紅薔薇の夜



プロローグ


「ヒッ…アッアア………」
 あえかな喘ぎの音。
 しかし、それは、死の音色だった。
 黒い影。
 紅を映した瞳だけが、爛々と燃える。
 女性の引き裂かれた首筋から、命の源が流れだしてゆく。
 ぺちゃり…
 妖しい音をたてて、舌先でそれを味わう影。
「違うっ!」
 吐き捨てるような声は、欲望にこもり男女どちらのものとも判別がつかなかった。


※ ※ ※


 朝から町は騒めいていた。
 パトカーのたてる甲高いサイレン。
 仲間の合図だと勘違いした犬たちの遠吠え。
 どこにでもあるような、田舎の小さな町は、押し殺した興奮に、さわさわさわさわと震えていた。
 町のはずれ、隣町との境界線上に位置する深い森。その入り口近くのバス停で、死体が発見されたのだ。
 まだ若い、大学生ほどの女性だった。
「………の娘だって話だよ」
 ざわり。
「何でも首をずたずたに切り裂かれていたそうだ」
「ひゃぁ。そんな死にかただけはしたくないよなぁ」
 ひそひそひそひそ……。
 立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされた外側で、野次馬たちが囁いていた。
 死者はもういない。
 警官たちが引き上げた後である。
 首をずたずたに切り裂かれた、女性の死体。
「なぁ、それって…………」
「しっ」
「え?」
「ほら、あそこ」
 指差す先を見やれば、
「高見沢の…確か、あの娘の母親が最初の…じゃなかったっけ」
 ひとりの少女が、ちらりと彼らのほうに視線を流したように見えた。かすかに頭を下げて挨拶を寄越す。それに挨拶を返した後で、
「ああ。だから、黙っていろよ。あそこの刀自殿に睨まれたらこの町じゃやっていけない」
 高見沢の家は、この地方では名家を誇っている。
 かつての大名の血筋で、いまだ権勢は崩れない。
 地方の企業だったが、それなりに名のあるグループを一族で切り盛りしている。
「そうだったな」
 ひそひそひそ。
 少女のとろりと長い黒髪が、微風に煽られる。長めの前髪を掻きあげて、寧々は足早にその場を通り過ぎようとした。
 彼女は、視線の意味を理解していた。
 そう。
 彼らは思い出したのだ。
 17年前の惨劇を。
 やはりずたずたに首を裂かれて死んだ、13人の女性たち。
 首筋から血を抜かれて、渇いて死んだ犠牲者。
 その1番目、最初の死者は、寧々の母親だった。
 17才で寧々を身ごもり、18才で猟奇殺人犯の手にかかった母。
 寧々は、死に瀕した母から生まれたのだ。
 犯人は、捕まっていない。
 野次馬たちはまだ喋っている。
 それを尻目に、寧々は足を速めた。

美術教諭にモデルを頼まれていなければ、こう連日決まった時間に出かける必要もなかったのだけれど。
 せっかくの夏休みに出歩くのは、本当にかったるい。
 輝く太陽の兇悪な光。
 あまり長い時間浴びていると、眩暈がしてくる。
 慢性的に貧血気味で、
『鉄分をよく摂りなさい。朝食を抜くなんてとんでもないわ。緑黄色野菜をたっぷりと、それにレバーを食べるようになさい』
 と、保険教諭によく言われる。
 摂ってはいるのだけど、貧血はなかなか良くならない。
 くらくらと、周囲が揺れるのだ。
 冬でもそうなのに、夏なんか最悪以外の何ものでもない。
 できるだけ家にこもっていたいのに。
 古い日本建築の、薄暗い部屋。
 かつて谷崎なんとかと言った文豪が褒め称えた陰影の中で、寧々はひっそりと絵を描いたり本を読んだりすることが好きだった。少なくとも部屋の中では、気を張っている必要はないのだから。
 深い海の底、マリンスノウが降り積もる闇の中で息を潜める魚。
 いつだったかテレビで見た映像が脳裏を過ぎる。
 よたよたと鰭を動かす深海の不思議な魚たち。
 時々自分をそんなふうにたとえていることに気づき、あまりの暗さに自嘲することがある。
 後もう少しのあいだだけ。
 高校を卒業しさえすれば、家を出ることができるだろう。
 まだ2年近くもあるけれど。
 どこか、ここから離れた大学を選んで受験するつもりだった。
 こんな、息の詰まるような毎日からは、逃れたくて。
 クリスチャンの祖母が、自分を見るたびに苛立つのが、辛くて。
 祖母を憎んでいる自分が、嫌いで。
『どうして、流れてしまわなかった』
 四分の一だけ異国の血が混ざっている祖母。そのヘイゼルのまなざしが、自分を認めるたびにそう言っているような気がしてならなかった。
『だったら、どうして、母と恋人とを引き裂いたのだ!』
 そう言って、詰め寄りたい激情がある。
 けれど、それは、寧々にはできないことだった。
『逆らうのじゃありません』
『おまえは、高見沢の恥なのだから、身を慎まなければなりませんよ』
 ずっとそうとだけ言われてきたのだ。
 祖母の戒めは、きつく寧々に絡み付いていた。

拝みたおされてしまった自分に腹が立つ。
 相手が美術の高村教諭でなければ、断れたのに。
 わざわざ家に来て、その上で祖母に断りを入れたのだ。
 高村は祖母のお気に入りで、彼の頼みを祖母が断るはずはなかった。
 もっとも、寧々自身、高村を嫌いではない。
 祖母の弟の息子――母の従兄弟――だという高村を、幼いころから寧々は知っている。
 家でも息をつくことのできなかった幼い頃の寧々に、それとなくやさしくしてくれる相手。
 年齢は30才前半。
 まだ若いけれど、お父さんってこんな感じかな―――と、そんな幻想を抱いてしまうひとだった。
 もちろん、母のことも知っている。
 母の思い出話を少しだけしてもらえる。
 高村は母のことを悪し様に言わない、唯一の存在でもあった。
 だから、高村の語る思い出が、寧々は好きなのだ。
 そうして、寧々は高村の家へと向かう。
 高村のモデルをして、母の思い出話を聞くために。


