泣く子 1



〜その一〜


気が鬱いでいた。
 気だるいからだを起こし、寒河江萌生(さがえもえぎ)はぶるりと震えた。
 開いた障子窓の向こう、雪のように冴えた山茶花の白い花びらがほろほろと散っていた。ぼんやりと眺める視線の先で、空が薄暗さを増してゆく。
 雨が降りはじめた。
 だから、萌生は外出する気になったのだ。
 息が白く空に昇ってゆく。
 傘に結んでいる鈴が、ゆっくりと歩くのにつれてチリリリ…チリリ……と、鳴る。
 ひとと会うのは、好きじゃない。
 自意識過剰だと言われればそれまでだけれど。雨の日の、出歩くひとのわりと少ないだろう中途半端な時間を見計らってしまうのは、そのため
 だった。
 なにも、自分で出向く必要など、ない。
 ひとこと『欲しい』と言えば、交野(かたの)が買ってきてくれる。
 色々なハーブが天井の梁からぶら下がって、ポプリポットがあちこちに置いてある。イギリスの田舎風の喫茶店。
 交野がいつものダークブルーの背広姿でその店内にいるさまを想像して、萌生は笑っていた。
『魔女のアトリエ』という名の紅茶専門店は、コンセプトそのものを大切にしているのだろう。少しばかり不便なところにある。町外れの椿の林の奥に、
 ひっそりと店を開いているのだ。
 軽自動車でも通るのは無理だろう石畳の径(こみち)を通り抜けて、ドアにたどりつく。たたんだ傘をよく振って束ね、そうしてラックに立て掛ける。
 イラッシャイ・イラッシャイマセエ………。
 大きくて色鮮やかなオウムがベルの代わりにけたたましく叫んで出迎える。
「こんにちわ。ベリル」
『ベリルのおやつ。お一人さま一個を厳守してください。オーナー』と書いた張り紙つきのポット。中には、乾いたトウモロコシの粒や色々な木ノ実が入っ
 ている。殻つきの落花生を選んだ萌生はベリルに与えた。
 ベリルという名のオウムが、器用に足の指とくちばしとを使って殻を剥くのを見ていると、店の奥からオーナーが出てきた。
「いらっしゃい。今日は来ると思っていましたよ。ご注文はいつものですか?」
 オーナーのことばに小さく答えて、萌生は三段下がった喫茶室に下りてゆく。この時萌生はいつも、緊張してしまうのだ。しかし、今のところ客は萌生
 一人だった。いつもの窓ぎわのコーナー席も空いている。一人掛けの小さなテーブルセットについて萌生はぼんやりと外を眺めた。
 自然のままに枝垂れている幾本ものオールドローズが、雨にうたれて色を増している。その見馴れた景色を横切る小さな影があった。それも一つでは
 なく、三つ。
 目を凝らせば、それは、真っ黒い仔猫だった。
「おまたせしました」のことばとともに、肉桂(シナモン)の刺激の強い、なのに甘いかおりが鼻孔いっぱいに満ちる。ほのかに香るのは、蜂蜜だろうか。
 生クリームの添えてあるスコーンがふたつ載っている皿とともに、白磁のカップが静かにテーブルに置かれた。ポットからカップにフレーバード・ティーが注
 がれてゆく。
 琥珀色の液体がカップに溜まってゆくのを見つめていた萌生は、思い切ってオーナーに話しかけた。
 この店を見つけたのは中学二年も終わろうという二月だった。あれから雨の日だけを選んで通うようになって三年になる。しかし、萌生から声をかけるのは、
 初めてのことだった。
「仔猫が…」
 みなまで言う必要はなかった。
「あのこたち。また抜け出したのね。捨て猫じゃないから、心配しないで」
 にっこりとほほえむオーナーに、よかった――と、萌生は思う。捨てられた生きものは苦手だった。それだけで一日が辛くなってしまう。何もできないから。
