闇 |
夏の盛りの暑い日ざしも、蝉の声さえも、そこには届いてはいない。 茶色と白がシックなコントラストを見せるリビングに、はじめは立ち尽くしていた。 握りしめた拳が、小刻みに震える。 打ち下ろす先を選べなかった拳である。 ゆったりとしたソファに腰を下ろしたまま、青年がはじめを見上げていた。薄暗い室内に、窓から射し込む陽射し。照らし出されているのは、白皙の美貌である。印象的な琥珀の瞳が細められ、滴る血のように赤いくちびるの端がじわりともたげられる。 はじめの背中を、冷たいものが流れ落ちた。 「なんでっ」 吐き捨てるように、はじめが叫ぶ。 「なんであんなことっ」 抑えても抑えきれずに、声が、震える。 「わかりませんか」 はじめとは対照的に玲瓏と涼やかな声音が、揶揄するように薄暗い室内に響いた。 本当は知っているだろう――と、琥珀のまなざしが、はじめの鳶色の瞳を覗き込んだ。 「……っ。わかるわけないだろ」 先ほどまでの勢いをなくした声が、力なく転がり落ちる。 ゆらり――と、白皙の青年が立ち上がり、はじめの両肩に手を置いた。そうして、上半身をかがめてはじめの顔の至近距離で、 「うそつき」 そう、ささやいた。 「君は僕の気持ちを知っていましたよ。だから、彼女を僕に紹介したんです」 ぬけぬけと………。 たしかに、そう聞こえた最後のひとことに、はじめの全身が熱くなる。 「だから……だからってあんなっ」 「どうして? わかっていたでしょう。ぼくが愛しているのは、君です。なのに、君は、知らないふりをして、ガールフレンドだと彼女を私に紹介したのです。それがどれだけ酷い行為か、君にわからなかったとは言わせませんよ」 じわりと、肩を握っている青年の両の手に、力がこめられる。 「まったく。人間とは厄介な存在ですね。認めればすむことを認めたくないと駄々をこねたあげく、策を弄して自分で自分を追いつめるなんて」 琥珀のまなざしが、光を弾いた。 「あんただって、人間だろ」 力なくこぼれ落ちたそれは、長く、聞きたくても聞けなかったことである。 まさか、こんな状況で口にすることになるだなどと、はじめは思ってもいなかった。 そう。はじめて彼――高遠と名乗るこの男――と出会った時から、このひとことが胸の中にあった。 それは、おそらくは、高遠が人間であればいいという、漠然とした望みであっただろう。 なぜなら――― ◇◇◆◇◇はじめと高遠とが出会ったのは、去年のことだった。 肝試しと称して入り込んだフミたちを探すために、おばけ屋敷と子供たちの間で気味悪がられていた洋館に行ったのだ。 実は結構怖がりのはじめだったが、夕方四時を過ぎても帰ってこない小学生をほっぽらかしにしておくわけにもいかなかった。四時といえば、小学生の門限にしても、早すぎる感があるだろう。しかし、実のところここ数ヶ月というものは、夏休みというだけではなく、いつにもまして巷(ちまた)は物騒なのだ。いまだ犯人が逮捕されていない猟奇殺人犯がうろついている。 猟奇殺人―――被害者は、青少年にかぎられている。そう、幼稚園から中高校生くらいまで。男女のこだわりはないらしい。被害者の”断片”――それは、指だけだったり、頭部丸ごとだったり、足や手と言った具合だったが、あきらかに食い散らかされた後とわかる歯形つきで転がっている――が、月に二〜三人発見されるのだ。だから、できるだけ子供たちをひとりで外には出さないように――というのが、教育委員会だけではなく警視庁からの通達でもあったのだが、時は、夏休みである。こどもたちに、それは、酷だった。もっとも、フミたちがテリトリーとしているこのあたりからは、まだ被害者は出てはいない。