狼は眠らない 8



 マリアの気配がしだいに強くなってゆく。その至福に包まれて、ユーベルは休息していた。
   馴染んだ森の片隅で。
   マリアの近づいてくる気配だけで、ユーベルの心は癒されるかのようだった。だから、少しだけ、ほんの少しずつだけ、今やユーベル自身のような霧の密度が薄くなる。そんな気配すらあったのだ。
   しかしそれも、まりあの気配がふいに途切れてしまうまでだった。
   突然、ユーベルの休息は破られたのである。
   慕わしいマリアの気配にとって変わったのは、彼が嫌悪する匂いだった。
   ユーベルの意識をざわつかせる匂いが強くなる。狼の姿をしていれば、全身が逆毛立っていただろう。
   ユーベルが捉えたものは、あの忌まわしい聖水の匂いだったのだ。それが、彼の記憶を刺激する。―かつて、彼の動きは聖水のために封じられた。そうしてマリアを異端審問官に連れて行かせるに任せてしまったのだ。あのおりの厭わしい水が、土に染みてゆく気配だったのである。
   よみがえる記憶のせいで、怒りと憎悪が掻き立てられ、ユーベルは大きく震えた。
   ユーベルの怒りは大気をざわめかせ、嵐を呼んだ。耳を聾する雷鳴と、視界を白く灼く稲光。それに風が、ユーベルの心に同調するかのように荒れ狂い始めたのだ。
 
(いつまでこんなことをしていなければならないのだろう)
   自分をここに縛りつけた人たちが、ビールやワインなどをあおっている。酔いがまわっているのか異様なほどのテンションで騒いでいるのだ。そんな彼らを、まりあは見下ろしているよりない。手にしたライフルや松明を振りたてている彼らのさまが、まりあの不安を掻きたててやまなかった。
   ユーベルは来るだろう。
   きっと、かならず、来る。
   それは、確信だった。
   ユーベルが着てから、彼らはいったいどうやってユーベルを殺そうというのか。考えるだけで恐ろしくなる。
  (ユーベル。来ないで。来ちゃ駄目っ!!)
   自分は殺されない。これは、真似事なのだ。あの神父はそう言った。
   けれど―あの神父の気弱そうなようすが、どうしようもなく不安なのだ。
  (夢の中のマリアのように潔くなんて、ムリ。できない)
   何重にも巻きつけられた麻縄が苦しくて、息が詰まりそう。裸足にされた足が、油で濡れている薪を踏みしめている。そのぬめる感触が、恐怖を掻きたててやまない。誰かが、たとえばえタバコのヘルマンが灰でも落とせば発火するだろう。
   まりあは空を見上げた。
  (雨が降ってくれれば……)
   霧のはるか上空にあるかもしれない雨雲に、まりあは願わずにいられなかった。
 
 そのころ、昴一たちは教会を目指していた。しかし、深い霧はどうしようもなく彼らの足を鈍くしていた。車は危険だからと、徒歩だった。頼りは互いに手にする懐中電灯の明かりと、ぽつぽつと霧ににじむ街灯だけだった。
 
「はやいとこモンストゥルムが現われないことには、せっかくの舞台設定も無駄になるじゃないか」
   赤ら顔を酒気にますます赤く染めて、ヘルマンがぼやく。
  「そんなこと言ってもねぇ………」
   ライザは、縛られているまりあを見上げた。
  「あの子が餌になるなんて、ヘルマンさんの早合点じゃないんですか」
   ビルギッテが口を挟む。
  「馬鹿言うんじゃない。あんただって、あのモンストゥルムが見せてよこした顔を見ただろうが。名前もマリア。これ以上条件がぴったりの相手をどうやって探すつもりだよ」
  「そんなの…そうですけどぉ……」
  「雨が降ったら、火刑はできないんだ」
  「あくまで、真似でしょう」
  「そうだ。だが…リアリティがなくなってしまうだろうが。雨が降っているのに火をつけるって脅しても、意味はないと思わんか」
   わかりきったことをぼやき続けるヘルマンに、