 偽善ぶってと言われても、反論はしない。けれど、感情は嘘じゃない。捨てられているのが一匹だけなら、連れて帰ることを考えもする。けれど、二匹三匹
 となると、選べない。一匹だけ残ってしまったらと考えてしまうのだ。一匹だけになって淋しいと鳴く、鳴きながらひとを恐れて逃げて行く。捨てられた犬や
 猫に、捨てたわけじゃないのに、罪悪感を覚えてしまうのだ。
「ごゆっくり」
 そう言ってカウンターに引き返してゆくオーナーの黒いドレスの裾から、まるで影絵が切り取られたように現われたのは、漆黒の猫だった。優美な足どり
 で近づいてくる、筋肉の塊にビロードを被せたかのようにしなやかな生きもの。
 それは、余分な動作などとらず、膝に飛び乗ってきた。
 ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってくる毛の塊を、そっと撫でる。猫といわれてイメージするままのきつい目を細めて、甘えてくる。そのぬくもりに、鬱いだ
 気分がわずかに癒されるような気がする。
「おまえ、目の色から名前をもらったのね」
 首輪にぶら下がっているネームタグに、アンバーと名前が彫られている。
 それを読んで、言わずもがなのことを口にしていた。
『魔女のアトリエ』に猫がいるなんて知らなかった。ずっと以前に猫(こはく)が死んでしまってから、生きものは飼っていない。
(こはくはどうして死んでしまったのだったっけ?)
 ツクンと、頭が痛んだ。
 まるで、思い出してはいけないと告げるかのように。だから、萌生は考えるのをやめた。頭痛が尾を引くのが厭だったのだ。
 アンバーを膝に乗せたままで、萌生は冷めてしまった紅茶を飲み干した。
 オーナーは泣くかも知れないが、猫舌の萌生にはひんやりと冷めたもののほうが、おいしいと思えるのだ。
 ポットに残った液体を最後の一滴までカップに注ぎ、そうして萌生はスコーンをかじった。
 これがそもそもの目的だったフレーバード・ティーを百グラム買って萌生が踵を返しかけた時である。
「まって」
 オーナーの声に、無意識に小首をかしげた萌生にほほえみかけた彼女は、
「もしよければ、仔猫を貰ってはもらえないかしら? 躾はできているし、人懐っこい子たちよ。あ、マンションとかで飼えないというのなら、無理にとは言わない
 けれど」
「でも、飼うつもりで」
「ええ。みんな飼う気構えはできているの。でも、ね。1人の愛情を匹で分け合うのも乙なものだとは思うけど、一対一の愛情を味わうのって、最高に幸せでしょ
 う。あなたは、生きものの好きなかただろうなって、ずっと思っていたの。アンバーもあなたならって思っているみたいだし。どうかしら?」
 魔女といっても、ディズニーアニメの良い魔女のようにふっくらと和やかな顔が、萌生の返事を待っている。そのきらきらと期待に満ちた瞳に逆らうことは、
 できなかった。結局、萌生は一匹を譲ってもらい、店を出たのだ。
 家に帰りつくころには、雨はあがっていた。
 おまけ――と言われた籐の小さなバスケットの中に、もっと小さな、掌に載るくらいの黒猫の重みがあった。
 自分がほほえんでいることに、萌生は気づいてはいなかった。
「おかえりなさいませ」
 三和土(たたき)で靴を脱いでいると、丁度鉢合わせることになった使用人が萌生を出迎えた。
「ただいま。交野は?」
「まだお戻りになられてはおりません」
「そう。交野が帰ったら用があるって」
 伝えて――まで、言い切ることはできなかった。
「ねえさんっ。いつの間に。どこに行ってたんだ」
 二つ年下の異母弟の大きな声に萌生は全身を震わせた。
 大股で近づいてくる冬騎の動作は荒く、怒っているのが誰の目にも明らかだった。猫入りのバスケットを、萌生は無意識に背中に庇っていた。それを目
