狼は眠らない 5




※ ※ ※


 遮二無二歩いたところで、疲れただけだった。しかし、自分が疲れていることに、昴一は気づかなかった。
「アベールキント!! (こら少年)」
「グェッ」 
 思わずカエルが潰れたような、無様きわまりない声が出た。同時に、その場にしゃがみこむ。
 いうまでもなく、それは不意打ちだった。声と同時にジャケットの襟首を後ろから引っ張られたのである。
 しゃがみこんだ途端に、意識していなかった疲れが襲いかかってきた。
 この声は聞いたことがあると思いつつも、確かめるために振り向くことすら億劫だった。声の主はそんな昴一の後ろ襟を引っつかんだままで歩き始めたのだ。
 ずるずると情けないありさまの昴一が引っ張られて行ったのは、喫茶店だった。
「Sit down! You are bad boy. Mr.Johgetsu was care for You.(座る! 悪い子だ。上月氏が心配していたぞ)」
 椅子に座ってようやく声と顔とが一致する。
 英語でまくしたてるのは、ドイツ語のわからない自分に対する思いやりなのだろう。しかし、
「Inspector Schtorbech,don't call me a boy.(シュトルベック警視。ボーイと呼ぶのはやめてください)」
 苦々しく言い返す。
 シュトルベックは運ばれてきたコーヒーを一口飲み、昴一を見下ろした。
「子供だよ。心配だろうから、動くなとは言わない。しかし、食事もとらずに動き回るなんて、所詮子供のすることだ」
 ゆっくりと喋ってくれるものの、シュトルベックのことばは、辛辣だった。グッと反論に詰まった昴一に、やがて運ばれてきた朝食を指差し、
「Eat it(食え)!」
 と、厳しく命じたのだ。
「育ち盛りにしっかり食べておかないと、あとで後悔するのは、どう考えても君自身だね」
 チロンと灰色の瞳で見下ろされ、昴一は渋々フォークに手を伸ばしたのである。
 しかし、一口食事に口をつけると、それまで感じていなかった空腹が、彼の思考を一時奪った。
 すりおろしたジャガイモ入りのパンケーキとサラダにソーセージ、あとは目玉焼きにヨーグルト、それにコーヒー。朝からボリューム満点のセットをあっという間に平らげて、
 昴一は手を合わせ『ごちそうさま』と呟いた。
 立ち上がりかけた昴一に、
「そう急くもんじゃないよ。ボーヤ」
 素早くシュトルベックの猿臂が伸び、再びジャケットの襟を掴まれた。
「あてがないだろう。おまけに土地勘もないはずだ。ことばも不自由だろう」
 凝然と目を覗き込まれて、居心地が悪くなる。
「わかりました。座ります!! 座りますから、放してください」
 座りなおした昴一である。
 一旦座らせた昴一の正面で、シュトルベックは悠然とコーヒーに口をつける。
 乱暴な口調は男っぽく響くが、シュトルベックの仕草は優美だった。ゆったりとコーヒーを楽しんでいるらしく見える。そんな女警視を見ていると、一人でいきりたっている自分が道化者のように思えてならないのだった。そうして途方に暮れて窓の外に視線を泳がせた時、昴一の瞳は、つぶらな瞳とぶつかった。
 つぶらな、黒い瞳は、一対や二対ではなかった。―ゆるやかな弧を描く白い小さな頭に、黄色いくちばし。黒い瞳は、びっくりしたようにまん丸で。
 それが何なのか、昴一にはわからなかった。正確を期するなら、鳥類だということはもちろんすぐにわかった。が、種類となるとわからない。アヒルにしては巨大だと思うし、白鳥の優雅さとは違う。どちらかといえば、ユーモラスな、首が長くて大きな鳥。
 少なくとも、実物を見たのは初めてだった。
 数度目をしばたかせて見返しても、それは、窓の外に群をなしてたくさん、いる。よたよたと歩いている。
「これが、この町の観光の目玉だよ。受けているかどうかは知らないけどね。一応『ガチョウ番の少女』らしいね。だからだろうけど、この店の名前も“ファラダの首”と言うんだ」
「……ああ、グリム童話にあるヤツ。そうか、ここはそういう地域でしたね。忘れてました」
 一気に脱力した昴一は、埃がたつほどの勢いで椅子の背凭れになついてしまった。
 数百羽近くいるだろうガチョウの群は、古い通りを埋めつくすかのようである。白い羽毛の大群は一種壮観で、その鳴き声は錆びたラッパのように壮絶だった。ガチョウの群が道をそれないように追うのは、白と黒に少しばかりの茶が混ざったボーダーコリーと色鮮やかな民族衣装らしいものをまとった一組の男女である。
『ガチョウ番の少女』といえば、別の城に嫁いでゆく王女が途中、侍女に強引に入れ替わられる。そうして、城に着いた王女は侍女によってガチョウ番の仕事をさせられるのだ。強引な設定だと思うが、昔話ならそれもしかたがない。辛い境遇で王女の慰めは、首だけの剥製になってしまった愛馬ファラダと喋ることと、川べりで美しい金純の髪の毛を整えることだけだった。最終的には元の婚約者である王と結婚をして、侍女は相応の罰を受けるというストーリーだったはずである。
 幼いころ、字を読めるようになったばかりのまりあがつっかえつっかえ読んでくれた絵本の中に、この話はあった。
 自分がどれだけうろたえていたか―場所の認識すらしていなかったという事実―を、昴一はようやくのことで思い知ったのだ。
 ハッ!!
