狼は眠らない 3




※ ※ ※


 鳥のさえずりが喧しい。
 まりあが目を覚ましたのは、廃墟の中だった。
 おそらくかつては、石造りの壮大な建物の一室だったのだろう。しかし今はかろうじて基礎の木の梁とわずかばかりの天井が残っているばかりである。抜け崩れた天井からは、空が見えている。以前は上の階の床や天井だったろう石が、同じ材質の床の上にごろごろと転がり砕けている。天然のタペストリーを周囲の壁に織り上げているのは、ぽっかりと崩れている天井や刳り貫き窓から入り込んできた蔦だった。時折り微風に揺れるたくさんの濃い緑の葉は、陽射しを反射しきらめきながら葉擦れの音を立てているのだ。
 石が剥き出しの床には、小さな花を咲かせた雑草さえもがあちこちから顔をのぞかせている。射し込む琥珀色の陽光の中、蝶が舞い、蜂やアブなどの羽虫が飛び交う。そのさまは、あまりに美しく現実のこととはとうてい思えなかった。
 茫然と見回していたまりあが、ふっと、何かが動いたような気配に視線をめぐらせた。その先で爬虫類の尻尾が、瓦礫となった、かつては暖炉だったろう石組みの隙間に消えた。
 蜘蛛の巣がないのが不思議だったけれど、それはそれでラッキーなことだった。あの奇妙な幾何学模様の糸の質感が、まりあは苦手だったので。そう、あれがあるとどうしても気になってしまって落ち着かないのだ。首筋がぞっと敏感になって、髪の毛が逆立つような錯覚にとらわれる。
 苦手なものを思い出したせいで、自分が何の上にいるのかと急に気になった。
 なんとはなく慎重に、きょろりと自分のからだの下を見やる。不思議と見覚えのある寝具。しかし、掛け布団の代わりに自分を包みこんでいたもの。それは、見覚えのない、いかにも豪華そうな織物だった。
(これは…マントかな)
 毛皮の裏打ちとふちどりが、夏とはいえ肌寒いドイツの夜気からまりあを守ってくれたらしい。刺繍も細かな、灰色がかった緑色の、厚手の布。
(ホテルのベッド………だよね)
 記憶にある黒い支柱の一本一本にまとめられているカーテン。黄色い小花の散った、羽枕。ご丁寧なことには、ベッドの足元に、不必要な掛け布団などをしまうのだろう、セットになっているチェストまでも揃っている。あまつさえその上には、まりあの旅行鞄が載っているではないか。
(どうして?)
 思わず、マントをぐしゃりと団子にして、ベッドの上に正座する。
(え? これは、なに? どういうこと……なの?)
 ぞわりと背筋を這いずるのは、恐怖だった。そうして、恐怖は連動して、昨日の出来事を呼び覚ます。
 首に手をやれば、ツキンとした痛みが走った。
 太鼓を乱打するかのような心臓の鼓動が、耳のすぐ奥で鳴っている。首の筋が張ったのが、わかった。
 苦しい。
 目を開けていることすら辛くてならなくて。
 後頭部が重鈍い痛みを伝えてくる。
 なにもしていないのに、息が詰まった。
 苦しくて喉を掻き毟ろうと伸ばした手が、なにかに強く遮られた。
「ナイン! ヴィードゥム! (よせっ! なんて馬鹿なっ!)」
 深い響きの声に惹かれたように目を瞠らき、まりあは茫然と見上げた。
 赤い瞳が自分を見下ろしている。
 印象的な、切れ長の瞳だった。
(ガーネットみたい………)
 ほんのさっきまで感じていた苦痛が嘘のように退いてゆく。
「…ユーベル?」
 昨夜の夢とも現実ともつかない出来事を、まりあは思い出していた。それは、その出来事の中で、記憶に残った単語だった。
「ヤー。イッヒハイセウィーベル・レムゥレン。イーラーナーメイストマリア(そう。わたしはウィーベル・レムゥレン。あなたの名前は、マリア)」
 床の上に片膝立ちになった男は、自分の胸を指して肯定して見せた。その後、まりあの手を自分の目の前までもってゆき、赤いくちびるで手の甲に触れたのだ。
 古いヨーロッパが舞台の映画のワンシーンみたいだ―――。そんなことをぼんやりと思いながら、まりあはぼんやりと男の行動を見ていた。
 ユーベル・レムゥレンという名前らしい彼を、人間だとは思えない。なのに、いつも幽霊を見たときに感じる堪えられないほどの恐怖は沸いてはこない。
