それが現れたのは、あまりにも突然だった。
緩急のある広い丘の上の廃墟は、最近の魔王の息子の気に入りの練習場となっていた。
私はその広い城の残骸にさまざまな仕掛けを施すことくらいしか、最近は役に立っていない。もっとも、私は考えるだけで、実際に仕掛けを施すのは、力自慢のゴーレムだった。
私を見張る為か魔王の息子を手伝う為か、いつしか現われるようになったゴーレムは、静かに私の隣に胡座をかいて座っている。
罠にも近い仕掛けを打ち破る魔王の息子を、ただ黄色味がかった石積みに腰掛けて見るのが私の日課となって久しい。
―――私。
かつては勇者と呼ばれたこともある、ただの虜囚だ。名前など、もはや意味もない。
魔王や聖魔に陵辱されていた頃もあったが、最近では飽きたのか、抱かれることはない。それは私を安堵させると同時に、老いさせた。どうやら、魔王や聖魔限定なのか、魔と呼ばれる者全体なのか、彼らの精液には、老化を防止する効果があるらしい。その効果が人間にのみ有効なのか、魔同士で有効なのかまでは、私が知る術などありはしなかったが、もとよりここから出ることのできない私にはどうでもいいことだった。
あの日のことを思い出す。
塔に入れられてからの私の日々に、着衣など必要ではなかった。私を閉じ込めた一室を訪れるて来るものに、疑問を抱くことなく従順に抱かれる。たとえ相手が口にすることさえも憚られるような趣味の持ち主であれ、何を用いられようと、虜囚である私に拒否権など与えられていなかった。与えられていたものといえば、一枚の布と、生命を維持するだけの食物だけだった。
私を抱きにくる聖魔は決まってひとりだったが、その日は、違っていた。聖魔が従者らしき魔を従えてやってきたと思えば、彼らは私を念入りに入浴させ、ざっくりとした仕立ての着衣を身につけさせた。貫頭衣のようなそれは腰のところをベルトで縛るだけで、手も足も、襟ぐりも深くくられたものだった。久しぶりに履く靴さえもが古いタイプの編み上げのもので、何が始まろうとしているのか、見当もつかなかった。
塔から連れ出されたとき、得体の知れないプレイが始まるのかと、不安でしかたがなかった。
しかし、そうではなかった。
どれほどぶりにか謁見の間で見上げが魔王は、以前以上に美しく、波打つ黒髪はまるで絹糸のようだった。それにもまして、何よりも彼を美しく見せていたのは、その双の金の瞳だったろう。記憶にある、ものに倦んだけだるげなまなざしは、底光りするかのような活力を抑え、私を見下ろしていたのだ。
そうして。
私を何よりも驚かせたのは、彼が手招いたひとりの少年の存在だった。
くすんだ煙のような髪と病み上がりのような青白い肌色をした少年の小さな顔の中、みごとなまでのエメラルドめいた一対のまなざしが異様なまでの大きさで印象的だった。
魔王は少年の肩を抱き寄せ、そうして言ったのだ。
『これの名はレキサンドラ、私の息子だ。これに、剣を教えるよう』
魔王の息子。
魔は、たゆむことなく、その力を強めているのだ。
そう感じた途端、私の全身を襲ったのは、戦慄であったろう。
いずれ、世界は、総て、魔のものとなるにちがいない。そんな忌むべき予想が、私の脳裏をよぎったのだ。
ともあれ、私に、魔王の命を拒否することはできない。
できるわけもない。
私は、ただ、魔王のことばを受けいれるよりなかったのだ。
模造刀は疾うに卒業し、魔王の息子は真剣を使っている。コボルトが打ち出したという剣はみごとなまでの切れ味で、木をなぎ倒し、岩を両断する。それが、剣と彼の完璧なユニゾン故だと、わかる。しかし、その完璧さとは別に、彼は、なにかに苛立っているようにも見えた。とはいえ、それを私が問いただすことは、魔王の怒りに触れることだった。
必要以上の接触を持つな。
それが、私が彼の剣の師となる条件だったからだ。
苛立ちのままに剣を振るうことなど、本来褒められたことではない。それでも、彼の剣技は既に完璧なものであり、私など疾うに超えられてしまっている。口を挟む余地もない。
ただ、見とれるだけだった。
不意に、魔王の息子が動きを止めた。
その半分に聖女の血を抱く彼の胸もとに揺れるメダリオンが、鈍く光る。
あれは、かつて私が聖女に贈ったものだった。
不実と誹られても構いはしない。
婚約者がいる身でありながら、事実、私は聖女に惹かれずにはいられなかったのだ。日々共に行動をし、私達の苛立った心を癒してくれた、おだやかで清らかな、聖女。惹かれずにいられようか。魔王討伐を命ぜられ、内心の恐怖と戦いつづけていた我々は、皆、彼女を愛していた。
勇者と祭り上げられながら、私は優柔不断なだけの、ただの男でしかなかったということだ。
なぜなら、私は、未だ婚約だけしかしていなかった許嫁者を、魔王討伐に出かける前夜、抱いていたのだから。
貴族社会で、結婚前に許嫁者が新床を共にすることは、誹られこそすれ、褒められることではない。
言い訳になるが、乞われたのだ。
もし、万が一、戻って来ることができなかったその時はと、あのみごとな金髪を下ろす覚悟を決めて私を見上げた褐色のまなざしを、その真剣さを、私は袖にすることができなかった。
何を不吉なことをと笑い飛ばすこともせず、ただ私は彼女の瞳を見下ろしていた。
幼なじみだった。
産まれた時からの許嫁者でもあった。