  「これ以上酒を飲むのは、よしたほうがいいですよ。みなさんもです。そんなことで、モンストゥルムを倒せるとでも思っているのですか。イザという時にお得意のライフルの腕が鈍っていては、それこそお話にならないですよ。これだけは忘れないでほしいのですが、結界にはくれぐれも注意を払ってください」
   珍しくはっきりと神父がたしなめる。それに生返事を返す一同だった。
   神父は仕方ないというように、首を振ってまりあを見上げた。
   少女は、空を仰いでいる。風に煽られた黒い髪が、少女の顔を隠す。ドレスが風に翻るたびに、縫いつけられている宝石が、光を弾いている。レェスごと後ろ手に杭を抱くようにして縛られているのは、苦しいのにちがいない。まりあのためにもはやく決着がつくことを神に願い、神父は十字をきった。
  『マリアッ!!』
   願いが神に届いたのだろうか。まだ人々の記憶に生々しい、あの声なき声が殷々と響いた。彼らの脳裏を貫いたのは、憎悪だった。まるで融けることを知らない永久凍土のような、凄まじいまでの憎悪だったのだ。
   ユーベルの声なき声は、まりあを求めてぐるぐると波紋を描きつづける。そうして、教会と広場とを囲む霧が、じわりと濃くなってゆく。
  「ユーベルッ。来ないで。こないでっ」
   まりあは、叫んだ。
   しかし、まりあの声は、ユーベルに伝わらなかった。
   ユーベルは、まりあの気配をここに感じたわけではない。彼自身と化したような霧よりもよりはやく、本能的に直感したのだ。もしくは、かつての記憶から導き出したというべきだろうか。
   ユーベルは、本能に導かれるまま、ここへ来たのだ。けれど、結界が、火刑の杭を中心に教会と教会前広場に張り巡らされていた。それは、ユーベルに対して思いのほか強固な効き目を現わした。神父自身が驚くほどに、強力な結界となっていたのである。
   ヘルマンが、口に咥えていたタバコをむしりとるように投げ捨てた。
  「神父さま、よろしくお願いしますよ。さて。
   モンストゥルムが現われたようだ。ひとつ暴れてやるとしよう!! みんな、いいか?! 自分たちの町を、自分たちの手で守るんだ」
   ヘルマンの叫びに応えてあがった閧の声。 
   彼らの喚声に、広場が揺れた。
   彼らの閧の声の前では、雷鳴すらもが形をひそめたかのようだ。
   神父は、教会の説教できたえた声量で聖句を唱えはじめた。しかし、それすらも、彼らの叫びの前にはかき消されるのだった。
   その中の誰ひとりとして、さきほどへルマンが投げ捨てた火のついたままのタバコの吸い殻の行方など気にかけはしなかった。が、ヘルマンの手を離れた吸い殻は、放物線を描いて薪の中にまぎれこんだ。油に濡れた、火刑用に積み上げられた薪の山の中に―――。
   吸い殻は、人知れず赤い火種となった。
   誰ひとり、それに気づくものはいなかったのである。
   ライフルが、火を吹く。
   まりあの瞳からは、とめどない涙が流れつづけていた。
   逃げてほしい。
  『人間が一度に何百何千って集まってあなたを取り囲んだら、ユーベルだって逃げられないかもしれない』
   そう言ったのは、まだ今朝のことなのに。
   今朝のことなのに、現実になろうとしている。
   自分のことばは、通じない。それがわかっていても、叫ばずにはいられなかった。
  「ユーベルッ」
   一方通行の虚しい叫びが、広場に響く。
   自分を探すユーベルの声なき声が、一方的に胸に届く。その、悲痛なまでの響きが、まりあの心臓をじかに鷲掴みにするのだ。
   その間にも、ライフルの音は鳴り響いている。何人もの人が、ライフルを思うままに撃っている。ライフルを持たない者は、手にした石や松明を手当たりしだいに投げている。どこにモンストゥルムがいるかどうかもわからないままに、ただ、やみくもに投げるのだった。