 嗤わずにいられなかった。
 あまりにも、自分のさまが情けなくてならなかった。
 目尻に涙をためながら、昴一はひとしきり嗤いつづけた。
「気づいたようだね。焦るなとは言わない。けれど、焦りすぎはよくない。目の前にあるものまで見失ってしまうことになりかねないからね」
 シュトルベック警視の灰色の瞳が昴一を見つめている。意思の強そうな瞳だ…と、昴一は思った。
「あてもなくじっと待っていることは不安でならないというのなら、コーイチ、私につきあうかい」
 シュトルベック警視の提案に、昴一の瞳が先ほどのガチョウのようにまん丸くなる。
「なんて顔をしてる。東洋人の顔の見分けはつきにくいからね。民間協力の一種だよ。頼めるかい」
 テーブルに肘をつき、手の甲に顎をのせている。どこか悪戯っぽい表情でウィンクする。そんなシュトルベック警視に、昴一は居ずまいを正した。
「もちろんです。ありがとうシュトルベック警視!!」
 不安と恐怖とを抱えたままでホテルの部屋で待たずにすむのだ。自分でも大手を振ってまりあを探すことができる。昴一は飛び上がらんばかりだった。
 その時ドアベルが鳴り、新たな客が入ってきた。その客は店内を見渡した後、まっすぐ彼らの席に近づくと、律儀に、
「おはようございます」
 と、二人に向かった。
「おはよう。リンツ警部」
 シュトルベック警視が返すと、アルフレッド・リンツ警部は、彼女の耳元に何事かを報告した。一々頷いていたシュトルベックだったが、やがて、昴一に向かって、
「それじゃ、まず、城巡りに行こう。マリア・カガミハラは、城巡りの途中で行方不明になったらしい」
 そのことばに、
「わかりました」
 昴一とリンツの応えが重なる。

勢いよく立ち上がる昴一だった。


 赤い闇。
 それは、ユーベルの瞳。
 ユーベルの力の何分の一かが凝縮されているらしいまなざしが、まりあの意識に侵入してくる。
 強引な行為だった。
 心が、ユーベルに呪縛されてしまいそうだった。
 ドキドキと胸が鳴る。
 きっと、ユーベルに聞こえているだろう。
 苦しい。
 このまま、ユーベルを大好きになってしまったら、家に帰れなくなる。
 今だって、嫌いじゃない。
 きっと、好きなのだ。
 そう―わたしは、彼が、好きなのだ。だから、自分を通して別のマリアを見ているユーベルに、イヤな気分になったのだ。けれど、そう思う心で、家に帰りたい自分が、いる。
 ボリス、周子―昴一。そうして、ユーベル。
 まだ、『好き』の比重は、釣り合いをとって揺れている。
 これがユーベルに傾いてしまう前に、帰らなければ。
 痛い思いで、まりあは心を固めた。
「帰サナイ。ダレニモ、アナタヲ渡シハシナイッ!!」
 ひび割れた声が、まりあを震わせる。
「あなたが、オレ以外の存在に奪われるくらいなら……いっそっ!!」
 肩を掴むユーベルの手の感触。
 いっそ、何をしようというのか。
 ギリリ…と肩に食い込む鋭い爪は、まりあの心を混乱させた。―首に食い込む硬い爪。
 それは、真純の、つけ爪だった。
 ぞわり――と、悪寒が全身を貫く。
「イヤッ!」
 と、思わず、まりあはユーベルを突き飛ばしていた。
 何かが千切れるような音がした。
 音をたてて、ユーベルから伸びていた、見えない意識の触手のようなものが、切れる。そんな感触だった。
 へたりとその場に頽おれたユーベルが、まるで頑是ない子供のように、まりあを見上げている。
 茫然と…………………
 気まずいような不快なような空気が、その場を支配していた。
 まりあを見上げているユーベルのまなざし。
 瞳の色が、言いたいことがあるのに言葉を見つけられないでいる―――そんな、こどもの、まなざしだった。
 痛い、まなざし。
 純粋さと透明さ―それがあまりに印象的で、なぜだか居たたまれないような気分になった。どうすればいいのか、わからない。だから、まりあは、駆け出した。
 ――――そう、まりあは逃げたのだ。
 霧の中に駆け込んだ。瞬間、何か軽い抵抗のようなものがまりあを押し戻そうとした。しかしそれは、まりあを拒絶し切るほど強いものではなかった。
 慣れないヒールに幾度転びそうになっただろう。ぐらつきながら、長い裾に足を取られそうになりながら、まりあは息が苦しくなるまで走るのをやめなかった。
 どれくらい走っただろう。
 荒い息をいなしながら、周囲に視線を泳がせる。
 夢中になって走ったけれど、ここはどこだろう?
 まるで白く半透明なビニール袋を何枚も重ねているようだ。視界がまるでおぼつかない。足元も見えず、不安だった。
 霧がまとわりついてくる感触は、湿気をふくんでいる。ひんやりと肌に冷たい。
(どうしよう………)
 あの瞬間、ほんの瞬間的に、ユーベルと真純とが重なってしまったのだ。自分がまだ真純に殺されている最中なのだと、混乱してしまった。とんでもない混乱だった。けれど、ユーベルを、怖いと感じてしまったのも、事実だった。―怖かったのだ。すぐに、別の感情にとって変わられた恐怖だったけれど。
 でも、混乱したからといって、突き飛ばしていいわけがない。多分。
 まとわりついてくる、霧。
 あの途方に暮れたようなユーベルのまなざしが、まりあの心を掻き乱す。
(ユーベル………)
「あっ」
 ドレスの裾を踏んでいた。
 グキッと、足首が捩れる感触。
「いったぁ………」
 その場に転び、したたかに膝を打った。
 ジンと、膝と掌に痛みが広がる。
 掌と膝の砂を払い、痛む足首をさすった。
(脱いでおけばよかったんだよね。わたしって………)
 慣れない靴のヒールが恨めしい。
 いまさらだったけれど、まりあは靴を脱いだ。
 少し足首を動かしただけで、痛みが脳を灼いた。
(捻挫だと思うけど、骨が折れてたら、どうしよう)
 考えても仕方がないことを茫然と考える。
 少しの間、放心していたのかもしれない。
「!!」
 ズキリと、全身を駆け抜ける、灼熱の痛み。
 立ち上がろうとして、まりあは、もう一度、足を取られたのだ。
 声もなくその場にうずくまる。
 ずきずきと、痛みが鼓動と重なっていた。
(なに?)