※ ※ ※


(あ、また…)
 すれ違う1人の青年。
 思わず足をとめて、寧々は青年の動きを目で追った。
 かすかな、薔薇の残り香。
 ハニー・ブロンドが風になびく。
 ゆるやかなウェーブ。
 水に蜜を溶かしたような、淡い金の髪。
 深く沈んだ緑の瞳。
 彫りの深い容貌は、ギリシア神話の塑像よりもはるかに美しい。
 お気に入りの絵本の挿絵を、思い出させる青年だった。
 そう、太陽神、アポロンのイラスト。
 しかし、彼を見かけるようになってもう半月になろうと言うのに、誰一人彼のことを知る者はいなかった。
 あんなにきれいな外国人なら、人目につかないはずがない。
 なのに、噂にもならないのだ。
 小さな、田舎の町だと言うのに………。
 寧々の胸が、騒ぐ。
 キュウ――と、締めつけられるように。
 こみあげてくる涙。
 懐かしいような、切ないような。
(この思いの正体は、いったいなんだろう…?)
 恋ではないと思うのだ。
 初恋もまだな自分には、基準にするものすらないのだけれど。
(でも…………)
 ハニー・ブロンドの巻き毛が光る。
 それは、たとえるなら、白昼の幽霊。
(本当に幽霊かも)
 思わないではなかったけれど、怖くなんかなくて。
 あの沈痛なまなざしを見てしまった後で、どうして怖いと思うだろう。
 声をかけることすらできず、ましてや相手の名前すら知らないと言うのに。
 ただ、あまりの切なさに、胸が掻き乱されるばかりなのだ。
(あっ…)
 青年が寧々を振り向いた。
 焦る寧々を認め、ふっと、やわらかな笑みが青年の沈痛な表情をかすかに明るくした。
 ぺこり。
 寧々は思わず頭を下げていた。


※ ※ ※


「何かいいことでもあったのかな」
「え…」
 不意をつかれた感じで、寧々は高村を見上げた。
 空調のほどよく効いた高村のアトリエだった。
 高村の端正な顔。どんなに暑い真夏でも、高村は喉の詰まった服を着ている。
「今日の寧々くんは楽しそうだよ。浴衣の藍がよく映える」
 それになんと答えればいいのかわからなくて、寧々は黙り込む。
 通い始めて2日。とりあえず、まだデッサンの段階だった。
 昨日は普通に洋服でかまわなかったのに、今日はいきなり浴衣を手渡されたのだ。
『そこの部屋で、着替えてきて欲しい』
 言われた部屋では高村教諭の夫人が、寧々の着付けを手伝ってくれた。
 あとは自由にしていていいと言うことで、寧々は適当に扇をもてあそんでいる。
 紺色地にホタルが舞っている浴衣。
 裾には、露を宿した草花が彩色されている。
 おそらく、だれかのお古なのだろう。
 生地がいい具合にくたびれている。
 夫人の着付けの腕もいいのかもしれない。
 浴衣を着ての身動きなのに、あまり苦しくないのだ。
 帯もあまり締めつけてはこない。
 寧々は扇を帯にはさみ、高村の蔵書の中から適当に選んだ本を床の上に広げた。
「栗栖蘇芳(くるすすおう)の画集かい。彼はスイス在住の画家だよ」
 覗きこんだ高村が、説明する。
「清濁併せ呑むような、懐の深い画風がなんとも言えずに魅力だろう。天才と呼ばれるものに見られがちの、張りつめた危うさは、彼の絵にはない。今風に言えば、なごみ系とでも言うのかな。こんな絵を描いていて、彼は、まだ30代なんだよ」
 教師然とした喋りに、羨望とも嫉妬とも取れる、複雑なトーンが混ざる。
 なごみ系とは違うような気がするが、寧々は黙ってページを眺めた。
 幻想的で緻密な輪郭の中に、大胆な色彩が踊っている。
 捉えどころがない。
 混沌――。
 一言で言えば、そうだろう。
 長く同じ絵を見続けていると、クラクラと眩暈がしそうだった。
 けれど、不思議な魅力がある。
 どうしてだろう、目が離せない。
 食い入るように見入っている寧々に、高村は苦笑をこぼす。
「気に入ったようだね。よければ、あげよう」
「えっ」
 弾かれたように高村を見上げる寧々の瞳は、日本人には見られない色彩をたたえていた。
「…寧々くん、コンタクト落ちているよ」
 とんとんと、高村の指が画集のページをつつく。
 画集の色彩に埋もれるように、カラーコンタクトが光を弾く。
 慌てて拾いあげた寧々は、洗面所に駆け込んだ。
 少しだけ青ざめた自分の顔が、鏡に映っている。
 緑色の虹彩。
 この色彩が、誰の遺伝なのか。
 寧々にはわからない。
 祖母は、寧々の父親の遺伝だと言うけれど。
 高村に言わせれば、祖母の祖母(高村の曾祖母)もまた、みごとな緑色の瞳の持ち主だったのらしい。
 明治時代、貿易商として成功した高村家の次男は、遠いドイツから妻を連れて帰ってきたのだ。彼女はたったひとりの肉親だと言う弟を伴って日本に来たのだ。その女性の瞳が、みごとな緑色をしていたのだと言う。
『なにもコンタクトをして隠さなくてもいいと思うけどね』
 高村は言うが、祖母の命令だった。
 祖母の命令は、絶対で。
 小さなころは、この違和感に馴れてなくて、外してはよく叱られた。
 手が出ることも珍しくなかった。
 頬に弾ける、祖母の掌の感触。
 今ここに祖母がいないとわかっているのに、手が震えてくる。
 落ちたコンタクトを消毒液の入っているケースに片づける。もしもの時用の換えのコンタクトを、寧々は馴れた仕草で瞳に被せた。
「高村先生、失礼します」
 寧々が頭を下げる。
「送って行こう。あんな事件があったばかりですからね」
 高村の申し出に、
「いえ。だいじょうぶです。だって、まだお昼前ですから」
 きっぱりと拒絶する寧々だった。
「じゃあ、くれぐれも気をつけて。お疲れ様でした。明日もよろしく」
「はい…」
 寧々が帰ってゆく。
 高村は、寧々の後姿をいつまでも見送っていた。


