追いつめるもの



 僕の膝に、こときれた恋人。このうえなく大切で、また、そのせいで僕に殺された。
 ―――祥子―――
 祥子の白くなめらかな手首を飾るのは、深紅のリボン。祥子の両手首を裂いたものは、今や僕の心臓に。僕の胸から生えたような銀細工の柄が灯火にきらめいている。
 僕の口もとに、自然笑みが刻まれた。それは、おそらくは皮肉なものだったろうが。
 胸の奥からこみあげてきた生温かく鉄臭いものが、ぽたぽたと祥子の頬に滴り落ちた。
 
 
 漆黒の存在の哄笑が、僕の耳に響く。
 漆黒の、僕を誘いつづけてきた者よ、………おまえは焦がれていたのだろうが。十八年もの間、ずっと僕を誘いつづけていたぐらいだから。
 歓喜の声をあげるといい。もう待つ必要はなくなるのだから。おまえの望みはかなうのだ。祥子と僕、二人分の魂を持ってゆくがいい!
 
 
 僕が彼の存在に気づいたのはいつのことだったろうか。はっきりとした記憶はない。しかし、彼は十八年間僕の傍にいたのだ。
 死神。――夜の三日月に輝く刃のような、闇をまとった美しいもの。冷ややかな、墓地に吹く漆黒の風。
 彼が僕を誘う。昼夜を分かつことなく。
 特に、僕が十八の誕生日を迎えてからというもの、彼の存在をより身近に感じるようになっていた。もはや、僕の死期は避けることができないほど近くへとやってきているのだろう。それを悟らせようとするかのように、
「いつまで待たせるのだ」
 と、
「いつまで祥子の側(がわ)にいるつもりなのだ」
 と。
 僕は逆らっていた。僕にできる限りの力で。
 でも、その一方で、僕は僕の死を、早すぎる死を覚悟していたはずなのだ。だが、それはどこまでも”つもり”でしかなかった。
 僕ですら思いもしなかった狂気が僕を侵していたのは、それに気づいてからだったろう。
 
 
 祥子が僕を追いつめる。初恋の一途さで。少女の一途さで。
 僕の命の残り少ないことを知りながら。
 僕は、白い百合のような祥子に、漆黒の者の莞爾と笑うさまを重ねる。そうして僕の狂った部分は、破局の近いことを知っているその部分は、僕に耳打ちする。
 祥子の顔をしたそれは、いくらも経たずにやって来た。
 
 
 二つ年下の祥子は、そう、僕の弟の許婚者としてこの家に迎えられた少女だった。僕に祥子を娶わせてどうなるというのだろう。僕の命が長くないことは、誰も口にしないだけで周知の事実だったのだから。けれど、僕は祥子に恋をした。華やかではないものの、僕には眩しいばかりの生命力をきらめかせた彼女に。見ているだけで幸せだった。彼女の存在を感じるだけで、僕のすべてを諦めきっていた人生が輝いた。そう、感じるだけ、見るだけで、よかったのだ。僕には、祥子を抱きしめるだけの力強さも、未来も、残されてはいなかったから。
 しかし、祥子は、僕に気づき、そうして、僕に恋をした。
 ありえないはずの、奇跡。
 おこりうるはずのない、幸福。
 それは長くはつづかなかった。同じ家に住む弟が気づかないはずがない。なぜなら、弟もまた、祥子を愛していたのだから。
 僕の勇気のなさが、すべてを招いたのだ。
 僕よりも三つ年下の弟が祥子を無理矢理抱いたと知った時、そのせいで祥子が僕のところに来なくなったと理解した時、なぜ、僕は自分の命を手離さなかったのだろう。そうしていれば……、その後の悲劇など起きなかったのかもしれない。
 死ぬのは、怖い。
 そう、諦めたふうを装いながら、それでも、僕は死にたくなどなかったのだ。細く頼りない命の灯火にしがみついていたかった。
 祥子がその白い手を血に染めて僕のところにやってきた時、僕は自分の弱さを呪った。
 祥子の澄んだ瞳が、赤く充血し、愛らしい表情が奇妙に歪んでいた。
 祥子の手には、祥子の手首から流れる血に染まったナイフが握られている。
 鍵のかけられたドアの外、家人があわただしく何かを叫んでいる。
「祥子…」
 両手を広げ、祥子を待ちわびる。
「愛してる」
 それは、告白。僕が口にすることができた、最初で最期の。
「わたしも」
 祥子は答え、僕の胸に飛び込んできた。
 冷たい刃物の感触とともに。
 
 
 闇に飲み込まれてゆく瞬間、漆黒の者の満足げな笑い声を、僕は聞いたような気がした。
      
おわり
初出   サークル・ハンドメイド
remake start 10:03 2001/12/13
up 10:49 2001/12/13
あとがき
 う〜ん、暗い。久しぶりに暗いです。
 これは、今のサークルより前に所属してたサークルで発表したものですが、もしかしたらそれより前高校時代くらいにやはりクラブで書いていたかもしれないもの。はっきり記憶にはないしその頃の原稿はないですから、もしかしたら記憶違いかも。
 ちょこちょこと手直ししたので、微妙に最初の話とは違いますが、大筋は一緒です。当時は一人称もどうやらかけてたみたいだね。時々こうして出てくるので。
すこしでも、楽しんでもらえたなら幸いですが、暗いですねやはり。
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