曾祖父にあたる前勇者は、遂に魔王を倒すことができず、彼のパーティたちと行方を絶った。
以来この世界は魔の跳梁する地となったのだ。
この国の公爵であった一族は、魔を討てなかった曾祖父ゆえに名誉も名もすべてを失ない、散り散りになった。だからといって、先代の勇者を彼の娘であったあたしを育ててくれた祖母は嫌ってはいなかった。
とてもやさしくとても強いひとだったと、よく語り聞かせてくれたものだった。
そうして、彼と聖女の恋もまた。聖女とはいえ商家出身の女性と公爵家長子である勇者の恋物語は、幼心にも切ないものだった。
だからあの時、巫女から次の魔王征伐に選ばれた勇者が自分だと知った時、これで、曾祖父の汚名を雪げると歓喜した。
あたしのパーティーに選ばれたのは、騎士と傭兵、聖女と魔術師の四人だった。
計五名のパーティーというのは、必要最低限の人数でしかない。どうすれば、こんな少人数で凶悪な魔王を討伐することができるというのか。先代はどうやって魔王の城を見つけて潜入にまで至ったというのか。その大変さを説明された後あたしが感じたのは、曾祖父のどこに誹られる理由があったというのだろうという理不尽さだった。
聖女という存在に、あたしはほんの少しだけ、見とれた。とても美しい女性だった。内面から輝くような清らかな笑顔が、パーティーのささくれ立ちがちな心を癒してくれるのだろう。前勇者は苦しい戦いのさなかに、そんな彼女に惹かれたのだ。
元々あたしが選んだのは傭兵だったから、今更剣術を身につける必要はない。
他の面々も、その道のエキスパートばかりだったから、訓練など必要ないと考えていたのに違いない。
事実一月ほどで総ての訓練は終わった。
問題は、その訓練の内容だった。
神殿の奥の院で行われたのは、魔力と、魔族が棲む世界に充満する淫らな瘴気に対する抵抗力をつけることだった。
魔力を感じることはどうにかできるようになったものの、空気中に満ちる媚薬のような瘴気には全員が困惑することになった。
これは、無理だ。
最初に弱音を吐いたのは、意外なことに男たちだった。
それでも、少しずつ、耐性を身につけた。
少しでも理性が残れば、後は集中して防御の陣を組む。
最終的に、陣を組んだままで戦闘をすることが可能なまでに、パーティーは力をつけた。
そうして、遂に、あたしたちは出立することになった。
派手な見送りの花道を通り、王都の外れの森にたどり着いたとき、けれどあたしたちは、疲弊しきっていた。
王や貴族にせっつかれ、国民たちの期待に満ちたまなざしに見つめられ、今更ながらに、不安が芽生え始めていたというのもある。
どこにあるかわからない魔王の城を探す旅は、どれほどかかるのか。
生きて帰ることができるのか。
薪の炎を見つめながら、全員が言葉少なに物思いにふけっていた。
だからだろう。
「お前が勇者サマか」
声をかけられるまで、存在に気づかなかったのだ。
あわてて振り返ったあたしがそこに見出したのは、ひとりの若者だった。
黒とは言い切れない不思議な色合いの髪を無造作に切り整え、緑と赤の色違いの瞳であたしを面白そうに見下ろしていた。
「女か」
その色違いの瞳の奥に、懐かしむような感情と、即座の失望とを垣間見たような気がしたのは、勘違いだったのだろうか。
「失礼だね。あんたは魔族かい」
女と見下されることを不快に思ってついぞんざいな口調で返していた。
魔族だろうと思ったのは、勘だった。
その血の色をした右目以外、どこからどう見ても、若者は人間に見えた。
ただ、不思議なことに、恐怖も警戒も沸かなかった。
それは、彼が人間そっくりだったからなのか、初めて見る、魔物ではない魔族の目の中に敵意がなかったからなのか。
ただ彼は、興味深そうに、そうして、呆気にとられたように、あたしを見下ろしていた。
「そうだ」
魔族のひとことに仲間が戦闘態勢をとろうとする。
それを、気づけば止めていた。
「敵意はないようだが」
何故だろう、“負ける”と感じた。
この若そうに見える魔族に、あたしたちは適わない、
「ああ。魔王陛下が放置を決定したのでな。手出しはしない」
魔王が?
