たとえば、それが 17
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太陽の輝きが増した。眩しいと、大きくなったと、感じたものもいただろう。
ひともまばらな王都の至る所で、処刑を見物にゆかなかった少数のものたちは、不安に顔を見合わせた。
湧き上がる汗はたちまち乾き、肌が痛む。
たまらないと日差しを避け、水を含み、その熱さに悲鳴をあげた。
涼を与えてくれるはずの水は、熱湯となっていた。
川の水はまるで岩漿の如く沸き立ち、井戸の水は瞬く間に水位を下げた。
家に戻り、求めた水は、すでに蒸発してしまい、喉の渇きに、苛まれることになった。
しかし、やがてそんなことは些細なことだとでもいうかのように、呼気までもが灼熱を帯びたのだ。
喉を焼かれ、内臓を焼かれ、のたうちまわる。
なぜ、と、動かしたくちびるは、疑問をことばにすることも出来ず、当然答えが返ってこようはずもない。
助けてと、救いを求めて伸ばした手はただ徒に空を掻いた。
処刑を見に行ったものたちもまた、熱風と化した水蒸気に取り巻かれ、火炙りよりも惨い拷問にかけられているかのようである。
赤く腫れあがり水膨れとなった表皮がべろりと剥ける。
白赤いそこから流れた黄色い汁が乾いてゆく。
しかし、人々はそんなことなど考えてはいられなかったろう。熱風による拷問に、岩盤を穿つことで作られた狭い階段でひしめき合っているものたちは、悲鳴を上げていた。
岩盤までもが拷問道具へと転じていた。
岩盤に触れた手が、貼りついた。しかし、後ろから来たものに押されて、嫌な音を立てて皮膚が剥がれる。押しやられて階段についた膝が、焼ける。前のものを踏み台にした足の下から、骨の折れる音が聞こえ、また己もまた誰かの下敷きになる。
自分たちが、何を怒らせてしまったのか、どうしてこんな目に合っているのか、理解したところで、後悔したところで、どうにもならない。
謝罪の言葉は意味がないと、本能的に悟っていた。
痛い−−−と。
熱い−−−と。
魂切る悲鳴をあげながら、他人をなんとか押し退けようとするばかりだった。
その手が何を引き千切っているのか気づいてあげる悲鳴は、疾うに怒声に変わっていた。
自分たちの手がなにに濡れているのか、気づいたところで今更どうにもならないのだ。
他人の血や毛髪や、新たに引き裂かれた傷口から流れでては濡れて乾いてゆくそれを、気にしてなんになるだろう。今まさに、自分も誰かにひっかかれて痛い思いをしているのだ。
やめろ−−−と叫んでもどうにもならない。
叫ぶたびに、怒鳴るたびに、息苦しさに息をするというただそれだけで、内臓を焼く熱が入り込んでくるのだ。
そんな一堂の耳を、悪夢のような神の哄笑がつんざいた。
「ああ、もうダメだ」
「この国はもうダメだ」
逃げようとした兵たちが、甲冑の中で蒸し焼きになる。
「どうしてどうしてどうして」
かろうじて王城にたどり着けたヴァイスとミュケイラだったが、混沌の神の手からは当然のこと逃げられようはずもなかった。
汗を流しながら、汗が乾いてゆくことも喉が乾くことも忘れて、持ち歩ける高価なものを、身につけて行ける高価なものを手当たり次第に漁る。
貴金属を身につけて、炙られたような熱さに悲鳴を上げた。
そうして初めて、喉の痛みに、気づいた。
口腔の、喉の、内臓の、全身の!
蹴るように脱いだ靴は床に張り付き、己が踏鞴を踏む。そうして再び悲鳴を上げる。素足が床に貼りついたのだ。
熱さのあまり動こうとして、泣き喚く。顔を覆った手から爪が落ちる。
そうして、身につけた貴金属が、とろけて落ちたのと同時に、ふたりは床に頽れ、弱々しくもがいた。
それが、ふたりの最期だった。
当時バルマ王国に滞在していた者たちに襲いかかった災禍は、かろうじて生きていた他国からの滞在者たちによって他の国へと伝えられた。
バルマが何故にわずかの間に亡国と成り果てたのか。
国民たちまでもが惨たらしく殺されたのか。
伝え聞いたものたちにわかることは、彼らが神の怒りにふれたということだけである。
でなければ、他国に類を及ぼさずきれいに一国だけを滅ぼすなどということが、人間にできるはずもないのである。
そうして、他国から派遣されたものたちがそのあまりの災禍のありさまを具に自国へと報告し終えたその時、再び、バルマに災厄が襲い掛かった。
バルマを襲った未曾有の津波によって大地は清められたのである。
*****
「これは………」
つづけることばもなく、アディルは、周囲を見渡した。
一面瓦礫のこの場所が、かつてバルマの真珠と呼ばれた王都であることが信じられなかったためである。
「閣下が使用人たちを他国へと逃したことは正解でしたね」
気を取り直して、問わず語りに独り語散る。
足元の瓦礫に絡む干からびた海藻を見て、あの神の鉄槌の後に何が起きたのかを物語る。
「誰がここに大河が、瀑布があったと思いましょう」
あるのはただ無残な瓦礫ばかり。
だというのに、なぜ、こんなにも。
「空が高く青いですね」
