狼は眠らない 6




(この森はいったいどうなっているんだ)
 まとわりついてくる霧の冷たさが、昴一を逆毛立たせる。
 ぞわぞわと鳥肌が立ち、ナメクジが背筋を這いずるような、不快な感触が昴一を捕えていた。
「まりあ」
 叫ぶが、返事はない。
 声は霧にただ飲み込まれ、こだますることさえもなかった。
 ついさっきあんなにもはっきり聞こえてきたまりあの声も、まるで幻聴だったかのようで。
 不安になる。
(あの声は、本当にまりあの声だったんだろうか………)
 思い浮かぶのは、ライン河岸の岩山に腰をかけ、その歌声で人をたぶらかすという伝説の妖精。ルールライといったか、ローレライといっただろうか。
(森にもいるかもな。………なんたって、伝説の宝庫だし。伝説にはほんの少しだけでも真実が含まれているなんていうものらしいし。グリム童話なんて、多分ドイツの民俗学みたいなもんだもんなぁ)
 まりあにつきあって、古今東西の不思議なはなしというヤツにはほとんど目を通している昴一である。
 もちろん自分なりの本の好みというものもある。それでも、やっぱり、好きな相手がどんなものを呼んでいるのか、知りたいじゃないか。おかげで、民俗学なんて学問があるってことを知ったし、面白そうだと将来の選択肢も広がった。
(まぁ、研究するのはいいけど、体験なんかはしたくないよな)
 思わず、自分の性格を呪いたくなった昴一である。
 自主性がないと断言してもさして間違いではないような読書傾向が、この時ばかりは災いしている。
 妖精やら悪魔やら。人間を食べたりいろんな悪さをしたりする、伝説上の存在。彼らが、妄想となって頭の中を暴走し始めていた。昴一の頭の中で生命を吹き込まれたたくさんの妖精や悪魔たちが、霧をスクリーンにして目の前で動き出す。
 そんな錯覚があった。
(なんだか、霧が濃くなってないか)
 少しずつ、木とその間の空間との区別がつきにくくなっていた。
 手探りしないと、木の幹や枝にぶつかりそうだ。ごろごろとした感触のなにかに足もとをすくわれそうで、歩きにくい。
(はやまった…か)
 何気なく頭上を見上げた。しかし、どこまでも白い霧が、渦を巻いてゆらりと動いているだけである。
 黙って森に入ったりして、シュトルベックとリンツが心配しているだろう。探しているかもしれない。
 今になって気づいた昴一である。
 自分で自分がイヤになりそうだった。
 我に返ったとでも言うのだろうか。煮立っていた頭が、急速に冷めてゆく。しんと心が冷静になってゆくのが、自分でわかった。しかし、正気に戻ってみてはじめて、自分が今置かれている状況が最悪だと気づいたのだ。
 方向感覚が失せている。
 これまで、昴一は自分の方向感覚に自信を持っていた。一度でも行ったことがある場所ならば、間違うことなくたどり着いた。初めての場所でも、基本的に方角を失うことはなかった。『体内磁石が渡り鳥なみ!! 生きたナビゲーション』と言ってからかうのは、いつもまりあだった。それなのに………。
 まるで昴一の焦りを嘲笑うかのように、霧は深く濃くたちこめてゆく。それ自体に意志があるかのような、霧の流れ。ゆったりとしていながら容赦のない対流は、いつしか昴一をその中心に絡めとってゆこうとしていた。


 めぐらせる視線の先は、どこもかしこもミルクめいた白い霧。
 視界いっぱいの白。
 まるで意志あるもののような、霧。
 昴一は、その嘲笑を聞いたような気がした。
 恐怖がじんわりと、重く下腹にしこる。
 いつしか救いを求めていた。
 しかし、誰が助けてくれるだろう。自分がここにいることを、シュトルベックがリンツが気づいてくれたとしても、森は、広いのだ。
 ついに、昴一は霧にとりこまれた。
 しだいに知覚がぼんやりと麻痺してゆく。自分が地面にまっすぐに立っているのか、それとも…まっすぐではないのかも、わからない。自分自身の置かれている状況がわからないのだ。その、不覚。自分の無様さを、今日ほど自覚したことはない。
 まとわりつく霧の中で、昴一は心臓に手を当てた。トクトク…と、少しばかり速いものの、確かに脈動しつづけている、体内の器官。
(落ち着け。落ち着くんだ)
 念じてみる。
 トクン…。
 ほんの少しだけ、緩やかになったと思ったのは、錯覚なのだろうか。けれど、その感覚を本物にしたくて、昴一は深呼吸をした。
 得体の知れない霧の中で深呼吸をするのは勇気がいった。ひんやりとした水蒸気の塊が、口いっぱいに飛びこんでくる。肺を満たす酸素の冷たさ。霧は、やはり、ただの霧なのだ。
 知覚のほとんどを目に頼っているだけに、いきなり見えなくなると五感が慌ててしまうのだろう。
 そう考えたとき、昴一の意識は幾分かの冷静さを取り戻すことができたのだ。