 敏く見咎めたものの、冬騎は追求しなった。冬騎が追求したいことは、別にあったのだ。
 交野にあるという用事のことである。
「ねえさん。風邪をひくよ。丈夫じゃないくせに、なんだって雨の日にばっかり出歩くんだろうねっ」
 冬騎は、ふたりの後見人である交野が、大っ嫌いだった。
 なぜって………。
 認めたくないことだが、二つ年長の、母親の違うこの姉は、十八も年上の寒河江の顧問弁護士でもある、あのまぬけな、交野允鷹(のぶたか)のことが、
 好きなのだ。
 父も母も死んで、ようやくこっちで暮らすようになった萌生を、冬騎は誰にも奪われたくなかった。
 インモラルだという自覚は充分過ぎるほどにある。それでも、離れて育った萌生を姉だなどと、どうして思うことができるだろう。それに、思いたくもなかったの
 だ。
「ふぅん。猫をまた飼うの。そう。…わかった。猫用品だったら、なにもわざわざ交野に頼まなくったって、誰かその辺の暇そうなのに行かせればいいじゃな
 い。そのほうが、早くに揃うさ。………おまえ、行ってきてよ。田崎に猫を渡してしばらく面倒を見てもらって。それと、一時間くらい後からでいいから、田崎に
 ミルクを運ばせて。姉さんの分だよ。わかったね」
 いつまでも立ち尽くしていた使用人に用を言いつけて、追い払う。
 “姉さん“と呼びかけるたびに、萌生の白い頬が面白いくらいに青白く強ばってゆくのがわかった。萌生が自分を恐れているのがまざまざと感じられる。冬
 騎は、肩頬を歪めた。
 その剣呑な笑いに、萌生は救いを求めて足を止める。それこそが、冬騎の神経を逆撫ですることだったと、してしまった後になって思い出す。それでも、求め
 ずにはいられなかったのだ。
 襖を後ろ手に閉めた冬騎が、待ちきれないとでも言うようにせわしなくくちづけてくる。口腔中をはいずるぬめった感触は、間違いなく萌生を篭絡させるもの
 であった。逃さないと力づくで思い知らせようとする、強くきつい冬騎の拘束などどうでもよくなってしまう。全身が心臓になったかの、剥き出しの鼓動。何も考え
 られなくなる。
 罪も穢れも、なにもかもが、冬騎の深いくちづけに呑み込まれてゆく。そのころには冬騎のくちびるは、萌生の耳の付け根に移っている。ジンとからだの芯が
 痺れる感覚に、息が乱れた。
 胸を鷲掴みにされて、びくんと萌生が震える。ギュッと力まかせに胸を捏ねられた。
「痛い」
 正気を取り戻せば後は嫌悪ばかりが押し寄せてくる。
 罪なのだ。
 罪を犯しているのだと、まざまざと思い知らされる。
「やっ・だ………ふ…ゆきっ……ヤッ!」
 ヤァ………………ッ!
「そんなに声を出して、交野に気づかれてもいいの?」
 揶揄する声。
 意味を捉えて、首を振る。こんなこと、誰にも知られたくなかった。交野には、特に。
 涙がとめどなくあふれる。拒絶の涙だった。
 けれど、からだが、心を、裏切る。
 肌の上をじかに這う冬騎の掌の感触が、萌生を煽る。
 からだの中心が熱くなり、芽生えた欲望を告げる。
 冬騎の拘束が解かれていることになど、萌生は気づかない。
 手で顔を覆い隠しても無駄であることすら、もうわからなくなっていた。
 いつの間にか服はすべて脱がされている。どんなにあられのない格好を冬騎に晒しているのか、追い立てられてゆく萌生にはわからない。
 ほんのりとうすももいろに色づいた肢体が、おののく。
 拒絶とも極まったともつかない細い声が、冬騎を逸らせる。
 交野の面影を追い出すように、冬騎は己を挿し進めたのだ。
 その一瞬、高くかぼそい悲鳴が萌生の喉からせりだし、こぼれ落ちた。

