帰城してすぐ、私はレキサンドラの姿を探した。
ひとの時間で二週間ほどか、王の代替わりの宴に招かれ滞在を余儀なくされたのだ。
私が出向くことに、魔たちがいい顔をすることはない。それでも、ひとはここへは入れない。しかたがない。
ともあれ、出向いた礼に、さして珍しい物ではなかったが、ひとの王に贈られたサファイアの耳飾りがみごとだった。魔は、貴石を好むが、中でも特にサファイアを好む。その澄んだ青が我々の心を不思議と惹き付けるのだ。私はそれをレキサンドラに与えようと考えていた。
時刻から鑑みて、おそらくは剣の稽古だろう。見当をつけて、城の敷地の奥にある荒れ地に出向いた。野放図な木々や灌木草の間、大小の岩が転がり、倒れ朽ちた幾本もの大木の根が絡み合う。そんな緩急のある丘の上には、私の生まれ堕ちた城が廃墟となって残っている。
私は滅多にふたりが稽古する姿を見ることはなかった。精々が、剣の種類を替える時に見るくらいだった。この時には、以前に刃を潰した剣から真剣へと替えたおりに稽古を見てからかなりな年数が経っていた。
そこで私は、当然ではあるが、久方ぶりに元勇者の姿をも見ることになった。
そうして静かな驚きを感じた。
彼がレキサンドラに剣を教えはじめてどれくらいの時が流れていたのか、最初に命じた時には三十代ほどに見えた男は、枯れ枝のように痩せ衰えた老人の姿になっていたのだ。それは、彼を抱く存在がいなくなったことを告げていた。そうだろう。レキサンドラの剣の教師を彼に命じたのは他でもないこの私である。教師として動くことができなくなるようなことを、誰が彼に強いるだろう。たとえ、抱き潰した後に癒したとしても、幾許かの影響は残るものである。
それでも、背筋は伸び、動きに切れはあった。
レキサンドラは元勇者と互角に剣を結び、弾き飛ばす。
その場に膝をつく元勇者に、レキサンドラが手を差し伸べた。見上げたその表情がほんの少し和らいでいるようだった。
二言三言、ふたりが言葉を交わすのが見える。
「そこまでだ」
私的な会話でないことはわかっていたが、それ以上の接触を認めるつもりはない。私は背後に付き従う聖魔にうなづき、元勇者を下がらせた。
「お父さん、お帰りなさい」
見上げてくる視線は、ずいぶんと高くなった。
なにもつけていない薄い耳朶が、乱れた髪の間から見える。
顎を下から固定し、くちびるをかすめ取る。
「今宵は、覚悟しておけ」
告げずともよいことばに、すっと頬の赤みが冷めてゆくのが興味深い。
ひとであればすでに中年と言った歳になるだろうに、レキサンドラが私との性に馴れることはない。
そろそろだとは考えてはいても、いまひとつ、これというきっかけがなかった。
レキサンドラが私を求めてはしたないほどの乱れを見せることはないのだ。
「はい」
言葉少なに諾うレキサンドラに、
「土産だ」
と、件の耳飾りをつけてやる。
耳朶に無理矢理に突き刺したピン先が、レキサンドラの血をにじませる。
それを舐め清めてやりながら、もう片方にも同様につける。
「似合うな」
黒みがちの灰色の髪に、鮮やかな青がよく映えた。光の加減でカボションの中心部分に星が現われる細工の石は、飾り気のないレキサンドラの無自覚の美を引き立てる。
「次はそれに合わせたチョーカーでもあつらえさせるか」
首を横に振る気配を見せたレキサンドラに、
「拒否などするまいな」
見下ろせば、うつむく彼のつむじが見えた。
そこにくちびるを寄せながら、抱きしめ、手を這わせた。彼の感触を楽しむと同時に魔力の順調な巡りを確認する。
「お父さん…………」
先ほどの勇ましい剣捌きからは伺いようのない弱々しい声が、私の劣情を刺激する。そうでなくとも二週間、この肌に触れることもできず、吐息を味わうこともできなかったのだ。
