狼は眠らない 7 |
※ ※ ※マリア………。 奪われた少女。ユーベルにとって、まりあとマリアは同一の存在だった。 数百年の昔に奪われ、死んでしまったマリア。マリアを魔女だと密告した後見人夫婦が、彼の最初の犠牲者となった。たかだか地位や財産目当てで血の繋がった姪を密告するような輩だ。自分の手を汚すならばまだしも。ふたりは、自ら手を汚すことすらしなかった。 他人にまかせたのだ。しかも、腐りきっていた教会の異端審問官たちの手に。 そんな、汚らわしい輩を殺したことに、微塵の罪悪感もあろうはずがない。ただ、今となれば、後悔もあった。 それは、たぎりたつ怒りが収まらず、怒りに身を任せたことだ。もとより、村を全滅させても、怒りは解けなかった。 空いた村を満たそうという王の命令によって、新たにやってきた住人たち。しかし、当初、彼らを殺す気などはなかった。怒りは癒えなかったが、無関係なのだと考えるだけの頭はあった。そのていどの理性は、まだ残っていたのだ。 それに、血の匂いには、飽きてもいた。鼻につく生臭い匂いが、身に染みついたような気がしてならなかったのだ。 しかし、そんなユーベルの思いも、鼻持ちならない新任の神父によって、覆されたのだ。 自分を退治しようとする、思い上がった神父たち。キリストの威光と聖句で自分に立ち向かってくる神父たちを、幾人殺しただろう。 彼らがあてにならぬとわかってからは、修道騎士たちを送り込んできた。神に仕える騎士たちは、剣でもってユーベルに向かった。 もとより、力の差は歴然としていた。 あとは、マリアの墓を守って眠ろう。マリアの愛した薔薇のかおりに包まれて。―そんなユーベルの希望が叶うまで、彼に立ち向かったのは、そういった者たちだった。 あまりにも弱い彼らに、ユーベルは嫌悪すら覚えていたのだ。それでも、懲りないのだ。威信を傷つけられたと憤怒する教会は、次から次へと、神父や修道騎士たちを送り込みつづけた。 いっそ、出会いの森とマリアの城を霧で覆い、人間など近づけないようにして、眠ろう。そうすれば、このくすぶりつづける怒りも、いずれは癒える時が来るのではないか。辟易した思いで、ユーベルは決意したのだ。 立ち向かってくる者を無視できるように、ユーベルは以後数百年間にもおよぶ眠りに突いたのである。 神父や修道騎士たちが、ユーベルを封じたのではない。それこそが、伝説の真相だったのだ。 時折りの侵入者に眠りを破られながら、それでも眠り続けた数百の年月。目覚めて見出した、新たな、マリア。―マリアよりは幼い、けれど間違うはずのないマリアの雰囲気をまとった少女。 どんなに嬉しく思ったか。 どれほど、よかったと思ったか。 何も求めず、ただ好きだから一緒にいたいと、どんなに邪険にしても怯まなかった少女。いつの間にか、これ以上なく大切な存在になっていた。 だからこそ、この身が尋常のものではないのだとは、告白できなかったのだ。 ひとを呪い、異形と化して墓から這い出したものだとは。ひとに戻れば、マリアといつまでも共にいることができるとわかっていても、モンストゥルムとひとに謗られる者だと知られることが、怖かったのだ。 もしも、マリアに謗られれば、立ち直れないだろう。それがわかっていただけに、どうしてもできなかったのだ。そうして、彼が悩んでいる間に、マリアの後見人たちは、魔女の告発をしたのだ。 あの、酸鼻をきわめた地獄絵図へと、マリアを陥れたのである。 見出したマリアもまた、殺されかけたのだと知ったとき、自分で自分を抑えられなかった。だから、かつてのように、マリアの後見人を殺したのだ。マリアが再び殺される前に。 殺される前に、あらゆるものからマリアを守って見せる。そう、決意したのだ。ひながたのような、マリアを。 異形の存在だという告白にも、変貌を目の当たりにしても、マリアは恐れなかった。蔑みも、厭いもしなかった。 あれ以上の喜びを、自分は知らない。自分は、この少女―マリアのためだけに、生きているのだ。マリアが求めるのなら、自分は命をも捧げることができるだろう。そう思えるほどの凄まじいまでの歓喜が、ユーベルのからだを貫いたのだ。 至福の存在。 それが、マリアだった。 決して、二度と手放しはしない。その決意が、希望となった。 こんな自分の心など、まりあは知らない。 