冬騎が出てゆき、独り部屋にとり残された萌生は、怠いからだをおして身繕いをした。こみあげてくる吐き気に、洗面所に駆け込んだのはその後である。
 嘔吐はいつまでもやまず、萌生を苛む。
 何故こんなことになったのだろう。
 冬騎とは、母親が違うとはいえ、同じ父の血が流れている。なのに、冬騎には、恐ろしい罪を犯しているという意識が欠けている。
『姉さんはぼくのものだ。誰にもやらない』
 それは、冬騎の口癖だった。
 こんなことが、許されるはずもないのに。
 逃げ出したかった。
 冬騎の、執着が怖くてならなくて。
 けれども、『逃げたりすれば、交野に言う』と、冬騎は言うのだ。

『ぼくはべつに、知られたってかまわない。交野に軽蔑されたって、蚊に刺されたほどにも感じないさ。けど、姉さんは、厭だよね。交野に、ぼくに抱かれてるだなんて、知られて軽蔑なんて、されたくないよね。なら、逃げちゃ駄目だよ。逃げようだなんてしたら、許さない。そんなことしたら、交野に見せつけてやる。姉さんは、実の弟とこんなことをしてますって』


〜そのニ〜


その夜遅くに戻った交野は、田崎から萌生が熱を出して伏せっていると聞かされた。
 手渡された猫を片手で胸元に支え、ペットショップの包みを空いたほうの手で下げる。
 交野は萌生に襖の外から声をかけた。かすかな、辛そうな声がしばらくして返ってきた。部屋に入った交野を迎えたのは、青ざめた萌生の、無理をしていると一目でわか
 る笑顔だった。
「萌生さま。猫を田崎から預かりましたよ」
 枕元に正座し、用品を脇に置き猫を萌生の目の前に差し出す。
「お飼いになられるのですか?」
 小さくうなづくさまが稚い幼女めいていて、十二年前に萌生と始めてあった時のことを交野は思い出していた。
 萌生は四年前まで、寒河江の別荘に静養という名目で暮らしていた。
 そんな萌生を気にかけたのは、父親の秘書ただ一人だった。交野はその秘書と親交
 のあった寒河江家の顧問弁護士の長男だった。大学三年の春休み、交野は父親から割のいいバイトがあると言われて引き受けたのだ。
 世話係の田崎に手を引かれて応接室に現われたのは、時代錯誤な振袖姿の少女だった。
 裾に向かって薄くなってゆく黒いグラデーションの振袖は、大きな三毛猫をあちこちに刺繍しているせいもあって、地味ではない。フリルのついた白い胸当てつきのエプロン
 を振袖の上にかけているのが、ますます明治や大正時代の人形めいていた。
 四才だという少女は、市松人形のように愛らしかった。しかし、同時に、人形よりも表情に乏しかった。
 その年、萌生の母親は自殺を遂げたのだ。萌生は、その道連れにされかけたのだと、説明されていた。
 寒河江家は、昔の大名の末裔だった。『寒河江に暗君なし』というほどのやり手の当主が続き、いまだに繁栄を続けている。萌生の母親は、その一人娘だった。ただ、萌生に受け継がれたように、その体質は虚弱であったのだ。
 父母の選んだ相手と結婚したのには、そういった理由があった。しかし、その男は、もともと打算で婿入りしたのにすぎず、舅と姑との死を契機に、伏せった妻と娘とを別荘に追いやったのだ。そうして、外に囲っていた結婚前からの恋人とその間に生まれた冬騎とを、寒河江家に迎え入れたのである。――――それは、萌生の母親には辛すぎる現実であったのだろう。一度行き先を告げずに外出してから、彼女のもともと少なかった口数はますます減り、体調も一進一退を繰り返すようになった。そうして、年明け早々の小春日和に、萌生の首を絞め、己の首を剃刀で掻き切ってのけたのだ。
 奇跡的に息を吹き返した萌生は、しかし、泣き叫ぶばかりで正気を疑われた。落ち着くまで入院生活を強いられることになった萌生は、つい先ごろ退院したばかりなのだと言う。
 少女の相手をしながらようすを見て逐一報告すると言うのが、バイトの内容だった。そんな、探偵のようなことはしたくないと言う息子に、『なにも一生の面倒を見ろと言っているわけではない。後期試験も終わったのだろう。司法試験に受かっておいて、後期試験が追試などということは、あるまいな。ならすることもないだろう。二月三月に暇なのは、我が家ではおまえくらいなものだ。遊ぶくらいならバイトをしろ。一月二十万を支払うと言っている。食事も、田崎さんはプロはだしだ。これ以上割のいいバイトは探しても見つからないぞ。やってこい』
 父の命令だった。