※ ※ ※


「あれ、高見沢先輩」
 キキッと耳に痛い音と共に通り過ぎようとした自転車が停まる。
「家こっちのほうじゃなかったですよね」
「え…と」
 思い出せずにいるらしい寧々に、少女がこれみよがしに脱力して見せる。
「貴島純子。図書委員会で顔あわせてますよ?」
「ごめん」
「まぁ、いいんですけどね」
 基本的に寧々はひとの顔と名前を覚えるのが苦手だ。だから、こういうことが起こる。
 ひとの目を見て話すのが苦手だからかもしれない。
 ぼんやりとフォーカスをぼやかすので、顔を覚えられないのだろう。
 わかっているのなら改めればいいのだが、苦手意識は消えなかったりする。
「で、先輩こっちに用があったんですか?」
「高村先生に、絵のモデル頼まれてて」
「高村せんせ…ね」
(あの中年モラトリアム…か)
 一見植物的な印象を受ける高村美術教師を思い出す。純子が高村に抱く印象は、実は擬態している肉食の生きもの――なのだった。時々、瞳の奥に何か気味の悪い光がぞろりと動くような気がしてならない。しかし、それらは、あくまでも純子の勝手なイメージに過ぎないのだ。
「ああ、そういえば、先輩とは親戚だって聞いた記憶が」
「そう。祖母と、高村先生のお祖父さんが兄弟なんだって」
 なんとなく説明してしまい口をつぐむ寧々に、
「でも、高村せんせ、送ってくれなかったんですか。あんな死体が見つかったばかりだってーのに」
「それは、ちがう」
「え」
「送ってくれるって言ったんだけど、お昼前だし、大丈夫って辞退したの」
「昼前だからって、安全とは限らないんですけどね」
「そう?」
「そーですよ。ほら、この道を通るってことは、森の前を通るってことなんですよ。例の停留所のすぐそば。で、ですね。この道は、はっきり言って細いし暗い。でしょ?」
 森の道は、車2台がようやくすれ違えるくらいの道だ。
 で、森の反対側には、崩れかけた漆喰壁の廃虚が取り壊されもせずに放置されている。
 夜通るのは、ご免被りたいような道なのだった。
 けれど、今は、昼。
「そんなに暗すぎないと思うけど」
 明るさからすれば、寧々にとっては楽な道だったりする。
「なら、人通りが少ない」
「それは…」
「もし、その辺から変質者なりチカンなりが出てきて、引っ張られたら? 自転車ならともかく、先輩逃げる自信、ある?」
「……ない」
「でしょ?!」
 にっこりと、我が意を得たとばかりに純子が笑う。
「だから、わたしが送ってあげましょう」
 寧々の瞳が丸く瞠らかれる。そうして、一瞬後には、吹き出していた。
 ひとしきりクスクスと忍び笑いを洩らした寧々だったが、
「よろしくお願いします」
 と、純子に向かって頭を下げたのである。

毎日送り迎えをしようか――と、純子は提案した。そんなにしてもらっては、気が重い。だから、断ったのだが。
 それでも、純子は偶然と説明しながら、送ってくれる。
 偶然ではないと、3日も続けばいくら寧々でも、想像がつく。
 純子が喋り、寧々がそれに相槌を打つ。
 話題が豊富な純子のお喋りは楽しい。だから、悪いなと思いながらも、寧々は断るタイミングを逸していた。
 そうして――――
 ほどなく、純子の危惧は現実のものになった。
 いつもよりも帰りが遅くなったその日、さすがに純子の姿は無かった。
 寧々がその場に立ち竦む。
 崩れかけた漆喰壁と森の間の道でのこと。
 にやにやといやらしく笑う少年がふたり、寧々の前と後ろに立ち、道を遮った。
 寧々が進む方向に、わざとらしく移動しては行く手を阻む。
 心臓が痛いくらい縮んでいる。
 思考が硬直して、目だけがただ逃れる道を求めて揺らぐ。
 たった一箇所、逃げ場がある。
 あるのだ。
 ただ、躊躇してしまうだけで。
 このままここにこうしていても、救いがあるかどうかわからない。
 それくらいなら、自分で逃げたほうがマシだろう。
 きっと。
 覆いかぶさってくる少年。
 荒い息。
 他人の熱。
(イヤだ!)
 ぞっと立ち竦みかける自分を叱りつけて、寧々が駆け出す。
 寧々が救いを求めたのは、森だった。
 深い、森。
 この森のどこかで、被害者は殺されたのだ。
 そういう噂だった。
 けれど、もう、ここしか道はない。
 突っ切ってしまえば、人通りの多い場所に出る。
 あんなことがある前は、通り抜けられる場所だったのだ。
 散歩に来るひとだとていたくらいで。
 だから、大丈夫。
 自分で自分に言い聞かせて、寧々は森の中に駆け込んだ。

  昼だというのに、欝蒼と暗い森。
 重なりあった木の葉や枝。
 かすかな隙間からこぼれ落ちる琥珀色の光。
 それだけが、今が昼間なのだと教えていた。
 腕や足を木の枝や切り株に引っ掛け、どれだけ転んだだろう。
 靴すらももう履いていない。
 どこで脱げてしまったのか。
 Tシャツのあちこちにカギ裂きができている。
「っ!!」
 心臓が跳ね上る。
 蜘蛛の巣が顔にかかったのだ。
 蜘蛛がスーッと下りてゆくのが目の隅にとまる。
 しかし、今はそれどころではない。
 わかってはいる。
 わかってはいるのだが、苦手なものはしようがない。
 背後に迫る、少年の足音。
(逃げなきゃ)
 でも…と、躊躇してしまう。
 それどころではないのに。
 嫌がるからだを無理に動かす。
 とっくに方向感覚などなくなっていた。
 ただ、逃げなければならないことだけが、寧々を急きたてる。
 蜘蛛の巣の感触をどこかに追いやって、寧々は逃げた。
 荒い息。
 息が苦しい。
 足が、痛い。重い。
 自分の髪の毛の動きさえ煩わしい。
 どれくらい逃げているのか。
 目の前が霞んでくる。
 ザザザザザ………。
 迫る追跡者の足音。
「あっ」
 木の根に足を取られ、寧々はその場に倒れた。
 痛みを感じる間もなかった。
 意識がぶれる。
 気がつけば、2本の足。
 背後に、もう2本あるのだろう。
 ハッハッハ…。
 息。
「The game is over」
「ちょこまかとよく逃げたよな」
 しゃがみこんだ1人が、寧々の前髪を手荒に鷲掴みにする。
 仰向かせた寧々の引きつる顔を覗き込み、
「さて、と。お楽しみはこれからだよな」
 ケラケラと、笑う。
「ヤッ」
 何がお楽しみなのか。
「誰か―――」
 そんなことは、確かめるまでもない。
「誰かっ! 助けてっ!!」
 だから、寧々は藻掻く。
「いやっ」
 不様だろうと、なんだろうと、かまわない。
「やめてっ」
 ふたりの言うお楽しみなど、寧々にとっては少しも楽しくないのだから。
「いいかげんおとなしくなりゃいいのに」
 頬に痛みが弾けた。
「バカだなぁ。これが、楽しいんじゃないかよ」
 ケラケラケラ……。
 キチガイじみた笑い声。
 ビリッ。
 Tシャツの襟が破れる。
「あ…あ、あ…………」
 首を振る寧々を、ふたりは見下ろし、嘲う。
 そうして再び寧々に伸ばしかけた腕が、ぴたりと止まった。
「うわあっ」
 絶叫は、少年の口から迸った。
 あまりのことにその場にへたり込んだ少年と、宙に持ち上げられたもう1人の少年。
 足が、ばたばたと空を蹴る。
 信じられない光景だった。
 少年をぶら下げている1本の腕。
 寧々は、茫然と、それを見ていた。
 寧々の視界で、ぶら下げられている少年が、宙を舞う。
 グシャッ!
 グエッ!!
 何かが砕けたような音がした。
 そうして、カエルの悲鳴のような声。
 もう1人の少年が、立ち上がろうと藻掻く。
 中腰になった少年の足が、砕ける。
 その襟首を掴み、無造作に放り投げる。
 再び、少年のくぐもった悲鳴。
 黒々とした、ひとのシルエット。
 瞳だけが、赤く輝いている。
 ひとならざる、そのまなざし。
 ぞくりと背筋を這い上がったのは、本能的な恐怖だった。
 次は自分の番なのだ――と、警鐘が鳴り響く。
(ああ、あ…)
 しりもちをついたままと言う情けない格好で、じりじりと後退さる。
 首をずたずたに裂かれて死んでいた、女性。
 母のように、自分も、殺されてしまうのだ。
 こんな、運命だったのか。
(これが、わたしの、運命………)
 クスリ…
 何故だかおかしかった。
 クスクス……
 悲しくて、怖くて、可笑しくて。
 涙までもがこみあげてくる。
 近づいて来る黒いシルエットが、涙に歪む。
 それを最後に、寧々の意識は失われた。