 ここは…今、自分がいるところは、どこともわからない、廃墟なのに。
 いつもだったら、怖くてならなくて震えているだろう。
「ズィイストマイナーホィーヒステリープスター………(最愛のひと)」
 切なげな響きの声だった。
 顔を上げたユーベルの不揃いな黒髪が、艶艶と光を弾く。無造作に掻きあげた前髪の奥から現われたのは、古代のギリシアやローマの塑像すらも色褪せさせるほどに整った、力強い美貌だった。
 男性的な情熱を内に潜めたガーネットのまなざしが、熱くまりあを捕えている。愛惜のまざったヒヤリと危ういまでの愛情が、ひしひしと迫ってくるような錯覚があった。
(どうしてこんな目で、わたしのことを見つめるのだろう………)
「Maria………」
 マリアと呼ぶ声に潜められている、狂おしいほどの響き。
 伸ばされた両の掌にやさしく頬を両側から挟まれた。
 その冷たい感触に我を取り戻したまりあは、反射的に首を横に振っていた。
「ちがうっ。違うの。わたしは、あなたのマリアじゃないっ。………あなたのことを、わたしは知らない………」
 他に、なにが言えるだろう。
 虚を突かれたように、甘すぎるほどに伏せているユーベルの瞳が大きく瞠らかれ、凝然と指の先まで固まった。
「わたしは、ドイツ語だってわからない」
「ナイン。ナイン。……ナイン! ズィイストマイナーホィーヒステリープスター……マリア」
 
「あなたがなにを言っているのか、わたしには、わからないのっ」
 立ち上がろうとしたまりあの肩を上から押し戻す。そうして、ユーベルはガーネットの瞳で、まりあの黒目がちの瞳を覗き込んだ。
 凝視してくる、赤いまなざし。
 同時に、頭の中にぞろりとなにかが入ってくる。
 ユーベルの行動は有無を言わせないものであった。しかし、暴力的では決してなく、あくまでも、ソフトだった。だからだろうか、なにをされるのかわからないというのに、まりあは恐怖を感じないでいるのだ。けれど、だけにより一層のこと、頭の中をやわらかな何かで掻き回されているような感触は、気持ち悪くてならないものでもあった。
 がたがたと全身が震えている。脂汗がにじむ。それなのに、目を閉じることができない。だから、視野いっぱいにユーベルの赤い瞳が映っている。
 赤い赤い闇だった。
 赤い闇はいつしかまりあの意識のすべてを覆い尽くした。そうして、過度の緊張が彼女の許容を超えたその時、まりあの意識は爆ぜ砕けたのである。
 自分自身の悲鳴で、まりあは目覚めた。
 恐ろしい夢だった。
 目が覚めたのに、心臓が痛いほど収縮を繰り返している。
「いやだ…どうして、火あぶりになんか………」
 口々に罵る大勢の人々。彼らの視線は、自分に向いていた。時折りからだにぶつかるのは、さまざまな大きさの石だった。指の先くらいからこどもの拳くらいまでの、投げるのにちょうどいいくらいの大きさの石。
 自分を見上げる人々が、足元の石を拾っては投げつける。無表情の男たちが松明をかかげ持つ。そうして、偉そうに腕組みをしている身分の高そうな男と僧衣をまとった男の横に、銀の鎖に戒められた巨大な黒い獣がいた。
 少なくとも、ヨーロッパに黒い体毛の狼は存在しない。そんな記憶があった。なにかの本かドキュメンタリー番組で仕入れた知識のはずである。それなのに、その黒い獣が、犬ではなく狼なのだと、夢の中のまりあは知っているのだ。
 狼は吠え猛り、男たちに、その場に集まる村人たちに、牙を向ける。そのたびに、男の背後に控える者が情け容赦なく棍棒で殴り倒すのだ。
 生きものを殴りつける、厭な音がする。
 助けたいのに、やめてと止めたいのに、自分は戒められて、なにもできない。逃げてと、叫ぶことすらも、叶わないのだ。
 殴られても、倒されても、狼は懲りることも怯むこともなく、牙を剥き吠え猛りつづける。そうして、火刑の杭に戒められている自分を見つめるまなざしは、ガーネットのように赤かった。
 悲鳴と憎悪とが混ざり合った、赤――――だった。
 夢だとわかっているのに苦しくて悲しくて、気がつけばまりあは泣いていた。
「マリア。腹が減っただろう。食事にしよう」