告げるよりも早く、またしても、この手の中から、マリアは奪われてしまったのだ。 心臓を銃弾に貫かれて、どうしてか元の姿をとることができない。一時的なものなのか、それとも永続的なものなのか。ユーベルに判断はできなかった。しかし、霧のままのほ うが都合がいいこともある。細かな霧の粒子は、森に接した、U―、S―、K―、三町を覆い、様々な気配を伝えてくるのだ。それは、狼の嗅覚に頼るよりも、格段に鮮明な気配 だった。あくまでも気配ではあったが。 突然、教会の鐘が、聾がわしく大気を震わせはじめた。 大気の震えは、霧をも震わせ、ユーベルのいまだ朦朧とした意識をも揺るがせた。 次々と、彼の一部となった霧を突っ切って、住人たちが教会へと押しかける。 ユーベルはそのさまを見下ろして、嗤った。それは、剣呑きわまりない、含み笑いだった。 教会に対する憎しみは、癒えてはいない。 マリアを奪われ殺されたことに対する、憎悪は、憎しみをすらはるかに凌駕している。 使い魔と戒められ殴られても、今更ひとの姿をとるわけにはいかなかったあの時―。自分が、狼でもひとでもないとばれれば最後、まりあは間違いなく魔女の汚名にまみれ、殺されるだろう。 聖水をかけられた全身の痺れ。狂信的な信仰心のこもった銀の鎖に戒められている苦痛。そんな中にあってさえ、マリアのことだけを考えていた。 狼は、魔女と魔法使いが変身したものだと、教会が発表していた時代である。人前で自分が人間に変身すれば、もはやマリアが救われる道は鎖されたも同然だった。だから――。 (隙をうかがうか、隙を作らせるかしか、方法はなかった)我慢したのだ。 棘のついた鉄の棍棒が振り下ろされた時の感触を、ユーベルはまざまざと思い出していた。骨が軋った不快な感触とともに、肉を抉る鉄の棘。 (野蛮な) 教え自体は立派なのかもしれない。しかし、宗教を教える側の人間が腐りきった時、どのように清廉な宗教であれ野蛮なものと成り果てる。 狼というだけで狩り立てられ、虐殺された数多くの同胞たち。 魔女だと密告されただけで、拷問され殺された人間たち。密告された者が魔女だと認めなければ、認めるまで拷問は続けられる。ただし、マリアは平民ではなかった。それなり の地位にある。だから、まだ、綿密にことの真偽を調べようとするだろう。 それだけが、一縷の望みだった。 そうでなければ、ひとたび魔女と密告されることは、すなわち死を宣告されるのも同然なことなのだ。 彼らの行為のどこにも、洗練はうかがえない。 時には、隣人の庭が自分の庭よりすばらしく、そちらを手に入れたいなどというとんでもない理由で、魔女だと密告することまでもあるという。魔女審問官との間に、取引までして。審問官や教会側、はては領主ががそうして懐を肥やしていたこともあったらしい。 そこまでいけば、密告された側に逃げ場などあろうはずもない。 それでも、ほんの一握りの希望に縋らずにはいられない。生をあきらめることなどできようはずもない。自殺して、墓に葬ってもらえないことを恐怖しないではいられない。 死後の安息を、得られないことは、この上ない恐怖だった。そうして、苦痛を堪え続けることになるのだ。 過去の情景に思わず身震いして、ユーベルは教会の上空から姿を消した。 鐘はいまだ鳴りつづいている。 後には、深い霧が渦巻くばかりだった。 ≪そ の 四≫同日 午後一時四十分 リンツの運転する国産車(ベンツ)の後部座席にはまりあが、助手席には昴一がいた。まりあの隣を占めているのはシュトルベックで、彼女はあの森がどういう場所なのかを二人に説明した。 車は動いている。 無理やり押し込まれて、森が遠くなってゆく。 「…だから、撃ったのですか」 流暢なドイツ語に、シュトルベックの瞳が瞠らかれた。マリア・カガミハラがドイツ語に堪能だという情報はなかったからだ。そして、昴一もまりあを凝視した。まりあは、豪華なドレスを着ている。それだけで、別に化粧をしているわけでもないけれど、まるで見知らぬ人物を見ているかのようで、胸が苦しい。 「そうだ。撃たなければ、きみたち二人ともが、殺されていたかもしれない」 シュトルベックの返答に、 「そんなっ。そんなことっ!! ………ユーベルは、決してわたしを殺したりしない」 灰色の瞳を見返す。 「ユーベル? あのモンストゥルムの名前だね。