メタモルフォーゼ 1 |
どっと蹴倒されるように目が覚めた。 息があがっている。少し熱っぽい。そういえばここ一週間くらいずっと、微熱が出たり治まったりといった状況がつづいていた。 もぞもぞと上半身を起こして周囲を見回す和佐には、自分の置かれている状況がすぐには飲み込めない。 アパートの部屋でもない。かといって、三年間下宿していた幸徳井の家というわけでもない。 豆球のオレンジ色にぼんやりと浮かんでいるのは、どこかの家のダイニングだった。 天井の白いクロス。ソファのレザーの感触。 掛けられているタオルケット。クーラーがかかったままなのは、この家の主人の気遣いだろうか。 妙に、からだが怠い。全身の関節が、痛だるいような感じなのだ。 喉が渇いた。 やけに汗をかいていた。 髪までがじっとりと湿っていて、持ち悪い。 髪を掻き上げながら見回した視界に、すぐ横のロウテーブルの上にあるタンブラーとコップとが飛び込んできた。 もっけの幸いとばかりにタンブラーの中身をどばどばと注ぎ、一息に呷った。ぬるんだミネラルウォーターが喉を通り抜け、胃の腑におさまる。 ふぅ〜。 なんとか人心地がついた気がして、ようやく、思考回路が過去の検索をはじめた。弾き出された答は、なんのことはない、章のマンションでとぐろを巻いてしまったという醜態だった。 久賀章とは高校になって再会した。互いに幸徳井の分家の息子という境遇で、中学一年くらいまでは正月のたびに顔を合わせていた。 今の幸徳井の当主、七十を過ぎてなお矍鑠として、敬意と少しばかりの畏怖でもって囁かれる氷見子刀自。年に一度、分家の当主夫妻とそのこどもたちとが一堂に会するのは彼女に新年の挨拶をするためである。もっとも、その後に続く大人たちの会合はこどもには拷問に近い。 窮屈な時間、幸徳井の広い庭はこどもたちに開放された。和佐と章も、歳の近い仲間たちと一緒になって庭を駆け回ったものである。 そんな章と友人としてつきあい始めて七年になる。今では彼を親友と呼べると、和佐は密かに思っていたりするのだ。 (あっちゃ〜) 昨日はあずみが章の誕生祝いをしようといって、誘ってきたのだ。酒を過ごして、いまいち記憶があやふやだが。 (まさか、言わんでもええことを、言わんかったやろうな…) 思わず、お国ことばで独り語ちる。 なに? と訊かれても困るが。はなはだ不本意きわまりないことなのだが。ようするに、まぁ、自分と幸徳井貴之との間にあるごたごたというかなんというか………。 章に知られたくない。遠慮なくこきおろしてくれそうで、イヤだったりする。もっとも、章だけではなくできるだけ誰にも知られたくないというのが、和佐の本音なのだが。 (あずみもなぁ〜) 同い年の高梨あずみもまた、同じく分家の娘である。偶然大学が一緒になってしまったのだが、小学校の時には、同い年が三人だけということもあって、一緒に広い庭を駆けずり回った仲だった。 しゃきしゃきとした性格でずばずばものを言うあずみは、意外にも小さなころに貴之に憧れたことがあったらしい。そうして、そのことに関して何かトラウマがあるふうなのだ。だから、理由を知ったら揶揄かう道具に自分を使いそうで、『絶対に知られてたまるもんか』と、心にく決めていた。なのに、 『あずみなら、疾うに気づいているよ』と、貴之はしれっと言ってくれたのだ。 本当かどうか知るのは怖くて、確かめてはいない。しかし、考えてみれば、あずみのことばの端々に何か、含みを持たせるような台詞があるようなないような。 貴之は揶揄われても『ふんっ』と鼻で笑うのだろうけど。事実気にはしていないらしいけれど。しかし、本意ではない関係と状況とに身を置いてしまっている自分は、そこまで開き直ることなど、とうていできはしない。 まさか、一度きりの好奇心が後々祟るだなどと、四年前、十八歳だった自分は考えてもみなかったのだ。こればかりは、男の沽券に関わるというか、プライベートの問題だというか………。 せめて、章には知られないように。 信じてもいない、どこかの神に祈る和佐だった。 言ってはいないだろう。そうそう口が軽くなる酒ではないと思いたい。 (一生カミングアウトはしたくないぞ〜オレはっ! だいたいオレは、女のほうが好きなんだからっ) いまさらながらに心の中で喚く和佐だった。 はぁ。 ひとつ大きな溜息をついた和佐は、脱力のあまり顔を手で覆おうとした。そうして、初めて気づいたのだ。 ゲッ! 指を動かす。 わきわきと、自在に動くからには、どう考えても自分のだった。 伸ばす。握る。 抓る。 痛いっ! 痛みは現実だった。 和佐は、おそるおそるうつむいた。 だぶだぶのTシャツの襟首を伸ばせるだけ伸ばして、覗き込む。 眠る前はこんなじゃなかった。ぺったんこの、それなりに筋肉のついた胸だったはずなのに。そこに、あるはずのないあるものを見てしまい、和佐はあまりのショックに絶叫した。 ばたん。どたばた。 「なんや。なんがあったんや」 「近所迷惑よ。和佐。寝ぼけるなら静かに…」 うっ! ゲッ! 蛍光灯が点されたダイニングに流れたのは、章とあずみのエクスクラメイション・マークである。 和佐の眠っていたソファを見下ろす形で、章とあずみがそれぞれなんとも言い表わしがたい表情のままで固まっていた。 最初に驚愕から立ち直ったのは、あずみだった。 「かずさ?」 「よぉ…あずみ」 柄の悪いことばが、力なくダイニングの床に転がり落ちる。しかし、その柄の悪いことばを紡いだのは、あまりにも可憐なくちびるだった。 少しばかり低めの、ハスキーボイス。わずかに擦れているのは、寝起きのせいなのか。ソファの上で脱げかけているぶかぶかのジーンズから覗く、腰からすんなりと伸びた白い足へとつづくやわらかなカーブはドキッとするほど色っぽい。もっとも足を行儀悪く組んでいるため、すぐに幻滅することになるが。 それは、ハイティーンくらいに見える、愛嬌が過ぎる感のある美少女だった。それでも、随所に和佐の面影がある。 とれかけたソバージュのような癖っ毛の、赤みがかった髪。ひとの好さがにじむ大き目の瞳。容貌全体が和佐を女性にして難点を補正したかのような、そんな感じだった。 「げっ! これ、和佐なんか?」 失礼な台詞で、あまつさえ指を差して絶句するのは章である。 「やだっ。なによ和佐ってばっ。わたしよか美人じゃないのっ。男のくせにっ!」 「そやな。和佐なんやて知らなんだら、ふらふらいってしまうかもしらん」 章がそう言うにおよんで、和佐はどんよりと脱力するよりなかった。 ※ ※ ※身長はかろうじて百六十あるだろうか。確実に元のからだよりは低くなっている。視界が二十センチ近くも縮んでいるのだ。あずみと並んで視線がほぼ水平ということは、そんなものである。それが、ショックだった。 衝撃も過ぎてしまえば感じなくなるというが、それは、やはり、こういうことを経験したことのない者の言い草だろう。 謂れのない(もちろんあるわけがないっ!)突然の性転換で、和佐は身も心も脱力し疲れ果てている。しかし、自分自身の変化や差異にだけは、それがどんなに些細なものであってもやけに過剰に反応してしまうのだ。 阿鼻叫喚の一夜が明けて、あずみが大急ぎで服を届けてくれた。 