※ ※ ※
 

 どれくらい、こうしているだろう。
 ユーベルの頭を抱えて庇うように身を伏せてるまりあである。少しだけ、瞼をもたげてみた。
 ほっと、息をつく。
 そろりと上体を起こし、きょろりと周囲を探った。
 さきほど幾百もいた、恐ろしいばかりの幽鬼は、影も形もなくなっている。
 まりあは、起きたことを思い返した。
 ユーベルのからだから金色の光がほとばしり、そうして幾百もの幽鬼を消し去ったのだ。
(とても、きれいだった)
 ぼんやりと、まりあはユーベルを見下ろした。
 膝の上で目を閉じているユーベルは、妙に幼く見える。あの黒い獣の姿が、冗談ででもあるかのようで…。しかし、あれが現実だったのは、幽鬼に教われたのと同じくらい、確かなことなのだ。
(なんだか、不思議……)
 今になってみればどうしてあんなにユーベルを怖いと思ったのか―。その理由をことばにして説明することができる。
 自分は、あの時、ユーベルが男だと、強く意識してしまったのだ。ことばにしてしまえば、陳腐極まりない、異性に対する原始的な恐怖。けれど、今、自分の膝の上で瞼を閉じているユーベルは、とても愛らしい。そんな風に思っている自分を、まりあは不思議だと感じるのだ。
 まるで、家に来たばかりの頃の不安そうだった昴一を抱きしめているようだった。
(昴一心配してるだろうな………)
 生意気で頼りになる、ひとつ年下の、弟のような男の子。
(周子は、知ってるのかな? そうだったら、やっぱり、心配してるよね)
 大好きな、親友。
(さみしんぼのボリス。遠吠えしてる? 首にぎゅうって抱きつきたい。これって、ペット禁断症状だよね、やっぱり)
 家が恋しい。
 自分の部屋で、自分のベッドで、ボリスに抱きついて眠りたい。
 泉水でからだを拭くのじゃなく、湯船にゆったりとつかりたかった。バスタブじゃなく、湯船。お気に入りの入浴剤を入れて。
 周子とたあいのないお喋りをしたり、ボリスの相手をしたり、昴一と日常と化していたやりとりをしたかった。
 何の変哲もない毎日が、恋しくてたまらなくて。喉と鼻の奥にこみあげてくる熱い塊は、涙腺を刺激してやまない。
(ホームシックかな?)
 今になってだなんて。
(やっぱり、鈍い?)
 自分が可笑しくて、クスンと、喉の奥で笑った。そのとたん、下瞼いっぱいにたまっていた涙が、こぼれ落ちる。こぼれた涙は玉のような雫になって、ユーベルの頬にかかり、つるんと流れて消えた。
 ユーベルの、密度が濃くて長いまつげがかすかに揺れる。
 はっとなってまりあが見守る先で、ゆったりとユーベルの瞼が開いてゆく。
 赤い瞳にこめられている、とまどい。
「ユーべ…」
 呼びかけようとしたまりあよりも素早く、ユーベルの手が伸びた。
 思わず瞑った目元を、ユーベルが拭っている。恥ずかしくて、でも、目を開けずにはいられなかった。
「どうして泣いている」
 少しかすれた、声。真剣なまなざし。
 説明しなければと焦れば焦るだけ、どう言えばいいのかわからなくなる。
 ホームシックだと言って、もしもユーベルがここから出してくれたとしても、自分はきっとユーベルのことが気になってしまうのだ。家に帰ったところで、この森にユーベルが独りぼっちでいるのだと知っている。忘れることなんかできない。ユーベルのことを、この森での数日間を、どうすれば忘れることができるというのだろうか。そんな自分は、きっと、おとなしく家にいることもできなくなるに違いない。ここに来たいと思うのに決まっている。
 そう。
 多分、家に帰りたいのと同じぶんだけ、ユーベルと一緒にいたいのだ。そんな自分に、まりあはようやく気づいた。
(ユーベルのことが、好き)
 これは、自分でもわかっていることだった。
 しかし、“好き”の意味は? どういった意味の“好き”なのか。
 自分を見ているユーベルのまなざし。
 きれいな、赤い瞳。
(情が移っただけ?)
 昴一に対する気持ちと同じようで、それでいてどこかが微妙に違っているような。
 そんな気がする。
 小さな頃、弟や妹が欲しくてならなかった自分の前に、突然現われたひとつ年下の男の子。とっても嬉しくて、いつだって一緒にいた。どうして家に来ることになったのかを知ったときは、可哀相でならなくて。だからこそ、いくらでもやさしくできた。
 もちろん、今でも、昴一のことは、好きだ。
 けれど、この“好き”は、ユーベルに対するものとはどこか、違う気がしてならない。もちろん、ボリスに対するものとも、違っている。
(恋愛感情…なのかなぁ)
 昴一やボリスに対するのと違っているけれど、同じ気もする。一緒にいると、満ち足りて、落ち着いていられるのだ。
 けれど、満ち足りているけれど、どこかに、かすかな緊張があった。それが、ユーベルに対する感情が、彼らに対するのと異なっているところなのだ。