 突然背後から声が聞こえてきた。その声が、ユーベルと名乗った相手のものだったと、思い出す。そうして振り返ったまりあだった。しかし、次の瞬間、その場に愕然と凝りついた。
 ユーベルのことばが理解できる。
「ユーベル。あなた………」
 自分の口から出たことばに、ギョッと目を剥く。
「あなた、わたしに、なにをしたの」
 そうとしか考えられなかった。気を失う前に感じた、脳をやわらかく撫でられるような、不快な感覚を思い出す。
 喋っているのは自分なのに。なのに、自分の口から出ているのは、ユーベルが喋っているのと同じ言語なのだ。――喋れるはずなどない。気を失う前の、不快な感触を思い出して、まりあは不安に駆られていた。なのに、次の、能天気なユーベルのことばに、なにがなんだか、頭の中がごちゃごちゃになってしまったのだ。
「シュロスヘリンが帰還したというのに、あいにくなことにここにはコックもいなければ道具もない。単に捌いて炙っただけだが、まぁ不幸中の幸いは、鳩肉だということか。好きだったろう」
(シュロスヘリン? シュロスヘリンって………)
 食事どころじゃないと叫ぶことも、パニックになったまりあは忘れていた。
 茫然としているまりあの手を取り、ユーベルがエスコートする。
 鳩の肉なんか食べたことはない―と言っても、聞く耳をもたないのだろう。
 少なくとも今はまだ、なにを言っても無駄なのだと、まりあは理解した。それと同時に、ユーベルの強引さに驚いても、逆らう気も起きない自分をまりあは強く感じていた。
 ごろごろと転がる石や、そこここに這いずっている蔦に、ともすれば足を取られる。自然、ユーベルに頼りがちになる。まだ完全に目覚めていないことが、つい甘えるような仕草になってしまう原因だった。
 しばらくして気を取り直したまりあだったが、
「こんなとこ、どうやって下りるの………」
 ぽっかりと崩落してしまっている階段を、ユーベルに手を預けたままで見下ろした。
 自分がいるここが三階だとわかったものの、どうやってここを下りろというのだろう。手摺も崩れている上に、ロープすら見当たらない。途方に暮れるなというほうがムリなはなしだった。
「ほかに階段が?」
 どれくらいの規模の建物かはわからない。それでも、自分がいた部屋の広さを考えれば、これまでに観てきた城くらいの規模はあるのじゃないかと思えた。だとすれば、他にも階段くらいいくらでもあるだろう。そう心配することもないのかもしれない。それでも、つい想像せずにはいられなかった。
(飛び降りたら、死んじゃうんじゃないかなぁ………)
 まりあは、ユーベルを見上げた。
「ほかの階段も似たり寄ったりの状況だ」
 そう言ったかと思えば、無造作にまりあの膝裏を掬い、抱き上げた。
(えっ?)
 まりあの思考回路がスパークする。
 ただでさえパニック状態の脳が、真っ白だった。
 横抱きなど滅多にされるものではない。思わずユーベルの首に両腕を回し抱きついた。べつに嬉しいからでもなければ、恥ずかしさを感じる暇もない。なぜなら、目を閉じる前に足元の陥没穴が目に飛び込んできたのだ。
 はっきりわからないけど、地面まで十メートルはある。
 それを見た瞬間、別段高所恐怖症というわけでなくても、目が眩んだ。天井の高い建物の、手摺もなにもない三階部分だから、それも当然だった。
 しかも、いつ崩れてもおかしくはないように思える廃墟である。なのに、いつもの目線よりも高い場所から見下ろしているのだ。
「下ろして。お願い」
 堪えても震えてしまう声で訴えたと同時に、からだがふぅわりと浮かぶような感覚を覚えた。大きく瞠らいた目が、ユーベルが自分を抱えたまま飛び降りているのだという情報を脳へと伝える。
 三階から一階まで。時間にすればほんの数瞬に過ぎない。しかしまりあに襲いかかったのは、エレベーターよりもより直接的な浮遊感と、落ちてゆく感覚の生々しさだった。
(嘘っ)
 と思ったものの、声にならない。声にならない悲鳴が、喉を塞ぐ。
 軽い衝撃を感じて閉じてしまっていた瞼が開く。