「コーディネートしてきたのよっ」 と言って広げた服の山は、どれもほかが合うのにウェストがゆるいといったありさまで、すっかりあずみの機嫌を損ねてしまった。 和佐のスタイルの良さが、あずみの女心をいたく傷つけたらしい。 しかし、そんなこと、和佐が謝るようなことではない。 自分がなろうと思って女になったわけじゃあないのだ。 目が覚めると、こうなっていたのだ。 (一番の被害者は、オレなんだよぉ〜) 大声で叫びたかった。 姿見に映っているのは、普通なら一生見るはずのない、自分の変わり果てた姿である。 スーツやフェミニンなワンピース。飾り襟の派手なブラウス。無地だがギャザーをたっぷりと取ったフレアースカート。スカートしかないのは、あずみの趣味なのか嫌がらせなのか。色鮮やかな服の山から和佐が選んだのは、無難な線でアースカラーのスウェットに膝丈のボックスタイプのジーンズのスカートである。 それが不満らしく、あずみは和佐に化粧をすると言い張った。 拒絶しまくったのに、結局されてしまった化粧が不快でならない。皮膚呼吸していないような気色の悪さに、早いとこ顔を洗ってしまいたい。しかし、傷つけられた乙女心の逆襲なのか、あずみの反対は強固だった。ここまで精神的に弱っていなければ、それでも我意を押し通すところなのだが。今の和佐には、気力がわいてこないのだった。 「こーして女になってしもおた和佐見とると、おまえってほんまは、男んときから結構美人だってんな」 しみじみと章がつぶやく。 ごんっ! 伸び上がってどうにかこうにか一つ拳固をくれて、和佐は仁王立ちした。が、次の瞬間、目から火花が散った。 報復とばかりに、章命のあずみの鉄拳が飛んできたのだ。 「いってぇ〜」 「なんてことすんのよっ。章にあたってもしかたないでしょっ! それよりも、言葉遣いと動作をどうかするのが先よ。そんな、歳まで若返ったみたいな、美少女ですって姿して、丸っきりの男言葉と動作だなんて、背筋が寒くなるでしょっ! 犯罪よ、は・ん・ざ・いっ!! ニューハーフのほうがもっとしっかり女おんなしてるわよ」 「男なんだよっ! ついでに言わせてもらえば、好きでこんなんなったわけじゃねぇ」 「い〜ま〜はっ、お・ん・な、でしょう」 チッチッチと人差し指を立てて振る。 「いつまでその姿か知らないけれど、女の姿してる時は、言葉と動作に気をつけて…って、言ってるそばからっ」 パシコ〜ンと、もう一度容赦なく殴られる。 「股開いて座らない! っもう! さっきからまだ何分も経ってないのよ。なのに、言ってるそばからその行儀の悪さ。まったくもうっ」 あずみが腕組みをして和佐を見張る。 二十二年間男として育ってきて、いまさら女らしい動作などできるはずがない。根を上げた和佐を見下ろして、 「いいわよもう。ほかはどうでもいいわ。諦めてあげる。だからせめて、そのがばって股を開いて座るのは、スカートのときだけでもいいからよして。下着が見えるし、行儀が悪くって。目のやり場に困るのよ」 「へいへい」 げんなりして、しおしおと言われたとおりに股を閉じる和佐だった。そうしてタバコに手を伸ばした和佐の手から、章がひったくるようにして取り上げる。 「あにすんだよっ」 面白そうに自分とあずみの遣り取りを見ていた章の突然の行動に、和佐がくってかかる。 「あかん」 「なにがっ」 「おんなのひとがタバコ吸ったらあかんねんで」 「だ〜か〜らっ、オレは、男なんだよっ!」 何度目になるのかいいかげん虚しくなってきた台詞を懲りもせず喚いた和佐は、ぜいぜいと肩で息をついている。その至近距離までズイと顔を近づけて、 「ええ機会で。禁煙しぃ」 と、章は言った。 結局、和佐はふててソファに転がったのだ。 この、押しに弱い性格が諸悪の根源のような気がしてくるのは、被害妄想だろうか? すかさずあずみの手が飛んだ。 「和佐、足っ」 こうぱしぱしと遠慮なく叩かれては堪ったものじゃない。 がばっと起き上がった和佐は、 「ジーパンないの? ジーパン。オレが昨日はいとったやつ」 章に救いを求める。 「あれなら洗濯したで。それに、今のおまえにはサイズがでかすぎるやろ」 「じゃあ、章、おまえのでいいから、ジーパン貸してっ」 お願い――と、手を合わせる。 「合わんと思うんやけどなぁ」 後頭部を掻きながら、それでも章はジーンズを取りに寝室に向かう。 章自身細身だからとの一縷の希望ではいてみたものの、合うわけがない。しかたなく裾を何度も折り曲げて、あまつさえあずみのスカーフをベルト代わりにしてどうにか腰に引っかかっている。 そんな自分の格好は、情けなさも極まれりで、和佐はついにこみあげてくる涙を堪えきれなくなってしまった。 「………あきら。裾切ったらいかん?」 「ええわ。もう、それ、おまえにやるわ。好きにしたらええ」 「ありがと。おまえって、ええやつやな」 「ああもう、それくらいのことで泣かんとき」 よしよしと、流れる涙を拭きもせずに立ち尽くしている和佐の頭を章は撫でた。 こうなると、あずみは爪弾きにされているようで、面白くない。 女の和佐は、これがまた誂えたようにすっぽりと章の胸に納まっている。 目の前で繰り広げられている光景は、ずぅっとあずみが憧れているものに似ている。どう転んでも可愛い女になんかなれない自分を知っているから、友達以上恋人かなぁ? の、現状維持で我慢しているのに。 いいかげん、ワンステップ進みたいというのが、あずみの本音だった。 胸がかすかに軋む。だからといって、突然わけもわからずに女になってしまった和佐の心の中を慮れば、何も言えない。それくらいの思い遣りならば持ち合わせているのだ。 それに、これ以上怒ったり揶揄ったりしたら、自分で自分を嫌ってしまいそうだった。 自己嫌悪の塊になりたくなくて、あずみはしかたなくソファに腰を下ろしたのである。 ※ ※ ※一週間が過ぎた。しかし、和佐の身の上に変化は現われなかった。これ以上章の厄介になっているわけにもいかないと、とりあえず一旦アパートに戻った和佐である。 和佐は延べてあったままの布団の上で胡座を組んだ。そうして、さてこれからどうしようかと、頭の痛くなるような問題に取り組んでいた。 バイトは、もち、パーだよなぁ。 女の姿で行ったところで、誰が、自分を泉川和佐だとわかってくれるだろう。 仕送りを止められている身にこれは痛い。 知らない間に間借り人が変わっては、周囲が不審がるだろうし。妹と言い張る手もあるかもしれないが、それにも限界がある。この状態がいつまで続くのかわからないだけに、どうすればいいのか悩んでしまう。 最悪、引っ越しかぁ? 手間暇とそれにかかる金銭的な問題にげっそりとなって、和佐は布団の上に仰向けに倒れこむ。寝入るまで、次の目覚めこそは元の自分に戻っているように――と、強く念じる。それは、習慣になりつつあった。そうしていつの間にか眠りに落ちたのだ。やっと自分の部屋に戻ったということで、張り詰めていたものが切れたのだろう。 章の所での一週間は、まるでできの悪いカリカチュアのようだった。 あずみは毎日やってきて自分で遊び、章は自分を女として扱うのだ。それは、和佐を思いのほか疲れさせていたのだった。 