たとえば、それが  1





 悲鳴が上がる。
 見下ろす視界に繰り広がられているのは、酸鼻きわまりない光景だった。
 贄の神子がその仕える混沌の神に貪られている。
 血とも欲の証ともつかない液体がその場所一帯を染め上げる。
 しかし。
 それを見下ろす男は、目を背けることはなかった。
 その秀麗な眉間に何とも捉えがたい縦皺を刻みながらも、ただ凝然と。



 その日はバルマ王国を挙げての祝祭日だった。
 月に一度のそれとはまた違う、盛大な祭りである。
 小国ながら世界に冠たる王国が祀る神々へと感謝を捧げる、年に一度の祭りである。
 創世の神と終焉の神。
 しかし、今一柱。秘された神も存在した。
 狂乱の神とも混沌の神とも呼ばれる、二柱の最初の子でもあると伝えられる守護神こそがそれである。
 浮かれ騒ぐ人々には、花や光が降り注ぐ。
 この日ばかりは解放された瀑布を擁する巨大な崖、王侯貴族の屋敷がある区画や神殿の庭に設けられた舞台の上で、この日のために練習を繰り返した踊りに巫女たちが裳裾を翻す。
 彼ら彼女らは、祭りの狂騒に身を任せる。
 この国を守る彼の神から目を背けるかのように。

 ただ、この男ひとたりのみが、その眇めた目で酸鼻極まりない供儀を見据えていた。



 足元の瓦礫が耳障りな音をたてる。
 空に創世と終焉の二つ月が昇り数時間。
「ここが………か」
 吹きすさぶ風に着衣が音たてて大きくはためく。
 後頭部で無造作に束ねただけの髪を手櫛で整えながら、周囲を見渡した。
 どこを見ても瓦礫ばかりの、廃墟である。
 夜の月明かりの下、黒々としたシルエットの数々はもはや往年の美しさを偲ばせるものではなくなっていた。
 この地は以前、バルマと呼ばれた王国であった。

 誰に想像が叶うだろう。
 この地、まさにこの場所に巨大な滝があり、真珠に喩えられた城があったのだなどと。大河の形跡さえも残されてはいない。
 世界一美しいと讃えられた王国の中でも、特に美しいとされた中心地である。巨大な瀑布のしぶきがかかる崖の頂から下に向かい、王侯貴族の順で城を建てることが許されていた。神殿はその階層ごとに一つずつ儲けることが許されていた。ただそれのいずれもが、白を基調としたものだったため、王都は、バルマの真珠と称えられた。

 わずかに今から十年前、富める王国は滅びを自ら選んだのだ。
 空を仰ぐ。
 二つ月が完全に重なろうとしていた。
「もうじきだな」
 瓦礫が音をたてる。
 見守る先で、二つ月が重なり合う。
 ひときわ冴え冴えとした月光が周囲を照らした。
 瓦礫ばかりの荒んだ土地には不釣り合いな、硬い金剛石の小さな粒がぶつかりあったかのような高くかそけき音がした。
 一条の月光が、とある一点を指し示す。
 白銀の帳が揺らめいたかの錯覚ののち、巨大な瀑布がその威容を現した。
 耳を弄する滝の音。その裾を流れる大河の水音までもが聴こえてくる。
 その在りし日の幻影に、目を耳を奪わる。
「何を思ってこの地に足を踏み入れた」
 気配はなかった。
 いつ現れたのか、薄い青の長衣をまとった若者がひとり。
 肩口で揃えられた銀糸の髪が風にあおられ月光を反射する。
「我が名はファリス。この地の番人。ことと次第によってはその命もらいうけよう」
 引き抜かれた剣がけざやかに煌めいた。
 その存在の生々しさに反して、若者には影がない。
 ああ−−−と。
 目を瞑る。
「私はシヴァ。吟遊詩人だ。神の涙を求めている」
 でなければなぜこの地に足を踏み入れる。
 この国が瓦解した当初なれば、墓場荒らしのごときものどもが大挙したであろうが。その多くが、なんらかの不幸に見舞われて命を落としたとの風聞を知らぬものは、いない。
 命を賭ける理由がなければ。
 呪われたこの地に誰が来ようとなどするだろう。
「理由は」
 固い声だった。
「最愛のものが死病に伏している」
 そう。
 しばし無言の眼差しが、シヴァの目を凝視する。
 やがて、
「ついてこい」
 ファリスと名乗ったひとならざるものが剣を鞘に戻す。
 その音さえもが冴えやかに響いた。