 ドレスの裾を踏んだわけではない。
 石にしては、軽いような気がした。
 なににつまずいたのかと探る手に、触れるものが合った。
 手にとって、撫でてみる。
 なだらかに丸くカーブした、硬くて軽い物。中は空洞で、一部分にはギザギザと出っ張るものがある。
 頭の中に描かれる、モノのイメージは、あまり触って嬉しいものじゃなかった。
 けれど、確かめないではいられなくて。
 なんとなく、緊張する。
 まだ座りこんだままでそれを顔の近くへと持ち上げた。
 ぽっかりと穿たれた丸い二つの穴。
 至近距離から自分を見返しているモノ―それが、誰かひとの頭蓋骨だと理解した。
 途端――
 ぞわり。
 背筋に粟が立つような感触と、血が下がってゆく感触。
 悲鳴をあげることも出来なかった。
 とっさに振り払っていた。


 軽い音をたてて、頭蓋骨が地面に落ちる。
 頭蓋骨がぼんやりとした影となって描く軌跡を、何気なく目で追った。
 そうして、まりあは、見てしまったのだ。
 ―見てしまった。
 ただの影となった頭蓋骨。それが転がった場所に、ぼんやりとしたモノがゆらりゆらりと揺れている。
 風もないのに。
 ひとの形をしてゆらりと揺れる、霧よりも淡いモノ。それは、目から血の涙を流し、まりあを虚ろに見つめている。
 それは、死霊だった。
(イヤッ)
 まりあの喉の奥で、悲鳴が、痼となる。
 海底で流れにつれて揺れている海草のように、不自然な動きで徐々に近づいてくる死霊。その瞳には、昏い恨みと無念、それに恐怖ばかりが蠢いている。
 一つ二つ………いつしか死霊は増えていた。
 気がつけば、まりあの周囲をぼんやりと澱んだような、昏い死霊の影が取り巻いていたのである。
 忘れていた。
 自分がこういうものを見てしまうのだということを。あの城の周囲には、死霊の影など微塵もありはしなかったから。だから、まりあは、この恐怖を忘れていたのだ。
 地面に蹲り、まりあは震えた。
 頭が、動かなくなる。
 逃げればいいのだ。けれど、そんな簡単なことすら思い浮かばない。ただ必死で視線を外し目を瞑り、耳を塞いだ。できるだけ小さくなる。いつもそうやって、彼らをやり過ごしてきたのだ。見えるだけ聞こえるだけで、何ができるわけでもない自分を、イヤになるくらい自覚していたから。
 それでも、死霊たちの無念の最期が、怒濤のようにまりあの意識に襲いかかる。
 財宝を求めて森に入ったものの霧に巻かれ、道を失い、そうして飢え乾いて死んだ者。黒い獣に襲われて負傷し、それがもとで力尽きた者。黒い獣に襲われ、虫の息で霧の中に捨てられた者。――殺された刹那の、死にゆく最後の瞬間の、死霊たちの断末魔の悲鳴が、まりあの意識を侵蝕してゆく。
 赫。
 紅。
 赤。
 鉄錆びたような生臭い、血の色。
 意識が血の色で焼き切れてしまう。
 狂いそうだった。
「いやぁー!! だれか……。ユーベル。ユーベルッ!!」
 自分が叫んでいることすら、まりあは気づいていなかった。
 地の底から湧き出るような呻き。まりあを中心に捕え、不気味な渦を巻く。ゆらゆらと揺らぎ押しよせてくる、あまた、死霊の群。それらがまりあに触れようと手を伸ばす。
 まさにその刹那、影よりもなお黒いモノが、まりあと死霊との間に割り込んだ。
 霧に湿ってなおのこと艶やかさを増した漆黒の毛並み。
 あきらかにまりあよりも巨大な、犬にも似たそれが、一声低く唸る。
 途端、死霊の群は長く不気味に引きずる恐怖の悲鳴をあげて、霧散した。
 耳が痛くなるほどの静寂が、まりあとそれの間に張り詰めた。
 からだにまとわりつく霧は、しんと冷ややかに湿っている。急速に意識した霧の冷たさ。まりあは大きく身震いした。髪や衣服が湿気を帯び、じっとりと重冷たい不快感に背筋が鳥肌立つ。
 ぞわぞわと落ち着かない感覚が背筋を這いずっている。そんな気持ちの悪さを感じながら、まりあは黒い獣から視線を逸らすことが出来なかった。
 まりあのほうをちらとも見ずに、しかし漆黒の毛並みは動かない。尻尾すら揺れなかった。ただ、四肢を、地面に踏ん張っている。
 なぜだろう? 心臓が痛い。
 自分を助けてくれたのに振り向かない。そんな獣の頑なさが、辛くて、悲しくて。
「ユー…ベル?!」
 おそるおそる自分から獣に呼びかけた。刹那、漆黒の毛並みが震えたように、見えた。
(ユーベル………)
 どうしてそう思ったのか。
 けれど、そうとしか思えなかった。
 考えるまでもなく、後ろから首を抱きしめていた。
 獣臭さが、ツンと鼻を突く。
 思ったよりもやわらかな、それでもやはり剛いイヌ科の獣の毛並みがちくちくと肌を刺してくる。
 まりあは顔を埋めたままで、 
「ユーベルでしょう。ありがとう。ごめんなさい………」
 突き飛ばしたりして。
 怖がったりして。
「でも、もう、あんなこと、しないで」
 あまりしっかりとしてはいないだろう自分の意識にユーベルが触れる感触は、気持ち悪くて。ユーベルの圧倒的な意志に、自分のやわな意識が、押し潰されてしまいそうになるのだ。
 吐きそう…になる。だから、意識に触れられるのは、イヤなのだ。
 顔を埋めているユーベルの首のあたりの筋肉が動くのを感じて、まりあは顔を上げた。至近距離に、黒い鼻面がある。
 見返してくるその瞳は、まるで水の底で揺れるはかない炎のようだった。
 潤んだ赤い瞳。
「ユーベル………」
 どくん―と、心臓が跳ねる。そうして鼓動が速さを増した。全身が血管になってしまったかのようだった。どくどくと、まりあを煽り立てるかのように、力強い脈動。全身をめぐりつづける血液の力強さ。それを生々しく感じて思わずユーベルから距離をとり、そうして途方に暮れるのだった。
 どうすればいいのだろう?