この目覚めも、変化は訪れなかった。 まだ女のままだった。 理不尽さに対する怒りは、すぐさま萎えた。 布団の上に上体を起こして、和佐はぼんやりと自分の両手を見つめた。 目覚めの原因は、生理的欲求だった。 さっきから叶えてくれと、和佐をせっついている。 もよおしたからには、処理しなければならない。 わかっている。 わかっているのだ。 そこまでウブではないのだが。それでも、この姿でトイレにゆくのは、気恥ずかしいというか、恐怖だというか。それとも、馴れたくないと言うべきか…。あるべきモノがあるべきトコロに無いということがどれだけのストレスとなるのか、和佐は身を以って体験していた。 (こんな体験、誰がしたいって思うかよっ!) それでも、この上この歳で失禁など経験したくない。だから、和佐はしぶしぶ立ち上がったのだ。 馴れたくない。しかし、生きているかぎり、こればかりは避けられない。ぐだぐだと萎たれるのは趣味ではないのだが。いくら気分を引き立てても、この時ばかりはズンと落ち込まずにいられなかった。 はぁ〜。 (ビールでも飲むか) 和佐が冷蔵庫からビールを取り出した。 その時、電話のベルが鳴り響いた。 嫌な予感はえてして当たるものなのだ。 (こんな予感の時は、居留守だよなっ) プルトップを引き上げ、炭酸の噴き出す心地好い音とホップの香ばしい匂いに目を細めながら、和佐は無視を決め込んだ。しかし、相手は留守を見透かしてでもいるのだろう。ベルは二十回を数えたというのに止む気配すらない。 (アパート住まいのヤツにかけるのに、二十回以上もベルを鳴らすなよな。隣近所に迷惑だろうがっ) 「はいっ。もしもしっ」 腹立ち紛れの勢いのまま送話口から言葉を叩きつける。 『だれっ?』 「げっ。と・とも………」 誰の声かわかった途端、和佐は思わず身を退いていた。 『あなた誰? どうして僕の名前を知っているの。…お兄ちゃんの部屋にどうして、いるんだっ』 噛みつくような智の声に、和佐は焦った。こんなギャグ漫画のようなことを智に言ったとして、本気にするわけが無い。 自分を慕って片時もそばを離れようとしなかった、十歳年下の異母弟である。 家を出てから一度も帰省していない。だけど、顔を合わせることも四年前まではあったのだ。その時はまだ自分は幸徳井に下宿していた。だから、当然正月にその機会があった。 そう。智に会ったのは、四年前が最後ということになる。 もっとも、その後も智からは最低週一度の電話がかかってきてはいるのだ。 『答えてよ』 トゲトゲイガイガが痛い智の声。和佐はしぶしぶ答えた。 (なるようになれってんだ) 「智…兄ちゃんだよ。声は女だけど。いや、なりも全部が全部女んなっちまってるけど、間違いなくオレは、和佐。……智の兄ちゃんなんだ」 電話の向こうの沈黙が、痛い。焦って続けた言葉には、和佐の動揺がにじんでいた。 「おまえをからかってるわけじゃない。なんでこんなことになったんか判らんけど、もう一週間女のままなんだ」 こみあげてくる熱は、智は信じないだろうという、諦めの予感だろうか。 情けない。 それが通じたのか。 『電話じゃわかんないね。いいや。明日、そっちに行くよ。夏休みだし。あなたが本当にお兄ちゃんだって言うんなら、待っててほしいな』 「わかった………」 この冷静さは、自分よりもよっぽど泉川の跡取りに相応しい。 智が電話を切ったのを確かめて、和佐は受話器を置いた。しかし、なかなか受話器から手が離せない。 そのままの格好で、和佐の口から深い溜息が一つこぼれ落ちた。 と、何の前触れもなく和佐の手にごつい手が重ねられた。手を引く暇もなく掴まれ、ギョッと固まる。 「お話は聞かせていただきました」 「お、おまえらっ! 不法侵入だ。立派な犯罪だぞっ」 幸徳井貴之のボディーガードたちのうちで一番信用されているのだろう、新井と黒田の二人組みは、いつもそうであるように容易に和佐を解放しない。 手をもぎはなそうと藻掻くうちに、身長差体重差に任せてがっちりと拘束しようとする。 認めたくないことだが、女の力はどうしたって男には適わないようにできているみたいで。理不尽さに腹が立ってたまらない。絶対的な力の差が怖くてならなかった。それは恐ろしいほどの力で、叫び出したいくらいなのだ。 「しかし、まさか、和佐さまが女性になられるだなんて」 「好きでなったわけじゃないわい」 何度言った台詞だろう。 「しかも、こんなに美人とは。貴之さまもさぞや喜ばれましょう」 あまりに鬼畜な言いざまに、和佐は蒼白になる。 「イヤだ。嫌だぞっ。ぜったい、絶対貴之のとこなんか行かないからなっ!」 喚き暴れたところで、所詮は多勢に無勢。二人の男に女の力で適うはずもない。それでも、死に物狂いの抵抗は、死地にも活路を拓くのだ。 どうにか二人から離れた和佐は、まだ手にしたままだった缶ビールを投げつけた。いとも容易く避けられたアルミ缶は、間の抜けた音をたてて畳の上に転がり大きな染みを作ることになった。持ち上げぶつけようとした布団は、部屋の隅に団子になった。ほかにもティッシュの箱やその辺に重ねてあった雑誌などを手当たりしだいに投げつけたが、二人に隙は二度と現われなかった。 ふと気がつけば、二人の手にはそれぞれ白いハンカチらしいものが握られている。 ギクリと和佐の動きが刹那止まる。次の瞬間には、脱兎のごとくダッシュしていた。 それはまさしく決死の覚悟だったのだが。二対一では所詮勝ち目はなく。何度かのフェイントを駆使した攻防の末に、ついに挟み撃ちをされ、罠にかかった兎はハンカチで鼻と口とを押さえ込まれた。 ツンと鼻孔を射る臭気。 厭な記憶を刺激する匂い。 (くそっ。やっぱクロロフォルムか、よ。きったねぇぞ…たかゆ……き) 女性受けのすこぶる良さそうな、それでいて神経質そうな印象のある、貴之の端正な容貌が脳裏を過ぎる。 それを最後に、和佐は意識を失ったのだ。 実態はかなりとんでもなくぶっ飛んだ性格をしているのだが。それを面の皮一枚で隠しおおせてしまうあたり、幸徳井貴之の美貌は一芸に秀でていると表現してもあながち間違いではないのではないか。――などと、和佐は思ってしまうのだ。まぁ、日本語としては間違いだろうが………。 だいたい、同じ男の自分と関係を持つあたり、ぶっ飛んでいると評されても文句は言えないと思うのだ。もちろん、そんなこと、あの貴之には『屁』でもないのだろうけど。 自分のことを棚にあげて、和佐は考える。 第一、KADEIグループの次期総帥と決定している男がゲイなどと知れたら、敵も多いことだしスキャンダルだろう。その時同時に槍玉にあげられるのは、間違いなく自分なのだ。跡継ぎにだって困るだろう。だから、こんな不毛な関係を続けるのはもう止めようと、何度も言ったのだ。けれど貴之は、 『心配してくれるのかな。もっとも君が心配するようなことではないな』 と、切って捨てたのである。 『わ〜るかったな』 『私は、そう、ゲイではないのだよ。…より正確を期するなら、バイだ。女を抱けないわけではない。後継ぎを作れといわれれば作るだろうが、別段分家から選んでもかまわないのだから、焦る必要などない。第一私の子のデキがいいとは限らないからね。