 それは、星ひとつない夜の空の下。
 闇よりも深い黒。
 嘆く声がかすかな尾を引いてまといつくような湿度の高い空気に溶けて消えた。
 ひとつ。
 またひとつ−−−と。
 魂消るごとき声は偶然それを耳にした者がいたとすれば、その心胆を寒からしめたであろうこと想像に難くない。
 声はやがて血を吐く呪詛へと変わり、ついには嘯きへと変わり果てる。
 ただ平坦な声は、最後に、
「我望むは復讐を」
 ただ、そうとだけ空気を震わせて途絶えた。



*****



「お父さま?」
 両手を胸元で握りしめ、健気な風情を見せるのは赤みの強い茶色の髪の女である。
 おそらく年の頃なら十六、七といったところだろう。小さな顔の中整ったパーツが絶妙の位置取りで鎮座するさまは、”美貌の”とつけてもいいだろう。なよやかな曲線を描く肢体を異国から入り流行し始めたばかりのドレスに包んでいるようすをしおらしげに見せているのは、その灰色の色調の故だろう。まろやかな胸元に映える燃える炎にも似た朱色の石の首飾りが二人が親子であるという証のようだった。
「お会いしたかった!」
 同色の瞳に涙さえたたえて、胸元に飛び込んでゆく。
 無作法な行動ではあったが、初めて親子の名乗りをあげる女のそれに、異を唱えるものはいなかった。
 女の歳に似合わぬ衝動的な行動を受け止めるのは三十代前半ほどに見える、栗色の髪の男である。
「そうか。お前がモーリの子か」
と、やわらかな声音で囁くようにつぶやくそのさまに、周囲の者たちは感極まったため息をつく。
 似合いの一対とも見える親子のさまではあったが、男の髪色と同じ瞳が驚くほどに冷めていることに気づいた者はひとりもいなかった。
「ジャヴァ大公、ミュケイラは伯父上の娘ということで間違いないな」
 威丈高に声を張り上げたのは、青銅のような髪色の若者だった。おそらく、年の頃は女性とさして変わらぬであろう。整っているものの男性的な荒削りの容貌は、年頃の娘であれば思わず退いてしまうであろう独特の熱を帯びていた。
「王太子殿下」
 女性の声がオクターブ跳ね上がったかの錯覚があった。滴り渦を巻く蜜の甘さがひときわ強くなったようなと、居合わせる者たちは感じただろう。
 父と呼んだ相手から身を離し、王太子殿下と呼んだ相手に駆け寄る。
 親密さを隠そうともせず、謁見の間に集う綺羅殿上人の面前で臆面もなく王太子の腕を両手に抱え込む。豊かなふくらみが惜しげもなく王太子の腕に押し付けられたが気にしたようすもない。
 あまりにあからさまなようすに、二人の関係をそれとなく理解する者が大多数ではあった。
 眉間にしわを寄せる者。かすかな咳(しわぶき)をたてる者。女性たちの手にした扇が癇性に揺らぐ。水面下に不快感が漣だち始めたかのような空気の中で、
「王太子殿下直々に調査を指示された結果を拝見いたしました。年の頃。それに………その首飾りが証拠でございましょう」
 アヴィシャ・ヴァイジャ・ジャヴァという舌を噛みそうな名の男が胸に拳にした右手を当て、腰を折る。艶やかな栗色の髪が極上の絹糸のように揺れた。
「では!」
 太い声に喜色が滲んだ。
「父上! お聞きになられましたでしょうか」
 数段高い玉座に腰を下ろした国王ジーヴァス・ヴァジャ・バルマンが興味なさそうに「うむ」と言葉少なく諾った。
「これで俺とミュケイラの婚姻に不都合はなくなったであろう。違うか、宰相! 神官長!」
 王の脇に控える二人の男の片方が、
「お従兄妹同士となられますと少々血が近うございますが」
「また血と抜かすか! それならば、ミュケイラの母親は平民。王家の血は過ぎるほど薄まっておるわ。ミュケイラを平民風情とさんざ見下しおったろうが。それが、大公の落とし胤と分かった途端、今度は血が近いとか? いい加減にしろ」
 癇癪を起こし顔を真っ赤にした王太子、ヴァイス・ヴァージ・バルマンに、
「王太子の婚姻相手は決められて」
 火に油を注いだのは、神官長だった。
「うるさい。あんな底意地の悪い高飛車な女、国母にはふさわしくないわ」
 逆毛を立てた猛獣のように両眼を光らせて王太子ががなりたてる。
「さんざんっぱらミュケイラをいじめ倒したのだぞ」
 それは、許嫁者以外と仲睦まじくしていたからだ。それは浮気と言われるものだとこの場の誰もが思ったが、だれひとりとして口に出すことはなかった。
 ここまで癇癪を起こした王太子が手に負えないことを、この場の誰もが知っていたからである。
「よかろう。創世の巫女殿と王太子の婚約はとりあえず解消とする。娘、名は何と申したかの」
 突然の国王の言葉に、
「は、はい。ミュケイラと………いえ、ミュケイラ・ジャヴァと申します」
 いささかとってつけたかのような淑女の礼を取りながら、答える。大公家の名を口にするときにその声がいささか驕慢な色をはらんだと聞こえたのは気のせいか。
「代わって、我が兄ジャヴァ大公の娘ミュケイラとの婚約を暫定的ではあるが定めることとする」
「父上!」
「陛下!」
 様々な反響が謁見の間に広まったが、言うだけ言うと王は謁見の間を後にした。
 後に残されたものたちも三々五々謁見の間を去って行く。
 最後に残されたのは自分たちの世界に浸っている王太子と新しい婚約者の二人だけであった。