しかし、どうしてそれがわかる」 見返してくる黒いまなざしの意外な力強さに、内心でたじろいでしまったシュトルベックである。 「だって。だって…ユーベルは、やさしいもの」 まりあは、はっきりとことばを区切って発音した。 「やさしい?」 それは、意外なせりふだった。 「そうよ。ユーベルは………」 とってもやさしい。と、続けるはずだった。しかし、昴一に遮られた。 「なにを言っているんだ。あの化け物がまりあを殺さないっていう保障はなかったんだっ!!」 リンツが英語に翻訳する二人の会話を黙って聞いていた昴一だったが、ここで我慢できなくなった。いつの間にかまりあはドイツ語を流暢に喋るようになっている。それに、まりあを大人びて見せる豪華なドレス。それだけでも、まりあが遠くなったような気がするのに、よりによって、あの化け物をやさしいと言ったのだ。―そう。あの、黒い化け物のことをだ。 「あれは、真純さんと渡辺を殺したんだ」 ゆっくりと言い聞かせるように、英語で喋る。そのほうが、リンツとシュトルベックの同意をすぐに得られると思ったからだ。しかし、それに対して返されたまりあのことばのほうが、より一層衝撃的だった。 「そうかもしれないけどっ。でもっ。わたしは、彼女たちに殺されたのっ」 首に絡みついた真純の手。ひんやりと食い込んでくるつけ爪の感触。面白そうに見下ろしてくる俊雄の目。そうして、あの幽霊の、甲高い笑い声。あの時の光景と苦痛とがよみがえる。 知らず、まりあは首に手を当てていた。 「………殺された?」 昴一とシュトルベックが反芻する。 「どういうことだ?」 一瞬の後に助手席の背もたれごしに詰め寄ってきた昴一の勢いに、まりあは思わずたじろいだ。しかし、ユーベルだけが責められるのは、聞いていたくなかった。辛くてならなくて。 「昴一だって、気にしていたじゃない。真純さんと渡辺さんには気をつけろって。…渡辺さんが真純さんに言ったのよ。わたしを殺せって。そうして、真純さんが、わたしの首を絞めたの」 誰も口を利かない。けれど、食い入るような二対のまなざしと一対の耳は、先を知りたがっているのだろう。だから、まりあはつづけた。 「森に入ってすぐだった。後ろから羽交い絞めにされて、真澄さんと向き合わされたの。『殺せ』って。渡辺さんは、そう言ったの。真澄さんは、真っ青だったけど、反論しなかった。怖かった。殺されるんだって、わかって」 涙が、こみあげてくる。それを、レェスのひらひらする袖飾りで拭った。目の下がちょっと痛かったけれど、そんなことは、どうでもいいことだった。しゃくりあげてしまいそうで、浅い呼吸を数回繰り返す。そうして、まりあは先をつづけた。 「首を………絞められて、気を失っただけなのかもしれない。もしかしたら。でも、気を失っていたわたしを、あの森に残して、二人は森から出て行った。あそこはシュトルベック警視さんの説明してくれたとおりの森だもの。ユーベルは、わたしを放っておくことだってできたわ。放っておけばわたしなんか死んでいたのに。直接手をださなくったって、飢え死にしたわ。サバイバルの知識なんてないもの。けど、殺さなかった。わたしを森からは出してくれなかったけれど。それでも、わたしを助けてくれたのは、ユーベルなの。本当に助けてくれたのよ」 まりあの真摯なまなざしが、そうして思いも寄らなかった真相が、一同を沈黙させた。 ただ、昴一だけが、どうにも落ち着かない。胸の奥にわだかまる感情がある。それをことばにすれば、ライバル意識とでもいったものだっただろうが。 あの時、自分を庇うまりあの背中ごしに見た、あれの瞳の色を思い出す。 昴一は、あの瞬間に、恋する者の常として、あの化け物がまりあを好きなのだと、直感したのだ。それならば、あの瞳の中に自分が垣間見たと思った何か、に納得がゆく。そうして、昴一は、人間以外の存在に寄せるまりあの複雑な感情を知っている。だけに、まりあがあれを庇うからには、四日の間にまりあの心にも何がしかの想いが芽生えてしまったのだろうと推察せずにはいられないのだ。それは、ごく単純な推測だった。しかし、昴一には、それが、動かしがたい真実だという自信があったのである。 警視に飲むようにと勧められた薬のせいで、少しばかりぼんやりする。 (鎮静剤だという話だったけれど) 警視の膝を枕に後部座席に横たわっているからだが、水平に浮かんでいるかのようにゆらゆらと揺れる。