そうだろう? たとえば、泉川家の君を養子にすることもできる。君は跡取りだから、父上がうんとは言わないだろうけどね。なら、君の弟御だとか。たしか、智くんといったかな。まぁ、私は高梨でも久賀でも、その他どこの分家だろうとかまいはしないよ。分家が多すぎるからね。選び次第だ。要は、KADEIグループが赤の他人の手に渡らなければいいわけだからね。そうなれば、君との関係も、もっと大っぴらにできるかな』 とんでもない最後の台詞に、『これ以上大っぴらにしてどーすんだよっ』と身を退きかけた自分に、これがまた嬉しそうにクスクスと笑いながら、意地悪そうな表情のままキスしてきやがったのである。あの、幸徳井の次期当主殿はっ! 貴之のことは一応、『恋人』と言ってもいいのかもしれない。セックスしているということがそういう意味ならば、だ。 貴之は嫌がらせのつもりなのか、本心なのか、好んでこの単語を使う。けれど、本当に心底、自分はこの関係を望んでいるわけではない。 何度も言うが、女のひとのほうがいいに決まっているじゃないか。 だいたい二十二にもなって、どうして、男の身でありながら男に抱かれにゃならんのだ。 理不尽だ。 済し崩し的に貴之に抱かれてしまったのが、十八の時だった。年齢的にヤりたい盛りだったことも原因だろうが、最大の敗因は押しに弱いこの性格だ。貴之は言葉巧みに騙くらかした挙げ句、押し出し満点の態度で退路を断ってくれたのだ。 そりゃあ、七つ年長の貴之の愛撫は手馴れてて、うっとりするくらい気持ち良かった。思わず抱きついてねだったかもしれない。けれど、その後にあんな痛いことが待っていただなんて、知らなかったんだ。男同士で繋がりあえるだなんて、しかも、それには、あんな信じられない箇所を使うだなんて………。 さんっざん喚いて暴れてイヤだと主張したのにもかかわらず押さえつけて、貴之のヤローは無理遣りからだを進めやがった。 あの時の痛みと恨みは、今も忘れてはいない。なのにあいつは、新井と黒田を使ってオレを幸徳井に引きずり込み縛りつけようとする。そうしておいてあいつがやることは…決まっている。 大学入学を待たずにそれまで下宿していた幸徳井の家からアパートに移りもした。それなのに、四年経った今も関係が続いていることが、なんか、腑に落ちない。認めたくなくてイヤだと言っても、貴之のヤツは結局自分の思うとおりにしてしまう。いろんな意味で痛い目をみるのは、いつだってオレというわけだ。 幸徳井の家人の目もあるし、なにより氷見子刀自が怖い。貴之の親父さんとお袋さんとが亡くなった後、女手一つでKADEIグループを引き継いでそのうえ孝之を育てた女傑のばーさんだ。氷見子刀自には、それこそ疾うにバレバレで………。それでアパートに移ったんだが。こんな、分家の、よりによって同性に、大事な孫が執着してるだなんて、好い気分するわきゃないよなあ。自分でだってそう思うのに、氷見子刀自は何も言わない。それが、より一層不気味だったりする。 頬を何かで撫でられているくすぐったい感触に、和佐は意識を取り戻した。 ぼんやりと瞼を開くと、 「頬の線ひとつとってもやはり元のからだとは違うものだな」 「たか…ゆき?」 「他の誰がおまえを抱く。久賀の末っ子にでも抱かれたのではあるまいな」 「ばっきゃろう! そんなことあるわけないだろっ。オレは、男なんだからなっ!!」 がばっと起き上がった和佐は自分の格好を見て絶句した。 「説得力はないようだが」 そこにはどう見ても女でしかありえない白い裸体がある。 からだを覆ってしまえるような布は、足元に畳まれている薄い肌掛け布団だけだった。手を伸ばそうとした和佐の手を、貴之が捕える。 「はなせよ」 この状況はあまりにも危なすぎる。しかしここで剥き出しの胸や下半身を手で覆い隠すというのも、なんかイヤだった。 心までも女になってしまったみたいで。 貴之に見られているのは、恥ずかしすぎるくらいだが。だからといって女のとるような行動にでるのは、それにもまして屈辱なのだ。 男のからだの時に散々好き勝手なことをされているのだから、今更そんな行動をとったってしかたがないような気にもなる。 からだはともかく、自分はあくまでも、正真正銘の男なのだ。 「勝手に裸にしてんじゃねぇよ。オレじゃなく本当の女だったら、どうすんだよ。訴えられっぞ。……まったく、ヘンタイなんだから」 瞳が揺らぎ、貴之を見ようとはしない。 強がりだというのが明らかだった。 それでも和佐は腕組みをして胡座を組んだままだ。 普通であれば目のやり場に困りそうな格好だが、さすがに貴之は狼狽えもしない。それどころか、 「目の保養だね」 そう言って笑ったのである。 その、含むものがあるような、背筋の痺れるような、イヤらしい笑いと視線とに、和佐は真っ赤になる。 貴之には確信があった。 連れてきた新井と黒田に、これが和佐だと言われるまでもない。 この少女の姿をした生きものは、和佐以外の誰でもない。 口にするつもりはないが、姿かたちがどれほど変わろうと、自分が和佐を間違えるはずがない。そんな自信がある。 もとより和佐であれば、男だろうと女だろうとかまわない。和佐に、自分のほうが囚われているのだ。 和佐に呪縛されるのは心地好い。ほかの誰も、自分をこんなに満たしてくれはしなかった。 おそらく祖母である氷見子刀自には見抜かれているだろうが、次代の幸徳井を背負って立つというプレッシャーが、確かにある。祖母が偉大であればあるだけ、自分の器の小ささを意識せずにはいられない。しかし和佐といるだけで、そんなことはどうでもいいことに思えるのだ。――自分は自分だと。 和佐が身近に、手の中にいるというたったそれだけのことで、相殺されるのだ。そろそろ貴之にも、自分自身の和佐に対する執着の正体が判りはじめていた。 嗜虐傾向が強い――サディストだ――という自覚は以前からあった。そんな自分を否定したり圧し殺したりしても仕方ないとまで考えている。愉しんでさえいる。しかし、それを向けられる和佐にしてみれば堪ったものではないだろうということも、貴之は理解していた。だから、手綱は弛め過ぎず締め過ぎず、ほど良いと思える程度で抑えているつもりだった。 けれども、他の誰にも見られないように囲ってしまいたい。そんな本音がある。 毎日でも抱いていたい。そんなことを口にでもしようものなら、和佐は意地になって逃げようとするだろう。 今はまだ男同士では不可能なことも、相手が女であれば可能になる。 クックック………と、堪えても堪えてもこみあげてくる含み笑いを貴之は洩らした。 その不穏な笑いにギクンッと、和佐は震え身構える。 本気で逃げようと片膝ついた和佐の腕を掴み、貴之が布団の上に押し倒す。 どうしてこうなったのかなど自分にとってはどうでもいいことなのだ。 欲しいと思い詰めている相手を合法的に手に入れることができる絶好の機会が、今たしかに目の前に転がっている。 くそっ! へんたいっ! いやだっ! やめろっ! 諦め悪くじたばたと足掻いている和佐の口からは、可愛らしい声とは裏腹のガラの悪い言葉が次から次へと飛び出してくる。 それを挫き、感に堪えないといった悦い声で鳴かせるのが、貴之の楽しみの一つだった。 