たとえば、それが  2




***** 



「どうしてよ!」  ミュケイラの叫びに、侍女は無表情だった。
 やっと願いが叶ってここまでやってきたというのに。
 目的にほぼ王手をかけているというのに、こと大公家での生活は思い通りに運ばない。
 侍女達は従順で、そこに不満はない。
 けれど、ミュケイラは戻った自室で叫ばずにはいられなかったのだ。


「ミュケイラさま」
 静かなアディルの声に、我に返った。
「あ………」
 口元に手をやる。
「ご、ごめんなさい」
 ここは、大公の書斎である。
 彼の背後の大きくくり抜かれた窓からは、この国の象徴ともいうべき瀑布が見える。もちろん、音は完璧に遮断されている。でなければ、この位置に城を立てようなどという物好きはいないに違いない。
「何が不満だ」
 大公の薄いくちびるがようようのこと言葉を紡いだ。
 机の天板の上に両肘をつき組み合わせた両手の背に繊細な顎を乗せた格好で、ミュケイラを見上げている。ただし、逆光のため表情ははっきりとはわからない。
 静かな声には、なんの感情も含まれてはいないかのようだった。
「滝の見える場所に部屋を変えて欲しいのです。それと、婚約発表の場に着るドレスの生地が、その………………」
 少しばかりわがままかなとは思わないでもないけれど、と、ミュケイラは内心で独りごちる。
 瀑布の脇に建つ白亜の城。
 王城を頂点に少しずつ位置を下げて大小様々に趣向を凝らした美しい城の数々は、瀑布から流れ落ちる大河の両側に広がる王都に暮らすものたちにとって憧れの象徴である。子爵以下ともなれば王都に城を構えることを余儀なくされる。しかし、それでも、子爵以上の貴族であれば、滝に沿うように造られた棚地に城を建てる権利を持つ貴族の令息令嬢であれば滝の見える場所に部屋を持つことが自慢になる。少なくとも、学園ではそうだった。だから、大公の娘だと認められこの城に迎え入れられた時には、滝の見える部屋を与えられるだろうと確信していたのだ。しかし、与えられたのは、滝とは真逆の部屋だった。ただの平民の娘として生きて来たミュケイラにとって、天上とも思えるほど夢のように美しい部屋ではあったけれど、窓から見えるのは、城の中庭だった。
 それに、一月後に迫った婚約式の場で着るドレスの生地が気に入らなかった。店に入ることさえもはばかられるほどに高級な、国内でも三本の指に入る商人を彼女の客間に呼び寄せるという、これぞ王侯貴族! という慣習に自尊心をくすぐられたものの、目の前に広げられた数多の生地のきらびやかさに目を奪われたけれど、それでも、これではないと思った。そう。ただの極上の絹では駄目なのだ。
 追い落とした王太子の元婚約者。
 創世の神の巫女姫である彼女が折々に身にまとった、アグリアメタスソコリガという魔物からだけ取ることができるという夢のようにやわらかく美しい、特別の絹。魔物の名の前をとって、アグリアメタクシと呼ばれるそれで作られたドレスをどうしても着たかった。なのに、
「どの商人も、在庫がないと言うのです」
 希少性の高さから、天井知らずの値がつくとは聞いていた。そのため、基本的に、身にまとうことができるのは王侯と巫女だけなのだと。それも、折々の特別な場でのみのことである。しかし、今や大公令嬢と認められたミュケイラならば、婚約式の場であれば着ることができるはずである。それなのに!
 悔しい。
 ここまで思い通りに運んだだけに。
「もう時間がないのです」
 望む形のドレスを縫うのには時間がかかる。
 もちろん、お針子をたくさん集めているけれど、それでも。
 可愛い娘のおねだりならば、父親は叶えてくれるはずだ。
 なにしろ、生まれる前から行方知れずだった我が子の願いなのだ。
 そう思いながら、ミュケイラは両手をひねり合わせるようにして、悲しそうに目を伏せて見せた。
 目の隅に、アディルが何事かを大公に耳打ちしているのが見えた。
 長く感じた沈黙の後に、ようやく大公が口を開いた。
 低く心地の良い声音が、しかし紡いだのは、
「部屋を移ることはならぬ。そなたの部屋は居心地よくしつらえられていよう。また、ドレスをアグリアメタクシで作らねばならぬということもあるまい」
 無情なまでの否定だった。
「お父さま!」
 思わず机に走りより、天板に両手をついていた。
「ミュケイラさま」
 アディルが、とりなすかのように促すかのように声をかけた。
「閣下はお忙しい方ですから、もうご無理は言われませんよう。アグリアメタクシはお諦めください」
「ひどい………」
 机から遠ざかる。
「お父さまはわたしがお嫌いなのですねっ」
 涙目でふたりをねめつけるようにして、ミュケイラは書斎から飛び出した。
 その彼女を大公とアディルがどんな眼差しで見ていたのかを、幸か不幸か、彼女が知ることはない。
「騒々しい」
 高い足音がようやく消えて、大公が吐き捨てた。
「”お嫌いなのですね”………だと? 嫌いに決まっておろうが」
「閣下」
 諌めるようなアディルの声音に、
「止めるな」
 片手を振る。
「しかし」
「誰が聞く」
「たとえ聞いたとて、”ご注進”とはならぬさ」
 皮肉な声に、
「仮にも殿下の許嫁でございましょう」
「略奪とはな。はしたないことよ」
 口角をもたげて、大公が嘲笑う。
「あれが、我が子などであるものか」
 吐き捨てる。
「我が子は………」
「閣下」
 顔を伏せた大公に、アディルもまた沈痛な面持ちで口をつぐんだ。



