フィクション |
「結婚してくれないだろうか」 静かな雰囲気のいいバーのカウンターで、低い美声が囁いた。 「は?」 なんとも間の抜けた反応だが、隣に座る彼のことを知っているからこその反応だったりする。 初老のバーテンダーが、カウンターの上にカクテルグラスを置く。グラスを取り上げることも忘れて、わたしはまじまじと声の主を見上げた。 薄い褐色の虹彩が、バーのぼんやりとした間接照明を宿して、わたしを見返してくる。 彼がグラスを取り上げ、わたしの手に握らせた。 無意識に口をつける。 ざらりとした塩がくちびるに触れ、グレープフルーツ風味の気に入りのカクテルが舌の上にあふれる。 今夜四杯目のソルティ・ドッグだった。 少し酔ってしまったのかもしれない。 アクの強い、もしも俳優をやっていれば悪役が似合うにちがいない、男前の顔が、照明ににじみ揺れる。 彼、久坂京介と知り合って、ほぼ七年目の冬の夜。 喉の奥に消えたカクテルが、笑へと変貌を遂げた。 ここがお気に入りのバーでなければ、大爆笑していただろう。もっとも、酔いにまかせた醜態は趣味ではない。酒を過ごすことも。だから、自分の限界は熟知している。爆笑をなるたけ上品なクスクス笑いへと掏り返ることなど簡単だった。 「すごい冗談だね」 彼がわたしに求婚をすることなど決してありはしないことだと知っていた。 彼の趣味嗜好を鑑みれば、確信していたと言ってもいいだろう。 彼がわたしを異性としてみないその安心感から、わたしは彼と気楽に付き合えていたのだから。 はっきり言ってしまえば対人恐怖性の気があるわたしにとって、とても貴重な友達が京介だった。言ってしまえば、わたしたちをたとえるのに一番相応しいのは、血のつながっていない兄と妹といったところだろう。友達以上とか友達以下とか、どちらにも決してなりはしない、間柄だった。 「冗談じゃない。真剣なんだ」 「………」 彼の瞳を見れば、その決意のほどは知れる。しかし。 最後までグラスを干してしまおうかどうしようか、しばらく悩んだ末、グラスをカウンターにもどした。 「あのね」 「ああ」 「昨日、見合いしたばかりなんだよね」 そう。 家電製品が一つ壊れると、つられたように次々と他の製品も壊れるとかいうのはよく聞くけれど、こういうタイミングも重なるのだろうか。 実際問題、わたしはひとが苦手なのだ。自意識過剰のせいかもしれないが、見られるのも見るのも、あまり好きではない。そんな自分に気づいたのは、中学生だったろうか。悩みに悩みぬき、ある時から、恋愛や結婚などは自分には無理だと、自覚したのだ。 男だろうと女だろうとかまわない、とにかく恋愛をしたいと煮詰まったこともあったけれど、できなかった。もともと、押し出しがきくタイプじゃないのだ。 テリトリー意識が強いというのもあるのかもしれない。どうしてなのかはわからないが、自分の家に他人がいるというのが、堪えられないのだ。 ひとを愛せない質なのかもしれないと悩んだ時期もある。テレビとかをかけながしていて、恋愛至上主義のような巷の光景とかが流れるたびに、自分は精神的に欠落しているのかもしれない。そんな風に落ち込んだ。けれど、ペット達に対する愛情ではあるが、好きになるという情動がないわけではない。それに、苦手といいながらも他人と喋ることも付き合うことも、一応はできるのだ。少なくとも、物書きという職業柄が幸いして、あまり出歩かなくても社会生活に支障はない。 とりあえず、物書きとして一人で生活していく術はあることだし、こういう性格なのだろうと受け入れた。 犬や猫がいれば、幸せを感じることができるのだし。 今では、恋愛は物語とかブラウン管の向こうのことで、わたしには関係がないと、妙に覚めた目で見ていたりする。 そうして何年が過ぎただろう。 気がつけば三十も半ば。 まぁ、最近は、女の盛りは三十からとか四十からとかも言うらしいし。もとより、わたし自身に焦りはない。ただ、呑気に構えているわたしについに切れた両親が、見合いを持ってきたので、昨日見合いを済ませたばかりだった。 どう考えても女性フェロモンとは縁がないだろう自分に対して、プロポーズをするなどという男はいないだろう。そう思っていたのだ。 「断わらなかったのか?」 京介の照明を弾くまなざしが、まじまじとわたしを見下ろしてくる。 五つ年上のこの男友達とは、七年前、とある出版社の年末のパーティで知り合った。 時々私の小説に挿絵を書いてくれているイラストレーターが、友人だと紹介してくれたのだ。 