その時の和佐は、全身にカッと朱を散らし信じられないくらいの熱をはらむ。そうして、貴之はそれを一層のこと煽りたてるのだ。 煽りたて追い落とす。それを幾度となく繰り返すことで、和佐の快感は高められ、貴之の心とからだの両方を満たす器に変貌を遂げる。 よせっ。 止めろって。 冗談じゃない。 こんな、本来の自分の性別とは異なるなどという、信じられない状況で貴之に抱かれてしまったら、もう二度と立ち直れないかもしれない。そんな不安と恐怖とが、和佐の強硬な拒絶を引き起こしていた。 なにしろ、本来ないはずの器官に貴之を受け入れることになるのだ。 そんなの恐ろしすぎる。 考えるだけでもぞっと身震いが起きる。元に戻った時に祟ってきそうで、恐ろしくてたまらない。 なのに、無情にも貴之は、うるさいとでも言うつもりなのか、口を塞いできたのである。もちろん、貴之の口で…だ。 疾うに馴染んでしまった感触とそれにともなう快感は、しかし、思いも寄らない箇所に火をともした。 ぞわっと背筋に冷たいものを感じると同時に、反射的に膝をきつく閉じた和佐だった。 嘘だっ! それは擦れたことばとなって空気を震わせた。 あ・ああっ…! いつの間にか貴之のくちびるは首筋に移動していた。 忙しない息に開かれたままのくちびるからこぼれる唾液。それが糸を引いて流れるかすかな感触にすら、身悶えせずにいられない疼きが生まれる。 退っ引きならないことが起きてしまう。そんな、精神の最奥から駆け抜けてくる本能的な恐怖に、和佐は戦慄いた。 イヤダ! イヤダ・イヤダ……。 …ヤメロ! タスケ………。 誰にともなく救いを求めて伸ばした腕は、むなしく虚空を掻くばかりだった。 貴之は女が初めてというわけでは、もちろん、ない。 性格はともかく、見てくれのよさといかにもな金持ちの御曹司といった雰囲気(ようするに金払いのよさとでもいうものだろうか?)などから、基本的にからだだけの関係には事欠くことはなかった。 次期当主とはいっても、お家大事の古風な教えを叩き込まれているとはいっても、貴之だとて現代の若者である。プライベートはそれなりに大切にしているのだ。 よもや同じく男の和佐に惹かれるだなんて、考えたことすらなかった。しかし、思い返してみれば、自分は幼かった和佐をなにくれとなく構いたてていた。あれは、いちいち自然な反応を見せる和佐が面白かったからだと思っていた。 まさかあの頃から惹かれていたとでもいうのだろうか。 和佐の大雑把さや言葉遣いの荒さなんかは、本来の、もしくはそれまでそうだと思い込んでいた、貴之の趣味ではないのだ。もっとも、自分が本当は何を求めているのかがわかった時点での貴之の頭の切り替えは、素早い。オクテだった和佐を丸め込むのは簡単だった。和佐の意外と押しに弱い性格とセックスに対する興味とを利用するだけで、ことは運んだ。 『男だろうが女だろうが、さして変わりがあるわけでもない』 そう言ってくちづけた。後は、和佐の快感だけを煽り育ててやれば、呆気なくしがみついてきた。ひとつになるという最終段階になって恐怖に暴れ始めた和佐を、しかし、貴之は今更解放するつもりなどありはしなかった。そうして、強引に、からだを進めたのだ。 幾度か無理遣りに繰り返すうちに和佐のからだは貴之の色に染まっていく。馴染んでもなお嫌がり、羞恥にかられずにはいられないのか、口汚く罵ってくる。そんな和佐の羞恥や強がりを一枚一枚剥がしてゆき、最後には孝之だけが与えることのできる快感を求めずにはいられなくなるまで追い詰めるのだ。 和佐に囚われて以来、彼以外を抱いたことはなかった。そのせいもあってか、妙に勝手が違うような気がするのだ。それは、新鮮な感動を呼び起こす。 そう、いくらしなやかで手に馴染んでいても、これまでの和佐は間違うすべもないくらいに男だった。同じ男ということで、自分が少々手荒に扱おうと壊れる心配はなかった。だからこそ、この頼りのないやわらかさ、まるで半分になってしまったかのような頼りない質感には、恐怖にも似たものを感じずにはいられなかったのだ。 今の自分に対する嫌悪のせいか、和佐のからだはいつもより感じやすいようだった。しかし、だからといって、許すつもりもなかった。 こんな、男を誘うような艶やかな姿で、久賀章のマンションで一週間を過ごしていたのだ。 もちろん、章が和佐に不埒な真似をするとは思わない。しかし、この姿のままで彼と生活をしていたのだと思えば、はらわたが煮え繰り返るような思いがするのだった。 あきらかに嫉妬だった。 薄々と感づいていた和佐への執着の正体が恋情であったのだと、もはや観念するよりない。だから、自分にこんな感情を抱かせた和佐に対して容赦をするつもりはさらさらなかった。 ダレデモイイカラ……タスケ・ロ…ヨォ…………。 救いを求めて虚空に伸ばされた手を和佐の頭上でひとまとめにし、瞳を覗き込む。涙で潤み、自分を抱いているのが誰なのかももはや認識してはいないだろう瞳は、憐れみよりも、貴之の心に芽生えた嫉妬にこそ油を注ぐものだった。 頬を軽く張る。 数度。 潤む瞳に自分を映させたかった。 タ・カ・ユキ……… 和佐の口が彼の名を紡ぐ。 彼を抱いているのが自分だと理解するまで充分に時間をおいて、 「いままでも、これからも、おまえを抱くのは、私だけだ」 囁く。 「ふざけるなっ!」 途端、弾かれたように藻掻きはじめた和佐をなおさらきつく拘束しなおす。貴之はやおら自由なほうの手を和佐の固く閉じ合わされたままの下半身に向かわせた。 「やめろっ。こんなことして、ただで済むと思うなよっ! ば、ばか。そ…そんなとこさわるなっ」 自らの膝と手で和佐の膝を割り、なだらかな稜線を描く茂みに手を這わせる。 途端、和佐は気が違ったように暴れ出す。しかし、貴之は情け容赦なく和佐を押さえ込むと、形を変えてしまった箇所を割り開いたのだ。 自分の指はおろか、ただの一度として他人の指を感じたことはないだろう。 「ちっくしょう…タカユキ………おぼえてろよっ」 和佐の罵声を心地好い音楽と聞きながら、貴之は着実に行為を進めてゆく。 それだけで、和佐の白い下半身がうねり、罵声が鳴き声へと転じる。 愛する者が自分の愛撫に身悶えすすり泣くさまは、劣情とともに感動をも貴之に覚えさせた。 せわしない息とすすり泣きは、絶え絶えに耳に届く。 貴之の舌と指の動きに、和佐の痙攣が連動する。 和佐のすすり泣きが、切羽詰った苦痛の色をはらむ。 ただなすすべもなく受け入れさせられるのだという、破瓜の恐怖だけが和佐の意識のすべてとなる。その刹那、指などとは比べものにはならない、貴之の猛ったファルスが情け容赦なく和佐の固い莟を散らしたのだ。 ※ ※ ※翌日、電話での約束通りに和佐の部屋へと駆けつけた智を迎えたものは、室内の惨状だった。 何が起きたのかと真っ青になった智の向かう先はただ一つ。紛うことなき幸徳井家である。 そこに、大好きな兄がいる。 囚われている。 直感だった。 幸徳井貴之の兄を見る目が嫌いだった。 何がどうとはっきり口にすることはできなかったけれど、兄に向ける貴之の視線に、何かを圧し殺しているような昏く不快な光を見たと 思う。 