*****



「トオル。辛いか?」
 聞くまでもないことはわかっていた。
 それでも、訊ねずにはいられなかったのだ。
 アヴィシャの声に虚ろな眼差しが彷徨った。
 鳶色の眼の下にぬぐい去ることのできない隈を宿したまま、トオルと呼ばれた少年と青年の狭間にいるだろう若者がアヴィシャを見出した。
「ア、ヴィ………」
 掠れた声が耳をくすぐる。
 細い手が伸ばされ、アヴィシャがそれに応えた。
「食欲はあるか? 何か欲しいものがあれば言え」
 寝台サイドにゆっくりと腰を下ろし、艶をなくした濃い色の髪を撫でる。
「暗いのが嫌だ」
 訴えに手の甲を撫でながら、空いた方の手で呼び鈴を鳴らす。即座に控えの間から侍従が姿を見せる。
「ファリス、灯りをつけてくれ」
 声もなくただ頭を下げて、侍従が行動に移る。そこには、まだ昼間の上に大きく刳られた消音を施した窓の外では雄大な滝のしぶきが陽光を煌めかせてさえいるというのにといったような、訝しむようすはない。
「他には? ああ。セオブロマ(ココア)ならば飲めるか?」
 その単語に、若者の瞳が少し明るくなったように見えた。
「砂糖とクレマ(クリーム)をたっぷりだな」
 それらがどれほど高価なものか若者は理解してはいない。しかしそれをトオルに伝えるつもりは、アヴィシャにはなかった。
 二人のやり取りを聞いていたのだろうファリスが下がり、しばらくして執事長がセオブロマを運んできた。
「起き上がることはできるか?」
 寝台と背中の間に手を差し入れるアヴィシャに、トオルの頬がかすかに引き連れる。
 ゆっくりと、気の短いものがいれば叫びだしてしまいそうなほどの鈍さで、整えられたまくらの数々に背中を預ける。
 極上の柔らかな繊維で作られた寝巻きの襟元が開き、哀れなほどに窶れた身体が垣間見えた。
 喉の奥で悲鳴を押し殺したトオルに、
「大丈夫だ。ここにいるのは私とアディルだけだ」
 襟元のリボンをゆるく結んでやりながら、アヴィシャが静かに告げる。
「さあ、これでいい。痛いところはないか?」
 そんなアヴィシャの問いに、トオルの表情が泣き笑いになる。
 痛くないところなどありはしないのだと。
 けれど、それをアヴィシャに告げたところでどうなるだろう。加害者は彼ではないのだ。
 彼だけが、彼と彼の命を受けたアディルとファリスの三人だけが、トオルを守ってくれている。
 たとえその真意がどこにあろうと、彼らだけは、トオルに危害を与えることがないのだ。
 上半身を起こしたトオルの食べよいようにアヴィシャ自身がテーブルをセットしてゆく手際の良さは、それがほぼ習慣となっていることを物語る。
「先に水で口をお漱ぎください。セオブロマの他にも、なにかお口に入れられそうなものを準備いたしましたので」
 アディルの勧めに従い、口元に運ばれた杯の縁に口をつけた。
 水で満たされた銀の杯など重すぎて今のトオルでは持つこともできない。
 含んだ水を差し出されたボウルに吐き出すことにも、慣れた。漱いだ後に数口飲めば、乾ききった身体を水が潤してゆく。
「寝るな」
 ほんの少し怒るようなアヴィシャの口調に、重い瞼を開ける。
「栄養のあるものを食べてくれ」
 懇願するかのような口調に、ほんの少し、口角がゆるむ。
「なんだ」
 不思議そうな表情に、
「アヴィがそんな口調なんて似合わない」
 いまだどうしようもなく掠れる声で、告げる。
 喉も痛い。
 けれど、少しだけでも軽口を叩きたかった。
 そうすれば、この部屋の空気が軽くなる気がした。
「アディル、軽くてあまり胃に負担のかからないものはどれだ」
「蒸し菓子、ポウティンカ(プリン)、ヤウルティ(ヨーグルト)などがよろしいかと」
「そうか。トオル。どれなら食べれそうだ」
 いらないと首を横に振ろうとして、懇願された。
「セオブロマを飲ませないとは言っていない。ただあれは重い。あれを飲む前に少しでいいから、腹に何かを入れてくれ」
 吐けば苦しい思いをするのはお前なのだぞ。
 そう言われれば、どれかを選ばないわけにもいかない。
 美男子それも絶世のと頭につきそうな男が情けない表情をしてトオルを見ているのだ。
 そろりとアディルに目を向けると、ポウティンカを−−−と視線で助け船を出してくれた。
「ポウティンカ」
「ポウティンカだな」
 安堵したようすを見せたアヴィシャに心が温かくなるのをトオルは感じていた。