だから、見つかってからでは遅いのだとはわかってはいるのだろうが、住人達はどこかのんびりと構えていたのである。 もうじき五時だった。 「よっこらせ」 と、かなり年寄りじみた掛け声をかけて、塀の下に開いている穴をくぐった。 滴り落ちる汗を拭うのも忘れた。 目の前に、圧倒的な植物の質量が立ちはだかっていたからだ。 庭一面の紅薔薇だった。ひとの背丈を追い抜いた丈高い満開の薔薇の木々が、からまりあって視界を遮ろうとする。風が立つたびに、ざわりと揺れて、ムッとするほどの香気がたちこめる。 フミたちが通ったのか、枝が折れている箇所がある。そこを、あちこち引っかけては薔薇の棘で傷を作りながら通り抜けると、まだ蝉が鳴き交わしている明るい空の下、繁った常緑樹を背景に、赤レンガ造りの洋館が建っていた。壁には、暑さにも負けてしまったのか、かなり強靭な生命力を持っているはずの蔦が、褐色の茎や髭根だけとなって微風に揺れている。 黄色くなった芝生。 干上がった泉水。 鎧戸が傾いて今にも落ちそうになっている上げ下げ窓。 あちらこちらと剥落(はくらく)している壁のレンガ。 薔薇の生命力とは、対照的だった。 勝手口らしいドアが開きっぱなしになって、建物の中にわだかまっていた闇を解放している。 「がきんちょどもぉ……ああ。あそこから入ったな」 唾を飲み込み、はじめは、ドアに向かった。 「しつれいしますぅ………」 心臓がドキドキするし、背中がぞわぞわと敏感になっている。何度も言うが、はじめは怖がりなのだ。ファミコンでもホラー系は、なるたけ避けているくらいである。内心で、『フミのバカやろう』と毒づいていても、無理からぬことだろう。 はじめが息を吸い込んで、『フミ』と叫ぼうとした時だった。 「わー」 とか、 「きゃー」 とか、大きな悲鳴が聞こえてきた。 ギクンと、その場で硬直したはじめの目の前を、足音高く走り抜けてゆくのは、いずれ見覚えのある六人組の少年少女だった。 「おいっ」 二つに分けて髪をくくっているフミの頭を見つけて、伸ばした手は、 「ヤダッ! 触んないでよ」 と、悲鳴じみた声とともに叩き落された。 そのままフミたちは、後ろを見もせずに、逃げていったのだ。 「なんだっつーんだよ」 したたかに叩かれて、ひりりと痛む手の甲をさすりながらはじめが独り語ちる。 手の甲を舐めると、ピリリと唾液が染みた。そうして、鉄臭い匂いが口中に満ちた。 「あっ、くそっ! フミのヤツ引っ掻きやがったな」 ぶちぶちと文句を垂れているはじめは、自分の背後に危険が迫っていることに気づかなかった。 暗い闇の中、開け放たれたドアからの光にそうとわかる、長い爪の手が、はじめの首筋に触れた。 「!」 払いのけようとした手を、ひんやりと冷たい感触が逆に捉えた。 そうして、信じられないような力で、はじめを引き寄せようとしたのだ。 「うわっ! よせって! 離せっ」 はじめがじたじたと抵抗する。 闇の中、なぜだか自分を襲っているものがわかった。生臭い息に、嘔吐しかけて、堪えた。そんなことをしていては、食われてしまうと、本能が察したのだ。目の前に迫る、かさかさに罅割れた、青白い顔。耳まで裂けたようなくちびるの中には、鋭く尖った上下二対の牙が、唾液に濡れててらりと光を弾いている。そうして、赤い、酸漿(ほおずき)の実のような色の、目。――――それらは、まさしく、ひとならざるものだった。 今しも剣呑な牙がはじめの首筋を、食い破ろうと噛みついた。 「うわっ」 あまりの恐怖に、心臓がバクバクと踊りだし、全身の脂汗が、乾ききる。 殺されたくない。 これは、ただの死ではない。 生態系の頂点に立っているはずの人間が、喰らわれるのだ。 死にたくない。 