そうして貴之はまるで自分に見せつけるかのように兄を構うのだった。 ずっと不快だった。どうして不快なのか判らないままで。 兄が遠く東京の高校に通うことが決まり、幸徳井に下宿することになったと知って、どんなに反対しただろう。だから、その三年後に兄が父に背いて一人暮らしをすると言い張った時、安心するよりも先に貴之が兄を苛めたのだ――と、確信した。 それから四年。一度も兄の顔を見ていない。だから電話をかけるのに、捕まらない時がある。――兄は、いまだにファックスと留守電機能のついた電話しか持っていない。どんなに頼んでも携帯は嫌いだから持たないと主張してやまないのだ。――そんな時、たいてい、『用があってな』と言うだけだった。しかし、なおも問い詰めると、『幸徳井に行っていた』と、いかにもしぶしぶと答えるのだ。 自分は兄にずっと会えずにいるのに、意地悪な貴之は好きな時に兄を呼びつけることができるのだ。それがとても、イヤだった。 兄を独り占めする貴之が、憎い。 和佐の部屋の惨状を目のあたりにした智は、我慢の限界に達してしまったのだ。 お目付けについてきたばあやはもとより、幸徳井の使用人たちをことごとく振り切った。そうして智は、貴之の部屋の襖を遠慮会釈なく開け放つ。 瞬間智は、その場に硬直してしまった。 顔が真っ赤だった。 ひとつ寝床で眠る、おそらくは裸だろう、一組の男女。 男のほうは、目覚めている。それどころか、余裕綽々で智を見上げているではないか。あまつさえその口角に笑みをたたえて。 それが、勝利の笑みに見えた。 隣で眠っている女が兄なのだと、智は直感した。 ひとつ布団で大人の男女がすることが何かを知らないほど子供ではない。 最後に兄を見た日を思い出す。 昨日の電話でのことばが真実であったのだと認識する暇もあればこそ、智は叫んでいた。 「おにいちゃんっ。起きて。いつまでこんな男と一緒に寝ているのっ」 それでも起きる気配のない兄の肩にかけようとした手を、貴之に掴まれた。 「泉川の次男殿は礼儀をわきまえてはいないのかな? 和佐は疲れているのだから、そっとしておいてほしいものだ」 「お兄ちゃんになにをしたんだっ!」 礼儀もなにもあったものではない。そんな建前など捨て去った智は、怒鳴りつけざま貴之に掴みかかろうとする。 「お兄ちゃんを連れて帰る」 それを簡単にいなしながら、智に、 「もうじき祖母がここへ来る。帰るのはそれからでも遅くはあるまい」 そう言うと、襖一枚隔てただけの隣室に控えていた使用人に智を応接間に案内するように命じた。 それとほぼ同時刻、四国は香川県に居を据える泉川家に一本の電話がかかっていた。発信人は幸徳井氷見子である。 それを知るはずもない智は、拉致同然に通された応接間を、供された茶にも手を伸ばさず苛々と落ち着きなく歩き回っている。 身繕いを済ませた貴之だけがやけに機嫌よく、眠る和佐の枕元で茶などを啜っていた。 ※ ※ ※「ちょっとまってくれっ」 和佐の叫びに、女たちは手を止めた。 幸徳井の使用人である彼女たちは、うろたえている可憐な少女が和佐だと知っている。知っていながら平然と接しているのだから、幸徳井の使用人教育はさすがというべきなのだろう。しかし和佐にはそれがいたたまれないのだ。 女の姿のまま、貴之に抱かれてしまった自分。 信じられない痛みと熱とに貫かれ、それでもなお与えられる快感に身悶え続けた自分を、和佐はかすかに覚えている。そうして、目覚めてすぐ、しばらくの間とはいえ錯乱してしまったという事実。それらが、屈辱以外のなにものでもないのだった。 この女たちは、それを知っている。 何があったのかを。無様に錯乱して震えていた自分を、彼女たちは知っていて平然としているのだ。しかも、ひとりで風呂を使えない状況だった自分を助けて入浴させ身繕いまでしてくれたのである。 そうして、和佐が叫んだ直接の理由が、目の前にあった。 この家のどこにあったのかパステルカラーのパイル地のバスローブを和佐は着せられた。そのまま、わけのわからないままに貴之の部屋とは違う見覚えのない一室に案内された。 開け放たれた襖や障子。衣文掛けに掛けられて風を通されている振袖。振袖のすぐ前の畳の上に漆塗りの長方形の盆のようなものが数個並べられていた。その中には和佐には何に使うのか想像のできない、着物の着付けに必要な小物が分けられているのだ。 誰かのお下がりなのか、古色蒼然とした雰囲気を醸している色彩の美しさや仕立ての良さなどは、ここ数年着物などに縁のなかった和佐にもわかる。そんな、吉祥柄だという振袖のそばまで連れてゆかれて、和佐は嫌な予感に叫ばずにはいられなかった。 「まさか、と、思うんだが。まさか、これ…を、オレが着る……わけ?」 「はい。さようでございます。きっと和佐さまにはお似合いになると思いますわ。…ねぇ」 年嵩の女性のことばに、それまで黙っていた女たちが口々に『ええ』『ほんとうに』などとさんざめきはじめた。 (あずみでわかってたつもりだが、ほんとうに、女って、どうしてこう男に女物を着せるのが好きなんだろう………) そんなことに疑問を感じている和佐を無視して、彼女たちは一転楽しそうにバスローブを脱がせ始めた。 もう、いい。 (もう、勝手にしてくれっ!) 疲れきってしまい、和佐はされるがままに身をまかせた。 憮然とした表情で、髪が結われてゆくのを睨みつけていた。 鏡台の中の自分は青ざめている。 疲れきった苦々しい顔だ。 この顔を自分だと認めるのは、あまりにも苦痛だった。 どう見ても女にしか見えない。 悔しい。 悲しい。 不条理だ。 どこにもぶつけられない感情が、和佐を疲れさせているのだった。 しかもスツールに掛けているだけだというのに、滅茶苦茶苦しい。 へろへろなのだ。 昨日貴之に散々好き勝手されてから、泥のような眠りに落ちた。覚めた後はずっと、何時間もかけてめかしこまされているのである。 不安もある。これまでだって嫌な予感は外れたことがない。そのうえに、胸も腹も、あちらこちらと荷物のように紐でくくられ、とどめとばかりに幅広の帯でぎっちりと縛りつけられているのである。 こんな格好で平然とできる女って、強い。 成人式のニュースや正月のニュース。そんなものを見るともなく見ていると、きゃらきゃらといかにもめかしこんでますといった格好の少女たちが大勢写されている。あの楽しそうな表情の裏側で、こんなに締めつけられる苦痛を堪えているのかと思えば、尊敬できてしまう。 最後の仕上げにと、薄く施された化粧の上に色鮮やかな紅をひかれて、和佐は鏡の中の自分自身を直視できなかった。 「おきれいですわ」 口々にはやしたてる声は耳を素通りしてゆく。 しかし、次の一言に、立ち上がりかけた腰をもう一度スツールに下ろそうと力をこめた。 「みなさまがお待ちです」 と、年嵩の使用人――緒方――が言ったのだ。 みなさま? みなさまっていったい。これは貴之の悪ふざけじゃなかったのか? この上何人もの人間の晒し者にだなんて、なりたくない。 「いやだ。いきたくないっ」 「和佐さま。さあ、こちらですよ。まいりましょう」 「いやだっ!」 叫んだ時だった。 ふいに女たちの腕から解放された。