ずっと共に同じ屋敷で育ち、私の妻になることが当然と決められていた少女だった。
彼女はどうしているのだろう。
そうして今ひとり、いや、ふたり。
親に決められた未来への道順を嫌い、逆らうつもりで恋に恋した。要は、逃げたのだ。その時にできた、私の子がいる。別れた時には物心がついていた、みごとな赤毛の娘。我が家で引き取りはしたものの、母親とは別れ、縁を切らせた。公爵家の黒い羊となった我が子。私の我侭の犠牲者である娘にはその分、やさしく接していたつもりだが、今はどうしているだろう。その母親は、幸せになったろうか。
そうして、美しい聖女をも、思い出さずにはいられない。
人の世に戻され、彼を産み落として狂ったのだと聞かされた時の後悔を忘れることはできなかった。
あのメダリオンを彼女が彼の首にかけたその願いを、痛いほどに感じながら、私は無力を思い知らされる。
彼は、本当は魔王の息子などではなく、私の息子なのではないか。
思わずこぼれた疑惑を、彼はその耳で掬い上げ、魔王に仕置きを受けたと聞いた。
それ以来よけいなことは言わずにいるものの、私の心に根付いたその疑惑は、枯れなかった。
もちろん、それは、私の思い込みに過ぎないのだろう。
けれど。
万にひとつ、もしかして、と。
わたしは、若者を眺める。
灰の髪が、風にあおられ、はためく。
何の悪戯か、彼の着る騎士の制服に型を似せてつくられた燕尾もまた風をはらんだ。それを窮屈そうに脱ぎ、汗に貼り付くシャツ姿になる。途端、襟飾りが大きく揺れる。それを引き抜き、彼は、汗を拭った。その何気ない仕草に、私は、どきりとした。不思議と艶めく仕草に見えたのだ。
私の耳にだとて、魔王と彼の関係は入っている。
魔王の寵愛の深さがどれほどかと、密やかに噂する魔がいることも事実だ。
魔王の言を真実とするならば、血の繋がった父と子が。
驚愕したのも最初の間だった。
ここは、ひとの世界ではないのだから。
それでも、若者がその血のつながりで苦しんでいるのだと、なぜだか感じ取ることができた。
だからこそ、彼が私の子であれば良いと、強く願わずにはいられない。
たとえ、どんなに足掻いてもありえない妄想に過ぎないのだとしても。
血の繋がりひとつないことが、彼の唯一の救いとなればいい。ただひとつだけだとしても、彼の心が軽くなる事実があればいいのにと。
音たてて魔王の息子が地面に腰を下ろす。
若い頃の私なら、そのまま大地に寝転がっただろう。
肩が、胸が、荒々しく上下し、呼気が激しい。
ゴーレムがその手を差し出す。そこからは水があふれだしていた。それを掬い取り、頭上から降り注ぐ。まるで猫のような仕草で首を振り、水を切る。
ことばは交わさない。
私の傍らに置いたタンブラーとバスケットを取り上げた。
呷るように葡萄酒を飲み、バスケットの中から肉のかたまりを取り出し、口に運ぶ。
苛立ちと思えたのは、怒りであったのか。
荒々しい仕草は、それでも、彼の美しさを損なわない。野性の大型獣を思い浮かべさせる若者だった。
「剣が乱れている」
言わずもがなのことを口にしていた。
「わかっています」
いつもとは違い、投げつけてくるような口調だった。
両手を大地に、仰向いた彼の首と耳に、先日まではつけていなかったサファイアと金の飾りが輝いていた。星のように放射する輝きが、そのサファイアの価値を物語る。
「なんです?」
私の視線に気づいたのだろう、苛々とした声が冷たい。だからだろうか、剣に関する以外喋ってはいけないと重々わかっているというのに、気がつけば、
「それは、高価なサファイヤだね。私達の世界では王くらいしか持てないだろう」
話しかけていた。
「でしょうね」
吐き捨てる。
手が、耳や喉元を忙しなく行き来している。
「知っていますか? 魔族は、サファイアをなによりも好むんですよ。魔の気配と魔力とを殺してくれるこの石ころを」
だからこそでしょうか。
魔力も殺すんですけどね。
高価であれば高価なほど、効果は抜群らしいですよ。
だから、いまの俺は、魔力は使うことができません。
まぁ、俺の魔力など、微々たるものに過ぎないんですけど。
ほら。
手を開いてみせる。
魔力を集めようとしているだろうに、気配すら感じられない。
下層の魔族があなたたちの世界に出る時は重宝するんでしょうね。彼らは、どちらかというと、魔力頼りというよりも力尽くですからね。
「人間は、そんなに魔の気配に敏感じゃないよ」
「そうですか? 異質なものには敏感だと思ってましたよ」
自分の掌を凝視しながら、若者が言う。
「かいかぶりだよ。ほぼ目の前にくるまでわからない」
これは、内緒でもなんでもないよ。
「目の前に現れても、魔族かどうかなんて、わからないものだ」
「じゃあ、だからなのかな? すこしでも異質なものには、容赦ない」
反撃されるなんて考えもせずに、襲いかかる。そうして、反撃されて、被害者面をする。徒党を組んで、加害者だと復讐する。
「どっちが加害者かわからない。馬鹿みたいだ」
どこかでそんな経験をしたのだろうか。
思い詰めた緑の瞳が、私を凝視する。
その瞳の色が思い出させるのは、ひとりの女性である。
聖女と呼ばれた、あの清らかな女性。
私が不幸にしてしまった、聖女を。
だから、私は気づくのが遅れたのだ。
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