 どうして緊張するのか、ようやくわかった。
 自分はユーベルを異性として見たのだ―と。
 それこそが緊張の正体なのだとしたら、やはり自分はユーベルに対して、恋愛感情を持っていることになる。
(やっぱり、わたしって、昴一や周子が言うみたいに、鈍いんだ)
 いまさらながらの自覚に、まりあの思考が真っ白になった。
「ここから、出られないことを、嘆くのか」
 だから、ユーベルの口から出た、あまりにも見当違いなことばに、
「違うっ!!」
 叫んだものの、絶句せずにはいられなかった。
(何を説明する? 自分から、告白するの?)
 ユーベルのことばを打ち消したい。けれど、告白を自分からはしたくなくて。それに、ホームシックなのは本当のことなので。
「違うの……」
 自然、まりあの声が小さくて頼りないものになる。自分の抱えるジレンマをどういうふうに説明すれば、ユーベルに誤解されずに済むのか。こうして黙っている間にも、ユーベルの誤解は膨れあがってしまいそうで。
 けれど――。
『告白はやっぱり、するよりもされてみたいよねっ』仲間うちで盛り上がる、そんな空想。それは、憧れや夢で、同時に自意識なのかもしれない。もちろん今は、そんなちっぽけなこだわりにつまづいていられるときではないのだけれど。
(憧れてたのに………)
 それでも、夢を捨て切れなくて。まりあは半分泣きそうになりながら、
「Ich liebe dich.………わたしは、ユーベルが、好き」
 告白をした。途端、首から上が、嘘のように熱くなる。
 恥ずかしさを堪えている自分をユーベルの赤くてきれいな瞳が、見下ろしてくる。彼の眼球に、赤くなっている自分が映っている。それが、まりあを居たたまれなくさせるのだ。思わず顔を背けようとした。
 自分から逸らそうとするまりあの顔を、ユーベルが押しとどめる。
 左右の頬に、ユーベルの掌の感触を感じた。
 やさしく、しかし、拒絶は許さないとでも言うかのように確固たる力をこめて。
 ユーベルの顔が近づいてくる。
 いくら鈍いと言われつづけるまりあでも、ユーベルが何をしようとしているのかを悟るのは、簡単だった。
 近づいてくる赤い瞳。
 視界いっぱいの。
 そこにこめられているものを感じて、まりあの心が熱くなる。
 ユーベルのくちびるを待って、軽く瞼を閉じた。
 しかし、いつまでたっても、ユーベルは触れてこなかった。
(わたしのはやとちり?)
 不安になったまりあが瞳を開くと、そこにはユーベルの緊張した横顔があった。
 周囲にめぐらせる五感。それに何か触れるものでもあるのか、ユーベルは目を眇めて斜め上空を見上げている。
 ボリスが空気を嗅ぐ仕草に似ていた。
 さっき消えたはずの幽鬼の一群が、戻ってきたのだろうか。不安が、まりあの脳裏を過ぎる。
 頬に感じていたユーベルの掌の感触が、ふいに消えた。
 ユーベルはここにいるのに、まだ掌は頬に触れているのに。なのに、実体ではないのだ。
 そんな、不思議な、確信。
 ユーベルの姿が、ぼやけて見える。
 まるで、彼自身が幽鬼ででもあるかのように―――。
 かすかに発光する輪郭は、森を包む霧のようにゆたりと揺れ、そうして、一気に崩れた。
 まりあが目にする二度目の変貌だった。
 瞬く間もなく、ユーベルは漆黒の獣形となって、まりあの眼前に現われた。
 赤い瞳の、漆黒の狼。
 胸が大きく上下しているのがわかるくらい近くにいても、恐怖はない。たとえ、その長く伸びた鼻に皺が寄り、牙を剥き出していても。
 この姿もまた、間違いなくユーベルなのだと知っていたからである。
 しかし、なぜ、ユーベルがまた狼の姿になったのか。その疑問がまりあを震えさせるのだった。
 立ち上がろうとしたまりあを、ユーベルが押しとどめる。
 その時だった。
「まりあっ」
 背後からあがった叫び声。
 聞き慣れた、しかし、これまで聞いたことがないくらいに狼狽している。そんな、昴一の、声だった。
(どうして?)
 と、思った。
 どうして、昴一が、ここにいるのだろう。
 昴一は、家(日本)にいるのではなかったのか。
 自分が行方不明になって、四日目といったところだろう。多分。だって、時間の感覚があやふやな時が多すぎて、はっきりとしない。けれど、真純が、家に連絡をしたところで、こんなにも素早く来れるものなのだろうか? 真純は、決して自分が死んだとは、言わないと思うのだ。そんなことを言ったら、真純が自分を殺したと告白するようなものだから。
 グルル…という、ユーベルの喉の奥の唸り声が、まりあを現実に立ち返らせた。
 それは、威嚇の声だった。
「ユーベル。大丈夫。彼は、わたしの弟みたいな子よ。………ユーベル?」
 しかし、まりあの声は聞こえてはいないのだろう。鼻の皺は深く、唸り声は一層激しいものとなる。めくれあがった上唇の下から見える牙は、これ見よがしな凶悪さをたたえていた。
