ひとつ家



 そこの萩には、細く鋭い棘があった。


 赤い月が、照らす。
 どこまでも広がる、萩の原。原の彼方に、打ち捨てられたかの黒い扉が、ぽつんと、ただ、立っている。
 風に揺らぐ、萩の細い幹が、自分達を踏みにじる白い踝に絡みつき、容赦なく引きちぎられる。断末魔に、鋭く細かな棘が、仕返しとばかりに、虐殺を繰り返す足首に突き刺さり、傷つける。
踝から下を、血が彩る。
 荒い、息。
 空にからげた天幕を爪で掻いたような、細い月が照らすのは、薄い着物と袴を身に着けた、まだ歳若い少年である。十代半ばほどの年頃に見受けられる。
 少年の足が、不意に、止まった。
 汗が、音をたてて、滴り落ちる。
 そのまましゃがみこもうとして、考え直したらしく、首を振る。散る汗を二の腕で拭い、遥か後方を少年が、見晴るかした。
 黒というよりは、鈍い藍色じみた空の下、血の色した月に染め上げられた、しなやかな萩が、湿り気を含んだ風に、しなしなと揺れている。
 彼方に、なにがしかの気配を感じたのか、少年が、動きはじめた。
 あれが、近づいてくる。
 あれに、捕えられてはいけない。
 まるで、まさに今、空にある月のような、赤いくちびるをした、あれ。
 つややかな長い黒髪に囲まれた白々とした顔の中、ゆるゆると口角をもたげて、笑みを形作るくちびる。
 少年の記憶の中のくちびるが、開きかける。白い、真珠めいた歯が、魅力的にこぼれた。
 思い出した途端、少年の背中に、粟が立った。
 逃れなければ。
 今度こそ。
 この身を、心を、刻々と苛みつづけているなにかから、逃れなければ。
 焦りがある。
 求めるのは、不安に怯えつづけるあいまいな永続ではなく、たしかな、終末。与えられつづける快楽よりも、自らが選ぶ、最期。
 目指すものは、あの、黒い扉。
 壁もなく、守るものもなく、打ち捨てられているかに見える、ただの、鉄の、扉である。扉は、月の色を宿して、てらりと、光る。
 すべてが、あの、くちびるの色に染められているかのようで、少年の背筋に、怖気が走った。
 紅を差した、つやつやと赤い、くちびるが、白々とした真珠の歯が、たおやかな喉が、何を食いちぎり、咀嚼し、嚥下するのか。禁を破り知った時から、少年は、逃げつづけていた。
 次は自分の番だ。
 次こそは。
 震えながら指折り数えた日々が、どれほどになるのか、もう、覚えてはいなかった。
 永い永い歳月、少年を支配するのは、快楽すら太刀打ちできない、恐怖と不安の果ての怯惰だった。


 あの日、使いの帰り、山道を通りかかった少年は、何者かに殴られ、気がついたときには、見知らぬ堂の中に閉じ込められていた。
 立ち籠る香の煙に、噎せかえりながら目覚めた時、ちらちらと揺れる蝋燭の炎が、目に痛かった。
 朱塗りの厨子が祀られている堂の中は、壁も床も、天井さえもが気味の悪い赤に塗られ、入り口と厨子のほかには、壁一面に棚が作られているばかりだった。
 花すら、供えられてはいない。
 祀られているのは、ただ、厨子ばかり。厨子の両脇に、火のともった蝋燭があるばかり。
 少年は起き上がろうとして、足と手とを荒縄で括られていることを知った。
 腰に帯びていた刀は取られたらしい。祖父の形見である。取り返したい。ともかくも、ここから出なくては。
 立ち上がった少年は、小刻みに飛び上がりながら、蝋燭に近づき、炎を消さないよう注意しながら、手首を縛めている縄を、焼き切った。
 少し、手首を焦がしたが、気にしてなどいられない。家に帰らなければ。
 足首の固い結び目をやっとのことで解いた。
 縄に擦れて、皮が剥けているらしい。ヒリリとした痛みに、眉根が寄せられる。
 とにかく、ここから逃げ出さなければ。
 外から鍵がかけられているのだろう、扉は、ぴくりとも、動かなかった。
 蹴っても、叩いても、撓りすらしない。
 扉を壊すのに何かないかと、棚に向けた視線が捉えたものに、少年の全身が、大きく震えた。
 少年の瞳が、驚愕に見開かれたまま、それに、吸い寄せられた。
 少年の乾いたくちびるが、震えはじめる。それは、しばらくして、全身へと、伝わった。
 声は、悲鳴は、出ない。
 緩やかな弧を描くそれは、人の頭蓋骨だった。人ひとり分ごとに分けられて、おびただしい人骨が、堂の棚に、並べられていた。
 情けなくも、少年は、それを認めた途端、意識を手放したのだった。