市松人形のような少女。
 しゃがみこんで目線を合わせた交野は、その悲痛なまでに虚ろなまなざしに、憐れを覚えずにはいられなかった。
 同情である。
 姉の息子が確か、萌生というこの少女と同じ年のはずである。毎日が悪戯のしほうだいでおとなしい時間のほうが圧倒的に少ない甥っ子と、つい比べていた。――男女差や個人差はあっても、四才児といえばあんなものだろう。暴論だとは思うが、犬や猫に毛が生えていないていどのものだ。なのに、この、虚ろなまなざしは、いったい。
「はじめまして。萌生さま。交野允鷹といいます」
 声は萌生に届いてはいないだろう。
 田崎にすすめられるままコーヒーに口をつける交野の目の前で、萌生は田崎が支えるコップからココアらしき液体を啜っている。
 何も感じてはいないと思っていた萌生が決してそうではないのだと知ったのは、それから五日後のことだった。
 姿の見えなくなった萌生を探して庭に出た交野は、すすり泣くようなかすかな声を耳にした。錯覚かと思った。しかし、耳を済ませた交野は、それが錯覚ではないのだと知った。
 膝丈の潅木の茂みに踏み込みしばらく進んだ。
 みごとに葉の散り落ちた後のもみじの巨木。その下で、萌生は震えていた。首を振り、涙を流して、萌生は独りっきりで泣きじゃくっているのだ。
 いつもこうして、独りで泣いていたのだろうか?
 そう思った交野は声をかけようと近づいた。そうして、その光景が、決してそれだけのものではないのだと見咎めることになったのだ。
 人形やぬいぐるみなどを持つのが似合いの小さな白い手が無造作にもてあそんでいるもの。
 交野の足の裏からぞわりと危機感が這いずり上がる。
 なぜなら、萌生は剃刀を握りしめているのだ。
 危うげな雰囲気に気を呑まれかけていた交野が我を取り戻した時、萌生は剃刀を喉首に当てたのだ。
「もえぎさまっ」
 一呼吸遅ければ、萌生は自分で自分の首を切り裂いていたことだろう。
 見ずに済んだ無惨な光景が、交野の脳裏を瞬時にして過ぎり消えた。
 交野の取り上げた剃刀は、やけに黒く錆びついていた。
 これは――血、だろうか?
 まさか。
 交野は己の考えを打ち消した。しかし、打ち消しても打ち消しても、それ以外にないような気がしてならなかった。
「か え し て」
 のろのろとした声とは反対に、蛇のように素早く伸びてきた華奢な腕を、交野は思わず捕まえていた。
 いやいやと藻掻く萌生を押さえつける。
「おかあさまのとこへ………ゆく…の。はなして。もえぎは、おかあさまのところへゆかないと……だめなの………………」
 なんてことを――と、思った。
「言っていることが、わかっていますか」
「…のっ。もえぎなんて、しんじゃえばいいの。そうしないといけないのっ! おかあさまももえぎのこと、ころそうって……したんだもの………っ。それ、かえしてっ! かえして、ちょうだいっ」
 涙をいっぱいたたえて、悲愴な表情のまま求めてくる萌生のことばは、真実であるだけにきついものだった。
 それでも、たった四つで母親から与えられた心の傷のために、死を選ぶだなどと。
 どうして、こんなに傷ついている稚い少女を放っておくことができるだろう。
 それにもまして、萌生が許せなかった。
 しかし、なによりも、その母親が。母親をそこまで追い詰めただろう、萌生の父親が。愛人が。
 自分が激昂したからといってどうなるものでもない。それを痛いほどに感じながら、交野は目を閉じ気息を整えた。そうして、軽く――本当に軽く、萌生の頬を張ったのである。
 カクン…と、萌生のからだが傾ぐ。
 転ばないようにと、交野はとっさのことで抱き上げていた。
 一月目が終わるころには、つたないながらも笑顔を見せるようになった。そうして、本当に少しずつだったけれど、萌生はこどもらしさを取り戻していったのだ。
 二月目が終わりに近づいて、少女は頑是無いわがままを言えるようになった。
『交野さまにはよく懐かれて。大変でしょう』と、田崎が言うほどに。
 あどけなく慕ってくる萌生に、そのころには交野自身が情を移していた。
 三月いっぱいで、このバイトは終わりである。終わった後の萌生のことが、交野には心配だった。
「かたの。かえっちゃうの?」
 涙をいっぱいたたえた萌生が、愛らしくもいじらしい。
 自分は萌生にとって、突然奪われた肉親のぬくもりの身代わりなのだ。しかし、なければ、代用を無意識に求める。それは、本能だ。
「また来ます。それまで、萌生さまは田崎さんを困らせずに、おりこうにできますか?」
「いつくるの?」
「五月に」
「なら、がまんする。やくそく」
 突き出す小指に自分の小指をからめて、指を切る。
「じゃあ、それまで、萌生さまはこの子を預かっていてくださいますか?」
 それまでソファの裏側に隠していたバスケットを取り出す。
 訝しげな表情で、それでも興奮を隠しきれずにバスケットの蓋を持ち上げた。
「きゃあ」
 歓声だった。
 萌生は、花が開いたように笑う。
「ねこっ」
「はい」
「かわいい。このこ、もえぎにくれるの?」
「いいえ。お預けするだけです。次に、五月に僕が来るまで、萌生さまが大切に可愛がってくだされば、差し上げます。いかがです?」
「うん。やくそく。かわいがる。そうして、かたのから、このこを、もらうのっ」
 白磁の頬に血がのぼる。
「はい」
 期待通りの反応に、交野は満たされてゆく。心配だった別れの後も、萌生の毎日がこれで楽しいものに変われば、それでいい。
「なまえは?」
「なにがいいでしょう」
「もえぎがきめても、いいの?」
「はい」
「くろいから、クロ。にぃにぃってなくから、ニィニ。それとも…めのいろが、きれい。このいろ、なにいろっていうの?」
「琥珀と、言ったところでしょうか」
「こはくいろ。こはく。………こはくにする」
「こはく。いい名前ですね」
「うん。いいなまえ。こはく。なかよくしようね」
 頬ずりする萌生は、嬉しくてたまらないといったようすである。屈託のない、稚いまでに頑是無い幼女のさまを見せている。しかし、これは日中のことで、まだ夜には魘されていることを交野は知っていた。だから、後ろ髪を引かれる気分で、交野は寒河江家の別荘をあとにしたのである。