私が肉欲に堕ちるのは、容易いことだった。
「風呂を……っ」
「必要ない」
汗や土、かすかに傷ついた血の匂いや草の汁の青臭さが鼻孔を満たす。
「レキサンドラ」
ひとの王宮であてがわれた何者とも知れぬ、化粧や香水臭い女たちとは違う。心底欲しいと思うものの匂いである。不快を感じるわけがない。逆によりいっそう欲が膨れ上がる。
「ここで、だ」
「ひっ」
弾かれるように私を見上げてきた緑色の瞳が、おののきを宿している。
「これから、だ」
夜までは、私が保たなかった。
「う、そ………うそっ、つきっ」
そう必死で吐き出したレキサンドラの下瞼に涙が盛り上がる。
喉が鳴る。
抗うかのように左右に振られる顔から、涙が散る。
「やさしくだ。なんどでも、イカせてやる」
怯えることはない。
背中を撫でさすりながら、着衣の中へと手を忍び込ませてゆく。
じっとりと汗に濡れた肌が、それでも、私の性感を高めてゆく。掌からじりじりと全身へと広がってゆくのだ。
これを思うさまに味わえるのだと思えば、今は場所さえ気にならなかった。
ただ、その場に残る聖魔だけを一瞥で下がらせるのを私は忘れなかった。
私のレキサンドラが乱れるさまを、あられもない姿を、私以外が見ることはない。
見せるつもりもなかった。
耳元と喉元とに輝きを宿すサファイアとそれを囲う黄金の細工が、彼自身意識しない美を引き立てる。意識しないのではないのかもしれない、ただ、彼は己の纏う美を厭うているのかもしれない。
そんな彼の態度を、私は愚かと嘲笑わずにはいられない。
なぜなら。たとい彼が二目と見れぬ醜さを持っていたとしても、私が彼を愛でないはずがないからだ。
我が血を半分とはいえその身の内に宿す我が息子。
彼の存在は、その姿形がどうであろうと、私のものなのだ。
私だけの。
私だけの存在であればいいのだ。しかし、彼はこの腕の中に閉ざせば、弱る。まるで枯れた薔薇の幹のように、瑞々しさを失う。精気を、生きるというただそれさえも、自ら手放そうとする。
私の愛しいレキサンドラよ。
耳元で幾度ささやいただろう。
しかし、彼には私のことばは通じない。
彼の心の中に、私のことばが伝わることはないのだ。
いったい何が悪いのか。
私にはわからなかった。
どうすれば、通じる。
どうすれば、私を求めるというのだろう。
わからないままで、ただ徒に月日は流れて行くばかりだ。魔王である私に時の流れは既に意味をなすことはないが、無為に流れる時に苛立ちを覚えずにはいられない。
心を閉ざす頑な若い雄を私のものにすることが叶わない現実の前に、魔王であるという事実など、何ら意味のないものだった。
元勇者と剣を交わす時だけに宿す彼の生の表情を、忌々しいと思えば、見ることもできなかった。
魔王たるこの私が。
そう。
これが嫉妬なのだと、私にはわかっていた。
魔王が、取るに足りないただの元勇者ふぜいに嫉妬をしているのだ。
既に老いた姿をさらす元勇者は、レキサンドラの剣の相手にならなくなっていた。そんな者相手のこの感情を嗤わずにいられるだろうか。
まるで下手な喜劇のようなこの現実を。
今この時も、レキサンドラはあの老人といるのだろう。もはや剣の相手としては役にも立たないだろうあの老人と、剣を交えているのか、それとも、一言二言と、禁じたはずの私的な会話を交わしているのか。
それらが単なる妄想だとわかっていた。しかし、玉座の肘掛けを握る手に、知らず力が入ってゆく。固い材質の軋むような音が、静かな謁見の間に大きく響いた。
私の口角が緩やかに持ち上がってゆく。それに、その場に居合わせた者どもが表情を強張らせた。それを見て、私の笑いはよりいっそうのこと大きくなっていった。
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