そんなふうに感じはしなかったが、疲れていたらしい。 このまま目を閉じれば眠れる。 眠ってしまいたい。 けれど、眠ってしまえばユーベルの最後の光景を夢に見てしまいそうだった。 怖かった。 睡魔をこらえるまりあの思いは、自然、あの森へと戻ってゆく。 ユーベル―と、まりあが選んだ名で呼ばれることを喜んだ、不思議な存在。あの淋しい存在が見せた、悲痛なまなざしが忘れられない。 最後に見た光景が、脳裏によみがえる。 シュトルベックの撃った弾丸に射抜かれたユーベルが、地面に倒れるシーンだった。 ちらりと脳裏を過ぎった可能性に、ぞっと全身を震わせる。 まりあは、首を振って否定した。 そんなこと、あるはずがない。 あるはずがないのだ。 (そうよ。ユーベルは、言ってみれば狼男みたいなものだもの。きっとたんなる弾丸じゃ死なない。ヨーロッパの異形を滅ぼすためのアイテムは、銀の弾丸とキリストの聖水、あとは、十字架。………この警視さんが、そういったモノをわざわざ持ち歩いているなんてこと、ないと思うけど…) 穏やかそうな外見と単調な喋りがアンバランスな女警視を、そっと見上げた。どう見ても、迷信深いタイプには思えないのだが。 (きっと、生きてる) そう信じ、まりあは静かに瞼を閉じたのである。 「コーイチ。これからマリアの健康診断のために、州の警察病院へ行かなければならない。マリアの体調にもよるが、それから事情聴取となるだろう。君は、どうする? 多分、もうホテルには戻れないだろうから、荷物を取りに寄っておくかい? どうせ、通り道だからね。それとも、上月氏に持ってきてもらうか」 シュトルベックの提案に、昴一はしばし考え、 「寄ってください。上月さんに迷惑をかけるのも悪いですから」 と、答えた。 「リンツ。ホテル・メンツハウゼンだ。行ってくれ」 そうして、シュトルベックは携帯電話を取り出した。ダイヤルして耳にあてる。上月にまりあが見つかったと連絡しようと思ったのだ。 「……おかしいな」 シュトルベックは独り語ちる。耳から外した携帯電話の液晶には、圏外表示がでている。 もちろん、ホテル・メンツハウゼンが圏外なわけがない。 「リンツ。ようすが変だ。急いでくれ」 シュトルベックの命令に、リンツはアクセルを勢いよく踏み込んだ。 ※ ※ ※「うるさかったかい?」 膝の上から、まりあの頭の重みが失せた。 「眠っていていいんだよ」 「ここは」 目覚めたばかりのかすれた声で、まりあが訊ねる。まだ頭がぼんやりしている。 「ホテル・メンツハウゼンのアプローチだ。コーイチが、荷物を取ってくるというからね。 眠れるようなら眠っているといい。マリア。きみはこれから州の警察病院で、健康診断を受け、それから事情聴取ということになるよ。その時、あのモンストゥルムのことは言わないでおいてほしいんだ」 シュトルベックの真剣なことばだった。しかし、まりあは即答できなかった。 「どうして?」 「誰も、信じないだろう」 シュトルベックが苦笑混じりに説明する。 「伝説のモンストゥルムは、あくまでも伝説上の存在だよ。考えてもごらん。見なかった者たちが、どうやって信じられる? 信じないだろう? 公式の報告書ならなおさらそれが現実だよ」 「そうですね。……でも、ユーベルは、確かに、いたんです。いいえ。いるんです」 シュトルベックの灰色の瞳をまりあが見上げた時だった。 ダンッ!! 大きな音が車内に響いた。 音に弾かれ、音源を探った二人は、そこに百人近い人影を認めた。その中の数人が、防弾ガラスを嵌めてある窓を叩いた音だったのだ。 「マリア。きみはここにいて。ドアをロックすることを忘れないで」 スーツの内側、左脇下につるしたホルスターに拳銃があることをそれとなく確かめ、シュトルベックは車を降りた。 「何の用だ」 人影が、街灯に照らし出される。ぼんやりと輪郭が見て取れる人影の中に、シュトルベックは見知った顔を見出した。 「フラウ・ミュラーでしたね。これは、いったいどういうことなんです」 最前列の脇に、ライザ・ミュラーがたたずんでいる。それに向けて問いかけたシュトルベックに、 「神父さまのご指示です」 あたかも魂が抜けた者のように、ぽつりと呟いた。 「警視。ですから、マリア・カガミハラを、我々に渡してください」 異口同音のために聞き取りにくい響きの声が、目的を告げる。