   雷鳴が轟き、稲妻が走る。
   風が強くなってゆく。
   ここでだけ、まるで戦争がはじまったかのようなありさまだった。
  「くそっ」
   やがて、いつまで経っても手応えがないことに苛立ったヘルマンが吐き捨てた。
  「貸してくれ」
   そう言うと、手近の誰かの手から松明をもぎ取った。そうして、
  「モンストゥルム。姿を現わせ。さもなければ、薪に火をかけるぞっ!! いいのかっ」
   信じられない絶叫に、まりあの全身が強張りつく。
   ヘルマンの叫びに、その場の全員が凝りついていた。
   神父の聖句が、途切れた。
   仲間さえもが動きを止める。
   その場にいる全員が、目を大きく瞠らき、
   ヘルマンを凝視していた。
   松明の炎だけがかすかに揺らめき、その場にいるものたちの影を地面に描き出す。影が伸び縮み、炎が揺れるたびに、ゆらりと歪み踊る。
  (まるで、魔女のサバトのようだ)
   逸早く我を取り戻した神父が内心で呟いた時、ひときわ大きな稲妻が雷鳴とともに大気を貫いた。
   それが最後だと言うかのように、あれだけ荒れ狂っていた雷鳴や稲光がぴたりと止んだ。
  「オレならば、ここにいる」
   風に流されることなく朗々と響く、年若い男の声。それは、声なき声ではなく、大気を震わせる肉声だった。
  「最初から、隠れてなどいない」
  「ユーベルッ。来ないで。逃げてっ」
   まりあの喉をふりしぼっての絶叫も、焼くには立たなかった。
  「言っただろう。マリア。人間などに、オレが殺されることはないのだ―と」
   そのことばが、ことばに含まれていた明らかな嘲りが、ヘルマンの逆鱗に触れた。
  「姿も見せずに、大口を叩くなっ! この、モンストゥルムめがっ!!」
   同時に松明を大きく振りかぶり、そうして、力にまかせて投げつけた。
  「ヘルマンさん。いけませんっ」
   神父が叫んだが、遅かった。
   ヘルマンの爪先は、結界のラインから大きくはみ出していたのだ。
   結界は、破れた。
   これで、ユーベルを阻めるものは何もない。
   ユーベルは、笑いをこらえることができなかった。噛み殺し損ねた笑い声が、その場を支配する。
   笑い声に含まれている明らかな棘に、人々の強気が挫かれてゆく。
   最初から、森に棲むモンストゥルムに適うはずがなかったのだ。
   こんなことをするのじゃなかった。
   その後悔のままに、じりじりと後退る。
  「逃げるな。自分の町を、自分の手で守るのだろうが」
   内心の焦りを抑し隠し、ヘルマンが彼らの意気を煽り立てようとする。しかし、いったん挫けた決意を立て直すのは容易ではない。
   ましてや、相手は伝説のモンストゥルムなのだ。
  「姿を見せてやろう」
   モンストゥルムの声とともに、霧がじわりと薄くなった。
   様々なパターンの恐怖の絶叫が、口々に洩れる。それは、ヘルマンも、神父も例外ではなかった。
   彼らの視線は、一点に絞られた。
   そこには――――
   一般の狼よりも明らかに巨大な、漆黒の毛並。紅蓮の瞳。大きく突き出した鼻面。開いた口の隙間から見えるのは、地獄の劫火のような、赤い闇。そうして、剣呑な鋭さを想像させる、牙の連なり。―それらの特徴は、伝説にあるモンストゥルム、ユーベル・レムゥレンの描写そのままだった。いや、彼らには、それすらよりも、何倍も何十倍も恐ろしい姿に見えているだろう。
   憤怒に燃えさかるまなざしが、その場を一薙する。
  (チャンスだ)
   わずかのタイム・ラグの後にヘルマンのライフルが続けざまに火を吹いた。
   まりあの悲鳴が、遠く聞こえる。
   弾が、ユーベルのからだを貫いた。
   ヘルマンが仕留めた―と。おそらく全員がそう思っただろう。