 涙がこみあげてくる。
 どうしてこみあげてくるのかもわからない。けれど、涙は、今にも下瞼から転がり落ちそうだ。
 まりあは、ゆっくりとほほえんでみた。
「ユーベル…でしょう?」
 二度目の問いかけに、黒い獣は意を決したように体の向きを変えた。と、不思議なことに、その輪郭がぼやけ始めた。
 錯覚かと思い、まりあは数度瞬いた。
 しかし、錯覚ではなかった。
 まりあの見守る前で、ユーベルの漆めいた輪郭が見る見る薄くなるのだ。かすかな燐光をまといながら、別の輪郭へと変貌を遂げてゆく。
 まりあはただ見つめていた。
 茫然と瞬くことを忘れた視界の中で、薄くなった輪郭が再び濃く結ばれてゆく。
 凝縮され、やがて、それは、ひとの輪郭となった。
 長身の若者へ―――
 足が震える。
 理屈ではない。
 恐怖ではなかった。しかし、目の当たりにした変貌は、あまりにも衝撃的だったのだ。
 すらりとした見た目から想像するよりも格段に逞しいと、知っている。
 その瞳の色、その容貌、ユーベルだった。
 理解しているつもりだった。
 ユーベルは人間じゃないだろう―と。
 少なくとも、彼自身人間として生きようとはしていない。理解しているつもりだったが、現実はダイレクトにまりあに揺さぶりをかけるのだ。
 力が抜け、その場にうずくまるまりあだった。
 霧の中。手を伸ばせば、ユーベルに届くだろう。わずかな距離だった。そのわずかな距離が、とても遠いものと思えた。
 ユーベルはその場にくっきりと浮かびあがっている。確かな存在感で、黒い布地をまとった若者として。
 まりあは、ただ、ユーベルを見上げていた。
「どうして、泣く」
 ぶっきらぼうな言葉に、まりあは自分がないていることを知った。
「オレが、恐ろしい…か?」
 わずかのためらいの後に、まりあは首を横に振った。
 恐ろしいと思った。けれど、それは、彼がひとではなかったからではないのだ。
 言わなければ、説明しなければ。しかし焦れば焦るだけ、夢の中の悲鳴のように声にならなかった。
 まりあが逡巡する。
 それを目敏く見咎めた途端、心臓が捻り潰されているかのように軋み、声にならない悲鳴をあげた。いまだ脈打ちつづける心臓の鼓動。いつもは微弱なそれが、痛いほどの生々しさで、自分自身を鞭打つ。


 彼の女と同じ名前の、少女。マリアだと確信したのに。


 マリアが約束どおり、やっと自分のもとに戻ってきたのだ――と、信じた。だから、あの時、彼が愛したシュロスヘリンの城の中へと、まりあを運び込んだ。その夜、まりあが自分を見返してきた黒い宝石のようなまなざし。涙に濡れた瞳が、数百年の昔に無残な最期を迎えた彼の女を彷彿とさせたのだ。
 十八才で死んでしまうまでの十年間、疑いようもなく、マリアはユーベルのものだった。
 たとえ、ひとと獣という在り方であったとしても―――。
 自分は、存在する限り、獣のままでいたかった。
 ひとに戻りたくなどなかった。
 理由は――――
 王位をめぐって兄と争った記憶が、そうさせた。王は二人は要らない。しかも、その二人は、同じ母親から同時に生まれたものなのだ。能力も人望も、ほぼ同じくらい。ならば、何で決定するべきなのか。
 信奉者たちを巻き込んでの、騒乱。
 神々を掲げての、死の要請。
 王国の礎のために命を神々に捧げよ―と。
 それは、強制だった。
 すべては、建国のための、混乱。
 けれど、あの時期が、ユーベルを人間不信―――不信を過ぎた嫌悪へと、誘ったのだ。
 はるかな過去の、まだ人間であった頃の、記憶である。
 はるかな昔に心に穿たれた傷のせいで、ひとの姿になる勇気はまだ、萎れたままだった。
 たかが、あんな記憶のために。それでも、たとえ結ばれることはなくとも、いつもマリアの心が自分にあるのだと、感じていた。
 萎れたままの心に、マリアが惜しみなく愛情を注ぎつづけてくれたから、それを信じることが出来たのだ。
 結ばれることがなくても、充分だった。
 所詮自分は、人であることを捨てたものだったから。
 マリアはその名の通り、聖母のような豊かな愛情で、彼を包み込んでくれたのだ。
 ユーベルは艶やかに花開いてゆくマリアのようすをつぶさに、眺めつづけていた。
 おだやかで、温かな、日々だった。
 しかしそれらが、自分たちの知らない場所でマリアに魔女の疑いをかけるきっかけとなったのだ。――まさか自分の選んだ狼であることが、マリアを追い詰めてしまうだなどと、どうして想像できただろう。
 そう。
 狼とは、魔女や魔法使いが変身した姿なのだと、当時教会は教えていた。特に、ヨーロッパにいるはずのない、黒い狼に対する恐怖を煽っていたのだ。いわれのない偏見と差別。そのために、幾百頭の狼が狩り立てられ殺されたか。
 マリアが自分に向けていた、信頼と愛情とに満ちた、あのまなざし。それにはほど遠くても、どうしても思い出させるのだ。
 まりあのほほえみが。
 心配しているのだと言って覗き込んでくる瞳が。
 愛情と喪失とを自分に思い出させてくれた、あの愛しい少女を、思い出させてやまない。
 なのに、突然マリアが見せた、かすかな、ほんのかすかなためらい。それが、ユーベルの心を締めつけるのだ。
 喉の奥に詰まる、岩のような、しこり。
 息が苦しい。
 ユーベルは、無理に飲み下そうとした。しかし、それは、できなかった。
 喉に手を当てる。それは無意識だったろう。けれど、彼は、まりあをとめたのだ。なのに、それは、まりあが喉を掻き毟ったのと、まったく同じ行為だった。先の尖った長い爪。それが、ユーベルの喉に喰いこみ、破る。
 つぷりと皮膚の破れる感触すらどこか遠いものと感じながら、ユーベルは地面に膝をついた。