 昴一の見たもの。それは、身の毛もよだつような、ぞっとする光景だった。
 自分を包囲して解放しなかった霧が、突然ふっと開けた。濃いミルクがいきなり、スポーツ飲料のわずかな濁りに変わった。そうして、昴一は、かすかに霞む視界にまりあを見出したのだ。
 古風なドレスの後姿を、まりあだと直感した。
 無事だった。
 まりあ。
 純粋に嬉しくて。
 ほっとなった。
 まりあは、生きている。
 喜びのあまり駆け寄ろうとした昴一は、赤い一対に射竦められたのだ。
 まりあの背後に立っているモノ。それに気づいた途端、昴一の全身は逆毛立った。
 足が、動かせない。
 赤い瞳から投げつけられた視線は、これ以上ないくらい禍々しくて、冷や汗が背中を伝い流れ落ちる。
 まるで燃え盛る炎に鍛えられている鉄を押し当てられているかのような錯覚。
 全身が戦慄する。
 漆黒の巨大なケダモノの視線にこめられている恐ろしいほどの感情が、昴一の気力を挫こうとする。
『出てゆけっ!! ここは、シュロスヘリンのテリトーリウム――領土だ。出て失せるがいい』と。
『さもなければ、おまえは、ここで死ぬことになるだろう』
 殷々と頭の中に直接響く声。わからない外国語のはずなのに、ことばの一つ一つが、それに込められている憎悪までもが、理解できるのだ。その上に、幾通りもの人の死にゆくさまが、見えるのだった。警告に従わなければ、こんな死にざまが待っているのだ―と、言わんばかりに。
 その中に、見知った顔があった。
 恐怖と驚愕とに彩られた青い顔は、真純のものだった。首の切断面から血を流しながら、頭が転がり落ちる。悲鳴をあげて逃げ惑うのは、見覚えのある男だ。腕を引き抜かれ、足を絶ち落とされ、それでも苦痛の凄まじさに意識を失うこともできず正気を保っている。
 真純と俊雄の死にざまは、胸が悪くなるくらい血にまみれていた。昴一は、血が下がってゆくのを強く意識していた。それでも、こんなところで気を失ってはいけないと、自分で自分を叱咤する。
 あんなふうに、まりあまでもが殺されるかもしれない。
(そんなこと、駄目だっ!!)
「まりあ。逃げろっ。それは、真純と俊雄を殺したモノだぞっ」
 しぼりだすように叫ぶ昴一を、まりあは振り返った。
 久しぶりの日本語。しかし、それの語る内容は、思いも寄らないものだった。思わずユーベルを見上げ、
「真純さんと渡辺さんを、殺した、の?」
 と、訊ねていた。
 ユーベルがたくさんの人を殺していることは、知っている。その理由も。愛するものを殺された悲しみ。その癒えない悲しみが憎悪になったための行為だと、承知しているつもりだった。
 ユーベルの愛するひと。
 それは、夢の中の、女の人。
 マリア。
 夢の中では、ユーベルが愛したマリアと自分との境があやふやになる。そうして、自分が鏡原まりあなのか、それともマリアなのか、わからなくなってしまう。そんな夢の中で、死を、あろうことか拷問の後に訪れる死を、体験してしまうのだ。
 ありとあらゆる惨たらしい拷問器具の数々が、肉をえぐり骨を砕く。
『魔女だと認めろ』
 と、薄ら笑いを浮かべた魔女審問官―インクヴィズィートァが、まりあのかけられている拷問道具の歯車を回した。レバーをほんの少しだけ。
 あくまでも夢の中の出来事だったけれど。何をされても痛みは感じないけれど。それでも、恐怖だけはこれでもかと言うくらいあった。
 自分の指が潰されてゆく光景など、見たくない。肩を逆に捻り上げて脱臼させられたり、真っ赤に焼けた焼きごてを当てられたり。腱は断たれ、骨は砕かれて。目だって、白く霞むようになっていた。視野が狭く、見えるのは、ほんの限られた範囲だけ。
 火刑の杭に架けられたときには、自分で立つことすらできなかったのだ。
 自分は、よってたかって殺された。
 死ぬ寸前に、ユーベルに助けられた。
 死んでしまえば、おしまいだった。少なくとも、夢の中の自分は、そう考えていた。魔女の疑いをかけられて、それで死んでしまったら、天国に行けるのだろうか? わからなかった。けれど………。
 生まれ変わりなどという概念など、知らず。――――当時のヨーロッパでキリスト教に反するものを口にでもしよう者は、即座に異端の烙印を押された。それは、拷問までの最短コースであり、そのことはすなわち、火刑への最短コースも同様であったのだ。そういう時代、東方の秘術でもあった錬金術を学ぼうとする者たちは地下にもぐり、息を潜めているよりなかった。―拷問の最中に自殺しなかったのは、ただひとえに、自殺が教会の教えに反する最大のタブーだという認識のためだった。
 教えを説く教会にあれほど酷い目に合わされながら、染みついた教えに従い、なおもユーベルに自殺をしないで―と、告げたのだ。
 彼に、死んでほしくなんかなかった。