*****



 眠れないのだと、異世界から来た若者が泣く。
 ほんの少し前にセオブロマを二口ほど飲んだばかりだったが、それが原因ではないことを彼は知っている。
 彼の年頃であればどれくらい大量に食べたとしても驚きはしないというのに、ポウティンカを小さな器半分にセオブロマをたった二口でいいのかと、心が痛くなる。
 なにひとつとして縁のないこの世界に無理やり繋がれた若者に、疾うに凍てついていたはずのアヴィシャの心が痛む。
 神子となるのは、本来彼ではなかったというのに。
 有無も言わせずに王国の命運を背負わされた哀れな神子。
 あまりにも惨い運命を担う神子は、異世界から攫われるようにしてきたのだ。
 それまでの幸せな生活から引きちぎられるようにして。
 その姿が、その哀れなさまが、とある人物に重なる気がした。だから、神殿から無理やり引き取ったのだ。神殿での生活に戸惑い疲弊し、恐怖に弱り切った神子を月に一度の儀式の折に垣間見ることさえもが辛かった。
 例え引き取ったところで彼を取り巻く本質が変わることはないと知っていて尚、せめて彼の身の回りや日常を豊かなもので満たしてやりたいと、そう思ったのだ。
 それが代替行為でしかないことは、自覚があった。
 こんなことをしている場合ではないのだ。
 現実に立ち戻る。
 トオルの髪を背を優しく梳き撫でながら、アヴィシャは知らずくちびるを噛み締めていた。
 アレに会わなければならない。
 今宵からここの住人になるアレに。
 アレとトオルを会わせるつもりは微塵もなかった。神子が大公家に引き取られていることは、アディルとファリスを除けば、神殿の上層部と宰相それに国王しか知ることではない。
 他の使用人たちは、トオルの存在を知ってはいても、神子であることは知らない。念のために箝口令は徹底させているが、昼間に顔を合わせたばかりのアレの無作法な行動を思い出す。
 密偵に調べさせたアレの行状のほどは呆れを通り越すほどのものばかりだった。
 王立学園での王太子のお気に入りを笠に着てのやりたい放題。挙句、昼間の騒動である。トオル専用としたこの棟への立ち入り禁止を素直に聞くような性質でないことは明白だった。
 もう一度呼び鈴を鳴らしてファリスを呼ぶ。
「処方させている例の薬の残りはあるか」
 痛みによる覚醒と消耗による眠気との狭間を行き来しているトオルを慮って小さな声で訊ねる。
「………こちらに」
 躊躇しながらも上着の隠しから薬包を取り出すと、ファリスは水に溶かして差し出した。
「殿さま………」
 やはり声を潜めて語りかけてきたファリスに、手に銀の杯を持ったままで視線を投げかけつづきを促す。
「その薬は劇薬ですから、あまり頻繁にお使いにはなられませんようぜひともお気をつけください」
 まだ若い、二十になるやならずの若者の声に、どうしようもないほどの不安を感じながら、
「わかっているが、このままではトオルが弱る一方だ」
 薬の補充を指示した後、己の口中に薬水を含み、トオルの口に流し込む。
 身を起こしたアヴィシャの目に、窶れて目立つ喉骨が大きく動くのが見えた。
「いい子だ」
 深い息を吐き出したトオルの全身から力が抜けてゆくのを確認して、頬をそっと撫でた。
「私は用事を済ませる。お前は絶対にこの棟に誰も入れさせるな」
「御意にございます」
 深々と頭をさげる。
 アヴィシャはそれ以上は何も言わず、重い足を動かしたのだ。