 目的の場所に下りていた。しかし、ほんのわずかな間に擬似無重力のようなものを体験したせいで、まりあの三半規管は捩れたようになったらしい。車酔いのように、胸のあたりがぞわぞわとむかついてしようがない。込み上げてくるものをこらえながら、
(やっぱり………ユーベルは人間じゃない)
 ダメージを受けたようすもなく軽々と着地してのけたユーベルに、今更ながらに実感する。
 それなのに、やはり、彼に対する恐怖は、湧いてはこないのだ。
(どうしてなんだろう…)
 まりあがそんなことを呆然と考えているのをいいことに、ユーベルは抱きかかえたままで歩き出す。
 久方ぶりの彼の女の重み。
 これは、現実だった。
 温かい体温も、やわらかな感触も、あるかないかの体臭さえもが、ユーベルに彼の女が生まれ変わったのだと実感させるのには充分だった。
 赤い蔓薔薇の群れ咲く庭に、ユーベルはまりあを下ろしたのだ。
 数百年の間、たゆまず水を湛えつづけている泉水。水はねのかからない縁に腰掛けさせて、木の葉に乗せた、炙っただけの鳩肉を差し出した。
「ユーベルは?」
 受け取った肉を膝の上に乗せて、どこかぼんやりと訊ねてくるまりあに、   
「オレは特に食べる必要がない。忘れたのか?」
 と、答える。それは、まりあの疑問の答でもあった。それでも………。
「………人間じゃ…ない・のね」
 確認のようにぼそりとこぼれたまりあのことばは、決して罵声ではなかった。蔑みもなく、ただ戸惑いだけが感じられたのだ。
 人間と主張するのは簡単だった。相手が信じようが信じまいが、言い張ればすむ。しかし、自分を恐れる気配もないまりあを相手に、嘘をつく気にはなれなかった。
「そう…だな。随分と昔は、人間だったと思うが………純粋に人間だったかどうかは、わからない。赤ん坊のときに捨てられたオレと双子の兄とは狼の母に拾われ、育てられた。やさしい、年老いた狼だった。オレは彼女が大好きだった。感謝もしていたと思う。もっとも、兄はそれを恥じて、ひとに知られることを嫌っていたな。…そんなこと、本当はどうでもいいことだろうに。それよりも、オレたちを捨てた実の親に対する怒りのほうが、オレは強かったと思う。養い親の苦労を思えば、どうしても、そう思わずにいられない自分がいた。ほかの種族の子を育てるということなど、なかなか簡単にできることではないだろうし、その苦労も並みではなかっただろう。
 オレは兄に殺され、そうして死にきれずにひとならざるものとなってよみがえった存在。今は失われた古の帝国の亡霊。だから、人間がオレを呼んだレムゥレン―幽鬼―ということばは、間違いではないのだろう。……………マリア。それが、オレの正体だ」
 ユーベルのまなざしが、まりあの瞳を捕える。彼の瞳の中にまりあが感じ取ったのは、悲しみ自嘲そうして、それらを凌駕する正体を知られる恐怖だった。しかし、彼は、自分に知られることを恐れながらも、告げずにはいられなかったのだろう。そうして………
「ユーベル………」
 ユーベルのまなざしは揺らがない。印象的なガーネットの瞳がおさまっている容貌は、美しいものの荒削りだ。
 告白することで、ユーベルは自分を試しているのかもしれない。そう感じた。悪意も害意もないものを、人間ではないというだけで恐れ罵り排斥するのか―――と。だから、視線を逸らしてはいけないと思った。
 自分も、彼と同じだ。
 幽霊が見えるからというただそれだけで、真純に恐れられ罵られた。もちろん、兄に殺されたという凄まじい過去を背負うユーベルからすれば比べものにもならないほど些細なことだろう。けれど、それだけのことでも、辛くてならなかった。ひとに、真純に罵られることが怖かったのだ。
 父も昴一も周子も、わかってくれた。けれど、それでも、自分が人とは違っているということを真純に思い知らされつづけた。思えば、ただ、幽霊を見てしまうというそれだけのことで。
 色々な国の昔話を読み耽ったのは、その中に出てくるたくさんの異形の存在に自分を重ねたからだ。
 どうして、相手が人間じゃないからって殺したり追ったりするのだろう。奥さんや旦那さんにまでなったのに、正体がばれた途端に、罵詈雑言の限りを尽くしたり追い払ったり殺したり。ひとを食い殺したりすることもある異形の存在によりも、人間の側に腹が立ってならなかった。本の中のことだったけれど…。