   猟の腕を豪語するだけあって、さすがヘルマンだ―と。
   そんな一同の耳に、ばらばらと何かがこぼれるような音が届く。硬いものが転がり落ちる音だった。
   モンストゥルムの足もとに、何かが落ちて転がる。
   着弾したと思われた銃弾だった。それらは、ユーベルがからだを一振りしたことで、地面に散らばったのだ。
   三段が地面に転がる音が、しばらくの間続いた。
   ヘルマンの銃の腕前は、確かなものだった。しかし、目の前のモンストゥルムには、何の効き目もなかったのだ。
   それが、一同の恐怖を最終的に弾くことになった。恥も外聞もなかった。ここから逃げ出して家に閉じこもりたい。それが、彼ら全員の願いだったろう。そうして、彼らがやみくもにユーベルとは反対方向に駆け出そうとしたとき、彼らの足は止まった。
   薪の山が炎に包まれていた。
   瞬時にして彼らは、ユーベル―とモンストゥルムを呼び続けていたマリアの悲鳴の意味を正確に理解したのだった。おそらくは、ヘルマン以外が、性格に理解していたにちがいない。
  「マリアッ」
   ユーベルの絶叫が、火刑の杭を凝視していた神父の耳をしたたかに殴りつけた。我に返った神父は、無意識に懐に手を入れ取り出したそれを、ユーベルめがけて投げつけたのだ。
   近づこうとしたユーベルのからだに、ぶつけられたもの。それは割れ砕け、中身がふりかかる。
   途端、ユーベルの全身が大きく跳ねた。
   次の瞬間、ライフルすら倒すことのできなかった黒い姿が、その場に頽れたのである。
   しかし、恐慌に囚われている人々は、気づかなかった。見ていたのは、神父とヘルマンだけだったろう。
   ユーベルの漆黒の毛並みは、濡れていた。
   神父が壜ごと投げつけたのは、懐に入れたまま忘れていた聖水だった。効果を確かめた神父は、十字架を手に、再び重々しく聖句を唱えはじめた。
   聖句はもとより効き目はなかったが、神父にかけられた聖水が、ユーベルの全身を痺れさせる。まるで、彼の力でも断つことのできない鎖で全身を戒められているかのようだった。指の一本も動かせない。しかし、ユーベルの視界には、炎に炙られ苦しむまりあの姿が映し出されていた。
   ――それは、かつて、彼が覚悟しなければならなかった苦痛に影響を受けていた。目の前の現実が、微妙に歪曲されていたのである。それでも、さして長く待つまでもなく現実となるかもしれない。そんな映像だったのだ。
  (マリア…)
   全身を責め苛む聖水の痺れに抵抗しながら、それでもユーベルは、まりあを思いつづけていた。
 
 一陣の風が吹き、突然、薪が燃えあがる。 言うまでもなく、ヘルマンの投げ捨てたタバコの吸い殻が火種だった。
   炎に熱せられた空気がまりあを苛む。
   声を出そうにも、息が苦しくて咳き込んでしまう。煙の独特の匂いが、鼻孔を満たし、目に染みる。涙が視界を霞ませ、目を開けていることも苦痛だった。
   炎の熱が、恐怖を煽る。怖くて苦しくて、救いを求めないではいられなかった。
  「ユーベルッ………!! 誰かっ」
  「まりあっ」
  「なにをぼうっとしているっ! 水だ。水をかけろっ」
   それは、ようやく教会へとたどりつくことができた昴一とシュトルベックだった。
   シュトルベックの鞭のような声が、その場に立ち尽くしてしまった者たちを打ちすえる。
   それでようやく正気に戻った一同は、シュトルベックの指示のもと、消火活動にとりかかったのだ。
  「うわっ」
   風に煽られて、炎が大きく揺らめく。リンツの前髪が、少しだけ焦げる。炎の進軍が大きく進む。
   薪の山の三分の二までが、燃えさかる炎に包まれていた。
   ひときわ大きくなったまりあの悲鳴が、ユーベルの耳を射抜く。