 そうして、ただまりあを見つめる。
 赤い血が、ユーベルの手を伝い、落ちる。前かがみになったユーベルからこぼれた、わずかに一滴の、血。
 地は土に吸い込まれ、跡も残らない。
 しかし、ほんの一滴の血液が、耳を聾するような叫びを呼び覚ました。
 ユーベルの威嚇で霧散した死霊たちが、群をなして再び姿を現わしたのだ。
 ユーベルの流したたった一滴ばかりの血が、死霊たちを酔わせたのだろうか。それとも、ユーベルは芽生えたばかりの疑惑と不安とに、思いのほか弱ってしまったのか。そうして、死霊たちに小昏い歓喜を覚えさせることになったとでも言うのか。憎悪と恐怖、それに禍々しいばかりの歓喜に打ち震える死霊は、まりあを、ユーベルを、取り囲んだ。
 ユーベルの霞む視界に、まりあの瞠らかれた瞳が映る。その奥にある感情を読み解こうと、甲斐のない努力を繰り返す。しかし、ユーベルはどうしても立ち上がることができなかった。
「ユーベルッ」
 ぐらりと傾きその場に倒れたユーベルを、まりあは咄嗟に抱きしめた。
 死霊が、暗いまなざしでふたりを見下ろす。
 その気配の凶々しさが、まりあを震わせた。
 瞼を閉じることもできず、まりあは必死になってユーベルを凝視しつづけた。
「お願い。ユーベルおねがいっ!! 起きて」
 恐ろしさは変わらない。
 否。
 抱きしめたユーベルは、微塵も動かない。
 怖くて。
 怖くてならなくて、どうすればいいのかわからない。
 近づいてこようとしている死霊の気配をひしひしと感じながら、目を閉じることさえできないのだ。
 耳は、死霊たちの剣呑な呻きで埋め尽くされている。
 視界の隅を横切る気配に、頑なにユーベルだけを見つづけるまりあだった。
 しかし、耳を塞ごうにも、両手はユーベルを抱きしめるために使っている。
 高く低く背筋を逆毛立たせる呻きが、意識を覆い尽くしてゆこうとしていた。
 じりじりと死霊たちが輪を縮めてくる。ひしひしと感じながら、
(ユーベルッ)
 なお一層ユーベルを膝に抱きこもうと足掻いていた。
「ヒッ」
 ユーベルとその上に伏せたまりあとの間にわずかばかりの隙間がある。そこに、死霊の顔があった。
 ニヤリと意地悪く顔を歪めた死霊の笑顔。
 その不快さ。恐ろしさ。青黒い顔は血膿にまみれ、鼻もなければ瞼もくちびるすらもない。腐り溶け崩れているくちびるの間には、数本の黄色い乱杭歯が覗いている。ぞろりと伸びた青紫色の濁った舌が唾液を滴らせながら、まりあの頬を舐めた。
 ぞっと、全身が震える。
 どうしようもなく震えるまりあの全身に、覆いかぶさるようにして死霊が群がり、舐めずり噛みつこうとする。死霊の感触をからだのどこかに感じるたびに、そこかしこから力が抜けてゆく。
 気持ちが悪い。
 吐き気がする。
 全身が重怠い。
 ぐらぐらと揺れる視界の中で、肉を絡みつかせた骨のような腕がユーベルに向けて伸ばされていた。
「ダメッ!! ユーベルに触らないでっ」
 叫んだ。
 その刹那だった。
 ユーベルの全身から黄金色の光が迸ったのである。

光は、数多の死霊を薙ぎ倒し、魂消るばかりの断末魔の悲鳴をのみ後に残した。


 死霊の群は、もはやどこにも見当たらない。


 同日
 午前九時五十分
 森が光った。
 二人の日本人が惨殺され、彼らの連れの少女が行方不明となってすでに四日である。その事件で、ホテル・メンツハウゼンからは半数以上の泊まり客が引き上げていた。
 噂は速い。
 たとえ正しくても、間違っていても、一旦立った噂は油につけた炎のように素早いのだ。
 キッチンから調理用具一式が盗まれるという一件は、ホテルはもとより町の住人の知るところとなっていた。
 盗まれたものが盗まれたものなので、ユニークな泥棒が現われたと笑い話にするむきもあった。しかし、金品には手をつけておらず、遺留品は何も残されてはいない。それは、二人の日本人が殺された事件と結びつけられるのに充分な材料だったのだ。
 チェックアウトにまだ早い時間、ライザ・ミュラーは、従業員控え室にいた。従業員仲間が他に三名、クッキーやコーヒーがのっている簡易テーブルを囲んでいる。ビルギッテがクッキーに手を伸ばしかけ、同僚の話にうけでもしたのか声を出して笑う。
 時流に逆らうつもりはなかったが、タバコをやめることはできなかった。そんな愛煙家の常で、ライザは窓を開け放ちタバコをふかしていた。嫌煙権を強く主張する者が不在なことが、幸いだった。
 鳥のさえずり。緑の息吹。窓からの微風。
 和やかな時間。
 ライザは目を細め、大きく煙を吸い込んだ。
 吸い込んだ煙が輪っかになるように吐き出す。
 小さめの煙の輪がふよふよと空気に煽られ大きくなりながら薄くなってゆく。それを見上げたライザの口角が、ふっと笑いを形作った。
 森が光ったのは、その時である。
「ひっ」
 ライザはよろめき、思わず窓の桟をきつく掴んだ。目は大きく瞠らかれ、森から離れない。
 背後でも悲鳴が起きた。椅子が倒れる音や、食器が触れ合う甲高い音。
 この地域で生まれ育ち、州から出たのはせいぜい新婚旅行の時くらい。それは、この部屋にいる四人全員大差はないだろう。
 数百年の昔、あの森の奥には城があった。そこには魔女が住んでいて、ある時処刑されたのだ。魔女に仕えていた使い魔は処刑から逃げ、神父が封じた。以来、森には霧がたちこめるようになった。そうして、いつしか人々は“人喰いの森”と呼ぶようになったのだ。
 寝物語の枕辺で、母親や祖母たちが子供を躾ける時に使うお伽噺。
『悪いことをする子は森のモンストゥルムに食べられるよ』
 と。
 ライザもこどもたちが幼いころに、何度使っただろう。
 “人喰いの森”の伝説は、心の奥底深くに染みついている。それに、ライザはどちらかといえば迷信深い性質でもあった。