*****



「トオルさま」
 ファリスの声に振り返った。
 どうにか寝台から起き上がれるようになったトオルは窓辺の明るいテーブルで朝食をとっていた。
 まだ窓を開けることはそこまで体調が戻っていないからと許されないが、窓から見える雄大な滝のさまだけでも見飽きることはなかった。
 トオルの食が少しでも進むようにと気配りされ彩りよく盛り付けられた料理の数々は、どれもが一口で食べきることができる分量ずつ。それでも、半分以上は残るのだから、料理人の手間暇を考えるとトオルはいたたまれない。
 一月に一度必ず訪れる”あの日”をやり過ごし、十日目になる。
「どちらをお召しになられますか」
 杯を両手で支え果物の果汁を飲んでいたトオルは、ファリスの手にする胴衣を見て、頭を振った。
 やわらかそうな生地は正直言ってありがたい。起き上がれるようになったとはいえ、身体の痛みは弱まりこそすれ消え去ることはない。
「無限ループだからな」
「はい?」
 ファリスの不思議そうな表情に、なんでもないと小さく告げて、
「濃紺………かな」
 ファリスの手にした胴衣は濃紺と明るい緑の二種類。デザイン自体は立ち襟の襟元や絞った手首のフリルや幅広のリボンタイにつけられたレースと、どちらも同じデザインである。どちらも派手で、トオルの好みではない。が、この世界では少なくともある一定以上の地位を持つ男性の胴衣にフリルやレース、リボンは一般的であるらしい。それは、アヴィシャの世話になっているトオルにも適用されるものであるらしい。ならば折れて、色で選ぶしかなかった。
「ではこちらに合わせてお衣装をご用意いたします」
 そう言って衣装部屋に消えてゆくファリスを見送り、トオルはため息をついた。
 杯を注意深くテーブルに置く。
「ごちそうさまでした」
 手を合わせて軽く目を閉じた。
 テーブルの上にはどうしても食べることができなかった食事が三分の二ほど残されていた。
「もったいないんだけどな」
 もったいないといえば、今、自分の周りにあるものは全てがもったいない。
 トオルにはそう思えて仕方がなかった。
 この世界に無理やり結び付けられて五年近くになろうとしている。
 最初の数ヶ月は、まさに地獄と呼んでも差し支えがなかった。
 苦しさに泣き叫んでも、誰も助けてはくれなかった。
 見知らぬ男たちがトオルを見下ろす。
 帰せと、元の世界に帰せと、最後には懇願しすがりついた。
 恥も外聞もなかった。
 帰すすべはないと無情に言い放つ男たち。
 己に押し付けられた役割に、何故? と、咽び泣いた。
 見知らぬ、縁などありはしなかった世界の存続をただ押し付けられたのだ。
 代わりだと。
 本来の神子となるべきものが尊い存在であるゆえに、代わりとなるものを呼び寄せた。それが、取るに足りぬお前であったのだと。
 見下され、蔑まれた。
 逃げぬように鎖につながれ、月に一度の儀式の苦痛に耐えた後、襤褸のような硬い衣服を投げつけられた。
 一度は引き裂かれた全身に、その致死となるべき傷痕が生々しく残っていた。未だ痛みのやまぬその傷痕に触れる繊維の硬さに、トオルは歯を噛み締めて耐えた。
 どうせ時が来るまでは死なぬと、水も食事も気まぐれに投げ与えられるだけだった。
 硬く干からびたパンのかけらを噛み締め飲み下す。喉に詰めれば苦しむのはトオル自身。注意深く、少しずつ噛みしめるよりなかった。
 月一の儀式ではない何かの儀式に引きずり出される時だけ、湯を使われ、顔色が良く見えるよう化粧まで施され、華美な衣装を纏わせられた。
 その際、余分なことを口に出さないよう何か薬を飲まされ、朦朧とした状態での参加だった。
 そんな時間がどれほど流れたのか、当時のトオルにはわからなかった。
 自分は取るに足りない人形でしかないのだと、引き裂かれ命を奪われる贄でしかないのだと、それだけがわかっていることだった。