 ぱちぱちと、薪が爆ぜる音に、少年は、気づき、すべてを、夢だと思った。
 少年を見下ろす、薄い色のまなざしに覗き込まれ、その頬に刷かれたやわらかな笑みに、すべてを夢だと、忘れてしまった。
 このひとがいればいいと、そう思ったのは、なぜなのか。あの棚に収められていた人骨も、奪われた刀も、帰らなければと思っていた家のことさえも忘れて、少年は、ただ、そのひとと、暮らした。
 色の薄い瞳が、高く澄んだ声音が、自分にだけ、向けられる。細い腕が、しなやかな指先が、自分を掻き抱く。落とされるくちづけに、陶然となり、何も考えられなくなった。
 空がいつも、月を浮かべた夜だとか、野原に咲くのが、萩ばかりだとか、ほかに人がいないのはなぜだとか。そんなことは、どうでもいいことだった。
 ただ、不満があるとすれば、ふたりで暮らす、屋敷の奥。時おりそのひとが入ってゆくその部屋の、襖障子の奥に何が秘されているのか、それを見ることができないと言うこと。そればかり。
 あのひとは、その部屋にこもると、二日三日と、出てこない。
 淋しくて、切なくて、会いたくて。
 だから、少年は、入ってはいけないとの禁を破ったのだ。

 鼻をついたのは、いつか嗅いだことのある香木の匂い。それに、生臭いものが混じっている。ぴちゃぴちゃと、獣が水を飲んでいるかの、行儀の悪い音の響き。荒い息。
 襖障子の奥、漆で塗りつぶしたかの観音開きの扉の向こう、繰り広げられている光景に、少年は、我と我が目を疑った。
 そこは、一面の赤。見覚えのある、赤一色の、部屋である。
 蹲る姿は、あのひとだった。
 見知らぬ男の腹を裂き、掴み出したまだ蠢いている心臓を、口元に運ぶ。赤く、おびただしく流れる血潮に、染まって、肉片を咀嚼する獣じみたそれが、少年の恋するあのひとだとは、信じたくなかった。
 喉元にこみあげてくる苦酸いものを堪えながら、少年は、視線を逸らせることすらできなかった。
 ひとを食らうさまですら、あのひとは、見るものを魅了せずにはおかなかったのだ。
 けれど、少年は、気づいた。
 自分もまた、いつかしら、そう遠からず、ああして喰らわれてしまうのだ―――――と。


 想像したことの恐怖に、少年は、狂ったように、逃げ惑った。
 触れられるだけで嬉しく感じた、あのひとの何もかもが、恐ろしくてならなくて、何度も連れ戻されるたびに、あのひとが見下ろす先で、吐き戻した。


