ああ、遅くなっちまった。
空は、新月。
しかも、真夜中。
見上げれば遠く、時計塔の文字盤がぼやけてかすむ。女王陛下が王都復興記念にと建てたそれは、王都のどこからでも時間を確かめることができる優れものである。さすが、女王陛下だ。
ともあれ、時刻は深夜の二時を過ぎている。魔物の力が最大限に強くなるときだ。
馬鹿だ馬鹿だとよく言われるが、ほんっと、俺って、バカだ。
仕事が終わってすぐに戻れば良かった。
明日は久しぶりの休日だからって、浮かれすぎたのが、敗因だろうなぁ。
悪友と遅くまで酒場で飲んでた。
まぁ、俺はざるだからな。ぐでんぐでんにはならない。悪友は撃沈してたけどな。絶対アレ、明日は二日酔いだろう。
あれくらい、軽いと思うんだけどなぁ。
少々酒精が強めの酒を二瓶だけだぜ? 俺が半分以上だし。
でろんでろんになっちまった悪友を叩き起こして歩かせて部屋に送り届けたんだけどな。さすがに彼奴を俵担ぎにするのは俺にもできやしない。せいぜい肩を貸すくらいだ。よっこいせとばかりにベッドに投げて帰ろうとした俺に、泊まってけって誘ってくれたことばに従っとけば良かったんだ。ろれつが回っちゃいなかったけどな。
変なところ意地を張るのは、俺の悪い癖だろう。
枕が変わると寝付けないなんて言ったら、
「んな繊細なたまじゃないだろ」
って、あいかわらずろれつの回っていない口で言われたが、これが結構事実なんだよな。
復興が始まって十五年が過ぎる町並みは、かつての面影を取り戻して澄ました顔をしている。
けど、王都とはいえ、橙色の街灯がしつこいくらいある。
魔物の侵攻がトラウマになって残ってしまったかのようだ。
町が夜の中、まるで琥珀に閉じ込められた虫のように沈み込んでいる。
ある意味神秘的できれいだけど、夜、眠れるんかね。俺は暗くないと寝れないんだけどさ。
流石に道はきれいに舗装されなおされているとはいえ、十五年前はぼろぼろのずたずただった。
俺はまだほんのガキだったけど、あの勇者対魔王の最後の戦いを知っている。
なんでだろ。
最後の最後、兜も割れて、その下から現れた深紅の髪が風に煽られていた。
その神々しいまでの、勇者の美しさ。
対する魔王の闇を纏った、凶悪な美。
闇が揺らぎ、光が、ほとばしる。
その、わずかな音すらない、完璧な静寂。
それが、魔王の最期だった。
消える魔王の宵闇に輝く金星のような目が、なぜか俺の脳裏には刻まれている。
そんな気がするだけだと思うんだけどなぁ。
今も昔も俺の家は外れの森にあるんだけどな。
当時の俺は、五つくらいだろうし。
王都に知り合いでもいたんだろうか?
誰かに聞いたのが、記憶になってるんだろうか。
そんな気がするだけなんかなぁ。
石畳の道に俺の靴音が響く。
響く。
おお、雰囲気満点。
なんておちゃらけてる場合じゃない。
俺の脚、動け!
足音が、俺のの他にもうひとつ。
成人した男を付け回す物好きもいないだろうとは思ったけど、念のため確認してみた。
ら。
ビンゴ!
だった。
俺が止まれば、もうひとつも止まる。
つけられてるわけね。
俺の右手が剣の柄を求めて動く。
一応、これでも、下っ端の騎士だからな。
吹けば飛ぶようなペーペーですけど。
はい。
ともあれ、こんな町中で剣戟なんてやったら、住民の安眠妨害だからなぁ。
少なくとも、町外れの広場、あそこなら、少々暴れても大丈夫だろう。
だから、俺の脚、もっと速く!
昼間は露店でにぎわう広場も深夜ともなれば外れの森に背を向けて、闇をただよわせている。
俺の家までもう少し。
けど、つけてくるヤツがいるのに帰るわけにもいかない。
この辺でいいか。
俺は振り返った。
町から届く街灯の明りは心強い。人影もしっかり見て取れる。
細身な男……だ。
いや、ガキ?
黒い長髪に縁取られるのは、端整な、整った顔立ちだ。
身長は俺より少し低いくらいだろうか?
得物を身につけてる気配はない。
つけてるのじゃなく、俺がいるので安心してついてきてた、とか?
ないこともないよな。
けど、なんか、雰囲気が、おかしい。
俺の首筋から後頭部にかけてが、逆毛立つんだ。
こいつ、ひとじゃない。
直感した途端、全身が震えた。
ヤバい。
俺は、人外と戦ったことなんかない。
俺が騎士になる頃には、魔物もナリを潜めていたからだ。
新人騎士の仕事と言えば、もっぱら町の見回りとか、王宮の警護とかだ。
だから、俺なんかでもなれたんだけどな。
でも、俺も、男だ。
うん。
ひとりでなんとかしないとな。
女王陛下のお膝元で、魔物を野放しにはできんだろう。
俺は剣を抜いた。
と、楽しげな笑い声が響いた。
「やる気だね」
声変わり前の子供の声だ。
それが、楽しげに、
「でも、君には俺を倒せないよ」
と、言った。
その声。
俺の耳を射抜いて、脳に突き刺さる。
子供なのに。
なんだろう、この逆らえないような、感覚は。
一気に全身から汗が噴き出す。
え?
いつの間にと、全身が強張った。
目の前、鼻と鼻とがくっつくぐらいのすぐそこに、闇に覆われたそいつの顔がある。
闇が本質だと言うかのように、目も鼻も口も、逆光で見ることができない。
ただ、おそらくは、そこにあるだろう。
半端ない圧力がすぐそこにある。
「レキ」
子供の声が、俺の名をつむぐ。
「いけない子だ」
悪意がこめられたような、したたる毒を隠しもしない声。
なんで。
頭が痛い。
頭の中の血管という血管が膨張したかのようだ。
頭蓋骨が、破裂しそうだった。
目が、眼窩から押し出されそうだった。
「ああ。これが邪魔をしているのか」
俺の右目を覆う眼帯を、毟り取る。
「こんなもの無粋だね」
誰にも見せたことのない俺の右目が、十五年ぶりに外気を感じる。
「今宵が新月なことが悔やまれるよ。おまえのきれいな目を見ることができないなんて」
抉り取ってやろうか。
低い声に、にくしみがこもる。
「そうすればもう、二度と私を裏切ることはできない。だろう? レキサンドラ」
その名を紡がれた時、俺の全身が大きく震えた。
レキサンドラ。
どうして知っている。
その名は、誰も知らない。
俺の本当の名前だ。
いいや。ただひとりだけが、知っている。
でも、彼は、死んだ。
滅びたのに。
俺は、見ていたのに。
なのに!
瞑った瞼に触れてくる掌の冷たさに、拒絶の声も出すことができない。
ただ、首を横に振りつづける俺は、頑是無い幼子のようで。
謝罪が頭の中を駆け巡っていた。
ごめんなさい。
ゆるして。
裏切ってごめんなさい。
ごめんなさい。
お父さんっ!
HOME
MENU