※ ※ ※


 意識がゆっくりと浮上する。
 寝起きの肌寒さに、全身がぶるりと震えた。
「…ここは…………?」
 薔薇のかおり。
 起き上がれば、するりと生成り地のタオルケットが足元にすべり落ちた。
「あっ」
 手を伸ばしてタオルケットを拾い上げた寧々は、ソファから下りた。
 クリーム色にピンクの薔薇。小花模様の布張りのソファ。
 組み木細工の、床。
 ソファの薔薇と同じピンク色のカーテンが、風に揺れる。
 上げ下げ窓から外を覗けば、庭一面紅薔薇が広がっていた。
 白樺に囲まれるようにして、深紅の薔薇が風にそよぐ。
 そうして、薔薇のさざなみのなかにたたずんでいるのは………。
(あ、のひとは…)
 水に溶いたハニーブロンド。
 エメラルドのような、深い緑の瞳。
 寧々お気に入りのアポロンの挿し絵に似たその横顔は、たまさかにすれ違うあの青年。
 夏だと言うのに長袖の黒いシャツ。薔薇の紅がよく映える。
 一抱えもの薔薇の枝を手折り、青年が踵を返した。
「目が覚めたね」
 一陣の風とともに室内に入ってきた青年は、開口一番にそう言った。
 部屋中に、薔薇の香気が満ちる。
 青年が、薔薇を活ける。活けると言うよりは放り込むといった表現がふさわしそうな、無造作さで。
 室内のあちこちに、薔薇の炎がともったようだった。
「待っておいで。ジュースでも持ってこよう」
 すれ違うたびに幽霊かもしれないと考えていた青年の、確かな存在感。
 やわらかなトーンの、声。
 やがて、ジュースののったトレイを抱えて、青年が戻ってきた。
「いただきます」
 水滴をまといつかせた飾り気の無いグラスを受け取り、寧々は目を細めた。
 ほどよく冷えたジュース。
 グレープフルーツ特有の苦味と酸味が、からだに染みわたる。
 からだの強ばりがほぐれてゆくようだった。
 それと同時に、フラッシュバックが寧々を襲う。
 コトン
 グラスをテーブルに置く音が、こもって聞こえた。
 ブルリと寧々の全身が震え、自分で自分を掻き抱く。
 震えはやまない。
 恐怖の記憶。
 森の中を逃げ続けた、どうしようもない恐ろしさ。
 誰も助けてくれる人はいないのだという孤独さえもが、今になって寧々に襲いかかったのだ。
 ふとあることに気づいた。
 薔薇のかおり。
 黒いシャツ越しの、青年の体温。
 そうして、
「………ぶ。大丈夫だから。もう、怖いことは終わったんだよ」
 繰り返される青年のことば。
 まるで寄せ返す波のような穏やかさに、寧々の恐怖がほぐされてゆく。
 少しずつ。
 少しずつ…………。
 青年に抱きしめられて、羞恥よりも先に寧々を襲ったのは、抗いがたい睡魔だった。
 助かったのだ――。
 恐怖が癒える。
 心が穏やかになってゆくにつれて、からだのあちらこちらが重怠くなってゆく。
 コトンコトンと、心臓が刻むゆるやかな鼓動。
「大丈夫。もう、怖いことは起きない。だから、お眠り」
 やわらかな、やさしい、声。
「うん。…うん、―――」
 意識せず、青年を何と呼んだのか。
 後々まで寧々には思い出すことができなかった。


※ ※ ※


 エリィとしか自分のことを名乗らなかった青年。
 しかし、寧々にはそれだけで充分だった。
 森の奥の白い洋館。
 高村の家でモデルをして、その足でエリィのいるだろう洋館に向かう。
 それが、寧々の習慣になった。
 森の奥ということで、恐怖がないといえばウソになる。まだ、犯人は捕まっていない。せめてもの救いは、第二の犠牲者が出てはいないことだろうか。
 そうして、エリィに逢える――その想いが、恐怖を凌駕していた。
 
エリィのところから家に帰り、寧々は電話機を睨んでいた。
 寧々は携帯電話が苦手だから、持っていない。今睨んでいるのも、親子電話の子機である。
 広い家ということもあって、一部屋に一台電話はある。
 もっとも、今でも子機を使っているのは、寧々くらいなものだろう。
「お嬢さま?」
 家政婦が麦茶を運んできた時も、寧々はまだ子機を睨みつけていた。
「あ、ありがとう」
 よく冷えている麦茶を一気に飲み干して、寧々は受話器を取り上げた。
 呼び出し音が4回で、向こうが受話器を取った気配があった。
 深呼吸を一回し、
「高見沢と言いますけど、純子さんは」
『ちょっと待ってくださいね…』
 電話の向こうから、オルゴールの音色が響く。
(なんてタイトルだったっけ………あ、It’s a small world)
 曲のタイトルを思い出した時、
『はい』
「えと、貴島さん」
『先輩。どうしたの』
 送りに来てくれなくていいから。と、続けようとして、
(マヌケ。今も待っていてくれるかどうかわからないのに)
 寧々は、喋れなくなった。
『なに?』
(言ってしまおう。でないと、貴島さんに悪い)
「え、えと、ね。高村先生の家からの帰りに寄る所ができてしまって。だから、もし、今日も待ってくれていたんだったら、ごめんなさい。もう、送ってくれなくて、大丈夫だから。今まで、送ってくれて、ありがとう」
『……』
「貴島さん?」
『うん。聞こえてる。ごめん。ちょっとぼけてた。ずっと寄る所ができたんですね。だったら、そこまで送ってきますから』
 思いもよらない純子の申し出に、
「それは、ダメ。悪いわ。貴島さんだって、忙しいでしょう。それに、貴島さんだって女の子なんだから、いくら自転車だからって。そう、今まで気づかないでごめんなさい。貴島さんだって狙われるかもしれないのに。わたしなんかに付き合って、貴島さんの貴重な時間を削ったりするの…」
『わたしが、先輩を送りたいんですってば』
「どうして…」
『楽しいんです』
「楽しい、の?」
『先輩は楽しくなかった?』
「楽しかったけど」
 けど、彼女が楽しいと思っているかどうかは、わからなかったのだ。
『だったら……ちょっと待っててください? 今から、先輩の家に行きますから』
 ガチャン!
 ツーツーツー
「今から、来る?? 貴島さんが?」