 息が切れたために、立ち止まった少年は、荒い息を整えようと、その場にしゃがみこんだ。しゃがみこめば、動けなくなる。わかっていても、しゃがまずにはいられなかったのだ。
 汗が、地面に滴り落ちる。
 萩の棘が、袴に、食い込む。
 湿り気を求めているのだとでもいいたげに、萩が、ざわりと揺れる。あちらこちらで、赤い花をつけた、木々へと、ざわめきが、伝わってゆく。
 目指した扉は、すぐ目と鼻の先である。
 黒い、鋼の扉の丸い輪に、少年は手を伸ばした。
 やっとのことで立ち上がった少年が、扉を開けて、外に足を踏み出した。
 もうじき、あのひとが、現われる。
 やさしげに微笑む、白い顔の、恐ろしい、ひとならざるもの。
 赤い堂を思い出す。そこで繰り広げられていた、酸鼻きわまりない、光景を。
 自分が、捧げられた贄なのだと。少年は、気づいていた。
 だとすればあのひとは、祀られるにたる、女神なのだろう。自分は、気まぐれで、腹を割かれずに済んでいるだけにすぎない。
 だからこそ、側にいることが恐ろしくてならなくて、逃げずにいられない。
 まだ、あのひとをただ慕っていられた時、原っぱの向こうにある、黒い鋼の扉の存在を知った。何気なく訊ねた少年に、あのひとは、死の扉だと、そう呟いた。
 死の扉?
 繰り返した少年に、
 近づいては駄目だと、あのひとは、微笑んだ。その色の薄いまなざしは、少しも笑ってはいなかったのだけれども。
 全身の震えは、恐怖のためだ。
 いけない。早く、扉を閉じなければ。
 震える手で、少年は、扉を閉じた。
 途端、少年は、胸を両手で押さえ、その場に頽れた。
 しとどながれる脂汗。
 心臓は、いまにも捻り潰されそうだと言うのに、少年のくちびるは、満足げに、笑みを宿している。
(ああ、これで、終われる)
 逃亡への気力すら、いつからかしら、掻きたてなければ、萎えてしまいそうだった。しかし、喰らわれるだろう死に直面しながらも、それ以外の死から無理矢理切り放されてしまった身に唯一の希望は、この、黒い扉。扉を抜けさえすれば、抜けて、閉じてさえしまえば、あのひとは、自分を連れ戻せない。
 扉を抜けただけでは駄目なのだ。しっかりと閉じてしまわなければ。
 以前、やっとのことでたどり着いた扉を抜け、閉じることを忘れてしまったために、死の淵から、引きずり戻された。
 あの折の、あのひとの怒りを、少年は、忘れられない。
 いつもやわらかな笑みをたたえているあの白い顔が、くっきりと深い皺を刻み、少年をねめつけた。散々に打擲され、息も絶え絶えに、殺してと、懇願した。  掠れた声で、もう飽きたでしょう――と。
 ともすれば、気を失ってしまいそうになりながら、別の贄を選んでと、そう言った。
 なのに、そのどれをも、鼻先で叩き落された。
 逃れられないように。そう笑って、あのひとは、少年のの足首の骨を砕いた。
 今となっては、死を恐れていた自分が、懐かしくてならない。
 死は、こんなにも、やさしく自分を包み込んでくれようとしている。
(ああ…………)
 少年は、最期の吐息を深々と吸い込み、吐き出した。
 そのまま、ゆるゆると、大地に伏せてゆこうとした少年の耳を、やわらかな声が、射抜いた。
 泣きたくなるくらいやさしい声で名前を呼ばれて、少年の消えてゆこうとしている意識が、その場で足踏みする。
 しかし、少年は、もう、恐れない。
 恐れる必要も、ない。
 これで、すべては、終わるのだ。
 今度こそ本当に意識を手放そうとした少年の薄い両肩を握り、声の主が、彼を抱き起こした。
 くすくす……と嗤うそのひとは、そのまま、少年のくちびるに、己のくちびるで触れた。
 動きを止めたはずの、心臓が、再び、鼓動を刻みはじめる。突然動き始めた心臓に、躰の他の気管がついてゆけずに、悲鳴をあげた。噎せこみ、その苦しさにもがく少年の眦に、涙が溜まってゆく。それをちろりと赤い舌先で舐め、女神なのだろうそのひとは、
「さあ。目覚めなさい」
 楽しげに、囁いた。


 見慣れた白い顔が、少年に、絶望を抱かせる相手が、端然と彼を見下ろしてくる。
 少年の全身が、強張りついた。
「どうして………」
 掠れた声で、そう訊いた。
 終わったのではなかったのか。
 扉を抜ければ、死ねると、そう言ったではないか。
 さまざまな思いを、まなざしから読み取ったのだろう。
「わたしをなんだと思っているの」
 神であればこそ、戯れに、死から呼び戻せるのだ。扉を閉めようが閉めまいが、関係ない。
「嘘をついた」
 咳きこみながら、少年がつぶやく。
「死ねたでしょう」
 楽しそうな声に反して、相手が怒りを抑えていることが、感じられた。
 いっそ過ぎるくらいにおだやかな物言いになるとき、そのひとが怒りを押し潜めているのだと、少年は、知っていた。
 血のごとく赤い月が、黒い門を照らしている。
 伸びてくる白い手を反射的に叩き落として、少年の顔が青ざめた。いざり逃げようとして、短い悲鳴が少年の喉からほとばしった。
 萩の上に、押し倒されたのだ。
 薄い衣を、萩の棘が、容易に貫き通す。
 薄い色の瞳が、暗い怒りに塗りつぶされている。
 襟元を開く手に、尚も抗い、頬を、張られた。
「もう………」
 涙でにじむ先、そのひとがどんな表情で少年を見ているのか、わからない。
 背中の棘がなおも深く押しつけられ、傷が、再び血をにじませる。
 引き攣った少年の悲鳴が、野原に消えてゆく。
 赤い月に照らされた、萩の野に、ただ、少年の悲鳴だけが、流れて消えた。

おわり





あとがき
 あまりにオリジナルのアップがないので、どろなわで。高金/ロイハボにアップの『赤い月』のオリジナルバージョンです。う〜ん。

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