物書きが集まるパーティーはそれこそコスプレまがいの格好からソワレまで、千差万別だったりするので、ざっくりとしたセーターにジーンズというラフな格好は意外に目立っていた。 立てっているだけでその場の視線を吸引する。そんな存在は、はじめて見た。誰でもが一度くらいは耳にしたことのあるとある大企業の御曹司だと知って、いるところにはいるもんだなと妙な関心をしたのを覚えている。 バックグラウンドはともかくとして、確か、当時、わたしは恋愛がしたいと躍起になっていたはずで、だから、男前な京介に一目で恋に落ちた。 陳腐だろうがなんだろうが、そうとしかいいようがないからしかたがない。 むかしから、あらゆるメディアのフィクション世界での脇役や悪役に夢中になる傾向があったから、訳ありの悪役とか、影から犯罪者達を操る悪役だかがぴったりくる京介は、理想の男性像の具現だった。 だから、わたしにしては珍しく、速攻で京介にそれとなくコナをかけたのだ。とはいえ、経験値が低いものだから、左手の薬指を確認してから、恋人がいるのかとダイレクトに聞いたのだった。 返ってきたのは、 『決まった恋人はいません』 というものだった。 薄い褐色の瞳が微苦笑をたたえていた。 がっついて聞こえたのかもしれないと、顔がとても熱くなった。逃げようとしたわたしの手に、京介はさっきのようにグラスを握らせて、そうして、落ち着かせてくれたのだ。 再び彼にぼーっとなってしまったわたしを、京介は、 『こどもみたいだと思った』 と、後になってもらしたものだ。 今思い出しても、あの時の記憶は、恥ずかしくてわたしを居たたまれなくさせる。 名前を呼ばれた気がして、物思いから覚めたわたしは、 「う〜ん。断られなかったからねぇ。どうしようかって思って」 焦ってことばを捜した。 本当は、できれば京介にアドバイスを貰いたかったのだ。 自分のことだから、自分で決めればいいのだとわかってはいても、ついつい誰かに頼りたくなる。 両親に相談しても、無駄なことだし。……結婚すればいいじゃないかと言われるのに決まっている。 だから、勧めるにしても勧めないにしても、京介に背中を押して欲しかったのだ。 思いもよらない現実に、心の奥に押し込めざるを得なかった恋心が疼く。 「どんなヤツだったんだ?」 釣り書きすら見ずに挑んだ見合いの席で、現われた相手に私は内心のけぞった。 「わたしより、十も年下でね…………ハンサムだった」 まさか、あんなに若い男の子が相手とは思わなかったのだ。 「それは………」 ソフィスティケイトされている京介だって、目を丸く見開いてことばを捜している。 どんな理由で十も年上の女と見合いをしようと思ったのか。まったく酔狂なことだと思った。おかげで、初対面の相手と向かい合って、わたし自身あまり緊張せずに済んだけれど。 自分から断らなくても、向こうから断ってくるだろうと、わたしはそう判断したのだ。なのに、断りどころか、付き合いたいという電話がかかってきた。それが、昨夜十時過ぎのこと。だから、その電話を終えてすぐ、京介に電話をしたのだった。 そうして、今日、こうしてふたり、バーのカウンター席で隣りあっている。 「とりあえず付き合ってみるのも一つの手段だとは思うんだけどね」 ぐるぐると回る思考で、そう思わないこともない。けれど、十も年下というのが、ネックなのだ。それに、なんとなく、両親の焦りにのるのも癪だったりする。だいたい、実家には妹が産んだ孫だっているのだし、放っておいてくれてもいいと思うのだ。 「年下じゃあ、考えるまでもなく、守備範囲外だろう」 「そうだけど」 「だったら悩む必要はないと思うが」 そう言って、京介がにやりと口角をもたげた。 「俺の嫁さんになりなさい」 ※ ※ ※泣くに泣けない光景を見た日。 頭を過ぎったのは、恋心を断ち切ったあの日の出来事だった。 あのパーティーのあと、京介となんとなく行動を一緒にすることが多くなっていた。 わたしの小説を読んだと言って、感想や批判などをしてくれるようになったのだ。どうやらわたしの書いたものは、京介のお気に召したらしい。 趣味が似ているかもしれないと言っては、美術館や観劇、いろんなところにつれて行ってくれた。 食事の後は、マンションのエントランスまで送ってくれて、それ以上はなしという関係だったけれど。 『妹が生きていればこんな感じかもしれない』 と、生まれて間もなく死んでしまったという五才年下の妹とわたしを重ねているということを隠しもしなかった。 