森に入った途端に、不穏なざわめきが俺を襲った。
胸騒ぎが現実のものになった絶望だった。
なにも感じないと思い込もうとしていた俺の心が、その実少しも枯れることがないのだと思い知らせるかのような、そんな現実だった。
説得することさえもできなかった。
その現実が、しこるように腹の底にわだかまってゆく。
声さえも出ない。
自分の無力さを嘆くことさえも許されないような気がした。
バートが、転がっている。
バートの手足が、胴体が、首が。
あの幼児も、犬も、猫も。
おびただしい血が赤黒く変質して、しかしまだねっとりと澱んでいる。
その臭いが、恐怖に満ちた臭いが、俺の鼻に充満していた。
目に見えることない細かな血の粒子が、俺を取り巻いているのだろう。
戦っている時には感じることもないそれを、不快に感じる。
生臭い。
鉄臭い、血の臭い。
生き物の流した体液の不快な臭い。
こみあげてくるものがある。
それを堪えることができなかった。
嘔吐く。
幸いなことに、胃の中にはなにも入っていない。
前日から、なにも食べることができないままだ。
しかし、苦い胃液が俺を苦しめる。
胆汁が飛び石を濡らし、赤黒い血だまりに混じった。
苦しさに滲む涙が数滴混じる。
あの小さな子供たちが、猫が犬が殺された。
それだけのことだ。
魔王の元で、たくさんの魔物や魔族を殺した。
戦場で俺はたくさんの人間を殺した。
たくさんの人間が、魔族が、魔物が、殺された。
それを行った。見ていた。感じていた。
その俺が、なぜ、こんなにも苦しむ。
いったい、何が違うと言うのだ。
いや、恍けることはよそう。
ただの物体となって転がっているのは、俺が心にかけたものたちだ。
だからだ。
だからこんなにも苦しいのだ。
肩で息をつきながら、俺はその場に立ち上がる。
「バート」
取り上げたバートの頭。その耳には、あるはずの物がなかった。
そう。
魔の気配と魔力を消すピアスだ。
まさか。
それだけのことで?
五歳児の耳には大きすぎる青い石(サファイア)を奪うためだけに?
肉片をかき集め、庭に掘った穴に埋める。
ぼとりと音をたててアルトロメオが降ってきたのは、俺が土団子に暴虐から逃れることができたハーブを散らした後だった。
「お前は無事だったんだな」
羽根を閉じたり開いたりして、俺の足下にとぐろを巻く。
「そうでもない、か」
破れた羽根から骨が見えている。
裂けた腹からはみ出しているのは、内臓だ。
手を差し伸べると、俺の腕を伝う。
アルトロメオの眉間の少し上を指先でほんのひと突つき。
それで、翼蛇の羽根は復元される。腹部もまた傷口を閉じてゆく。こんなふうに死者も蘇るのなら、どれほど俺の心は楽になるだろう。
「さあ、アルトロメオ、ここで何があったか教えてくれ」
教えを乞うまでもないことだったが、俺はあえてその赤い瞳を覗き込む。
赤い瞳は、俺に過去を語る。
ほんの数時間前の虐殺を。
それは、俺の理性を吹き飛ばすのに充分なものだった。
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