***** 



 生まれも育ちも外国の大公の友人の忘れ形見ということで学園に入学したのはいいものの、月の半分は寝込んでいるトオルである。
 親しい人間はできることなく、客扱いでただクラスにいるだけだった。
 一応真面目に授業を受けてはいる。
 少しずつファリスやアディルに教えてもらっていた文字や語彙も、学園に来て増えた。それでもどことなくたどたどしい発音や、綴り間違いの多さに、おそらくはなぜ学園にいると思われていることだろう。
 それでもかまわなかった。
 庶民から王族まで、かなりたくさんの人間が集まる学園は、基本無償で通うことができるらしい。ただし、裕福な家庭のものは寄付という名目で多額の金額を払うこともあり、学園内では様々な雑事を免除されている。例えば校内清掃とかの煩わしいものは、彼らには関係がない。ただ、雑事とはいえ、庶民に命令されるのが嫌という理由なのか、生徒会とかクラス委員的な役目は、彼らに割り振られることが多かった。
 有償と無償の学生の違いを見分けることは簡単だ。
 制服を着ているか着ていないかですぐにわかる。
 男子はどこか軍服めいた詰襟の制服で、女子はセーラー服のような襟のついた細身のドレスだった。ただし、トオルは制服を着ることはない。詰襟の制服などは、治りきることのない傷に触れてしまうからだった。そのため、庶民に間違われることがないようにと、アディルが揃えさせた、トオルの目には華美に映る絹らしき布地の胴着の着用の許可を特別に得ていた。また、トオルには、大公の意向でファリスがつけられていた。
 そんな彼が周囲から遠巻きに見られても、仕方がない。けれど、トオルは、それでも良かったのだ。
 トオルが知る学生というのは、小学生までのことだったけれど、それでも、かつて味わっていた普通の学生の雰囲気を味わうことができるのならそれだけで構わなかったのだ。
 面白いのは、算術だろうか。
 加減乗除ができればそれで充分な授業は、こちらに来た時が中学入学直前だったトオルにはとっつきやすいこともあり、気分転換になった。
 あとは、魔術か。
 トオルに魔術の素養はなく完璧に”お客さま”でしかなかったが、座学で不思議な呪文のような話を聞き奇術のような現象が目の前で繰り広げられる実技を見るだけでも興味深かった。
 そんな毎日が、十日も続くと、トオルはだんだんと落ち着かなくなる。
 また、夢渡りの儀式がくる。
 そう思いながら校庭で昼休みを過ごしていた。ただ、いつもは控えているファリスが外していた。
 混沌の神は夢を渡ってくるため、逃げようはないのだ。
 胸に空いた黒い穴があの不気味な神につながるとの連想はたやすい。
 時期が来なければ死ぬことはないと、ここに来た当初に投げつけられた言葉もまた、容易に思い出すことができた。
「誰だって、必ず死ぬんだ………」
「早いか遅いかの違い」
「苦しむか苦しまないかの違い」
 必死で自分に言い聞かせる。
 わかっている。
 けれど、あまりに早すぎるだろう。
 わかっている。
 けれど、あまりに苦しすぎるだろう。
「逃げることなんかできないんだ」
 そう独りごちた。
 その時。
 何かが頭に被さってきた。
「ごめんなさい。ハンカチが………」
 甲高い悲鳴の後で、可愛らしい謝罪の声が聞こえてきた。
 ハンカチを手に、トオルはひとりの少女を見上げた。
 赤味のかかった褐色の瞳が、素早くトオルを値踏みしてくる。その際、彼の胴着に目を見張ったように見えた。
「この学園の生徒です?」
 ハンカチを受け取りもせず、高めの声が、訝しげに訊ねてきた。
「あ、ああ」
「お名前は? わたしは、ミュケイラ・ジャヴァ」
 にっこりと笑んでそう告げる。
「ジャヴァ?」