「モンストゥルム………」
 ライザの漏らしたことばに、三人が弾かれる。いつの間にか彼女たちの間では、日本人二人をバラバラに殺したのは、森に棲む化け物だというのが真相だったのだ。
 青ざめ、そうして、窓の外を凝視する。 

いつまでも四人は、森の方角を見つづけていた。


 まばゆい金色に、森が染まる。
 その光は近在の町ならばどこからでも見ることができた。
 ロマンティック・シュトラーセの観光客も、地元の住人たちも、その不思議な現象を目にした。
 移動中の車の窓から、昴一はその現象を目に留めた。
「シュトルベック警視」
 思わず呼びかけた昴一の指し示す先を、シュトルベックも見ていた。
 何もそれが、マリア・カガミハラの事件に関係があると考えたわけではない。ただ、ふと思い出したのだ。第一発見者ライザ・ミュラーの実家が、あの森に接している三つの町のうちの一つだったことを。ホテル・メンツハウゼンのあるU―町と、隣り合ったS―町。ライザの実家は、U―町とは森をはさんだ向い側にあたる、K―町だったはずである。
 関係があるかどうか。わからない。それでも、シュトルベックは、
「リンツ、行ってくれ」
 と、短く告げたのだった。
 それだけで通じるのだろう。運転していたリンツが車をロータリーに寄せて、方向転換をする。
 そうして十五分も走っただろうか。三人は、K―町に到着した。
 ホテル・メンツハウゼンのあるU…町から、車なら十分足らず。円錐形の赤い屋根の塔が印象的な小さな城は、おとぎ話の舞台にふさわしい。それがこの町の観光の目玉である。
 町は、突然の怪異に騒めいていた。
 城の裏手に広がる放牧地の向こう側。一メートルほど高くなっている崖の上が元凶なのだ。
 突然の発光で人々の興味を惹いたのは、伝説の“人喰いの森”だった。一年中深い霧の立ち込めている深い森。それは、知る人ぞ知るといった感じの場所だった。しかし、森にまつわる伝説は、町の住人たちにとって、ありがたいものではなかったのである。
 “人喰いの森”
 不名誉な、名前。
 地図上の名前を呼ぶものなどいない。
 過去に何度となく、冒険心にかられて森に入って、戻って来なかった者がいたことは、真実。苦々しい事実である。もちろん、無謀な若者の愚公をとめようとした。しかし、その八割近くは、森から帰ることはなかったのだ。
 全員が死亡したわけではない。森を脱出することができた者も、二割ほど存在する。が、彼らは皆一様に餓え渇き、間近なものとなった死の恐怖に怯えきった。
 同じ場所をぐるぐると回り、やがて訪れる餓えと渇きに力尽きて死んでしまう。何百年も昔から、森はそういう存在として恐れられてきたのだ。
 丈の低い草に覆われた、広い放牧地。ポツリポツリと羊が草を食んでいる。
 牧歌的な光景。
 しかし、伝説を信じる住民たちにとって、不安な景色でしかない。牧場よりも高い位置にある森に対する先入観。そのためだった。
 物好きな観光客がいないわけではない。怖いもの知らずな彼らは、深い霧のたちこめる森をバックに、写真を写すのだ。シャッター以外は物音ひとつしない不安な静けさのなかに、やがて再び森は沈み込む。森は、その静けさのせいで、より一層の存在感を誇示してしまうことになるのだった。
 この日、この時ばかりは、違っていた。
 城が目当ての観光客たちの能天気な騒めきに、不快な軋りが交じっている。それは住人たちの恐怖のささやきだった。
 観光客と住人とを区別するのは簡単である。
 観光客たちは不思議な現象の起きた森をバックに、カメラに向かって明るい笑顔を振りまいている。彼らの興奮のさまは微笑ましいものだ。
 しかし、住人たちは遠巻きにひそひそと声をひそめている。彼らの表情は、一様に青ざめ、硬い。
 彼らの口から頻繁に飛び出す“モンストゥルム”という単語に、シュトルベックとリンツは反応した。
 ライザ・ミュラーが事情聴取に応えて語った犯人が“森のモンストゥルム”だったことは、記憶に新しい。
 二人だとて、ライザの行ったことを真に受けているわけではなかった。それでも、事実そうとでも思わなければ、犯人像は空白のままなのだ。絞り込むことすらできてはいない。
 シュトルベックは一度口にしたきりで自分の胸に仕舞ったが、内心では犯人は捕まらないだろうと覚悟していた。
 体毛一本はおろか、皮膚の欠片、足跡、指紋、体液にいたるまで、遺留品は皆無なのだ。
 だからこそシュトルベックは、マリア・カガミハラの発見と保護に力を尽くしている。
 住人の一人に的を絞り、シュトルベックは近づく。昴一とリンツとが、あわてて彼女の後につづいた。
「失礼ですが」
 シュトルベックは昨日とは違う麻のジャケットの内ポケットから、身分証明書を取り出した。
「なんでしょうかな?」
 白髪を包んだ色鮮やかなスカーフ。その下には年齢の判然としない、善良そうな皺深い顔がある。老婆は嗄れた声でシュトルベックに答えた。
「モンストゥルムとは何か、ご存知ですか」
 老婆の目尻がふにゃりと下がり、くちびるの端が持ち上がる。と、たちまち得体の知れない、不思議な存在へと変貌を遂げる。そんな印象があった。
「お偉い警視さんがモンストゥルムについて知りたいとおっしゃいますのか」
 シュトルベックの人選は、正しかった。
「いけませんか」
 ふぉふぉ…とどこからか空気の漏れているような笑いを洩らし、
「いえいえ。いけないなどとは言っておりませんとも。ただ、長く生きておりますといろんなことを経験するもんだと思いましてね」
 白く濁った緑色の目が、焦点を結ぼうとさまよう。
「それで、ご存知でしょうか」