そう思っても無駄なのだと、はじめは、鎖のように全身をからめとる猟奇殺人者の力の強さに、思い知る。 どう抗っても、逃げられない。 首筋に食い込んでいる牙が、より深くより広く傷口を広げる痛みばかりを感じていた。 目の前が暗くなってゆく。 (もうだめだ………) せめて”お残し”は、一目でオレだとわかるところにしてくれ―――。 指や頭髪とかだけじゃなく、せめて、首から上とか………。いまだに身元不明のままの被害者達を思い出す。 このときのはじめは、おそらく、恐怖のあまり現実逃避していたのだ。 なにもかもが、先ほどまでとは違い、リアルに感じられなかった。 だから、 「他人の家で、なにをしているのです」 いつのまにか猟奇殺人犯の背後に立っていたそのひとの、声が、耳に届いた。 それは、現実逃避をしているはじめにも、痛いばかりに冷たい声だった。 はじめの霞む視界には、白い顔が映っていた。猟奇殺人者とは違い、整った容貌の、男女どちらとも知れない存在に、はじめの狂気に陥る寸前だった意識にブレーキがかかった。それと同時に振り向いた猟奇殺人者に引きずられ、首筋の傷が広がる熱い痛みがはじめに襲い掛かった。 「あ、あんた、逃げろ」 それは、はじめの、このうえなく切実な、忠告だった。 しかし、声の主は、瞳を大きく見開いただけで、逃げるそぶりも見せない。 「あんたっ!」 「ふぅん」 歌うような声だった。 「そんなになっても、ひとのことが心配できるんですね」 気に入りましたよ。 クスリ……と、笑ったような気配があった。 それから後の光景は、現実のこととは思えなかった。 きらりと光って闇を裂いたと見えたのは、鋭い刃を持ったナイフだった。 ナイフは、あやまたず、猟奇殺人者の喉首を横一線に引き裂いたのだ。 骨と肉の断たれる背筋が逆毛立つような音がした。そうして、ほんの瞬きひとつぶんの間の後に、奇妙な音と悲鳴とがしたと思えば、なまあたたかな血が噴出し、はじめの全身をしとどに濡らした。 そうして、はじめは、いまだに自分を捕まえていた猟奇殺人者が、まるで塵のように崩れて落ちるのを見た。 あまりのことに意識を失いかけて、はじめは、白い美貌の主が、笑みをそのくちびるに刻み、ナイフを舐めるのを見たような気がした。 ◇◆◇◆◇あれから一年になろうとしている。 自分を助けてくれた相手は、高遠と名乗った。 そうして、猟奇殺人者については何の説明もしなかった。 聞きたかったが、聞いてはいけないことのような気がしたのだ。 高遠は、見た目の繊細さとは違い、ふてぶてしいばかりの豪胆さの持ち主らしかった。 いくらこの家が彼のものだとはいえ、この家の台所で、おそらくは猟奇的惨劇は繰り返されていたのだ。すくなくとも、犯人自身の血で真っ赤になっただろう。 なのに、高遠は、あの日からこの家に住みつづけている。 自分も自分だよな――と思わないこともなかった。いくら、助けてくれたヤツがいるからとはいえ、招かれるたびにここに立ち寄るのだから、図太くなったよなと、思わないでもない。 おそらく、あれは、ひとではなかったのだろうが、血を全身に浴びた後、今更なにを怖れることがあるだろう。 あれほど恐ろしかったホラーも、平気で見れるようになった。 遊園地のおばけ屋敷など、軽いものだ。鼻歌まじりで入って出られる。 どんなにリアルそうに見えても、まがいものでしかないのだと、冷めた部分があった。 高遠とふたりの静かな空間というのも、悪かない。 ふと気がつけば自分に向けられている、琥珀のまなざしが気にならないこともなかったが。 ひとの目を覗き込むようにして話す高遠であったので、あまり気にしないようにしていた。 