 聞き覚えのある苗字に、首をかしげる。
「はい。ジャヴァ大公の娘ですわ。あなたは?」
「………トオル」
 ジャヴァ大公と言われ、心臓が大きく脈打つ。
 では、この少女は、アヴィシャの娘なのか−−−と。
 挨拶をしたほうがいいのか? それとも、知らぬ振りでいいのか。
 アヴィは、自分に娘の存在を教えてくれてはいない。
 会ったこともなかった。
「どちらのお家の方ですの?」
 そう訊かれて、はたと、瞬いた。
 元の世界の苗字は忘れるようにと言われていた。今となっては、当然のこと意味もない。入学当初名乗ったのは、ただのトオルとだけだったような記憶がある。
「家名は別にありません」
 そう言った途端、
「庶民?! なんてこと! 庶民のくせに、なぜ?! どうしてアグリアメタクシの胴着を着ているの」
 聞き馴れない単語に、トオルが戸惑う。
「これは、庶民なんかが着ていいものじゃないのよっ」
 言いながらトオルの肩に手をかけてくる。
 かすかな痛みに眉間が歪んだ。
 ハンカチが、手から落ちる。
「わたしですら、手に入れられないのに」
 ハンカチを踏んだことさえ気づかずに、少女の揚げた甲高い声に、唖然と目を見開いた。
「どこに行ったのかと思ったらこんなところで何をしている」
 大きな声とともに、背の高い男が近づいてきた。
「王太子さま」
 まるで語尾にハートマークがついたかのような甘い声だった。
「ヴァイスと呼ばぬか」
 青銅色の髪の毛の男の声もまた、同じくすぎるほどに甘やかだった。
「ヴァイスさま」
 呆然と目の前の出来事を見ていると、
「御前でいつまで座っている」
 男の背後に控えていた騎士らしき男が、トオルを叱咤する。
「バルマ王国王太子殿下であられる」
 戸惑いつつも、椅子から立ち上がる。
 けれど、これからどうすればいいのか、トオルが知るはずもない。
「アグリアの絹をまとっているな。そなた、公家のものかそれとも、侯家か?」
 それにしては見覚えないが。
 トオルを見る青銅の目が、酷薄な光を宿す。
「いいえ。このひと庶民なのですって」
「なに?」
 癇性そうな皺が男の眉間に刻まれた。
「そなた、法を知らぬのか?」
「っ」
 騎士が腕を背後にひねり上げ、背中を押してきた。
 地面に直に座らされ、痛みに顔が歪む。
「王侯、もしくは巫女しかアグリアの絹をまとうことは許されておらぬのだぞ。しかもその意匠はどこぞの王侯のようではないか」
 そんなことを言われても困る。
 それが、トオルの正直な気持ちである。
 そんな法など、トオルが知るはずもない。が、相手もそのことを知るはずがない。
「身につけてはならぬものを身につけた罰だ」
 顎に騎士が手を上げて顔をもたげさせる。露わになった襟元に王太子が指を引っ掛け力任せに引っ張った。
 儚い音を立てて、脆くもない布地が裂ける。
 その時だった。
 野次馬の列ができていたことに気づかなかったのは、当事者たちだけで、いつの間にか遠巻きに彼らは見られていた。そのうちの幾人かが探して知らせたのだろう、ファリスがようやく駆けつけてきた。
「トオルさま」
 駆けつけたファリスが脱いだ上着をトオルに羽織らせる。
「ファリスじゃないの」
 ミュケイラの声が訝しげにその場に響いた。
「誰だ」
 王太子の誰何に、
「大公家の従者にございます」
 深々と頭をさげる。銀の髪が、さらりと音たてて彼の顔を隠した。
「その従者がなぜ、ここにいる。しかもその庶民を気にかける」
「失礼ながら。トオルさまは庶民などではございません。大公閣下の庇護を受ける身でございますれば、この服装は法に抵触いたしておりません」
 
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