握られていた腕は赤くなっている。 「なに駄々を捏ねている?」 貴之だった。 「おまえ、いったい、なにを、たくらんでる?」 貴之を睨みすえ、和佐は低く抑えた声でつぶやいた。 「たくらんでるだなどと人聞きの悪い。べつになにも」 「うそだっ。こんな格好までさせておいて、おまえが何もたくらんでないはずがないだろうがっ!」 煽られた和佐はカッとなって貴之の胸倉を掴んで叫んだ。 「お褒めにあずかり光栄と言ったところかな」 ククク……………と、喉の奥で人の悪そうな笑いを噛み殺す。 「褒めてないわいっ」 和佐のわめきを無視して、 「いいできだ。まるで、人形のようだよ」 そう言うと、スツールに座りなおした和佐の腋の下に手を入れ無理遣り立ち上がらせたのだ。 「さあ。あまり客人を待たせるものじゃない」 貴之の手を振り払って走り出そうとした和佐だったが、女物の着物の裾は腰巻やなんやと幾重にも巻きつけてある。大股で走り出そう とした和佐は、だから覿面、その場でバランスを崩した。 「あまり聞き分けがないと私にも考えがあるよ」 ぼそりと耳元で囁かれ、サーと音を立てて血の気が引いてゆく。 「さあ」 渋々と、和佐は貴之に続くよりなかったのである。 「これはこれは」 ほほ…と、上品そうな笑いは、幸徳井氷見子のものである。 予期せぬ人物の登場に何故と思う間もなく、和佐は絶句しているふたつの人影に気づいた。 「智?! それに、親父!!」 そういえば、今日出てくると智が言っていたと思い出す。しかし、まさか、よりにもよって、こんな格好を見せたくないと思うような相手ばかりが揃っているではないか。 (こいつ、ほんとうに、何をた企んでやがるんだ?) 胡乱なまなざしで貴之を見上げる。それは、片方の口角を引き上げて貴之が見返してくるのと、かち合った。 (こいつ、愉しんでやがる………) こうなれば、開き直るしかない。 (どうとでもしやがれっ) 二人掛けのソファしか空いてなく、しかたなくそこに腰を下ろすと、当然とばかりに貴之が隣を占める。 着物姿で足を広げるわけにもゆかず、背筋をピンと伸ばしたままの格好で座っている和佐の姿は、表面だけ見ればどこからどう見ても良家のお嬢さんといった風情である。もっとも、内心でぐつぐつと煮立っている感情を覗き見る者がいれば、大和撫子の幻想など木っ端微塵となるだろう。 胸や腹を締めつけられている苦痛のせいだけではなかった。 ふぅ〜と、気が遠くなりかけた。 「冗談じゃないっ!」 激昂した智の声に、和佐はどうにか意識を縫いとめることに成功した。 「なんだってお兄ちゃんが幸徳井の嫁にならなきゃならないんだ」 しかし、智のことばに、もう一度気が遠くなりかける。 「お兄ちゃんは泉川の跡取りなんだっ!」 「泉川には次男どのが残られる。なにも問題はないでしょう。一族間の結束を強めるためという理由ではいけませんかしら。それなら、かねてから保留の、貴之の花嫁問題がこれで問題なく解決することになると思いますよ。候補にあがっているどこのお嬢さんを幸徳井に嫁入りさせたとしても、実家のご両親がたが問題にならないということはないでしょう。それが泉川家の和佐さんが嫁に入るなら、どこからも文句は出ないでしょうし、そう言った問題に頭を悩ませることはなくなりますからね。さいわいなことに和佐さんは北の分家の筆頭でもある高梨のあずみさんとも仲が良いとか。彼女は高梨の跡取ということですし、そう決定すれば、これからは一族間での交渉事もスムースに運べるようになろうというものですわね」 コロコロと笑う。 「ひとつ、もんだいをわすれてる」 和佐は、幸徳井氷見子を見据えた。 「なんでしょうねぇ」 きらきらと輝いている瞳が和佐に向けられた。 (こいつ、愉しんでんな。本当、あんたは貴之のばーさんだよっ!) 「誰も彼も忘れてんじゃないかと思うんだが、オレは、男なんだよ?」 どうして、忘れてしまえるんだ。 途端、氷見子はさも可笑しいといわんばかりに大きく笑った。 カッと、顔に朱を散らせて和佐は、 「わらうなっ」 叫んでいた。 「今はこんな、こんなだけどな、いつかは、男に戻れるっ! ………はずだ」 わなわな震えながら、和佐は言わずにはおれなかったのだ。 しかしそれは、無残にも打ち砕かれた。 思いもよらぬ人物からである。 「無理だ」 黙したままでいた泉川家当主のそのひとことは、刹那にして、和佐の希望を無惨な瓦礫へと化さしめた。 「和佐。おまえはこれから先、男に変化することは、ない」 「うそ。うそだっ!」 父がそんなやくたいもない嘘をつく人物ではないことは、わかっていた。それでも、そんな馬鹿げたことがあるわけがない。そう思いたかったのだ。 (このまま、一生、生まれもつかぬ女のままで、過ごさなければならないというのか? なぜ?) (オレが何をしたって言うんだ? 氷見子のことばの通りに、貴之の嫁になって、貴之のこどもを生むのか? 貴之のこどもを育てて、そのまま歳をとって、そうして、死ぬのか? この、オレが? 男として二十二年間を過ごしてきたというのに。女として残りの一生を? だれでもいいから、冗談だと言ってくれ) 無言の叫びが伝わったのか、 「それが、和佐。おまえの母親の一族の特質なのだ」 それは、氷見子以外の誰もが初めて聞く話だった。 ※ ※ ※今から二十年以上前の話である。 四国の山間部。平家落人伝説の散らばる地域よりもさらに奥深くに、和佐の母親の一族は人目を避けるように暮らしていた。いつの頃から存在しつづけているのか、戸籍もない古い一族である。一族は衰退期にさしかかっていたらしく、和佐の父が彼らと出会った頃には人口は十人をきっていた。 厳しい暮らしから、彼らのからだは鍛えられた筋肉で被われ、なよやかさからはほど遠いものだった。少なくとも、彼にはそのように見えた。 車一台がようやく通れるだろうか。そんな崖の上の細い道。 久しぶりの休暇だった。彼は、趣味の山歩きを存分に楽しんでいた。 山の天気は変わりやすい。 山間部に霧が立ち込め、彼は不覚にも足を滑らせた。崖から転げ落ちてしまったのだ。そうして、後に彼の妻となる人物に救われたのである。 ちょうど、彼の迷い込んだ時季は十月の中ごろだった。昇る月を見上げては、ひどく捻った足が早く治ることばかりを考えていた。 そんな彼の面倒を見てくれたのは、年の頃なら二十歳くらいの若者だった。 素直で聡明な若者は、同時に淋しがりやでもあった。 九人しかいない一族の中で、最年少の彼は何かと独りになることが多くいらしい。あぶれた時などは、彼の所を訪ねて来ては何をするでもなく膝を抱えてそこにいるのだった。そうして、少しずつふたりは打ち解けていった。 その夜もあぶれて訪ねて来た若者は、芋から彼が作ったという酒とイノシシかシカかクマの乾し肉を携えて来た。 月がきれいだから飲もうと言うのだ。 その頃にはだいぶ足も治っていた。そんなこともあって、治るまでは飲まないと自分に課していた禁を解いて、乾し肉を肴にしたたかに飲んだ。そうして、目が覚めた時、そこにいるはずの若者の姿は、なかった。代わって、一回りは小さいように見える信じられないくらいの美女がいたのである。 「それが、和佐、おまえの母親だ。