夢の中で死に瀕したまりあの心に、マリアとユーベルとの思い出が溢れ出していた。

出会いは、春まだき季節のこの森で。
 夢の中のマリアは、まだ八才だった。
 長かった冬が終わり、雪どけを待ちかねて城をこっそりと脱け出した。あちらこちらに根雪が残り、雪解けの水がちょろちょろと透明な流れを作っていた。
 冬の間満足に獲物を取れずに餓えただろう獣がうろついているから、城の門から外に出てはいけないと言われていた。そう注意したのは、今は亡い父母か、それとも城の家令だったのか。
 春を告げる小さな白い花を見たとたんに、忠告は頭から消え去ってしまった。
『春だ』
 と、感激しないではいられなかった。
 雪はきれいだから好きだけど、何ヶ月も城に閉じ込められていては、飽きてしまう。それに、吹雪いた日の寒さは、最悪だったりする。どんなに、地下の暖房用の巨大な炉ががんばって湯を沸かしても、暖炉で炎が燃えていても、暗くて寒くて城中が陰鬱な気分になるのだった。
 冬の間の暗く重苦しい雲が一掃された春の空のみずみずしさに、マリアは浮かれた。輝く空の青さに、はしゃがずにはいられなかった。そうしていつしか城の門から遠ざかっていることにも、気づかなかったのである。
 ウサギやキツネや鹿など、子連れの生きものたちが遠くに姿を見せている。羨ましいと思い、胸が痛んだけれど、彼らを見ているのは楽しかった。だから、ほてほてと歩いている子狼を見つけた時にも、状況の危険さに気づかないくらいだった。
 一頭だけもしくはこどもたちだけでうろついている野生の獣の子には、近づいてはいけない。なぜなら、こどもを探している親がすぐ近くにいる可能性があるからだ。ぴりぴりしている親は、自分のこどもに近づくものに容赦しない。春先に、これ以上危険な状況はまずないと断言してもいいだろう。
 気づいたときには遅すぎた。
 殺される。そう思って目を閉じたが、いつまで経っても親狼の攻撃はなかった。
 そう。ユーベルが助けてくれたのだ。
 漆黒の、巨大な狼。瞳は燃え盛る紅蓮の炎だった。
 ユーベルは、森に生きるものを守護するものだった。少なくとも、狩人に狙われた狼を逃がしていた。
 ただでさえ、狼はほとんど悪魔と同一視されている時代である。狼を狩ることは、教会の奨励することで。そのため、人語を解するかのようなユーベルは、狩人たちからは、悪魔の手先と恐れられ憎まれていたのである。
 しかし、たくさんの犬や猫に囲まれて育ったマリアには、犬に良く似た狼がそんなに悪いものだと思えなかったのだ。
 だから、マリアは、その黒い狼に助けられたのだと信じた。そうして、その奇妙な黒い狼のことが、大好きになった。
 マリアは当時両親を亡くした傷心から、まだ立ち直ってはいなかったのだ。葬儀の夜から帰ろうとしない叔母もその夫も苦手で、城にいたくないという思いもあった。
 父母が健在なときには、村の子供たちと遊んでも叱られなかった。けれど、身分が違うという理由で、叔母たちはマリアから村の友達を遠ざけた。こっそり遊ぼうと村に行っても、避けられる。淋しくて淋しくて、黒い狼に会おうとマリアは毎日のように城を脱け出したのだ。
 いつも会えるわけじゃない狼。
 会えたとしても、冷たくて。けれど、吠えられても牙を剥き出して威嚇されても、なぜか狼が自分を殺すかもしれないといった危機感は生まれなかった。
 どんなに邪険にしても怯まないマリアに、ついに狼が根負けしたのだ。
 そうして、嬉しくてならなかったから、マリアは狼にユーベルと名前をつけたのだ。
 ユーベルの行動の真意に気づいたのは、随分と後になってからである。もっとも、その頃にはもうどうでもいいことになっていたのだけれど。
 あれは、自分を救おうとした行動ではなかった。あのときのユーベルは、単に狼を助けたかっただけなのだ。
 人間を、しかも城主の娘を殺してしまっては、ただでさえ恐れられ憎まれている狼は徹底的に悪役にされてしまう。無差別に、狼は人間を襲うからと、狩り立てられることになるのだ。そうして失われるたくさんの生命を、
 ユーベルは救いたかったのだ。
 森の中で、ばけもののような黒い狼と仲良く森を散策する城主の跡取り。そんな光景は、村人や狩人たちには、得体の知れない存在と映ったのかもしれない。
 思い返せばそれが、魔女とその使い魔などという疑惑の元になったのだろうが。
 狼とは、魔女や魔法使いたちが変化したものだ。―そんな迷信がまかり通っていた時代である。
 死に瀕して、不思議と澄んだ頭で、彼が普通の狼と違っているのだと理解した。だから、今になってみれば残酷なとしか思えない遺言を残してしまったのだ。
 残された彼が不老不死に近い存在だと、知らないからこそ言える遺言だったに違いない。知っていれば、言わないだろう。――そんなこと、言えない。