 痛みを告げることは早々に諦めた。
 痛い−−−と、そう口にしたために、元の世界に繋がるものが己を手放したのをトオルは覚えていた。
 そう。
 白とも灰色ともつかない何もない空間で。
 右腕と左腕とにそれぞれ絡んだ何かが彼を引っ張りあっていた。
 まるで、幼い日に読んだ母親を決める昔話のように左右から強い力で引っ張られたのだ。
 あまりの痛みに、
「痛いっ」
 叫ばずにはいられなかった。
 その時、右腕に絡んだなにかが、するりと解けた。
 そうして、信じられない力で左側に引きずり寄せられたのだ。
 それはまるでバンジージャンプの亜流のような、それよりもよほどスピードのある感覚で。
 気がつけば、そこは、見知らぬ世界だった。
 西洋にエスニックが混じったような、不思議な。
 そうして、地獄の日々が始まったのだ。
 アヴィシャが救い出してくれるまで、トオルはこのまま期限が来れば自分は死ぬのだと、信じて疑ってはいなかった。
 一月に一度の儀式はあの神と呼ばれるものが夢を渡ってのものへと変化したが、無理に大衆の前に引きずり出されることはなくなった。それだけでも、はるかに心が休まるような気がした。
 そう。
 あの暗くて寒いごつごつとした牢獄のような場所で神だという怖気をふるうようなものに蹂躙されるよりは、この場所でされる方がまだマシだと思えた。少なくとも背中に感じるのは、寝具の感触だった。極上の布地に背中を擦られる感触だった。部屋がその度に血に汚れるのに気づくのに数ヶ月かかった。その度々に、寝具を始め布類は処分され新しくなっているのだと知り狼狽えた彼に、アヴィシャは気にすることはないと言った。血やいろいろな残骸を拭い去る掃除も大変だろうといたたまれなくなった彼に、それで賃金を得るのが、はしたの仕事だからとアディルに説明された。納得できたわけではなかったが、いつも自分が気づけば綺麗になっているのだから、手の出しようがないというのが正直なところだった。
「失礼いたします」
 ファリスにドレッサーの前まで導かれ、ゆっくりと無理のないように進む。
「よろしいですか?」
 それに無言で首を縦に振った。
 あれから三日。ならば、傷もよほどマシになっている頃合いだった。
 他人に見られても、それほどの不快感を与えることはない。
 息を呑むこともなく、ファリスが淡々と着替えを進めるのに身を任せていたトオルだったが、
「待って」
 鋭く叫んでいた。
 目の前にある立派な鏡に肉付きの薄い男が映っている。
 腕の付け根、首、足の付け根にも、赤く変色した箇所がある。そのほかにも、からだのあちこちにまるでキスマークのような赤が散っている。しかし、それらは今更のことだ。散った赤は場所を変え深さを変え、常にからだのあちこちに存在を主張する。だから、トオルが叫んだのは、それが理由ではない。
「なんだ、これ………」
 確認するのが恐ろしいと言わんばかりの動作で、トオルが触れたのは、肋骨の下部中央、より左に寄った箇所だった。
 ファリスはただ黙って控えている。
 黒い丸が、そこにあった。
 二センチくらいだろうか、丸い穴が空いているように見える。
「ほくろ………?」
 確認しようと伸ばした指先が抵抗もなく飲み込まれてゆく。
「え?」
 痛くはない。
 ただ、視覚からくる違和感だけが非常に強かった。
「どういたしました」
 ファリスの訝しげな声に彼を見る。
「これ………」
「はい? どうかいたしましたか」
 ファリスはトオルの胸の穴に気づいていないようだった。
 黒々とした穴だというのに。
 目の前が歪んだような気がした。
 くらりと眩暈に襲われる。
 気がつけば、トオルはその場に頽れていた。
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