両性具有の一族とでも言えばいいのだろうか。生涯に一度きり。愛する相手に見合って性別が代わるのだと告白されたよ。それではじめて性別が決定するのだと。戸籍を得るために刀自の力をお借りしたから、これを知るのは、他には刀自だけだ。…おまえが生まれた時すでに男性体だったから、泉川のほうの血が強く出たのだろうと思ったものだったが。まぁ、まさかおまえが変化するとは思わなかったというのが、正直な気持ちだ。それに………」 (それに、急激なからだの変化と出産とは、過度な負荷とならざるを得ないからな) 和佐の母は、彼を産んですぐに寝つくようになった。それを考えると、口にすることはできなかったのだ。 おとなしく、信じられないような父親の告白に耳を傾けていた和佐だった。しかし、………………。 「じゃあ、なにか? 親父。オレは、よりにもよって、男、男を好きになったからこんなになったって、そういうのか?」 「そういうことだ。心よりからだのほうが先に愛に気づくということもないとは言えまい」 父親に似合わぬロマンティック(?)な台詞だった。が、それはとりもなおさず貴之との間にあったことを、父親までもが知っているということに他ならなかった。 (氷見子刀自が自分と貴之とのことを黙認していたのは、なら、これを知っていたから………なのか?) 息が苦しい。 (嘘だ) 喉が詰まる。 (信じない) 肩が、痛い。 (オレが貴之を愛しているだなんて、信じない) 全身の関節が、重みを感じ、千切れそうだ。 (そんなことがあるわけ……ない) 視界が狭まる。 ちろちろと視界が揺れ、深い青色の紗がかかる。 (あんな根性悪) 頭がもげそうだ。 (あんな、あんな、ヘンタイ!) 脂汗が寒気を誘う。 (いつもいつも姑息な手を使って、決して自分からは来ようとしない………ヤツ) 吐きそう・だ。 息が。 喉を掻き毟る。 周囲が騒がしくなったような気配があった。しかし、それは、膜を数枚重ねて隔てた向こうの出来事でしかなかった。そうして、和佐は、ようやく現実から一時避難することができたのである。 ※ ※ ※(なんでこんなに、こいつらの精神は柔軟なんだっ!) 超弩急の爆弾発言を泉川の当主がかましてくれたその翌日。 和佐はようやく幸徳井家から抜け出した。しかし行くところがない。なんせ、親父が、アパートを勝手に解約してくれたのだ。だから、章の所に来た和佐だった。 愚痴りたい。 だいたい、智や親父それに貴之相手に管を巻いたところで気分が晴れるわけがない。 和佐は脱力している。 「一粒で二度おいしい人生やな。せいぜい楽しみぃ」 章、おまえは、親友だろうがっ! 「そうよね。でもよかったじゃない。幸徳井の嫁になるのが本決まりなら、戸籍やなんやかんやの書き換えも問題ないわよ」 あずみ、そういった問題じゃないんだよ。 たしかに他人事だろうが、二人のこのさばさばした言いように、和佐は頭を抱えずにはいられない。 「楽しめるんならこんなこと愚痴らないって。考えても見ろよ。このオレが、幸徳井の嫁だぞ。よめっ! 氷見子刀自まで出て来てからに」 「氷見子刀自が?」 「そう」 「あきらめるしかないわね。氷見子刀自が出て来たんなら、あんたの将来は決まったようなものよ。よっぽど気に入られてるんじゃない? 忙しい刀自がわざわざ御輿を上げるんじゃぁねぇ」 「そやな。氷見子刀自に気に入られてしもうとんなら、刀自はあの手この手つこぉて、おまえを幸徳井の嫁にしよて画策しよるわな」 「おまえら、ひとごとやと思て」 「しゃーないやろぉ。俺らが逃がしたっても、相手は幸徳井やん。どーせすぐ見つけ出されるわ」 「それに和佐が幸徳井の嫁になれば、貴之の花嫁問題も解決するじゃない」 「そや。貴之は性格に難があるゆうたかて、結局は玉の輿やん。見てくれは標準以上やし、花嫁候補がひきもきらん。そやゆうたかて下手な相手選んでもうたら、蟻の一穴になりかねへんもんな。だったら、おまえが生んだ子が後継ぎになるほうがいらん摩擦ものうなるわな」 「やめろ」 ぞわぞわと背筋が逆毛立つ。 「おまえらに相談しよう思ったオレが馬鹿だったわ」 正直な感想である。 和佐が喉の渇きに章が淹れたコーヒーを呷ったその時だった。 インターフォンが鳴った。 和佐がギクッと固まる。 「どちらさん?」 インターカムに向かって訊ねる章に、 「幸徳井のものです。そちらに和佐さまがお邪魔しておりませんか」 首を振る和佐を横目で確かめて、 「来とらへん」 ガチャンと切る。 しかし、ほっと息をつく暇もなく、またインターフォンが鳴る。 出ようとする章を制して、あずみがインターフォンに向かって怒鳴った。 「来てないわよっ」 あずみのことばに、喉の奥で笑いを殺す独特の声が流れる。 ゲッ。 自分から出向いてきたのかっ。 貴之が?! 和佐は思わずどこかに逃げられる場所がないかと探す。もちろんマンションの部屋に、非常梯子以外の脱出口はない。 『あずみか。あいかわらず嘘が下手だな』 「お久しぶり」 『和佐をかえしたまえ』 「こどもを誘拐したわけじゃないのよ。帰りたいなら自分から帰るって。和佐から話は聞いたけど、好きな女に好かれようって思ったら、無理強いは逆効果よっ」 『クックック…あずみのことばとは思えないな』 「いつまでもこどものころのことを引き合いに出さないでよっ! ほんとに性格悪いんだから」 いったいむかしふたりの間に何があったのかと思ってしまう。そんなやりとりに、章と和佐は思わず顔を見合わせた。 『そんな人間に惚れたのは、こどものころのこととはいえ、不覚だな。………和佐。逃げるだけ無駄だろう? 自分から出てきたほうがましだと思うが』 剣呑なことばに、いやらしい恫喝が含まれている。 それが和佐の傷口を抉った。 「クソッ! わーったよ。帰ればいいんだな。帰ればっ」 親友たちに愚痴を聞いてもらった礼を言って、和佐は渋々と部屋を出た。 ドアの外にはボディーガードを二人従えた貴之が、端然と立っていた。 「待たせたな」 クスクスと、貴之は笑う。 「おまえが幸徳井の嫁にくれば、退屈はしないな」 他人事のように言う貴之に、 「フンッ! 誰がおまえなんかの嫁になるか」 と、顎を突き出してがなる。 頬が紅潮し、瞳がきらきらと輝く。 そんな和佐の表情を愛らしいと思いながら見下ろし、 「な、なんか文句あるんか」 怖じる和佐の華奢な頤をついと片手で持ち上げ、 「決まったよ。最後まで泉川の次男どのは反対したけどね。君自身も最後まで反対するだろうことは判っているみたいだったが。結局、個人的な意見などは無視されるという、わかりきった結果だったよ」 「?」 「泉川和佐は幸徳井の嫁に入る。これは、氷見子刀自の決定だ。誰にも逆らうことは許されてはいない。それがたとえ当事者の君であろうとも」 「うそだっ」 叫んだくちびるは、貴之のくちびるに塞がれた。 ふっと遠退きかける意識の中、逃れられない幸徳井の鎖が自分に絡みつききつく戒めてくる。和佐はまざまざと感じていた。 和佐の受難な日々は、これからも一生つづくようである。 つづく
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