「交野」
 今現在の萌生の声が交野を呼ぶ。
「はい」 一呼吸置いて、交野は答えた。
「この子の名前、こはくにしようか」
 奇しくも同じ黒い仔猫に、萌生もまた自分の回想と同時期あたりを漂っていたのだろうかと、思った。
「以前飼っていたものと同じ名前と言うのは、避けられたほうがよろしいのではないでしょうか」
「そう…ね。でも、こはくって、どうして死んでしまったのだったっけ」
 ぽつんと萌生のつぶやいたことばに、交野はしばし瞠目せずにはいられなかった。
 萌生さまは、覚えてはおられないのだ――と。
 しかし、それは、けっして理解できないことではなかった。
「思い出そうとすると、頭が痛くなって」
「なら、無理に思い出されないでもかまわないと、思いますよ」
「そう・たぶん、交野の言う通りよね」
 買い被られては困る。そう思ったが、交野はあえて口にはしなかった。
「じゃあ、こはくというのはよしにして………こんなにきれいな黒い毛皮。瞳の色は、琥珀色じゃな
 いのね。なんてきれいなエメラルドの色。エメにしましょう。おまえの名前は、エメよ。エメラルドの、エメ。こんど、ネームタグを作りましょうね」
 そう言って萌生は名前の決まった黒猫を、枕元にそっと下ろした。横様に体勢を変えた刹那、一番上のボタンを外してあるパジャマの喉元の白さが、交野の目を射た。同時に、布に隠された奥、鎖骨のきわにほっこりとほころび始めた紅梅にも似た刻印を目敏く見つけた。
 目を疑った。
 それが何であるか、わからないはずがない。
 萌生さまが………?!
 わかってはいても、信じることはできなかった。
 いまどき珍しいほど世に疎い萌生さまが。
 驚きが過ぎてしまうと、相手が誰なのかが気になってならなかった。
 なぜなら、萌生さまからは、恋人のできた華やぎを感じることはできなかったからである。
 衝撃は、最後にじんわりときた。
 萌生さまが人肌のぬくもりを知っている………。
 それは、おそらく、娘や妹に恋人がいると知った時の父親や兄の心情に一番近しいものにちがいないと、交野は思った。
 その後の萌生との会話の内容を、交野は覚えていない。その事実が、衝撃の強さが交野にとってどれほどのものであったのかを証明している。
 そうして、萌生の部屋から一歩外に出た交野は、廊下側の襖に背もたれているこはくを殺した犯人と対面することになった。
 じろり――と、冬騎から不快げなねつい視線を向けられ、交野はひんやりとした危惧を覚えた。
「見舞いにしては、長かったな」
 交野の危惧はそのひとことに凍りついた。
 わかったような気がした。
 否定しても否定しても形をなす、ひとつの仮定。しかし、それは、あってはならないことだった。
 萌生さまのお相手は、冬騎さまではないか。
 恋をしているにしては、その華やぎから最も遠いところにいるかのような萌生。交野は、萌生の表情を思い浮かべた。
「冬騎さま」
「なんだ」
 ひとを小馬鹿にしたような、応えだった。
 何を言えばいいのか。弁護士としてあるまじきことに、十四歳の少年相手に、交野はことばを見失ってしまったのだ。
「萌生はぼくのだ」
 そのことばに、ギョッと冬騎を見返した。
「萌生さまは、お姉さまですよ。法的にも、倫理的にも、生物学的にも、冬騎さまは間違っておられます」
「それが? 萌生は、おまえにはやらない。誰にもやらない。ぼくが、そう、決めた」
 冬騎のぎらぎらと底冷えのする瞳が、凝然と交野に据えられる。
「四年前にはじめて見た時に、そう決めたんだ」
 父母の愛情を存分に与えられなかったこどもが、ここにもまた一人いる。その、唯一残された肉親に対する悲しいまでの執着を思って、交野はことばをなくす。交野には、もう、ただ冬騎を見つめるしかできなかったのである。
 カッと、血の朱を顔に散らして、冬騎は喚く。
 交野の瞳にあるのが、自分に対する憐憫だと、敏感に感じ取っていた。
「いつまでもマヌケづらを晒していないで、さっさと部屋へ戻って寝てしまえ」
 叩きつけるように囁くと、冬騎は踵を返した。
「では。お先に失礼いたします。おやすみなさいませ」
不思議なほど冷静に交野は冬騎の背中に頭を下げたのである。


〜その三〜


小さなぬくもりを頭の横に感じていた。
 久しぶりに感じるぬくもりに、心があたたかくなってゆく。
 夕方の出来事を忘れてしまえる。そんな気がしていた。何も知らずにいられたころに戻ったような、安らかな気分。そのまま、ぐるぐると響くエメの喉の音に耳を傾けていた。