しかし、それは理由になっていない。 それよりも、まだ誰にも伝えていないマリア・カガミハラの保護を、なぜ彼らが知っているのか。シュトルベックにはそちらのほうが問題だった。 理性派を自認するシュトルベックだったが、この状況はくるものがある。まるでB級ホラー映画のゾンビのように、じりじりと輪を縮めてくる男女。その中心にたたずむシュトルベックは、自分の腋下がじわりと湿るのを感じた。 シュトルベックですらそうなのだ。この状況はまりあにとって、あまりにきついものだった。まりあは耳を塞ぎ目を瞑った。ほかには何も思いつかなかったのだ。 昼だというのに薄ぼんやりと暗い闇。灯は、アプローチの街灯だけ。自分は車の中に独りで残っていて、シュトルベックは車外にいる。そうして、車外には、ぼんやりとした人影が大勢揺らめいている。このシチュエイションには覚えがあった。怪談が盛りの夏場に、特に親しい。怖いのについ見て後悔してしまうテレビの再現番組でも何度か見たのを、まざまざと思い出す。それは、恐怖をなおのこと助長する。背中に冷たいものを感じて、胴震いせずにいられなかった。 ゆらり―と、からだが大きく揺れたような気がして、まりあは思わず目を瞠らいた。 「ヒッ」 悲鳴が喉を塞ぐ。 一対百である。シュトルベック独りの防戦ではたかが知れていた。シュトルベックは取り押さえられている。シュトルベックを避けて車を取り囲んだ人影が、力まかせに車を揺らしていたのだ。 「やめないかっ!!」 シュトルベックが叫んだ次の瞬間、数発の銃声がとどろいた。 一瞬にして、その場の空気が凍りつく。 猟銃を構えた人影が、その場にたむろする人波を押し退けて、シュトルベックと対峙した。 「警視さん。邪魔せんでいただこう。これは、神父さまのご指示なんすからな」 五十くらいの大柄な男が、至近距離から車の窓に向けて猟銃のトリガーを引き絞る。続けざまに放たれた弾丸は、幾発目かに窓を破った。 ドアから引きずり出されるまりあを目にして、 「マリアッ」 シュトルベックは、虚しく叫んだ。 「それでは、警視さん。たしかにマリア・カガミハラはいただいて行きますよ」 しゃがれた声でそう言うと、一つ二つと、人影が霧の奥へと消えてゆく。 独り取り残されたシュバルツは、きつくくちびるを噛み締めた。 昴一とリンツとが駆けつけてきたのは、この直後のことである。 ※ ※ ※ろうそくの炎が、風に煽られて揺れている。 そのたびに、幾枝にも分かれた手入れのいきとどいた銀の燭台は、ろうそくの炎を反射してきらめく。ステンドグラスが炎に揺らめき ながら照らし出され、煤でぼやけた天井画でさえ、荘厳な雰囲気を醸し出すのに一役買っている。 キリスト教一色に染めあげられている教会の内部は、しかし、不似合いな喧騒に満ちていた。神経にやすりをかけるかのような無遠慮なざわめきが、天井の高い広い空間にこだましている。 ツァオベリン―魔女と。 まりあは、手首足首を戒められ、あまつさえ猿轡を噛まされていた。そんな状況で、硬い木のベンチに腰をかけさせられているのだ。全身がぐるりと回りながら天井に飲み込まれてゆく。そんな錯覚に足もとを掬われていた。 デ・ジャ・ヴュだという自覚があった。 夢の中でのことだったけれど。すでに経験した出来事を追体験している。そんな、不吉な…厭な予感。背筋が逆毛立ち、そうしてびりびりと震えが広がってゆく。 小さな教会いっぱいにあふれかえりそうな人の群。 群がる人々が口々に喚く声が、うゎんうぁんと歪み撓み、まりあの耳を痛めつける。 全身が小刻みに震え、頭が締めつけられるように痛みはじめた。 群の中心には、僧衣をまとったひょろりと頼りなげな神父が一人、青ざめた面持ちで両手を胸に掲げている。まだ年は若いだろう神父は、途方に暮れたようにきょときょとと落ち着きないようすを見せていた。 どうもこの場を仕切っているのは、まりあの乗っている車に向けて猟銃を放った五十がらみの大柄な男であるらしい。 クロイツィゲンという単語が、耳にうるさい。 不快なことばだった。 それもそのはず、磔にするといっているのだ。 (だれを?……わたし?!) 彼らの視線が時々自分に向けられるのに、まりあはぞっと全身を震わせた。 教会の壁に背もたれている、残る人々のまなざしが痛かった。ちらちらと遠巻きにまりあを窺っている。