりです……。
  (ゲッ)
   瞬時にして固まったはじめの視界一杯に、高遠の整った容貌が近づいて来る。
  (そういえば、どさくさに紛れて、そんな感情を感じたような。でも…)
  「そ、それは………」
  「シッ。だまって」
   とろけるような、甘いささやき。
   甘いささやきが、はじめの心をとろかせる。
   ちかづいてくる、高遠。
   そうして、ふたりのくちびるは、一つに重なりあった。
 

 シュバルツバルトの森の奥で、一つの呪が解けた。
   それは、淋しい魔法使いが生涯の伴侶を得た、かけがえのない瞬間であった。
 
DAS ENDE
START 10:58 2001/05/18
UP    15:18 2001/05/27
 
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