※ ※ ※


 モデルをはじめてほぼ一月。夏休みの残りはあと十日ばかり。
 モデルは、まだ終わらない。
 こんなに長引くなんてというのが、寧々の本音だった。
 今日は登校日だった。
「先輩。文芸クラブ、今終わったんですか?」
 帰りの廊下で、肩を叩かれたと思えば、純子だった。
「そう。文化祭の出し物がなかなか決まらなくって。貴島さんも今?」
「そうです。ECC(イングリッシュ カンバセーション クラブ)なんて英語劇ですよ。英語劇。脚本の書き起こしをまかされましたよ。今更『ロミオとジュリエット』でもないですから。何にするかって揉めた揉めた。…今日ですね。先輩」
 気軽に話してくる純子に、寧々のほうが緊張してしまう。
「そんなに緊張しないで下さいってば。取って喰おうって言ってるわけじゃないんですから。ね」
 純子がウィンクをする。
「それに、こっちのほうが、ドキドキものですよ。わかるでしょう」
「えっ?」
 純子が寧々の手を取って、自分の胸に当てる。
 まろやかな自分以外の女の子の胸。制服の布越しのそのやわらかな感触に、寧々の顔が赤くなる。
 純子の鼓動は、信じられないくらい速い。
 ドクンドクンと心臓が脈打つたびに、全身を血液がめぐっているのだ。
 何故だかそんなことを思い描いてしまった寧々だった。
 あの日、純子に告白された。
 好きだと言われて、びっくりした。
『最初の委員会で先輩を見てからずっと好きだったんです』
 そう言われて、
『考えたこともなかったから………』
 と、答えた。
 女同士なのに。そんなことを考えていると、
『女同士を気持ち悪いなんて思わないのだったら、考えてみてください』
『先輩が、送らないでと言うのなら、もう送らない。だから、返事は、花火大会の日に聞かせて』
 と、言いたいことだけを言って、1つ年下の少女は帰っていったのだ。
 まだ心は決まっていない。
 女同士だから変だとは思うのだが、気持ち悪いなんて思わない。
(一緒にいて楽しいとは思うけど、それで付き合うって言うのも、なんか変な気がするし……)
 悩んでいる寧々だった。
 肩を並べて歩いていると、
「ああちょうど良かった。高見沢くん。それに、貴島くんだったね」
 美術室からでてきた高村と鉢合わせた。
「今日、アトリエに寄ってくれないかな。刀自には承諾を貰ってるから」
「わかりました」
「それと、貴島くんにはちょっと話があるんだが、時間はいいだろうか」
「急ぎのようですか?」
「ああ。ちょっとね」
「なら。わかりました。先輩、じゃあ、先に帰ってください。夜の約束忘れないで下さいね」

浴衣に着がえた寧々が高村夫人としゃべっていると玄関が開いた気配がした。
 あれから3時間。
(そんなに込み入った用事だったのかなぁ)
 ぼんやりと考えていると、
「帰って来たみたい。それじゃあ、寧々さん、お願いしますね」
「はい」
 アトリエに向かった寧々に高村が追いついた。
 陽に焼けない質らしい高村の白い顔。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 肩を並べた刹那、ツンと寧々の鼻孔を射たかおり。
(?)
 それは、生臭いような、鉄臭いような、独特の匂いだった。
(何の匂いだっけ…)
 しかし、それはすぐさま空気に流れて消えた。
 ようやく構図も決まり、寧々は高村に言われたとおりのポーズをとっている。 
 ホタル模様の浴衣。
 出窓の上に腰掛けて、膝を抱えるというポーズ。
 浴衣の裾が割れないように気にしながら、寧々は庭を見つめた。
 空調がほどよくきいた部屋。
(花火大会………か)
 寧々がひとつ溜息をついた。
 かすかな溜息に、高村が顔を上げる。
(どうしよう…)
 またひとつ、寧々のくちびるから溜息がこぼれ落ちる。
 高村の視線が、泳ぐ。
 今日が、花火大会当日である。
 おおかたの予想を裏切って、花火大会は開催される。
 それは、犠牲者がつづかなかったせいでもあるのだろう。
 ただ、夕方ごとの有線放送で1人にはならないようにと、しつこいくらいの注意が繰り返されていた。

ことばの通り、告白の次の日から純子の姿は無かった。
 淋しいと感じている自分。けど、同時に、エリィに会うのに純子がいてはダメだと思っている自分がいる。
 二人きりでいたかった。
 エリィには不釣合いに思える、少女趣味な内装。これは誰の趣味だろうと思った。しかし、洋館にはエリィのほかに人の気配はない。
『借りている家だからね』
 エリィが苦笑する。
『借りている家なの?』
『そう。ある人を捜している間だけ借りているんだ』
『見つかったの?』
『…多分、ね』
『じゃあ、その人が本当に捜している人だとわかったら、エリィは国に帰るの?』
『帰るよ』
 その刹那のエリイのまなざし。
 日本人にはない白皙の容貌の中、沈んだ色調の緑の石が輝く。
 うっとりと、しあわせそうなエリィ。
『寧々、どうかした?』
 胸が痛んだ。
 しかし、
『ううん。その人が探している人だといいね』
 無理に貼りつけた笑顔。
『ほんとうにそうなら、どんなにいいだろう』
 夢見るようにつぶやくエリィはそれに気づいていただろうか…。