 老人相手だとつい、構えてしまう。そんな自分を悟られないようにと、どうしても丁寧な口調になってしまうシュトルベックだった。
「存じておりますとも。この町に住んでおるもので、知らぬものはおりませんよな。ごらんの通り見るものとてさしてない小さな町ですから。住人も、観光客相手のホテルに勤めるために越してきたものの他は、古くからここで生活しているものばかりですわな」
 二人の会話はもちろん、昴一にはわからない。しかし、わからないなりに耳を澄ましていた。おそらく、シュトルベック警視は捜査に不必要なことはしないだろう。漠然と昴一はそう考えていた。だから、焦れそうになりながらも、おとなしくシュトルベックと老婆の会話が終わるのを待っていたのだ。
 しかし――――
 老婆から聞き終えたシュトルベックが、教えてくれるのを待っているよりない。そんな自分に、鎮まっていたはずの焦りがよみがえる。
 話し好きらしい老婆は、なかなか結論にたどりつかないでいるようだった。じりじりと急くばかりの自分を落ち着かせることが、昴一には苦痛でならなかったのだ。
 森が光ったのは、たしかに不思議な現象だとは思う。けれど、それがどうだというのだろう。シュトルベック警視を信頼している。少なくとも、信頼しようとしてはいる。が、まりあには関係のないことではないか。それとも、何か確信でもあるのだろうか。
 言葉はわからないし、苛々する。
 まりあのことになると、どうしても我慢が利かなくなってしまう。あまり表情や態度に出るタイプではないらしい。少なくともクラスメイトには気づかれていない。級友の誰もが、自分のことを落ち着いているなどという。けれど、ことまりあが関わると、理性など簡単に揺らいでしまうのだ。誰よりも、昴一自身の自覚が強かった。
 シュトルベック警視の好意を考えれば、これくらいのことも我慢できない自分が情けない。
 浅く深呼吸を繰り返した昴一は、彼らから離れた場所で落ち着きを取り戻そうと考えた。
 老婆の話をメモっているリンツに許可をもらうと、彼らから離れた。
 ほかのことでも考えてみよう―と、森に意識を向けてみる。
 一度きりの発光のためか、興奮していた野次馬たちは、早くも森に対する興味を無くしたらしい。牧場にいるのは今や、放牧されている羊のほかには、昴一だけだった。
 夏の空はぬけるように青く、羊の鳴き声も鳥のさえずりも耳に心地好く響く。
 すべてが、昴一のささくれだった心を癒してくれるかのようだった。
 深い森。
 不思議な森。
 昴一にわかっているのはそれだけだった。
 どうしてこんな現象が起きたのだろう。
 霧と木々とのコントラストが、水墨画風に見えないこともない。細かな白いビニール地のカーテンのような霧が、あの時は本当に金色に染まっていたのだろうか。
(きれいだったろうな)
 眺めているだけでは物足りなくなった昴一は、牧場と森とを隔てている土手を登った。
 途端、雰囲気ががらりと変わる。
 ひんやりと冷たい肌触りの霧が、昴一に迫ってくる。
 体感気温が五度くらい低いのではないだろうか。思いもしなかった温度の変化に、昴一は全身を震わせた。
 崖を登っただけなのに、どうしてだろう。
 高低差はたかだか一メートルほど。なのに、鳥のさえずりも羊の鳴き声も聞こえない。思わず確かめるために振り返った昴一の眼下で、羊たちがのんびりと草を食んでいる。
(なんなんだこれは? いったいどうしてなんだ)
 もう一度、昴一の全身が震えた。今度は肌寒さのせいではない。それは、正真正銘、背筋を這いずった恐怖のせいだった。
 未知の現象を体験している。
 わかることは、それだけ。
 まりあの感じる恐怖も、こういうものなのだろうか。そんなことをふと思いつく。
 昴一には見えない、幽霊が見えてしまうまりあ。
 けれど、まりあだって、全部が全部見えているわけではないのに違いない。
 どうしてそんなことを言えるのか。
 突然引き取られることになった他人の自分を、まりあは本当の弟のように可愛がってくれた。幼い頃からずっと、そんなまりあが大好きだった。ほかの誰も見えなくなるくらいに。弟としてしか自分に接してくれないまりあの態度が、息苦しくなるくらいに。自分にとって、まりあは絶対なのだ。ただ、どうしてもわからなかったのは、まりあが時たま、何もいない空間を見て怯えたり逃げ出したりすることだった。
 自分には見えないものが、見えていることが不思議でならなくて、少しでも理解しようとその手の本ばかりを読み漁った時期があった。それによれば、まりあの怯えるモノは、案外どこにでもいるみたいで。
 あの頃の自分はまだ小学生だったけれど、まりあに見えている幽霊について、自分なりの結論を導き出した。それは、まりあにとってありがたくない結論だったろうけれど………。
 つまり、まりあが見てしまうモノは、彼女に対して悪意もしくは悪戯心を抱いているモノだけだと言うこと。だからこそまりあは怯えるはめになってしまう。
 そんなことだった。そうして、見ることのない自分にできることは何もないのだと、認めるよりなかった。
 それは、悔しいことだったけれど。
 自分が導き出した結論など、言えなかった。
 ただでさえ怖がっているまりあの怯えを煽ってどうしようというのだ。
 まりあが望む時に、できるかぎりそばにいよう。
 自分の無力を思い知ったとき、昴一はそう決心したのだった。
 独りきりで恐怖に震えるよりも、はるかにましだ。
 傍にいれば、少しはまりあの役に立つかもしれない。
 考え、そうして、実行してきた。
 なのに、今、まりあの行方は知れない。
 いったい、まりあは今どこにいるのだろう。
 自分がこうしている今も、まりあは怯えているかもしれない。
 もしかしたら、死んで?