そのまなざしのひとつひとつが、夢の中で投げつけられた石を思い出させる。 火刑の夢が、現実を侵そうとしていた。 硬い木のベンチが、生々しさを増す。 「まさか、本当に、あの森にモンストゥルムがいたとはな。信じもしなかったよ」 ただ一人、恐怖ではなく面白そうにまりあを覗き込んでくる者があった。咥えタバコに赤ら顔の、例の男である。 「神父さま。この娘を磔にして、そうして火をかけると言えば、モンストゥルムは出てくるはず。そこを、神父さまが聖句なり聖水なりを使って抑えてくれれば、いくら強いモンストゥルムとはいえ、適わないでしょう」 軽口のような提案に、神父は一層青ざめて、 「そ・そんなこと……勝手にしては、わたしが上に叱られてしまいます。だいたい悪魔払いには教皇庁の許可が必要なんですからね」 気弱に拒絶する。しかし、 「神父さま。教会ってのは、困った人間を助けてくれる場所なんじゃないんですか。今現在、儂らは困ってるんですよ。それとも、教会の教えってーのは、眉唾なんですかねぇ。献金を受け取って、偉そうに説教するのだけが神父さまの仕事ってわけですか?!」 “神父さま”を微妙なニュアンスで発音しながら、男は言う。 「そ・そんな。………ヘルマンさん。あなたは、教会を愚弄するつもりですか…」 反撃するものの、その声に力はない。 「なにも、そんなつもりはないんですがね。 でも、まぁ考えてみてくださいよ。神父さま。相手は悪魔というわけじゃない。どうせその昔に教会が森に封じたモンストゥルムじゃあないですか。それが、どうしてだか町に出てきてしまったんですから。これを神父さまがどうにかするってぇのは、アフターサービスというわけで、理に適ってると思うんですがねぇ」 粘っこい口調。彼こそが悪魔のような詭弁だった。しかし、町の代表者を自認する相手に勝ちをおさめるほど、この神父はいまだ世慣れてはいなかった。今の時代、もとより神父に俗世的な権限があるはずもない。その影響力は、個人の資質によるところが大きいのだ。第一へルマンは、この町一番の牧場主なのである。幾人もの牧童を常に使っているヘルマンの押し出しは満点で、神父の刃向かう気概はすぐさま押し潰されてしまうのだった。 町に異変が起きた時から、森のモンストゥルムに対する町の人々の恐怖が目覚めてしまっていた。まさか、今の時代にそんなことが起こるだなどと、彼らは考えもしなかった。それでも、何百年間にもわたって、寝物語に姿を変えて人々の心に刷り込まれてしまっていた恐怖は、たやすく煽られたのだ。その恐怖は、古くからこの地に根をおろしていた住民たちの意識の奥底に根深い本能となって眠っていた。 それは、生まれも育ちも生粋の都会の人間だった神父には、想像もつかない世界だった。 この町に赴任するまで、彼はそういった民間伝承のたぐいや因習とは縁がなかったのだ。 「しかし、ヘルマンさん。いくらなんでも、こんな女の子を火刑の杭に架けるだなんて。中世の悪夢を呼び覚ますつもりですか。あの、蛮行を。あれは、神の名を騙った悪しき因習にすぎなかったのですよ」 ちらちらと、神父はまりあを窺う。青ざめた少女は、傷ついた小鹿のような黒い瞳で彼を見つめ返した。その罪を知らなそうな瞳が、彼の良心を締めつける。しかし、 「だから。さっきから言ってるでしょうがっ。 はっきりしない人だなあんたも。あくまでも、真似事ですよ。真似事。モンストゥルムは、実際にいるんですから。声を聞いたでしょうが。蛮行なんかにゃなりませんよ。第一、モンストゥルムがいる町なんて噂がたてば最後、観光客が来なくなるに決まってるでしょうが。そうなったら、一気にこの町は過疎化ですよ。もともとさして財源があるわけでもないんですからね。金持ちの国から来る観光客が素通りしてごらんなさい。今でさえ滅多にここまで足を伸ばさないんですからね。殿様の道楽商売のメンツハウゼン以外は、細々と営業をしている民宿や喫茶店、みやげ物の店なんですよ。客が来なくなったら、その日からどうすればいいんです?! そうなったら、神父さん。あんたも教区の存続が危ういってことになるんですよ。困るでしょ」 ヘルマンは勢いよくタバコを吸い、煙を吐き出した。 よくよく考えてみれば極論であり欺瞞なのだが。しかし、ヘルマンの迫力に圧倒されつづけている若い神父に、それと看破するだけの精神的な余裕など残ってはいなかったのだ。 