銀髪を風に揺らしながら、ファリスがアディルに語りかける。
不思議にも、悲しみは、遠かった。
動くものといえば、彼らふたりだけである。
「あの日の酸鼻を知らぬかのように」
血に狂ったような処刑の日。
首を切られた、ふたりの主人。
混沌の神に連れ去られた、ふたりは、戻らない。
「トオルさまを御神がお気に召されたのは存じ上げているが、なぜ閣下をお返しくださらないのか」
葬ることさえできない。
瓦礫のひとつに腰を下ろし、膝に肘をついたアディルが空を見上げて呟く。
大河の跡がえぐれる崖下を見下ろし、ファリスが首を振る。
「御神のなさることは、凡人には計り知ることなどかないません」
ことが終わった後、ふたりにこの地を守るという役目を与えて、混沌の神は消えた。
まるでついでとばかりにアヴィシャの頭と胴とを共に。
「たとえこの身が御神の眷属となっていても、計り知ることはかなわないのでしょう」
ふたりは、この地に残される折に、混沌の神の眷属となっていた。
そうして、この地を守る役目を与えられたのだ。
物思いにふけるふたりの背後で、微かな物音がした。と同時に、ふたりは振り返っていた。
抜く手も見せず、ファリスは剣を鞘走らせ、アディルはナイフを投擲していた。
「不埒ものどもが」
重量のある音をたてて、無様に倒れる賊に、嫌悪を隠すこともない。
あれからまだ一月と経ってはいない。
だというのに、いや、だからか、この地を荒らす者は後を絶たない。
波に現れても確かに、なにがしかのものが残されていることはあるのだ。逆に、いずこからか流れてくるものもある。それらを狙っての、火事場泥棒のような者たちである。
王都であった場所より遠い場所は、これよりも有象無象のものどもが多く見受けられた。それらを容赦無く処分し、ようやくこの地へとたどり着いたふたりであった。
瀑布を擁していた山も無残に形を変え、丘のようである。故に、土砂に埋もれてかつての大公家がどこにあったのかなど、もはやわかりはしないのだ。
茫洋と、ふたりはただ立ち尽くしていた。
青い空に、鳥たちが飛び交う様を見ていた。
そうしてどれほどの時間が過ぎたろう。
気がつけば、周囲は夕の朱金に満ちていた。
細かく砕いた金剛石が奏でるかのような音が、空気を小波立たせる。
走らせる視線に映るものはといえばただ、夕闇前の朱金の色だった。
それが、不意に縦に避けた。
夕の空間を撓めたとしか喩えられないようなその裂け目に見えるのは、夕闇の色だった。
そこから、キロリとマブロオパルの巨大な一つ目がこちらを覗き込む。
弾かれたように、ふたりはその場に平伏する。
声はない。
ただ、眷属となったふたりにはわかったのだ。
混沌の神がふたりに新たなる役目を告げに来たのだと。
そうして、あの、ふたりが見たことのない禍々しい刺の失せた触手が夕闇の色の奥から何かを差し出した。
「閣下」と。
「トオルさま」と。
ふたりの声に含まれたその感情の色に、巨大なマブロオパルが笑うかのようにすがめられた。
彼らの目の前に力なく横たわるふたりが、アヴィシャとトオルであることは間違いなかった。
−−−仕えよ。
−−−この地はこのふたりに下しおく。そなたらはふたりに仕え、この地を守れ。
そう聞こえた。
そのままより深く叩頭する。
「御意のままに」
安堵に満ちた声で、アディルとファリスは答えたのだった。
*****
シヴァはファリスと名乗った人ならざる存在についてゆく。
噂では、医師では治せぬ死病の類を治すことができるのは、この地におわす神の眷属のみとのことだった。でなければ、呪われたこの地に足を踏み入れるなどということはしない。
在りし日の美しさを誇る幻の只中を、ただ男について歩く。
やがて現れたのは瀟洒な白亜の建物だった。
「ファリス、そのものは」
現れた壮年の男もまた、ひとではないのだろう。ファリスに訊ねる男に、
「客人です」
と応える。
「ではこちらへ」
ファリスからその男に案内が変わる。
お仕着せをまとった幻の女たちが楽しげに立ち働く建物を奥へと導かれ、幻の滝を視界の片隅におさめながら美しい扉の前に立った。
気がついた時、シヴァは瓦礫の只中に立ち尽くしていた。
空には、太陽(イリオス)が燃え盛り、ふたつの月(フェンガーリ)が白い姿を小さくかすませている。
目の前には、巨大な河の名残が遠く海までつづいている。
「ゆめ?」
呟いたシヴァの掌に違和感があった。
それを見たシヴァの目に、希望の光が点る。
まるで真珠(マルガリターリ)のような丸い粒が三粒、手巾(マンティーリ)に包まれてあった。
その手触りの良い手巾に包まれた丸薬を大切に腰の物入れに仕舞い込むと、シヴァは頭をひとつ下げて歩き出す。
心は恋人のもとへと一足先に飛んでいたが、昨夜出会ったあの神の眷族たちを思い返さずにはいられなかった。
特にあの扉の奥にいた二柱の眷族たちを忘れることは不可能だろうと、シヴァは思うのだった。
終わり(テーリオス)
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