萌生は夢を見ていた。
 幼いころを追体験する、妙にリアルな夢だった。


こはくと名づけた黒い仔猫は、すっかり萌生になついていた。朝起きて夜眠るまで、眠った後も、こはくはいつも萌生のそばから離れようとはしなかった。
 独り寝の淋しさを癒してくれる傍らの小さなぬくもりは、いつしか萌生の夢から、母親に殺される場面の繰り返しという凍てつくような悪夢を溶かしていったのである。
 少しずつ熱を出す間隔が間遠なものとなり、萌生は明るさを取り戻していった。
 そうして、萌生は交野がいつやって来るのかを指折り数えて待っていた。
 五月の連休に、交野は萌生を訪ねた。
 猫がすっかり懐いたのを見せる萌生の瞳の中には、得意げな表情と不安げな表情とが同居していた。
 もちろん約束どおり、交野は萌生をこはくの飼い主として認めたのだ。
 その時の萌生の笑顔ときたら。
 花が笑うことがあればさもあらんというような、すばらしいものだった。
 それからの八年間、こはくはいつも萌生と一緒だった。
 四才の三月から、十二才の冬まで。いつも萌生の記憶の中にはこはくの姿があった。
 十二才の秋、萌生の運命を大きく変える事件が起きた。
 寒河江の当主がその妻と一緒に不慮の事故で死亡したのだ。後に残されたこどもたちのうち寒河江の直系は、萌生ただ一人。冬騎にいたっては、一滴たりとて寒河江の血を引いてはいない。
『寒河江家直系のかたが本宅におらず、婿の血しか引かないものが我が物顔で本宅にいるとは、笑止千万』
 と、寒河江に関わるものの中からことさら喧しく騒ぎたてる者が現われた。
 だから、萌生は十二才になってやっと本宅に迎え入れられることになったのである。
 萌生を出迎えたのは、二才年下だというのに萌生よりもはるかに大人びた異母弟だった。はじめて見る純和風のどっしりと古寂びた建物は暗く広く、まるで萌生を睥睨するかのようだった。自らの住人として相応しいかどうか、静寂と冷ややかさで萌生を試している。そんな不安に萌生は深く囚われていたのだ。だから、初めて会うことになった冬騎という弟の不機嫌そうな視線に晒され、なおのこと交野の背広の裾から手を離すことができなかった。
 悲しみはもとよりない。
 父親といったところで、まったくの見知らぬ他人でしかなく。母親にいたっては、どうして遺影の女を母親と理解しなければならないのかが、わからなかった。
 萌生にとって肉親に代わるものは、交野であり田崎であった。
 交野が来てくれるから、別荘での毎日を我慢することができたのだ。田崎がいてくれるから、今まで生きてこられたのだとわかっている。田崎に感謝を忘れはしない。しかし、そう思う反面、交野がいてくれればそれだけで充足している自分がいることも、萌生は知っていたのだ。
 資産家の遺児ふたりの後見人には、交野がなった。そこにいたるまでには散々もめたが、直接の血縁が存在しないことが弁護士を生業とする交野が選ばれる理由となったのだ。そうして交野が寒河江家に住み込むことになった。それは、萌生にとって唯一の嬉しい出来事だった。交野が多忙なことは、知っている。だから、別荘に訪ねてきてもすぐに帰らなければならなかったことが何度もあった。けれども、これからの交野は、ここから出かけていって、ここへ戻ってくる。その違いは、とても大きいものだった。
 冬騎はあまり近づいてはこなかった。けれど、ふと気づけば自分を見ている冬騎の視線と鉢合うことが何度もあった。十才ともなれば、姉とはいえ異性に対しての気恥ずかしさを覚えるものなのかもしれない。もちろん萌生にしたところで、どうすればいいのか途惑っている。
 距離のとり方がわからない。
 使用人たちに対するような距離のとり方では、あまりにもよそよそしいだろう。しかし、だからといって、交野に対するようにでは、何かが違うような気がしてならなかったのだ。
 だから、互いに反発しているわけでもないのに、二人の間にはいつも微妙な距離が存在する。
 地元の中学に編入したものの、環境の変化とそのストレスとで微熱のとれない萌生は、一週間の内のほとんどを家で過ごした。向こうでの長い療養生活で、もともと集団生活のいろはを会得していない萌生である。そうなると自力で友人の作れようはずもなく。いつの間にかクラスで孤立するようになった。そうして後には悪循環だけが残されたのだ。
 学校に行きたくなくて、布団の上に上半身を起こした格好のまま萌生はこはくを撫でていた。
『行かない』と言った時に交野の瞳に過ぎった落胆の色が、頭から離れない。だって、と、萌生は心の中でことばをつけたした。からだは怠くて、関節が痛むのだ。それに、クラスメイトの好奇の視線を思えば、心が鬱ぐ。からかうような、呆れているような、馬鹿にしたような、冷ややかな、視線の束。
 こんなにも弱い自分が、嫌になる。
 友達ひとり作ることのできない自分が、嫌いだった。
 だからといって、あの視線の束のなかに分け入ってゆく勇気は出ないのだ。
 淋しさは、別荘にいた時となにも変わらない。
 だからどうしても、萌生は交野を慕った。夜遅くまで起きていると窘められることすらもが、交野であれば嬉しくて。交野を玄関まで迎えに出るのだ
 った。まさかそんな自分を冬騎が見ているだなどと、思ってもいなかった。ましてや冬騎の視線の意味など、どうして知ることができただろう。
 転校したら、自分を変えることができるだろうか。
 萌生は、ふと思いついた。
 どうだろう。
 交野に相談した。
 交野は喜んでくれた。
 何はともあれ、萌生が自分から行動に移ったことが、交野を喜ばせたのだ。
 交野はすぐに、転校の手続きを取ってくれた。
 しかし、結局萌生は転校せずじまいだった。
 冬騎の萌生に対する執着が、一過性の通過儀礼であったのなら、萌生が気づいていないことは幸いであったろう。しかし、冬騎にとって萌生という存在は、そこにいるだけで冬騎をからめとってしまう、運命の女性――ファム・ファタル――であったのだ。冬騎の自分ではどうにもならない執着心は、ついに、悲劇を招くことになるのである。