あたしたちを放置?
そこまであたしたちのことを見下しているのか。
「そんなこと、教えていいのかい」
しかし、なぜ、この魔族はそれをあたしたちに話す。
見下されていると知って、あたしたちが奮起するとは考えないのか?
「かまわないさ」
ハッと笑った魔族の表情にどこか自嘲するかのような色があった。
「これくらいのことで陛下が俺を罰することはない」
魔族特有だという整った顔が焚き火に陰影を刻まれる。
まるで泣き笑いの仮面のようなその表情に、
「たいした自信だねぇ」
と、返していた。
「事実だ」
あっさりと魔族は肩を竦める。
あたしは魔族を観察した。
何度も水をくぐったろうさして高価そうには見えない白いシャツに、ズボンと同色の胴衣を纏った細身の男だ。黒いズボンに膝丈のブーツは濃い褐色。苔色のマントが髪の色を際立たせている。背丈はあたしより頭三分の一くらい高いかどうかだろう。横巾は騎士よりも薄い。それでいて左腰には実用的な剣を吊っている。魔族は得物を使わないと聞いたが、彼のそれは、使い込まれたもののように見えた。その鞘と剣帯の意匠のみごとさだけが、なんとなくその魔族の位が見た目よりも高いのではないかと予想させた。
「で、あたしに何の用だい」
殺すつもりなら、わざわざ声をかけることはなかったろう。
「今回の勇者サマとやらの実力を見せてもらいたくてな」
男の手が剣に伸びた。
「まぁさっきみたいに油断しきってたあんたのじゃなくな」
炎が大きく身をよじった。
あたしの頬は羞恥からか、炎に煽られたからか、熱を帯びた。
「手出しはしないんじゃなかったのかい?」
なにかが引っかかった。
けれどそのまま会話を続ける。
「手出しはしないが、興味はある」
「詭弁だね」
気がつけば手が止まっていた。
興味がある?
興味。
何に?
いや、誰に?
あたしにだ。
あたし。
今回の勇者。
まさかとは思うが、相手は魔族だ。
「どうした」
いきなり戦意をなくしたあたしに向こうがわざわざ声をかけてくる。
こいつには、最初から殺意も敵意もことば通りないのだ。
あるのは、真実、興味だけ。
「今回の?」
今回の勇者に興味があるだけなのだ。
だとすると。
「そうだ。お前が今回の勇者サマだろう」
「まるで前回の勇者のことを知っているような口ぶりだね」
つるりと出ていた。
「ああ。知ってる」
そうして、返事もまたあっけなく。
「前回の勇者だと」
「魔王を葬れなかった勇者のことか」
騎士と魔術師が口を開く。
彼らも悪い奴らではないのだが、前回の勇者が魔王を倒せなかったせいで世界に魔物が満ちたと考えている。
あたしが前勇者の子孫と知っていて、時々平気で彼のことを貶めることがあった。
「生きているのかい?」
「まさか」
馬鹿なことを聞いた。
それでも、知りたいことがある。
「どうなったんだい。彼の最期は?」
知りたい。
それはすなわち、あたしたちの最期でもあるからだ。
戦って討ち死にならばまだしも、虜囚の辱めを受けての死では、あまりにも辛すぎる。
そんなあたしの頭の中を読んだかのように、
「虜囚となって最後は魔物に喰われた」
無造作なように聞こえたそのひとことに、何故だろう悲しむような響きを感じた気がした。
それでだろう。
「前回の勇者は………あたしの父方のご先祖さまだ」
言わずともよいことを口にしたのは。
その一瞬後、ほんのすこしだけ、男があたしをより強く凝視して来たような気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、そんな気がしたのだ。
男の不思議な右の目が、焚き火の炎を宿してより深く赤く見えた。
「そうか。今回の勇者サマはそうならないように気をつけることだ」
素っ気なく言って背を向けかけた男に、
「まちなよ。あたしの力量を確かめなくていいのかい」
思わず声をかけていた。
