邂 逅
うつうつと、天井を見上げていた。
枕もとのスタンドも消した夜の部屋で、わたしは目を開けていた。
夜のしじまに、カタカタという音が聞こえていた。
風は、吹いていない。
障子の真ん中の嵌め殺しのガラスから見える庭の木は、微塵も揺れてはいない。
音は、上のほうから聞こえてくる。
上――天井の上は、屋根裏で、その上は、屋根。
瓦が揺れているのだろうか。
布団の上に起き上がり、蛍光灯の紐を引く。
障子を開けて、廊下から庭に出た。
風のない、キンと冷えた夜の空気。
羽織った半纏の前を掻き合わせる。
からころと、庭下駄の歯が、飛び石に当たる。
池のほとりを回りこんで、母屋の屋根を見上げた。
何も見えない。おぼろな屋根のシルエットが、そこにはただあるかぎり。
全身が、ぶるりと震えた。
寒い。
部屋に戻ろうと思って、一歩踏み出したわたしは、凍えた池に月を見た。
空には月がないのに、まんまるく肥えた月が、池の中からわたしを見上げる。
わたしの吐く息が、もわりと白い。
わたしの息より白い水蒸気が、凍えた池からゆらめき昇った。
ぶわんと大きなおたまじゃくしのように、尾を引いて。
ボールペンで横線を一本。大きな口がパックりと開いた。赤い赤い、大きな口は、ぬらりと濡れて、剣呑な細かな歯列が、ぞろりと現われる。
わたしは、悪夢に魅せられたように、視線を外すことができなかった。
今まさに、わたしの頭を、喰い千切ろうとする口から。
しかし、わたしは、食べられなかった。
音にならない悲鳴が、大気を大きく震わせる。
木々がゆらぎ、常緑の葉が、宙に舞う。
屋根が、家が、池が、ありとあらゆるものが、悲鳴をあげていた。
わたしは、脳を直接擦られるような感触に、池の淵にしゃがみ、蹲る。
紙が、寝巻きの裾が、半纏が、悲鳴にあおられ、はためいている。
やがて、わたしを食べようとしたものは、夜の空気に、千々に砕けた。
ぼんやりと、小波立つ水面を眺めていたわたしは、ぴしゃりという音に我に返った。
先までのことが夢であったのかとの錯覚に囚われるような、凍てた水面に、一匹の猫が浮かんでいた。
闇よりもなお暗い、艶やかな毛並みは短く、常緑樹の葉のような色をした一対の双眸が、月のない夜に、静かにわたしを見つめていた。
仔牛ほどもある大きな猫の、すらりと長い尾が、ぴしゃんと水面を叩く。
刹那、巨大な猫は、わたしに飛びかってきた。
ついさっきまでよりも、一層リアルな恐怖が、わたしを捉える。
殺される――――と。
しかし、違った。
さらりとした感触が、わたしの首を取り巻いた。
閉じた瞼をそっと開けば、つぶらな緑の双珠が、胸元から私を、見上げていた。
巨大な猫は、そこにはなく。イタチとキツネを合わせたようなものが、襟巻きのように、わたしの首にさがっていた。
不思議と不快な感じはなかった。
わたしはそれを首につけたまま、部屋に戻ったのだった。
冬の一夜、夢とも現実ともつかない邂逅が、わたしの平穏な生活を覆すことになるだなどと、わたしは夢にも思ってはいなかった。
おしまい
start 13:18 2006/02/15(06/01/30)
end 13:42 2006/02/15
◇あとがき◇
よくある話ですね〜。
少しでも楽しんでいただけると………xx
HOME
MENU