それは、言い訳に過ぎないだろう。しかし、夢の中の自分は、知らなかったのだ。

「マスミ? ワタナベ?」
 独り語ちて、誰のことか察したのだろう。ユーベルはまりあを見下ろして、ほほえんだ。「あれらはあなたを殺そうとした相手だ。あなたが死ななかったのは、単なる偶然に過ぎないだろう。当然の罰だ」
 狼の口から出る人間のことばは、妙にくぐもっていた。
(彼らが、死んだ…殺された)
 確かに、好いてはいなかった。真純は苦手だったし、俊雄は怖かった。自分を殺そうとした相手である。けれども、殺されてしまったと、殺したのがユーベルだと聞いて、嬉しいはずがない。
 昔ユーベルが大量に人を殺したことは、まるで童話の中のできごとのようで。現実感はわいてはこない。けれど、ユーベルが彼らを殺したということは、とても生々しいものに思えた。
 胸を塞ぐ重く鈍い感情の塊が、喉の奥へとこみ上げてきた。舌の付け根がしびれる。鼻孔が過敏になり、瞳の裏が膨らんだような感触に襲われる。じんわりと下瞼に涙が盛りあがった。
(ユーベル………)
 ユーベルの黒い獣の姿が、にじみ歪む。
(ユーベル…)
 あふれた涙が、まりあの頬を濡らす。
(ユーベルッ!!)
 いつの間にか、まりあは顔を両手で覆い頭を振っていた。
 ユーベルが、まりあに触れようと腕を伸ばす。
「まりあっ。逃げろ」
 叫ぶと同時に、昴一は駆け出していた。
 昴一には、まりあが襲われていると見えたのだ。
 昴一よりもユーベルのほうが素早かった。
 あっと思う暇もなく、まりあはユーベルの背中を見ていた。
 ユーベルが、向かってくる昴一に相対する。
 霧が、密度を増した。
 からだにまとわりつく水蒸気の冷たさよりも、二人が対峙している現実が、まりあを心の底から震わせる。知らず、まりあは自分で自分を抱きしめていた。
 ユーベルのよく切れるナイフのような爪が、昴一の頬をかすめた。
 細い切り傷の赤が、まりあの目を射抜く。傷口からにじみ盛りあがった血液が、かすかに昴一の頬を汚していた。
「やめてっ」
 まりあの叫びが、霧に吸い込まれる。
 まりあの目にも、昴一のほうが不利だと映った。だからといって昴一だけが心配なわけではなく。まりあには、ふたりともが大切な存在で、どうすればいいのかわからなくなる。わからないままで、ただ、自然とからだが動いていた。
 鋭く鈍い光沢が、まりあの目の前、ほんの数センチ先にある。
 ユーベルの爪だった。
 とっさにユーベルが腕の勢いを殺さなければ、まりあの顔からは肉が削がれてしまっていただろう。その痛みを想像するだけで、まりあは竦みあがった。
 閉じることを忘れた瞳が、その剣呑さを脳へと伝える。
 ユーベルの赤い瞳も、昴一の褐色の瞳も、まばたくことすら忘れていた。
 三対のまなざしが、凝りついた空気を作りだす。