※ ※ ※


「………ィ」
 寧々がつぶやく。
 かすかなつぶやき。
 寧々自身、そうと気づかなかったほどの、ささやかな。
 けれど、それは、高村の耳に届いたらしかった。
 ふと、キャンバスの上を走っていた木炭が止まる。
 穏やかな容貌。奥に燠火を抱えた褐色のまなざしが、寧々に向けられた。
 寧々は気づかなかったが、これまでもそれと同じ視線が、しばしば寧々に向けられていたのだ。
「寧々くん?」
 瞬時にして奥深くにひそめられた、ねついまなざし。
 かける声も、いっそ恬淡としたもので。
 物思いを破られた寧々は、そんなことには少しも気づかなかった。
「え………?」
 自分が今どこにいるのか、寧々は咄嗟に認識できなかった。
「告白されたそうだね」
「あ、せ、先生…」
 なぜ、高村が知っているのだ。
 どうしてこんなことを訊かれなければいけないのだろう。
 気がつけば、恐ろしいような夕焼けがアトリエを染めあげている。
 高村の眇められた瞳。
 いつもは穏やかな高村の容貌が朱に染まって、まるで見知らぬ人のようで。
「貴島純子とかいう1年の女子だとか聞いているよ。返事はもう決めたのかな」
 しゃがれた、声。
「せんせい?」
寧々の背筋を、震えが駆け上がる。
ガラス越しの夕焼け。
 緋色に染まった、少女。
 くらりと高村の意識が揺らぐ。
 足元の床が撓み、すべての音がやんだ。
 少女のくちびるだけが、ぱくぱくと動いている。
 18年近くの時をさかのぼったような奇妙な感覚が、高村を襲う。
「マユ」
 しわがれた高村の声。
 高村が呼ぶのは、高見沢マユ――寧々の母親の名前。
「愛していたのに」
 押し殺した高村の声。
「なぜ、あんな、あんなものにっ」
『愛しているの。あのひとを愛しているのよ』
 かつての記憶が、幻聴となってこだまする。
 映像となって脳裏を過ぎるのもまた、かつての残像。
 従姉妹とその恋人の、逢引きの情景。
 蜂蜜を水で溶かしたような髪が、緑なす射干玉(ぬばたま)の髪の毛にこぼれかかる。
 曾祖母の弟が暮らしていたという、森の奥の白い洋館。
 カーテンの隙間から部屋を染める、真っ赤な夕日。
 こっそりと後をつけて、知ったのだ。
 扉の隙間から部屋を覗き込み、従妹の秘密の恋人を。
 そうして、曾祖母の秘密をも。
「あんな、バケモノにっ!」
『バケモノなんかじゃ、ないっ!』
 高村が迫る。
 後退さる寧々の腕を握り、高村は胸の中に抱き込んだ。
 寧々は、無言で藻掻く。
 あまりのことに、声など出なかった。
 いつも穏やかな高村ではない。
 父親だったらよかったのに。寧々にとってはそう思える、高村を高村として成り立たせているすべてのものがぞろりと裏返ったかのような、気味の悪さ。
「せ、せんせ…い………」
 高村の一言一言に、わからないながらも鼓動が乱れる。
「愛しているんだ。マユ。あんな、あんなバケモノの子供なんて…どうして、マユが生まなければならない」
『産むわ。あのひとの――エルンストのこどもよ。愛しているの。エルンストに、こどもを産んであげることができるの。淋しいあのひとに』
 寧々の抵抗が力ないものに変わる。
「バケモノの子供など、バケモノに決まっているだろう。堕ろすんだ。たのむ。たのむから、あんなヤツの子供など、生まないでくれっ!」
『いいえ。バケモノなんかじゃない。エルンストは、わたしが愛しているひとよ』
「違う! あれは、吸血鬼なんだ」
『あなたが、母に告げ口したのね。あなたが、わたしとエルンストとを引き裂いた。エルンストを、返して』
「吸血鬼に、あなたを渡さない。それくらいなら、いっそ!」
 寧々の首を、高村の冷たい手が絞める。
 鋼の冷たさをともなって首に食い込んでくる、爪。
 縊られて、寧々の視界が白と朱に霞む。
 霞む意識に、高村のめくれ上がった唇が、その下から姿を現わした長い犬歯が、印象的だった。
 悪夢のような、光景だった。
 荒く生臭い、息。
 いつもの、穏やかな高村ではない。
 それは、伝説の吸血鬼。
(う、そ…高村先生が……)
 ずたずたに切り裂かれた首。
 血を抜かれていた、犠牲者の女性。
 首をずたずたにしたのは、吸血鬼の仕業とわからないようにするためだったのか?
 カッと開いた口。
 生々しい深紅。
 ひやり…
 息すらも冷たく感じた。
 光を弾く、エナメル質の歯列。それが寧々の首筋を噛み破ろうとする。
 刹那。
「………っ!」
 寧々は渾身の力で高村の腕の中から逃げ出した。
「マユッ!」
 高村の腕が空を掻く。
 ガシャンッ!
 玄関の閉まる音が、静まり返った高村家に響く。
「わかっているぞ。マユ。あの男のところに行くつもりだな」
 ぼそりと、高村がつぶやいた。