「昔、愚かにも打ち明けることすらできなかった。打ち明けていれば、この姿になっていれば、マリア、あなたは死なずに…殺されることなく済んだかもしれない」
 まりあを通して過去を振り返るまなざしだった。
 最愛のひとを亡くした痛みが、実の兄に殺されたというおそらくは気の遠くなるような過去の憎悪が、ガーネットの瞳を揺らめかせている。
「故郷を追われた後の永すぎる時を経て、孤独で狂いそうになっていたオレに恐れ気もなくユーベル―歓喜―という名をつけてくれた。なのに、いまやオレはあなたを裏切り、邪悪、災い―ウィーベル―と呼ばれるのにふさわしいモノになった。あなたは、こんなオレを遠ざけることもできる」
 うつむき萎たれたさまを見せるユーベル。そんな相手にどう答えればいいのかわからなくて、まりあは、
「なにか、別の名前で、呼びましょうか」
 マヌケなことを言っているという自覚ならあった。それでも、呟かずにはいられなかったのだ。
 それにユーベルは弾かれたように顔を上げ、刹那凝固した。そうして、次の瞬間彼の喉の奥から迸ったもの。 「ハッ!」
 それは、まりあの耳を聾するほどの爆笑だった。
 まりあが知るはずもなかったが、それはユーベルにとって数百年ぶりの笑いだったのだ。
 しばらくの間、身を捩じらせるほどのユーベルの笑いはおさまらず、まりあはただおろおろとそんな彼を見ているよりなかった。
「ユ…ユーベル?」
 ハーハーと、大きく息を吐き落ちつくよう努めながら、ユーベルは、
「あなたの気が済むように呼べば、それがオレの名前になる」
 と、まだ笑いのにじむ声で告げる。
 笑いすぎて涙までにじませたユーベルの瞳が、きらりと光を弾く。そのまなざしを、まるで主人の命令を待つ犬の目のようだとまりあは思った。
(こんなことを考えてるってバレたら怒るかな?)
 家に残してきたボリスを思い出し、まりあはユーベルが自分の次のことばを待ち焦がれているのだと直感した。しかし、急に新しい名前など考えつくはずもない。彼の口から出た名前こそが本名だと思っていたまりあである。そうして、どうしてもユーベルとしか聞き取ることができなかったのだ。だから、まりあにとってユーベルはあくまでもユーベルなのだ。けれど、名前の由来を知った今、断じきってしまうのもどうかと思えてきて、結局まりあは、
「………じゃあ、ユーベル―歓喜のほうで、呼ぶようにするね」
 と、小さく返した。そうしてまりあは、ぎこちなくほほえんだ。それは、昴一が花のようなと評しているほほえみだった。
 自然ユーベルのまなざしがやわらかく穏やかなものへと和む。それは、まりあをほっと安堵させたのである。

 ことばの端々から、なんとなくユーベルが自分をここから出す気がないのではないか―と、感じていた。にもかかわらず、ユーベルを傷つけたくないと考えている自分がいるのだ。できるだけ、ユーベルにはやさしくしてあげたいと思ってしまう。
 この感情はいったい何なのだろう。 (ユーベルに比べるとわたしの辛さなんて…些細なものでしかないと思える。それでもなんとなく似ていると思ってしまうのって、おこがましいの? でも、淋しさもわかるような気がする………。わたしには、父も昴一も周子もボリスもいるけれど。でも、ユーベルは、わたしなんかよりもずうっと淋しくてならなくて、どうしようもなかったんだって、わかってしまう。だって、わたしのことを、誰かほかのひとと勘違いするくらいなんだもの。わたし…ユーベルに同情しているの? でも………)
 まりあは戸惑っていた。
 いずれ、遠からず自分は帰らなければならない。それは絶対で。なぜなら、捨てられないものが、自分にはたくさんある。父と母の思い出を捨てられはしない。友達もいる。ボリスも淋しがっているだろう。そうして、昴一。決して認めることも口に出すこともないけれど……………彼は淋しがりやなのだ。
 帰るためにはどうしても、まずユーベルを説得しなければならない。そのことを考えると罪悪感のようなものが芽生えて、胸が重苦しくなってくる。
(どう言えばいいのだろう?)