もう少し話したいと思ってしまったのだ。
よりにもよって、敵である魔族の男と。
「ああ。気が削がれた。次の機会があれば、また来ようさ」
結局男を引き止めることはできなかった。
右手を数度振って、男は森の中に消えて行ったのだ。
それが、名前も知らない魔族の男とあたしの出会いだった。
そうして二度目に彼に会ったのは、何度目になるのか、対魔族の戦いも終盤に差し迫っていた頃だった。
これ以上戦っても、こちら側に無駄な負傷者が増えるだけである。
こちら側の死傷者はもちろん人間ばかりだが、あちら側は、魔物が殆どだ。もとより魔族は魔物より数が少ないのだから当然だろうが。魔力を奪う陣に囚われ自滅した魔族以外の魔族が受けたに見えた傷はすぐに癒えてゆく。どこかに治癒の魔法を施している存在でもいるのか、致命傷とすることが困難なのだ。
しかたがない。何度こうやって臍を噛んだだろう。
あとはどうやってきれいに退却をするかだ。
それだけだった。
しかし、それが難しい。
崩れそうになる足並みを号令ひとつで合わせながら、しんがりを務める。
勇者であるあたしめがけて魔物が襲いかかる。
魔物を倒しに倒して、ふと気がつけば目の前に記憶にある不思議な色合いの髪をした男がいた。
重い鎧兜などとは無縁ないつかと同じ軽装は、彼の実力を物語っていた。
それが酷く悔しかった。
だからあたしには退く気などなかった。
この男を倒したかった。
剣を振りかぶった。
男もまた血塗れた剣をひと振りしてあたしの一太刀を受け止めた。
その余裕に逆上しそうになる。
それを押しとどめ、何度も討ちかかった。
男の、男にしては過ぎる赤を宿した口角がクッと持ちあがる。
馬鹿にして。
そう思った時、あたしは、魔術師に術で呼び戻されたのだ。
なぜだかあの魔族の男が気になった。
好きだとかそういう感情ではない。
ただ、不思議と気にかかる。
そういう相手だった。
たったの二回しか会ったことがないというのにである。
時たま、ふっと思い出すことがあった。
そうして、名前も知らないことに思いいたる。
そう。
知らないのだ。
噂は聞いた。
煙のような髪の色をした緑の目の魔族のことは、時々耳にはいって来た。
強いのだと。
その細身の見た目からは信じられないほどの強さで仲間を殺してゆくのだと。
けれど、それだけだった。
彼に関する情報は不思議なほどに、それ以外はいってくることがなかった。
緑の目?
確かに片方は緑だったかもしれないと思い返して、二度目の時を思い出した。
ああ、両方とも緑の目をしていた。
戦塵に乱れた前髪の間からあたしを射抜いていたのは、左右確かにエメラルドのようにきれいな緑色だった。
けれど、最初に会った時に見た右目の色を、あたしはどうしても忘れることができなかった。
あの赤。
ルビーよりもより深いガーネットのような血の色を。
そのガーネットのような血の色が、男のシャツをゆっくりと濡らしてゆく。
何が起きたのか、わからなかった。
たったひとりの魔族に襲われている村があると駆けつけてみれば、燃えさかる炎の中ひとりの村人をいたぶる男の姿があった。
手にするのはおびただしい数の宝石のようだ。
嘲るように、村人たちをいたぶる。
「欲しければ切るといい」
「喉から手を突っ込むか?」
村人たちは炎の中にあってさえ血の気をなくしているのが見て取れた。
それでも、村人たちの視線が、ちらちらと地面と男の掌にある宝石に向かっているのもまた、見ることができた。
なんてことだろう。
「それを魔物のしわざだと、町に知らせた。そういうことなんですよ、勇者サマ?」
振り返った男の目の色は左右が違っていた。右の目はあの印象的な赤を宿して燃えるようだった。
風が強くなる。
束ねそこなった髪が目にかかる。
煙の臭いが、鼻を突いた。
その中に、血肉の臭いが混じっている。