   神父の見据える先で、ユーベルの全身がぶるり―と震えた。それは、どこか、犬が水を振り落とす仕草に似ている。と、弛緩しきったユーベルが、突然跳ね起きたのだ。肩が大きく上下し、開かれたままの口からぞろりと赤い舌がはみ出している。聖水の戒めを断ち切るのに、どれほどの力が必要であったのか。それを垣間見せるような弱り方だった。しかし、一対の紅蓮の瞳に込められた意志だけは、弱まってはいなかったのだ。
   炯と輝き、神父とヘルマンとを一薙ぎにする。必死で聖句を唱えつづける神父が思わずことばを失うほどの、圧倒的な迫力だった。凄まじいまでの迫力に、神父もヘルマンも動くことすらできなかった。  
   ユーベルはふらりと一歩を踏み出した。 独り取り残されたシュバルツは、きつくくちびるを噛み締めた。
   昴一とリンツとが駆けつけてきたのは、この直後のことである。
   昴一は不安でたまらなかった。
   火の勢いは止まらない。
   まりあの意識は朦朧としているのだろう。時折り咳き込むのが聞こえてくるだけになっていた。
   教会から引いてきたホースも、井戸から水を汲んで来てのバケツリレーも、役には立たない。
   火勢は衰える気配すら見せなかった。
   風が火を煽り立て、大きく育てているのだ。
   何の役にも立っていない自分。
   こうしている間にも、まりあが焼け死んでしまう。それを、自分はここで見ているよりないのだろうか。
   無力感が、衝動を生む。
  (そんなのは、イヤだっ!!)
   昴一は手渡されたバケツの水を頭からかぶると駆け出したのだ。
  「まりあーっ!!」
   昴一が絶叫する。
   そうして昴一は、火の中に飛び込もうとしたのだ。自分がどうなろうとかまわなかった。まりあを助けることさえできれば、それでよかったのだ。
   しかし、昴一が飛び込むよりもはやく、何かが彼の傍らを駆け抜けてゆく。
   風のような素早さで、漆黒の影が燃え盛る炎を掻き分けながら登ってゆく。
   灰がもうもうと飛び散り、火のついたままの薪が崩れる。
   風にのって飛びかう火の粉を避けながら、彼らは声もなく炎に染まった黒い影―モンストゥルムを見ていた。
   まりあを戒める縄を鋭い爪で切る。たった手首一振りのことだった。
   意識のないまりあのからだが倒れかかってきた。受けとめたまりあの重み。手の中に感じる存在の確かさ。しかし、ほんの半日ほど離れただけだというのに、まりあが軽くなってしまったかのように感じていた。
   ふつり―と、音をたててユーベルの心の中に鎌首をもたげようとするものがあった。
   ユーベルはゆっくりと瞼を閉じ、開いた。
   鎌首をもたげかけた新たな憎悪を、そうすることで抑えこむ。今はそんなものに囚われている場合ではない。
   ユーベルは、そっと、煤と涙とで汚れた頬に鼻面を寄せた。
  「マリア………」
   足元まで火が迫っている。今にもドレスの裾にその舌を伸ばしそうだ。悠長にかまえてはいられない。痛いくらいにわかっていた。
   しかし、どうしても、ユーベルは、くちづけないではいられなかったのである。
   風に煙が流される。
   燃えつづけている薪の山の頂上が、ほんの一瞬だけクリアになった。
   そこに昴一たちが見たのは、黒髪の若者がマリアを抱きしめくちづけている光景だった。
   そんな場合ではないというのに、昴一の胸がキリリと痛んだ。
   ユーベルのくちづけに誘われるように、まりあの瞼が、花がほころびるように開いた。
   ガーネットのまなざし。自分を見つめているそのやわらかさとあたたかさ。まりあを包み込む存在の確かさが、まりあの恐怖を癒してくれる。
  「ユーベル…よかった……」
   言わずにいられなかったことばに、喉が痛み咳き込んだ。空気に含まれている、苦酸いような煙の匂い。見れば、自分たちはまだ、薪の上にいる。まりあは思わずユーベルに縋りついていた。