突然の霧。それと同時に直接頭の中に聞こえてきた、暗い響きの声なき声。それは、彼自身の経験したかつての挫折や苦悩を思い出させるものだった。だから、教会の鐘を鳴らして、町の人々を勇気づけようとしたのだ。 救いを求めて教会に集まってきた人数は、おそらく町の全住人だった。彼らの心に安息をと思い、説教をし聖水を分け与えた。それで、ほとんどの住人が帰っていった。 しかし、残った人々も、いる。彼らは、必死のまなざしで、神父を取り囲んだのだ。 『モンストゥルムを退治しなければ。神父さま協力してくださいますね』 ヘルマンの青い瞳が、有無を言わせないと、彼の瞳を覗き込む。逆らえば、実力行使も辞さない。ヘルマンのまなざしから、彼の決意のほどが痛いほどに伝わってきた。 『わかりました』 ほかになにが言えただろう。 神父の承諾を得て、ヘルマンは教会の周辺に聖水を使った結界を張ってくれと要請したのだ。それに、否はなかった。それくらいで彼らの心が安んじるのなら、いくらでも結界を張るだろう。それは、神父としての役割の内だった。応じた彼に、安心したのか、彼らは出て行った。 しかし、戻ってきた彼らは、一人の少女を 伴っていた。 ―否。 捕えていたのだ。 ヘルマンの牧童の一人が、少女を肩にかついでいる。 少女は、モンストゥルムが問いかけとともに脳裏に送り込んだ映像にそっくりだった。 アナクロな古いドレスは豪華で、少女の黒髪によく映える。 ぼうっと見とれていた自分に気づき、神父は頭を振った。 (それどころじゃないだろう) そう。それどころではないのだ。 少女は、猿轡を噛ませられている。あまつさえ後ろ手に縛られている上に、足首までも一括りにされているらしいのだ。裾からちらりと覗く足首のさまが痛々しい。ヘルマンのどこか偏執狂的なご丁寧さが、神父である彼の良心を刺激する。そうして、ヘルマンが肩に担いでいる猟銃の禍々しいまでの存在感が、彼の心を鷲掴んだのだ。 そうして、あまりの禍々しさにうろたえていた彼は、今や退っ引きならない状況へと追いやられたのである。 夢が現実になる、不思議な現実。 だからだろうか、現実味が稀薄だった。あの霧の森に独りでとり残されているかのようで、心細い。見えているのは木々の影だけで、あとは白く深い霧ばかり。方向感覚も何もなくて、おぼつかなさばかりがつのってゆく。 なのに。 現実だとまりあに教えるモノはといえば、口を塞ぐ布の湿った不快さ。それに何よりも、縛られている手首と足首の痛み。ヒリヒリと痛くて。ひょっとしたら紐の硬さに皮膚がこすれているのかもしれない。 痛みに気をとられていたまりあの耳を、モンストゥルムということばが射た。耳から脳へ、そうして心臓へ魂へと達することばだった。刹那、まりあはモンストゥルムが、誰を指す単語なのかを、悲しく思い出していた。けれど、 (ユーベルが生きている) その事実が、悲しみを凌駕していた。 まりあは、からだを苛む痛みを忘れた。 ユーベルの、黒い艶やかな髪。狼の姿の時の、少し剛い体毛。そうして、なによりもきれいだと思ったガーネットの瞳。たくさんのひとを殺した、恐ろしい存在なのに、どうしてこんなに愛しくてならないのだろう。ユーベルが生きていた。ただそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。いつの間にか下瞼いっぱいにたまっていた涙が、あふれて流れ落ちていることに気づいた。 「ユーベル……」 猿轡のせいで、くぐもった声にしかならない。それでも、口にせずにはいられなかったのだ。状況にもかかわらず、心があたたかくなった。しかし、次の瞬間、それは名残りもなく消え去った。 ふっと影が落ちてきた。同時に鼻孔を射た、タバコの匂い。膝から上げた視線の先に、ヘルマンの顔が迫っていた。思わず身を退こうとしたが、ベンチの背凭れに阻まれた。 鼻の大きな赤ら顔が、相変わらず面白がっているような表情で、まりあをじろじろと遠慮なく見る。 「あんた。行方不明だった日本人なんだそうだな。あのモンストゥルムとどういう関係だ? まさか、モンストゥルムに頼んで母親を殺してもらったとか? 相手がモンストゥルムなら殺人教唆にも問われないだろう。よかったな」 あまりにも下種な勘繰りに、まりあの瞳に火がともる。