それでも。
殺されいたぶられた彼らもまた、被害者でありながら、加害者なのだった。
「これまでも、そういうことはあったろうが、たいてい魔物、魔族、悪魔の仕業と言われているよな」
おそらく。
だからこそ、あの男の怒りを買ったのだ。
それでも。
「で、俺をどうします?」
悲しみさえ宿して見える色違いのまなざしが、あたしを凝視してきた。
「討つ」
それ以外に、選択の余地などない。
「だよなぁ」
彼もまたわかっていたのだろう。自分がしたことが虐殺だと。
笑う。
彼が、嗤う。
嗤いながら、血のような涙を滴らせながら、彼は剣を引き抜いた。
あたしを守るように前に出ようとした騎士と傭兵を押しとどめる。彼らには陣を組んでほしかった。炎の中の村人を救い出しても欲しかったが、どこか胸の奥に村人たちに対する冷たい憎悪に似たものが存在した。助けたとして、盗賊の一員としてさばかなければならないのだ。それくらいなら、あたしとこの魔族との力の差は歴然としているから、少しでも魔力を奪ってほしかったのだ。この思考は勇者としてはおかしいかもしれない。それでも、何故だろう、男の見せた血の嗤いが、その表情に映し出された狂的なまでの絶望が、あたしの判断を狂わせていたのだ。
けれど、おかしい。
陣はしっかりと発動しているというのに、男から奪える魔力は微々たる物なのだ。
あたしの力を思ったほど強めてくれない。
それに比べて、男は、平然と剣を振るう。他の魔族が見せる動揺も、焦りもない。
ただ、淡々と剣を振るい、あたしを追いつめようとする。
炎のなかで、彼は、美しい剣捌きを見せつける。
隙がない。
敵わない。
倒せない。
あたしでは、駄目だ。
あたしでは力が足りない。
鍔迫り合いを繰り返しながら、あたしは絶望に囚われる。
色違いの赤い目。
色違いの緑の目。
あたしを見てくるそのまなざしの奥に、男がひそめる感情は、何なのだろう。
憎悪ではない。
敵に対するものでもない。
なにかを望んでいる。
いったいなにを。
こんな時に、いったい何を求めているというのか。
まさか、と、思った。
そんなはずはない。
男は魔族であたしは勇者なのだ。
だから、
「まじめにやんな」
あたしは腹の底からの気合いをこめて、男から飛び離れた。
再び間合いを探り合う。
と、不意に男の整った赤いくちびるがぐにりと笑みを描いた。
「何故笑う!」
これまで以上に不吉ななにかを圧し殺したような笑いに、あたしは叫ばずにいられなかった。
知りたいと思った。
男が何を考えているのか。
どうしてあんなまなざしをあたしに向けるのか。
けれど、男の返事はない。
まるで代わりのように、突然周囲が金色に輝いた。
遠雷が耳をつんざく。
まだ遠い雷なのに、それは、まるでなにかを断罪するかのように鋭く周囲を震わせた。
あたしは、彼に斬りつける。
何度か切り合いを続け、ついに、男がよろめいた。
間合いに入り、しくじったと思った。
これは、罠だ。
やばい。
しかし、遅かった。
逃れでようとした刹那、男の剣が、あたしの剣をたたき落とした。
「サフィーっ!」
それどころではないというのに、傭兵の声が聞こえたような気がした。
地面に転がる剣をと伸ばした手を掴まれ、
「放せっ!」
藻掻く。
思うより容易く逃れられそうに思えたというのに、男の力は思うほどには弛まない。
どうしても剣を取ることができない。
諦めたあたしは、後ろ腰に差していた長目のナイフの柄を握った。
引き抜く。
切っ先を彼に向けた。
思ったとき。
あたしは、彼に引き寄せられていた。
何が起きたのかわからなかった。
わかったとき、何故、と、叫んでいた。
緑と赤の色違いの目が、あたしを見て、確かに笑った。
そう、見えたんだ。
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