誰ひとりとして、動けるものはいなかった。

それを破ったのは、一発の銃声だった。
 地面に転がっていた古い頭蓋骨を弾が砕く。
「逃げろっ」
 鞭のようによくしなる声が、叱咤する。
 シュトルベックの声だと理解するよりも速く、昴一はまりあの腕を鷲掴むと駆け出したのだ。迷いはなかった。
 まりあを奪われまいと伸ばしたユーベルの手が、虚しく空を掻く。その時ユーベルの瞳を過ぎった悲痛な色に気づいたのは、まりあだけだった。
 こんな展開は予想外だった。それは、ユーベルにしても同様だったのだろう。両手をだらりと脇に垂らしたままの格好で、立ちつくしている。
 茫然と――。
 時間がどれだけかかっても、自力で。それが、まりあの覚悟だった。ユーベルを説得して、そうして森から出るしか、自分も納得できないだろうと。そんな自覚があったのだ。
 なのに、こんなことになるだなんて。
 ユーベルの虚ろなまなざしが、まりあの胸を締めつける。
 ユーベルの、あんな顔を見ていたくない。
 ここに残るから……と、慰めたい。
 けれど、昴一と一緒に行きたい自分も、確かに存在しているのだ。
「こ、昴一、離して。ちょっと待って…」
 まりあの声だけが、その場の緊張する空気に不釣合いなように響く。しかし、もとより誰の耳にも届いてはいなかった。
 突然なだれこんできた現実が、まりあを引き裂く。
 シュトルベックが、再び狙いを定めてトリガーを引いた。
 その一瞬後、凄まじい咆哮がユーベルの喉からほとばしり、森を震え上がらせた。
「ユーベルッ」
 振り返ったまりあが見たのは、よろめくユーベルだった。本当は一瞬のことに過ぎないのだが、時間を引き延ばしたように、ゆるゆると倒れてゆく。
 シュトルベックの放った弾丸が、ユーベルを撃ちぬいたのだ。
 地面に倒れ伏したユーベルは、動かない。
(ウソッ? こんな、こんなことって………)
「ヤだっ。昴一。離してっ。離しなさいったらっ!!」
 昴一の手を振り払い、ユーベルの元へ走ろうとしたまりあだった。しかし、まりあが走り出すよりも速く、シュトルベックが二の腕を掴んだ。
「なにをやっている。さっさと逃げるんだ」
 厳しい叱責に、昴一がシュトルベックとは反対側のまりあの手を握りしめた。

まりあたちが森から脱け出す寸前、霧がざわりと蠕動した。
 まるで、森から出てゆくまりあを留めようとするかのように。

左右から二人がかりで引きずられるようにして、まりあは森から連れ出されたのである。
 それは、まりあが行方不明になって、四日目のことだった。


※ ※ ※
 

 まりあが森から連れ出されてから、どれくらいの時間が流れたのか。
 霧に鎖された森の中に、ユーベルは倒れ伏している。
 ピクリとも動かないさまは、これまでに彼が屠ってきたものたちを彷彿とさせる。
 逃すまいとして、一度はまりあを追いかけたきりが、今はゆらゆらと、ユーベルの周囲を巡っている。
 なすすべを知らぬかのように。
 霧が揺らぐ。
 ゆるゆると。
 やがて霧は渦を巻き、そうして一ケ所に集まっていった。
 凝縮してゆく霧。
 それに反するかのように、少しずつ、ユーベルはぼやけてゆく。
 少しずつ少しずつ。
 ミルクのようにとろりとした霧に、漆黒の毛並みが溶け出してゆく。
 霧が、漆黒の毛並みに染められてゆく。見るものがいれば、そんな印象を受けただろう。 そうして、ユーベルの姿は、完全に溶け流れたのだ。
 闇色に染まったの霧と、今や木々の木目もわかるていどに薄くなった霧。二種類の霧は、明らかに別物だった。
 一陣の風が吹く。
 淡い霧だけが、心地好げに清しげに、吹き流されていった。
 澱んだ大気が清められた後に取り残されたのは、闇の色を宿した霧だった。漆のような闇を宿して漂っている、ゼリーのような濃い密度をした不定形の存在。もはやそれを霧とは呼べない。まるで途惑っているかのように動きを止めたそれは、今や一個の独立した意志を持つ、何かだった。
 何か―それを支配する何かは、紛いようもなく、ユーベル以外にはありえない。
 ユーベルの意識が支配するそれは、ふいにぶるりと身動いだ。人間であれば胴震いにでもあたるだろう。そんな突然の動きだった。と、コロンと音をたてて転がり落ちたものがある。
 それは、一発の弾丸だった。
 シュトルベックがユーベルに向けて発射した、銃の弾。
 ひしゃげても血に濡れてもいない。まるで何にも当たらなかったのだというかのように。
 一陣の風がまた。まるでこれまでの森のありかたは、ユーベルという異質な存在のせいで歪んでいたのだとでもいうかのようだった。
 木々の梢を鳴らし、残っていた霧が流れる。
 かつて霧であり同時にユーベルでもあったそれは、風が吹くたびに、闇の色を失くしてゆく。そうして、やがて白さを取り戻したそれは、風に後押しされて移動した。
するりと、いっそスムーズな動きだった。