 考えたくない事態を考えてしまって、ぞっと震える。考えるだけで、心臓がきゅうと縮む。
 心配と切なさと不安とが、昴一を責めたてるのだった。
「まりあ………」
 昴一がつぶやいた時だった。
 幻聴かと思った。
 けれど、澄ました耳にもう一度、今度ははっきりと聞こえてきた、声。
 それは、ひとの声だった。
 しかも、昴一にはとても馴染みの深い。
 自分が間違えるわけがない。
 断言できる。
 昴一は叫んだ。
「まりあ。どこにいる? 昴一だ。返事をしてくれっ!!」
 しかし、もはや返ってくるのは沈黙ばかりだった。
「ここにいるんだろう? まりあっ!!」
 森はあいかわらず霧に沈み、昴一の叫びを呑み込んでゆく。
 まりあはここにいるのに違いない。
 思い込みすれすれの確信だった。
 昴一は、森に、足を踏み入れたのだ。


「焦らして愉しんでおられる?」
 時間は少々前後する。シュトルベックは老婆にモンストゥルムの正体を訊ねていた。昴一が離れたことには、まだ気づいてはいなかったのだ。
「わかりますかの。貴重な体験ですでの。つい年甲斐もなくはしゃいでしまいましたわ。…さて、お教えしましょうかの。モンストゥルムとはの、十七世紀だったか十八世紀だったか、もしかすると十六世紀だったかもしれませんがの、なんせ魔女狩りの盛んな頃に魔女に使えた魔物―ディーンスト・ボーテのことをそう呼んでおるのですよ。黒い獣…一説には狼とありますがのぅ。そんな姿で、地獄の劫火のような赤い目をしておるらしい。魔女を殺した人間を憎んでおって、それで、何年もの間住人たちを恐怖に陥れたとのことですわ。使い魔に殺された先の神父の代わりがきて、退治しようとしたものの結局は森に封じるのがせいぜいだったとか。これは教会の威信に関わるとかで、公にされることはなかったらしいですがの。そういう話はどこからか常に漏れると相場は決まっておるものですよな。……使い魔はたしか昔は、ユーベル・レムゥレンとか呼ばれておったそうだが、今ではただのモンストゥルムで通じますのぉ」
 何百年もの昔から、霧の奥に廃虚があるとの言い伝えがある。
 ディーンスト・ボーテ―使い魔は、そこに今も棲み、そうして、魔女を殺した人間たちを今でも呪い、決して許すことが、ない―と。しかし、魔女が住んでいた城跡には、今でも魔女が集めた財宝が眠っている。それを守るために、使い魔が霧を呼んでいるのだ。 
 そんな伝説に冒険心を掻きたてられた者たちが、勇んで森に入り込んだ。その数は、数百、数千ともいう。彼らを待ち受ける運命は、生か死か。リング・ワンでリングという超常現象に嵌まりこみ、迷いに迷ったあげく息も絶え絶えに、もとの場所にたどり着けた者は、まだしも幸運なのだ。多くの者は、森から脱出することもできず、命を落とすはめになったのだから。
 冒険心に駆り立てられることはしかたがないだろう。しかし、勇気と無謀とは紙一重のもの。己の力量を知らないでとる行動は、ただの暴挙に過ぎないのだ。
 財宝を守っているらしい、魔女の使い魔。伝説のユーベル・レムゥレンに打ち勝つことができるのは、自分だ――などと。モンストゥルムを倒した暁には、財宝を自分の物に。そう夢想しながら、森にはいってゆくのだった。
 すべてが、過去のことならいいのだが。今でも森に入る若者がいる。昔ほど多くはないが、それが事実だった。伝説自体、さして有名なものではない。知るひとぞ知る、恐怖の伝説。それが、救いといえば救いだったろうか。
「とりあえず、そういう伝承が残っておるよな。で、皆信じておるのだろうよ。かく言う私もだがね。森は実際霧に包まれたっきりじゃしな。ここ数百年間、霧が晴れたという記録は残っておらんしのぉ」
 ふぉっふぉっふぉっふぉ………と、空気の抜けるような笑いで、老婆は話を締め括ったのだった。
 丁寧に老婆に礼を言い見送ったシュトルベックは、そこではじめて昴一がいないことに気づいた。
「コーイチは?」
 リンツは、
「森を見てくると」
 と、答えた。それに、
「入っていないだろうな」
 と、シュトルベックが独り語ちる。
「コーイチはドイツ語はわからないだろう。立て札は読めないと思うんだが…。英語ができるなら、大丈夫だろうか」
 シュトルベックのネイルコートだけが塗られているピンク色の爪が、指し示す。リンツがつられるように、シュトルベックの示すものを確かめる。そこには、木造の立て札があった。
 リンツは青ざめた。二次遭難は、困る。はっきり言ってしまえば、迷惑なのだ。人手がよけいに必要になるし、現場が混乱する。
 探しまわったあげく、崖の上に立っている昴一を二人は発見した。慌てた二人が足を速めたが、間に合わない。しかも、ここは、知る者ぞ知るといった場所である。その上、理由は、危険だからなのだ。老婆の説明を思い出す。
 二人の焦りも知らず、昴一は彼らの目の前で森に入ってしまった。二人は霧に呑み込まれてゆく昴一の背中を、絶望に近い思いで見送るはめになったのである。
 しかし、気を取り直したシュトルベックは、
「リンツ。近くの家からロープとペンキを借りて来いっ」
 鞭のようによく撓る声で、リンツに命令をした。それに弾かれるように、リンツは、
「わかりました」
 と、駆け出したのだ。
 リンツを見送り、シュトルベックは森を睨みつける。
 何を思って昴一が入ったのかは知らない。しかし、せめて最初に説明しておけばよかった。いまさら後悔しても仕方がないとわかってはいるのだ。若ってはいるのだが、注意を怠った自分に対して腹が立ってならなかったのである。
(リング・ワンデリングで済めばまだしも………)
 よれよれになろうと、生きて戻れれば御の字だ。そう思って森を睨むシュトルベックだった。

to be continued
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