※ ※ ※


 高村の私有地でもある、あの森。
 曾祖母――イザベラが弟のために建てさせたのだという、洋館。
 少女趣味な内装は、イザベラの趣味だと聞いている。 
 イザベラ―――
 はるかドイツから嫁いで来た花嫁。
 森と湖の国から高村にやってきた花嫁は、とんでもない疫病神だったのだ。
 病死したことになっているが、彼女はその正体を知った夫の手によって殺された。
 人ならざる存在――吸血鬼を退治しながら、曽祖父はイザベラを愛していたのだ。
 かつて、読んでしまった曽祖父の日記。その血を吐くような、嘆き。
 中学生だった高村は最初、これは、曽祖父の創作だと思った。
 そんなことがあるはずがない……と。
 しかし、それは、真実であった。
 あの日、激情に任せてマユを引き裂いた時、高村の遺伝子の奥深く静に眠っていたモノは目覚めたのだ。
 愛しい存在を誰にも奪われたくはなかった。
 たとえ、それが、マユの子供にだとしても。
 凶暴な思い。
 激情のままにマユを引き裂き、暴れるマユを殴りつけた。
 マユの流した、血の匂い。
 それが、高村の因子を目覚めさせたのか。
 赤ん坊の泣き声で、高村は我に返った。
 気がつけば、マユは死んでいた。
 はじめての吸血。加減を知るわけもなく。
 吸血鬼の仕業と知られたくないばかりに、こみあげる涙を堪えながらマユの首を切り裂いた。
 吸血の加減を知るまでに、なおも12人の犠牲が必要だった。
 13人の女性の血を飲み、ようやく、渇きは治まった。
 赤ん坊の泣き声。それは、マユの子供だった。
 あんなにも誕生を憎んだ、子供。
 しかし、生まれてみれば、愛しくて。
 愛したマユの子供。
 愛しくないはずがなく。
 高見沢で孤立している寧々を見るたびに、高村の心は痛んだ。
 彼女の孤立の一因は自分にある。
 激情のままに殺してしまった、愛しい女性。
 せめて、マユが生きていれば、寧々も今ほどには孤立せずに済んだろう――と。
 だから、できるだけ優しく接した。
 思い出せるかぎりのマユの思い出を語り聞かせた。
 罪滅ぼしだったのかもしれない。
 それとも、マユに似た面差しの寧々を愛してしまっていたのだろうか。
 そうかもしれない。
 押さえ込んでいた凶悪な欲望をよみがえらせたのは、ほかならない寧々だったのだから。
 なぜ――と、高村は思ったのだ。
 何故、自分が想いを寄せる相手は、報われない恋ばかりに身を焼くのだろう―――と。
 もちろん、寧々が貴島の想いを受け入れるかどうかはわからない。
 何しろ相手は同性なのだから。
 そう冷静に理解しようとする高村と、『邪魔ものは殺してしまえ』と囁く狂った高村とが存在した。
 激しい葛藤。
 そうして―――
 気がつけば、少女はこときれていた。
 寧々に愛を告げた少女。
 正気に戻った高村は、冷静に後始末を済ませた。
 美術準備室のカギを持っているのは、高村だけである。
 粗忽者の美術部員がカギを無くしたから、スペアを作らなければならない。
 まさに、タイムリーな幸運だった。
 とりあえず夜まで準備室に隠しておけばいい。
 失血死ではあったが、血の後始末の必要はない。
 血はもはや一滴も残ってはいないのだ。
 血だまりができて露見すると言う心配はない。
 深夜に片づければ済むことだった。
 森にでも放置しておけば、いい。
 猟奇殺人犯として疑われるような言動をしてはいない自分が疑われることは、まずない。
 先月に犯してしまった吸血は、欲望を抑え切れなかったせいだった。
 一月に一度くらいの割合で、絶望的な渇きを覚えることがある。
 いつもはそれを押さえ込むことに成功している。しかし、あの時は、できなかったのだ。
 解放的な夏の衣装。襟からすらりと伸びた、細く白い首。
 まるで、襲ってくださいと言っているように、高村の渇きを助長した。
 だから、襲ってしまったのだ。
 17年ぶりの血の味。
 とろりと濃密な、毒を含んだ蜜の味。
 17年ぶりに、高村の渇きは癒された。
 けれど、マユの血の味は、あんなに薄くなかった。
 自分が心から欲しいのは、この血ではない。
 一度禁忌を破ってしまったことで、堪え性がなくなったのか。 
(あれはマユじゃない)
 わずかに残った理性が、高村の欲望を諌めようとする。
 しかし…………。
 きつく握りしめた高村の拳が小刻みに震える。
 あの甘露を忘れられない。
(マユの娘の血なら、きっと)
 めくれあがったくちびる。色をなくしたそれを、高村のぞろりと長い舌が舐める。
 高村の双のまなざしは血の色を宿していた。


※ ※ ※


 カタカタと、下駄がアスファルトに当たる。
 いつの間にか周囲を鎖している夜の闇。
 ねっとりと絡みついてくる湿気。
 夜の帳に逃げ場のない暑気。
 空には、銀の月がおぼろにかすんでかかっている。
 
ハッハッハッハ………
 荒い、息。
 胸が苦しい。
 今寧々を苦しめているのは、肉体の苦しみではなかった。
 ぺったりと懐くことは苦手でできなかったが、密かに慕っていた高村が母を殺したのだと知った驚愕。
 高村の変貌。
 まるで人間ではないような。
 そうして、彼が漏らしたことばから、自分の父親もまた人間ではないのだと…。
(違う。そんなことがあるわけないっ!)
 あるはずがない!
 人間じゃないなんて。
 母が愛した相手が、人間じゃないだなんて。
 こみあげてくる涙。
 否定しながらも、認めている自分がいる。
 理性ではなく、直感だった。
 理由はない。
 直接母も父も知らない寧々にとって、証明などできはしないことだった。
 けれど、心の奥深くで、高村が真実を語ったのだと、認めていた。
 すれ違う人々が、寧々を振り返る。
 街灯の光を涙が弾く。
 どれくらい走っただろう。
 だいぶん、高村の家から離れていた。
 自然と足は、森に向かっている。
(もう、いたくない。こんなところにいたくない………)
 何も信じられない。
 誰も、自分の味方などいない。
 誰一人………。
 たったひとり、愛していると言ってくれた後輩の少女。
 けれど、彼女は、違う。
 寧々が求めているのは、彼女ではない。
 寧々が求めるのは――
(エリィ、エリィ助けて!)
 心が求めているのは、エリィただ1人だった。

深紅の薔薇。
 紅薔薇の波間に、青年の姿が浮かびあがる。
「エリィ」
 涙に汚れた寧々の顔に、安堵の笑みが浮かぶ。
 自分の置かれている状況を忘れ、寧々の足が止まる。
 真円の月が闇の中に浮かび上がらせるのは、ハニー・ブロンドも輝かしい美貌の青年。
 黒味の強い紅薔薇を、腕一杯に手折っている。
 これ以上は動きたくないと、苦痛を訴える足を地面から引き剥がそうと寧々が足掻く。
 その時だった。
「ひっ」
 寧々が恐怖に息を呑む。
 いつの間にか背後から伸びてきた腕が、寧々の肩をきつく握りしめたのだ。
 大きく瞠らかれた寧々の瞳から、コンタクトがこぼれ落ちた。
 ギリ…と、鋭い鋼めいた爪が皮膚を傷つける。
 痛みに、寧々が目を眇める。 
 これが、誰の手なのか。確かめるまでもないことだった。
 背後から、寧々の正面へと移動したのは、高村。
 血色を宿した瞳が、寧々を見下ろし月光を弾く。
 首筋に、冷たい掌の感触を覚えて、寧々が目を閉じた。
「渡さない。マユ、おまえをエルンストに渡しはしない」
 喉にも高村の爪が食い込み、息が詰まる。
「マユどうしてだ…許さない。許さないからなっ!」
 赤いくちびるから伸びた犬歯が、月光を弾く。
 血色の瞳が光り、寧々から力を奪う。
 くく…と笑いをこぼす高村は、寧々の首筋に血塗れたようなくちびるを寄せた。
 皮膚が噛み破られ、血が、熱い血が流れ出してゆく。その灼熱。熱が全身を苛み、寧々の意識を炙り焦がす。声を出すことすらもできず、寧々の意志が薄れてゆく。
 意識が途切れようとしたまさにその刹那に、寧々は見た。
 いつの間に来たのか、高村の背後にエリィが立っている。その緑のまなざしが、血の玉へと変貌を遂げてゆくのを―――。