その前哨は、こはくの生命を奪うという形で現われた。
 冬騎はずっと、目の前に萌生が現われてからというもの、姉に憧れつづけていた。
 しかし、姉にとって自分の存在感などなきに等しいのだということは、すぐさま知れた。
 姉の世界は、ずっと別荘という閉鎖空間に閉ざされていたためなのか、交野と黒い猫だけで完結してしま
 っていたのだ。そうしてその輪の中にもぐりこむことは、不可能なことのように思えてならなかった。
 それでも、姉の血の気がないほどに白くすべすべとしているだろう頬に触れてみたいと思った。それに、交野や猫を呼ぶときのようなやわらかで心地好い声で名前を呼ばれてみたいとも思った。
 だから、思い切って自分から呼びかけてみたのだ。
『ねえさま』と、口の中で転がしてみれば不思議と甘かった。
 けれど、タイミングが悪かった。
 こはくが車に轢かれたのがその三日前。そうして、その時、萌生はちょうどこはくの入院している獣医に出かけるところだった。
 行き場のない呼びかけは、苦い毒となって冬騎の心を冒した。
 それは、冬騎が十二才の冬のことである。
 こはくが退院してきても、萌生の全神経は猫にだけ向けられていた。
 冬騎の心は、まだ、致命的ではないものの、毒に冒されたままだった。
 本能的に、解毒できるのは萌生だけだと知っていた。
 もう少し冬騎の心に余裕があれば、そうしてもう少しだけ萌生の心に周囲に対する心配りがあれば、その後の悲劇は起こることなくすんだだろう。
 しかし、十四才と十二才の少女と少年とに、それは酷な注文というものだろう。
 こはくのことが、意識の全てを占めていた。だから、萌生はつい冬騎に邪険な態度をとってしまった。
 このことで、冬騎の、最後の箍は外れたのだ。
 冬騎は、萌生の膝から、猫を奪い取っていた。
 そうして、思うさま猫を、壁に叩きつけたのだ。
 不快な音と、喉からのくぐもった悲鳴が、耳を射る。
 血が飛び散り、萌生と冬騎に降りかかった。
 目を背けたくなるような醜怪な光景を、しかし、冬騎は憑かれたように見つめていた。
 気がつけば冬騎は、猫の血に染まった萌生を抱きしめていた。生臭い血の匂いにまみれて、冬騎は萌生のくちびるに自分のくちびるを重ねていた。
 萌生がびくりとも身じろがないのを良いことに、そのまま姉のやわらかなくちびるの感触を味わっていた。


喉が詰まったように苦しい。喉の奥からしぼりだすようにしてあげた悲鳴に萌生は目覚めた。漆で塗りつぶされたような部屋の中、萌生の全身は汗で濡れそぼり、鼓動は秒針よりも早く乱れていた。
 両手で顔を覆う。
 思い出した。
 こはくの死の理由。
 冬騎と自分の関係が、どうして歪んでしまったのかを。
 わたしのせい。
 すべて、私が、招いた……。
 こみあげる嗚咽。
 涙があふれる。
 ごめんなさい――
 それが、冬騎に向けたものなのかこはくに向けたものなのか、萌生にはわからなかった。
 真夜中、萌生の悲痛な懺悔の涙が涸れることはなかったのである。
to be continued

first edition : 1998-12-15 circle 『万華鏡』
second : 2001-01-23 LACE GARDEN
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