あからさまな予防線に、わたしのほのかな恋心は泣いていたけれど、京介と歩いているだけでもあの時のわたしは楽しかったのだ。 満足していた。 ずうっとわたしが探していた資料を見つけたから取りにこないかと言われて、京介のマンションにはじめて足を踏み入れた。 わたしを迎えてくれたのは、京介と、そうして、彼の愛犬のボリスだった。 ぬうっと玄関に顔を出した、ボルゾイのオス。 長細い顔がよせられて、そのしっとりと湿った鼻面でわたしを嗅いだ。 『触っていい?』 そう言ったわたしに、京介は破顔して、『どうぞ』と答えた。 『実は、怖がるかと思ってヒヤヒヤしていたんだ』 『犬も猫も好きだよ。とくにボルゾイは、飼いたいけどあきらめてる犬だもし』 京介の入れてくれた紅茶に手も伸ばさず、斜め後ろに座ったボリスの顎の下から胸にかけ手をなでながら、わたしはそう言った。 『どうして?』 『不規則な仕事してるから、毎日散歩はできないしね』 『運動不足だったな。そういえば』 誘われたテニスで醜態を見せたのは、ついこの間のことだった。 真っ赤になったわたしが、照れ隠しで紅茶に手を伸ばした時だった。 『京介っ』 第三者の悲鳴じみた声が、穏やかだった部屋の空気を引き裂いた。 リビングの入り口に、ひとりの青年が立っていた。 足音も高くリビングを横切ると、京介のすぐ前に立ちはだかり、 『この女、何だよ』 吐き捨てるように、叫んだ。 頭の中は真っ白で、状況を把握するまでには、かなりの時間が必要だった。 部屋の空気が一転して、男女の修羅場に転じてしまったことに気づいたのは、青年が京介にくちづけたから。 それは、わたしにみせつけるつもりの、キスだった。 京介が青年の肩を押しやるよりも前に、わたしの恋心は、砕け散っていた。 その後、どうやって自分のマンションに帰ったのか、記憶は、ない。 みごとに砕けた恋心を、パソコンの前に座って、凝視していた。そうして一気に書きあげた小説が後に賞を取ったのは、運命の皮肉というかなんというか。 小説を書くことで修復した恋心は、今では、胸の奥底に、いまだ癒えない傷となって残っている。 ※ ※ ※「あなたの趣味嗜好を知ってるわたしにそれを言っても、冗談としか取れないんだけど」 ことばは悪いけれど、ゲイの偽装結婚……という単語が頭の中で点滅していた。 あの後も、こうしてわたしと京介の友人関係は続いている。 青年の勘違いと失礼な態度を謝りに来た京介は、決して女が嫌いというわけではないが、性の対象は昔からなぜか同性だけだったのだと説明をした。 そこまで告白されて相手を許さないほど、わたしはこどもではない。たぶん。 友人としてこれまでどおりつきあってくれないかという京介を拒む理由など、どこにもなかったのだ。 「カミングアウトするっていうのは?」 こそっとばかりに耳元で囁く。 京介がなぜそれをしてしまわないのか。ずっと謎だった。 「母を悲しませたくないんだ」 そういえば京介は一人っ子だった。 一度会ったことのある京介の母親は、腺病質そうな上品な女性だった。 「母を苦しませるのは、避けたい」 何かで読んだことのある知識が頭を掠めた。マザコンの気のある男性はゲイに走りやすい―というものである。 案外、京介もお約束だったりするんだ。 ハァ……と、なんとなく溜息がもれた。 突然の京介のプロポーズの背後には、どうやら意に添わない見合い相手の存在があるらしい。 四十男が………と思いながら、かっこいいとこれまで憧れていた京介に対する認識が変化してしまったのを感じていた。 なんか、可愛いかも。京介はもとより、男全般に対して持ったことのない感情が、わたしの中に芽生えていた。 「で、今の恋人はこのことを承知してる?」 「恋人はいない」 きっぱりと言い切った京介の表情は、明るい。わたしの質問の意味を、たがわず理解している証拠だった。 数ヵ月後、わたしと京介との結婚式が、バカバカしいほど盛大に催された。 人生なるようにしかならないよな。妙に達観してしまった自分を自覚しながら、わたしは京介とふたりウェディングアイルを進んだ。 おしまい
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最初はシリアスなものをと思って書き始めたんだけど、どこでどう間違ったのか、ラストで、コメディ落ちした気がする。
ともあれ、少しでも楽しんでいただけますように。