※ ※ ※


「きさまが、彼女をっ」
 低く押さえた声音が、エリィのくちびるから発せられた。
 最愛の少女を殺した者。
 首を締め上げる。
 振り向いた高村の腕が寧々を解放する。
 意識をなくした寧々が、クタリとその場に頽折れた。
 エリィと高村。
 否。
 エルンストと高村。
 対峙する二人。
 二人の間に、緊張が高まる。
 まるで二人の感情にシンクロするかのように、吹きはじめた風が渦を為す。木々が悲鳴をあげ、深紅のはなびらと緑の葉が夜風に舞い狂う。
 遠く、夜空に打ち上げられた花火が、炎の花を咲かせた。
 雲間に顔を隠した月が、かすかに顔を覗かせてエルンストのハニー・ブロンドをきらめかせる。月すらもが恥じ入り雲に顔を隠したのだと、そんな空想すら抱いてしまう、壮絶なまでの異形の美。
 エルンストの流すのは、とろりと赤い血の涙。それこそが激情の証なのだろう。虹彩すら血の色に染まり、鈍色を宿してぎらりと輝いている。噛みしめたくちびるからは、異様に伸びた犬歯がのぞく。
「そうだ。マユを殺したのは私。あの血は、このうえなく甘美だった。そう。おまえに奪われるくらいなら、私は何度でもマユを殺す。マユをおまえなどに渡しはしないっ!」
 高村の黒髪が風に煽られる。
「マユは、私のもの。他の誰にも渡しはしない」
 傲然とエルンストを見返すのもまた、血色の虹彩。
 激情を抑制し切れなかったときの、眷族の。
 たとえば、襲われていた寧々を助けた時のエルンストのように。
 しかし、暗く濁った男のまなざし。それは、狂気に犯されたものの証だった。
 この地で眷族となりうるかもしれない可能性を持つものは、全てイザベラの血筋。
 イザベラを愛し、それでも殺さずにはいられなかった夫とイザベラの………。
 イザベラは滅ぼされ、自分は封印された。
 イザベラが彼のために用意した、白い洋館。その地下に。
 幾度目かの地震で偶然に封印が解けなければ、自分は鎖されたままだったろう。
 マユに出会うこともなく。
 ましてや、娘を得ることもなく。
 唯一残された、自身の血族。
 ドーン…
 遠くで花火が新たな花を咲かせる。
 ねっとりとまとわりつく、大気。
 吹き抜けてゆく、かすかな風。
 対峙する二人の異形を照らし出した月が、再び雲間に隠れた。
「マユを、返せ」
 狂ったものの思考。
  マユを奪ったのは高村だというのに、高村にとってはあくまでもエルンストが略奪者なのだ。
 高村が、エルンストに掴みかかる。
 鋼の強さを得た爪を振るう。
 エルンストの髪が切れた。
 淡い蜜色の髪が一房、地面に舞い落ちる。
 エルンストの白皙の頬に、つぅと一筋の赤い線が走る。
 丸く血が盛り上がり、頬を伝い血の痕を描く。
 高村が、爪についた血液をぞろりと舐め取る。
「…アマイ。オマエノ血ハ、マユノ血ト同ジクライ、甘イナ」
 高村のことばを理解するまでに、しばらくの時間が必要だった。
「グエッ!!」
 理解したと同時に、エルンストの腕が高村の首を鷲掴む。
 高村のくちびるの端が捲れあがり、唾液が顎に糸を引く。
「マユガ愛シタオマエノ血モマタ、マユト同ジクライ甘イ」
 舌が信じられないくらい伸び、エルンストの治りかけた傷口を舐める。
 腕が、爪が、そうして地についていない足が、血を求めて藻掻く。
 エルンストが、高村を高々と持ち上げる。
 そうして、首の骨を砕いた。
 ぞっとするような音。
 ザンッ!
 エルンストが無造作に高村の死体を投げ捨てる。
 白樺の幹にぶつかり、死体は弾け消えた。
 高村であった塵が、風に散らされる。
 薔薇のはなびらが狂える吸血鬼の死に、葬送曲を奏でる。
 エルンストが背を向けた時、彼の耳にかすかなうめき声が届いた。
 音源を探るエルンストの瞳が、月光を弾く。
   ――深い、緑色の瞳。
 エルンストが寧々に駆け寄り、木の幹に上体を凭せ掛ける。
 寧々は意識を取り戻しかけていた。
 まっすぐな黒い髪。
 薄く引いた紅がひきたてる、象牙のような肌。
 藍色地の浴衣の襟から覗く細い首筋には、二つの赤い傷痕に乾きかけた血がこびりついている。浴衣の裾からは、下草に結んだ露に濡れている白い足がのぞく。
 エルンストは寧々を掬い上げるように、そっと抱き上げた。
 かすかな衝撃に、開きかけている瞼の下で、エルンストと同じエメラルドの瞳が月光を弾く。
「Sie ist meine tochter………」
 それは、確信だった。
 捜していた娘。
 寧々こそが、マユと自分の…。
 連れてゆきたかった。
 イザベラ…愛しい姉。彼女の血を引いていると知っていながら、愛してしまった――マユ。
 一時は追い払われても、ほとぼりが冷めた頃を見計らい、そうして連れて行こうと約束した。
 まさか、マユが殺されるだなどと思わなかったからだ。
 殺された、愛しい少女。
 そうして、残されていた、娘。
 エルンストは自らの左手首を噛み破る。盛り上がり糸を引くように流れる人ならざる者の血が、寧々の傷口に滴り落ちた。
 傷口からじんわりと、人にはありえない冷たい血が、寧々の血管へと染みてゆく。
 腕の中の華奢なからだが小刻みな痙攣を繰り返す。
 それを見守り抱きしめるエルンストのまなざしは、深い緑を宿しこのうえなくやさしい。
 つい――と、エルンストが寧々の首筋に顔を寄せた。ちろりと舌が余った血を舐め取る。
 エルンストが顔を上げた時、首筋にあった傷痕はきれいに消えてなくなっていた。
 目覚めた寧々とエルンストのまなざしが、絡まる。
 彼を見上げる寧々のまなざしは、今や禍々しくも美しい異形のものへと変貌を遂げている。
「何が起きたか、わかるね」
「ええ、お父さま」
 あんなにもあこがれつづけた、存在。
「私と共に来るしかないことも」
「ええ」
 わかっていた。
 すべて。
 父の血によって、眠っていたものが目覚めた。
 だから、答えるなり寧々はエルンストの首に手を回し頬を寄せたのだ。
以来、高見沢寧々の姿を見たものはいない。

銀の月だけが、眼下にくりひろげられた異形の出来事を見つめていた――――。
FIRST  2000.07.21(TRIBUTE 4)
SECOND  start  2001.05.28
up  2001.06.11 
あとがき
 どうにかアップにこぎつけたものの。う〜ん。
まったく別物な気がする。
 最初はダイジェストだけど耽美モノだったのに、長くなると耽美の要素は消滅してしまう。
 やっぱり、高村教諭のせいだろうか?
寧々の性格のせい?
 イザベラが出張らなかったせいかもしれない。
いえ、やはり魚里の腕のせいだな。
 耽美は書けないのだ。
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