それでも、本当のことを言えば、まさかな――と、思わないでもなかったのだ。 琥珀の瞳の奥にある、なにやら圧しひそめたような感情が、もしかして―――と。 気づかなかったなんて、嘘だ。 うっすらとではあるが、気づいてはいたのだ。 『好きですよ』 と、からかうような軽い調子でささやいてくる高遠のことばが、恋愛感情のそれなのかもしれないということに。 男同士で好きだとか言われても、困る。 気持ち悪いとは思わないが、高遠のことが嫌いじゃないだけに、困るのだ。 だから、逃げた。 前々から好きだと思っていた少女に、玉砕覚悟で告った。 まさかオーケーをもらえるとは思ってもなかったので、もらった時は、天にも上る心地だった。 そうして、高遠に紹介したのだ。 なぜなら、ガールフレンドができたら、もう、自分のことは諦めるだろう。 そう考えたからだ。 高遠のことを少しも考えない、独りよがりの行動は、結局、ガールフレンドに災厄を呼び寄せる結果になった。 それは、自分の罪だった。 真摯に向かい合おうとせず、逃げようとした、自分の、罪。 そう、ガールフレンドは、死んだのだ。 まるで、一年前のできの悪いカリカチュア(戯画)のような、無惨なありさまで、殺された。 白い首筋をみごとに切り裂かれ、血を抜かれた少女が発見されたのは、今朝だった。 なぜ、犯人を高遠だと思ったのか。 それは、直感だった。 違ってくれと祈りながら、高遠の家にやってきた。 そうして、問い詰めたはじめに、高遠は否定すらしなかった。 遠まわしに、はじめの危惧こそが真実だと、肯定しているようにしか見えなかった。 「まったく。人間とは厄介な存在ですね。認めればすむことを認めたくないと駄々をこねたあげく、策を弄して自分で自分を追いつめるなんて」 琥珀のまなざしが、光を弾いた。 「あんただって人間だろ」 力ないはじめの問いかけに、高遠は、無言のまま微笑んだ。 「!!」 青褪めたはじめに向かって、高遠が両手を差し伸べる。 「来てください」 琥珀の瞳が、光を宿す。 琥珀色のまなざしが、とろりとした金色へと変貌を遂げた。 それは、ひとならざる証だった。 金色の瞳に魅せられたように、ゆらりと、はじめの上半身がゆらぐ。 はじめの鳶色のまなざしから光が失せ、ぼんやりとしたうつけたようなそれが取って代わる。 ゆるゆると、焦れるほどゆるやかに差し伸べられた手を握りしめ、高遠が満面の笑みをたたえた。 「つかまえましたよ。はじめくん」 クスクスと、常軌を逸したような、冷ややかな笑い声が、高遠の整ったくちびるからこぼれ落ちる。 「君は、もう、私のものだ」 たかとうが耳元でささやくと、はじめの全身から力が抜けた。 カクン。 高遠の膝の上に、まるで糸の切れたマリオネットのように、はじめが倒れこむ。 うつ伏せのからだを返し、仰のいた顔にひっついている髪の毛を掻きあげる。 そうして、高遠は、まるで刻印を押すかのように、はじめのうっすらと開かれたままのくちびるに、朱唇を落とした。 救いを求めるように、はじめがもがいた。 しかし、それは、一瞬のこと。すぐさま、はじめは動かなくなった。 クスクスと、闇の笑う声が、いつまでも、赤いレンガの洋館に響いていた。 END
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なんというか、滅茶苦茶な話です。はっきり言って、イメージ先行型の話です。カンスさまの11111のキリリクのつもりで書き始めたのですが、違ってしまいました。再度チャレンジかな。
高遠くんの正体もなにも、すべてはなぞのままであります。少しも色っぽくないし。こんなのでも、楽しいと言ってくれる人がいれば、嬉しいのですが。