(雨?)
 ライザは空を仰いだ。午前中の仕事に灯は必要ない。晴れの日は、窓から降りそそぐ陽射しで充分こと足りる。
 午前中のパニックは、森が一度きりしか光らなかったこともあり、すぐさま収まった。
 なにが起きたのかはわからないままで、いつしか日常の忙しさにまぎれていったのだ。
 それでも、ライザの胸には、呼び覚まされたモンストゥルムへの恐怖が波打っている。それは、理屈ではないのだ。ただ幼いころに脳の襞に刻み込まれた、純粋な恐怖であり畏怖なのである。
 窓の外が、白い。
 窓を開け放ったとたんに室内に流れこんできた霧の質感に、ライザはぞわりと震えた。
(霧じゃない)
 直感だった。
 まぎれていた恐怖が、煽られる。
 霧が町を呑んでいた。
 日光は遮られ、空気はひんやりと湿り気を帯びる。
 突然夜が訪れたかのようだった。
 犬は沈黙し、猫は物陰に隠れ、鳥は木の枝に固くしがみついた。人間だけが、なにが起きているのかわからずに、空を見上げた。
 そうして、ひとは、聞いたのだ。
『ケンネンズィマリアノッホ?(マリアを知っているか)』
 直接頭に響いてくる声だった。
 冷たい絶望と渇望とがにじんだ軋む声は、人々に己の絶望や希求を思い起こさせた。ぞろりと背中を這いずり、からだの中心に悪ぞ気が芽生える。それとともに人々は、マリアが誰のことを指しているのかを知った。声を聞いた人々の脳裏には、直接にまりあの顔が浮かび上がったのだ。
 脳裏に響く声に、ある者は首を振り、ある者は「知らない」と口に出す。人々は、震えをとめることができなかった。
 絶望。身を灼き尽くした、叶わなかった望み。胸の奥底深くに葬り去っていたものをよみがえらせた声を、彼らは恐れた。
 の鐘がけたたましく鳴り響く。
 まるで霧を森へと追いやらんとするかのように。ひとの心を救おうとするかのように。しかし、霧は微塵も揺らがない。声は教会を嘲笑い、陰鬱な声を響かせた。
「モンストゥルムッ!!」
 ライザは叫んだ。
「モンストゥルムだよっ! みんな。逃げないと殺される」
 ライザの絶叫に、不安げに周囲を見渡していた人々が弾かれた。家に残っている家族やペット家畜のことが心配でないものなどいない。
 寝物語の使い魔。鋸のような牙を持つ、歪んだ姿の黒い狼。地獄の劫火のような赤い瞳をぎらぎらと輝かせ、殺戮を楽しんだのだという。その主人である魔女を架けた火刑の杭は、この町、U―に残されている。かつての領主館、ホテル・メンツハウゼンの敷地のどこかに。
 今はワインの貯蔵庫になっている地下の半分以上は、昔は拷問部屋だった。魔女魔法使いの疑惑をかけられた人々は、そこで苛烈な拷問を受けた。そうして、やがては拷問部屋から広場へと引き出され、火あぶりの刑にかけられたのだ。壮絶な苦痛の果てに、彼らは苦悶し死んでいった。
 ヨーロッパならどこにでもあるだろう、魔女狩りの重く暗い歴史。いつもは忘れることができているいにしえの悪習を、それを行ったのが自分たちの祖先なのだという自覚とともに思い出す。
 ―――目覚めてしまったモンストゥルムの恐怖とともに。
 鳴り響く教会の鐘の音。
「天にまします我らの父よ」
 誰が最初に聖書の句を口にのせたのか。
「我らの罪を許したまえ」
 ほかのどの祈りよりも慣れ親しんだ日々の祈りが、口を突くのはしかたがないことだ。
「アーメン」
 口々に聖句を唱える。
 その場に跪き頭を垂れる。十字をきった彼らは、意を決して教会へと向かったのだ。
 職場放棄を咎めだてる者は、ひとりもいなかった。
to be continued
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