 自分があまり口の回るタイプではないことを自覚しているだけに、困ってしまうのだ。
 庭いっぱいに乱れ咲く満開の紅薔薇はとてもきれいだ。なのに、堪能する気にはとうていなれないでいるまりあだった。
 ユーベルはまりあの足元に腰を下ろしていた。泉水の縁に肘をつきそうしてまりあを掬い上げるように見上げている。
 ユーベルのまなざしはあまりにも強くて、自分から少しも離れようとしない。
 背筋に震えがくる。
 強いまなざしなのに、そこにこめられているものは、とろりとやわらかで。そんな感情に戸惑ってしまうのだ。
 彼のようすはなんとも言えずに幸せそうで、邪険にしては罪悪感が強くなるだろう。  ユーベルの視線を断ち切ってしまったらどうだろう………。想像してみる。きっと悪戯をしたボリスを強く叱った後で生じる罪悪感のようなものを感じてしまうに違いない。
 それは、ほぼ確信だった。
 鳩肉は塩も胡椒もかかってはいず冷めていた。それでも、昨日の昼からなにも食べていなかったまりあには、ほっと安心できるくらいに美味しいものだった。しかし、食べているところをじっと見つめられるのは、いくら手が幸せそうな表情をしていても、駄目だ。
 妙に恥ずかしい。
 もちろん味わうことが嫌いなのではない。が、人前で口を開け食物をほおばる。たったそれだけの、本当に当たり前のことが、どうして恥ずかしいのだろう。それとも、食欲、お腹が減ってしまうことそのものが恥ずかしいのだろうか。相手が一緒に食べているのならまだしも、ユーベルは別段特になにも食べなくていいのだ。なんとなく、食べずに済むということが羨ましいような気がしてならないまりあなのだった。
 幸せそうなまなざし。
(苦手だ………)
 自分から片時も外れないまなざしに、居たたまれないような気分になる。
(少しでもいいから、視線、外れてくれないかなぁ…)
「これ、ユーベルが獲ったの?」
 言わずもがなのことだったが、呟かずにはいられなかった。
 それでも、ユーベルの視線はわずかも揺らがない。
「そう。なにか要望があれば狩ってこよう」
(喋るのって下手だからなぁ……)
 ユーベルのまなざしは、微塵も逸れなかった。
 しかし、会話が成立するだけで、気持ちが不思議と楽になる。ユーベルに気づかれないようにと願いながら、小さく吐息をこぼしたまりあだった。
「わたしも、ついて行って、いい?」
 そんなことばがするりと出た。
 心の中で繰り返してみて、それが本心だと納得する。周囲がどうなっているのか知りたかった。
 この庭と城とをぽっかりと刳り貫いて、細かな粒子の霧が幾重にも立ちこめている。
 不思議でならない。
 霧は降りそそぐ陽射しにグラデーションを見せて、かすかな風にもふわりと揺れる。まるで飛行機の窓から見下ろした雲海のようだと、まりあは思った。この中を歩けば、空を―雲の上を歩いている気分になれるのかもしれない。
 しかしユーベルの返事は、そんなまりあの空想を粉々に打ち砕いた。
「あなたが狩を楽しむというのならばまだしも、そうでなければ見て楽しいものじゃない。勧められない。それに、あなたの食べるものくらいオレが狩ってこよう。心配する必要など、ない」
 即座の却下だった。
「そっか………」
 そんなふうに断じられては、反論すること
 もできなかった。断言されてもなお自分の意志を押し通すほど、まりあの押し出しは強くない。相手が昴一ならば、気安さからもう少し食い下がることもできるだろう。しかし、まりあは、ユーベルのことをあまりにも知らなさすぎた。
 ユーベルについてわかっているとまりあが思っていることは、どうも人間ではないらしいということ。―まりあは彼の告白を、そのまま信じていた。それに、ユーベルが助けてくれたから自分は今ここにいるのだということ。これは、確かだと思うのだ。
 少なくとも今のところ、自分は寝る場所にも食べるものにも困ってはいない。あとは、自分のことを誰かと同じ人物だと勘違いしているらしいことである。それをどう理解すればいいのか、ユーベルのことばの端々から推察するしかなかった。
 本当に、むかし愛していたひとと自分とを、同じ人間と思っているのだろうか。それとも、生まれ変わりのようなものと考えているのか。  とりあえず、今まりあがユーベルについて知っているかもしれないといえるのは、そのくらいのものだった。
 彼は人間ではないらしいのに、不思議なことに自分は彼を怖いと感じない。それでも、怒らせるようなことは極力したくない。
 それが、正直なところだった。一見無防備なようでいながら、ユーベルの許容範囲を探っていたのである。
 無意識ではあったが。
 ともあれまりあはまだ、真純と俊雄の死を知らない。
to be continued
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