手足が自由なら、せめて手だけでも縛られていなければ、ヘルマンの頬をひっぱたけるのに。反論をしようにも、口を塞がれているまりあにはもとよりできるはずもない。と、 「ヘルマンさん。それはいくらなんでも…」 神父がおろおろと口をはさんだ。 「神父さまは、はやいとこあのモンストゥルムを退治する準備を済ませてください」 ぴしゃりとやられて、神父はしおしおと祭壇に引き返したのだ。 まりあにできることは、結局、苛立ちと憤怒とをこめたまなざしでヘルマンを睨みつけるだけだった。 許せない。 この男は、『よかったな』と、言ったのだ。 よかったな――と。 決して、真純を殺したいと思ったことなどない。嫌ってはいても、憎んではいなかった。それに、いくら憎いと思っても、そんな理由で相手を殺してはいけないのだ。どんな理由で憎んでいても、相手を殺して自分が罪に問われては、意味がないと思うのだ。まりあは、そんなふうに思うのだ。だからこそ、自分のために手を汚してしまったユーベルが悲しくてならない。どうすればいいのか、わからなくなる。 なのに、どうして、そんなことが言えるのだろう。自分たちのことなど何も知ってはいないのに。悪意があるとしか思えなかった。 まりあには、ヘルマンという男の悪意が信じられなかった。 「…思い出した。モンストゥルムは魔女とデキてたって話だ。色仕掛けか?」 あまりの暴言に、気分が悪くなる。これ以上値踏みするかのようなヘルマンの青い目を睨みつけていると、吐いてしまいそうだった。 結局、唯一取れる手段を選ぶよりなかった。 まりあは、ヘルマンから顔を逸らしたのだ。 その時、 「ヘルマンさん。準備が整いました」 おずおずとした神父の声が、まりあとヘルマンとの間で凍りついていた空気を砕いた。 まりあの全身が、爆ぜるように震える。 「おおっ。ごくろうでしたな」 「けど…効き目があるかどうか………」 「大丈夫。大丈夫」 立ち上がったヘルマンの、揉み手をせんばかりの声を聞きながら、まりあはおののきを隠せなかった。 フラッシュバックのように襲いかかってくる、夢の残骸。 投げつけられる石や罵声、人々の顔は醜く歪んでいたのだろう。 ユーベルを打ちすえる音が聞こえる。 大好きなユーベルの苦しむ声が、聞こえてくるような気がする。 まりあが過去の欠片に囚われている間にも、 教会の外ではヘルマンを先頭に火刑の準備が着々と進んでいる。 教会の中に、まりあは神父と二人残された。 「マリアさんというのでしたね。申し訳ありません」 まりあの意識を現実へ立ち戻らせたのは、神父の気弱さのにじむ声音だった。猿轡を外してくれた神父に礼を言うべきかどうか、まりあは瞬間悩んだ。 「でも、真似事ですから。もうしばらく我慢してくださいね」 真似事と説明されても、安心できる状況ではない。結局まりあは、礼を言わないことに決めたのだ。 気まずい雰囲気に、神父は居たたまれなくなったのだろう。血がにじんでいますねとつぶやきながら、手と足のロープを外そうとしゃがみこむ。 「よし。これで、完成だな」 ヘルマンの大きな声が、まりあの耳を打った。それとほぼ同時に教会の扉が勢いよく開かれる。扉が教会の漆喰壁にぶつかる音が、大きくこだました。 扉から風が吹き込む。空が光り、雷鳴が轟く。強風に煽られて、ろうそくの光が音をたててはためき、消えた。ヘルマンの黒々と大きな影が、稲光に石の床に灼きつけられる。それは、まるで悪魔の登場そのものだった。 荒れ狂う大気の中、ヘルマンの肩に担がれて、まりあは教会の外に連れ出された。どんなに暴れても、まりあの体重など重荷でもないのだろう。強い向かい風にも、ヘルマンはよろめくことさえなかった。そうして、ヘルマンの肩の上から、まりあは石畳の広場の中央に造られたモノを見た。 「ヒッ」 からだが強ばる。 オレンジ色をにじませる霧に浮かんだ、闇色の影の塊。 それこそはまりあの夢に幾度も現われた、 火刑の杭と薪の山だった。 「いやっ! やめてっ!!」 恐怖にかすれる、悲鳴だった。 「おとなしくしていろ。モンストゥルムを始末すれば、おまえは解放してやる」 夢ではなく現実で、痛みさえともなって、まりあは杭に縛りつけられた。 to be continued |
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