ドラゴンの王の首と胴が、大地に落ちる。
それが流すのは、血と涙だった。
大地が濡れ濡れと血の照りを吸い込みゆくのに、透明な涙が固体となって転がる。それがドラゴン・ドロップと呼ばれるドラゴンの王の死の証だと、俺は知った。
いつの間にか現れていた魔王がそれを拾い上げ、再び顔を見せた太陽にかざしてみせたのだ。説明する口調はいつもと変わらず、だから、俺はそれに気づくのが遅くなったのだ。
元勇者の姿が見えなかった。
ゆったりと踵を返す魔王が、やがて足を止め、半身を屈めた。
「死ぬのか」
俺の耳に届いたのは、低く響く魔王の声。その内要に、大地に横たわる元勇者を認めた。
「!」
まさかと、思った。
魔王が違うことなどありはしないというのに。
それでも、そのことばが間違いであれば良いと。
しかし。
「役目大儀であった」
最後の手向けだろうひとことを魔王のくちびるが紡いだとき、それこそが真実だと否応なく知らされた。
聞きたくないと、叫んだのは、
「トレヴァー!」
いつか母が口にしたことがあった元勇者の名前だった。
そう。
大切な宝物であるかのように、そっと、母はメダリオンにくちづけながら一度だけ、「トレヴァー」とささやいたことがあったのだ。それは、数少ない穏やかな母の記憶だった。
魔王の隣へと移動した時には、既に、元勇者の息はなかった。
「死んだのか」
確認するまでもないことだった。
口にするまでも。
それでも、口にせずにはいられなかったのだ。
ずっと、俺に剣を教えてくれていた、ただひとりの人間だったのだ。
俺の腹の奥深くから沸き上がる感情がなになのか、しかし、俺にはよくわかってはいなかった。
ただ、本能のままにその場に蹲りたかった。
その熱が冷めていっているだろう頬に触れたかっただけなのだ。
それを許さなかったのは、当然とばかりにオレの肩を抱いた魔王だった。
魔王は、元勇者ではないなにか別のものを見ているかのようであり、なにかを待っているかのようだった。
血の臭いに満ちたその惨劇の場には何の変化も起きはしない。
オレがそう思った時だった。
突然元勇者の近くの地面が盛り上がった。
現れたのは、俺の腕の半分ほどのドワーフに似た種族だった。
ドワーフより肉付きは薄く、ただ腹部がぽこりと盛り上がった、人間や上級魔の価値観からすれば醜いと言われるだろう面立ちのその種族は、やけに気取った礼をとってみせた。
手をひらひらと振り、膝を引き。
「陛下と御子さまにはご機嫌麗しゅう」
と。
「礼などよい」
「これよりしばしむさいものをお見せいたすことになりますが、よろしいのでしょうか」
その黄ばんだ白目が、俺を意味ありげに見た。
「よい」
「では、しつれいを」
再び不似合いな礼をすると、その種族はよりにもよって、元勇者を……………。
「なにをっ!」
俺は、止めさせようとした。
まさかそんな。
「あれがこの世界の最下層の種族どもだ。しかし、侮るな。あれらがいるからこそこの世界の大地が汚穢に染まることはない」
大地の汚れは、総て、あれらが処分する。
目の前の光景を見続けることが苦しく逸らせば、そこでは、ドラゴンの王であったもののからだが、同じく、彼らに喰らわれている最中だった。
「目を背けるな。お前の師の最期をしっかりとその目で見届けるのだ」
鋭い爪が元勇者を容赦なく解体しその口へと運ぶ際に、ぎざぎざと細かな歯が見えた。それは既に血に染まり、それを見た刹那に胃の腑が熱く裏返りそうになる感触を覚えた。
喰われてゆく。
そう。
元勇者だったひとりの老人が、ドラゴンの王であったものが、矮小な種族に集られ、少しずつ肉を抉られ解体され、その場で喰らわれていっているのだ。
どれくらい、かかったろう。
気がつけば、いつしか血肉は消え、骨や爪、歯や髪だけとなっていた。
食するのに向かないのだろう。そう俺は思った。
動けなかった。
灼けつく胃にはもはやなにも残ってはいない。
俺が吐いたものにさえ彼らの小さな者たちがたかったのを見て、俺は凍りつく心地だった。
ただ俺は、その光景を目に映しながら、肩で息をしているだけだった。
ぽりりと、しゃりりと、新たな音が俺の耳を虐める。
新たな光景が、俺の視界を殴りつける。
骨も爪も歯も髪さえも、ドラゴンの固い鱗さえも牙さえも角さえも、彼らは物の数ではないのだと、喰らい尽くしていったのだ。
俺は、無意識に魔王にもたれかかり、それらを最後の最後まで見続けたのだった。
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