  「大丈夫」
   ユーベルの、声。同時に、からだが浮かび、そうして、落下する。
   軽い衝撃はすぐにやってきた。地面についたのだと、まりあにはわかった。三階からユーベルに抱きかかえられて飛び降りるのは、毎朝のことだった。
  「ありがとう。ユーベル」
   咳き込みながら、言わずにはおれなかった。
   振り返れば、さっきまで縛りつけられていた杭に炎が移っている。
   あと少し遅ければ、自分は焼け死んでいただろう。もしくは、酷い火傷を負っていたかもしれない。
   逃げることもできずに苦しみ藻掻いて。
   はるかむかしの、罪なき魔女たちのように。
   ぞっと、恐怖が背筋を這い上がる。
   ユーベルが、背後からまりあを抱きしめた。包み込まれるような安心感。前に回された腕を、まりあは無意識に抱きしめ返していた。
  「まりあっ!」
   聞き慣れた昴一の声に、ぼんやりとユーベルに抱きしめられていたまりあは我に返った。
   昴一が走ってくる。その向こうには、まだ燃えている火刑の杭と、大勢の人々。なぜだか動かず、罵声も聞こえてはこない。どうしたのだろうと思ったけれど、それよりも、自分の今の格好のほうが問題だった。ユーベルに抱きしめられている今の自分。そうして、ユーベルのくちびるの感触までも思い出した。
   一気に羞恥心が芽吹く。
   どさくさ紛れのファースト・キス。
   気がついた時にはすぐ目の前にあった、ガーネットのまなざしのやわらかさが、まりあの羞恥心に油を注いだ。
   恥ずかしくて恥ずかしくて、全身がまだ火の中にあるかのように、熱くなる。
   思わずからだをユーベルから離そうとして、逆に力をこめられた。
  「ユーベル?」
   見上げてユーベルの硬い表情を知った。
  「まりあを放せ。ばけものっ!!」
   罵声に向き直れば、昴一がそこにいる。
  「ユーベルはわたしを助けてくれたのっ」
   まりあの悲鳴じみたことばに、
  「まりあを助けたことには礼を言う。だが、ばけものなどに、まりあはやらないっ。まりあは…まりあはっ」
   どんなに、まりあを自分のものだと主張したいだろう。しかし、
  『マリアは、オレのものだ。今も昔も、これからも永遠に………』
   直接脳に届くことば。それが、昴一の苦しみに新たな一撃を与えた。
  「そんなこと、緩さないっ!!」
   無謀にもユーベルに掴みかかった。
  「やめてっ! 昴一っ。ゆーべる……ッ」
   昴一がユーベルに適うはずがない。しかし、ユーベルなら、その腕の一閃で、昴一の生命を簡単に奪うことができる。―そんな場面など見たくない。ユーベルが昴一を殺すのも、昴一がユーベルに殺されるのも。どちらも同じくらい耐えられないことだった。
   あまりに無謀な昴一の行動に、まりあがユーベルの腕から脱け出す。
  「だめっ」
   手を広げた。
   昴一が苛立たしげにまりあを見る。絶対に引かない。そんな決意が見て取れて、昴一は逆らう気力が一気に萎えるのを感じた。
  「駄目よ」
   昴一の手を取りユーベルから少し離れた所に押しやると、まりあは二人に向き合った。
   ユーベルが、昴一が、まりあを見下ろす。
  「昴一。お願い。聞いて。わたしは、ユーベルが好きなの。だから…」
   まりあのことばを、昴一は先取りする。
  「だから? 日本に、家に、帰らないなんて言わないよね。そんな、人間じゃないのなんかと一緒にここで暮らす? 人に恐れられて、ばけものを好きになって人間を捨てたって蔑まれて、あげくのはてに今日みたいに狩られて。殺されかけてもかまわない? そんなの、絶対に許さない。許せるわけないだろう!!」
   それは、まりあ自身一度は考えてみたことだった。けれど、結論を出せなくて、保留していたものなのだ。わからなくて。どちらも選べなくて。まりあは、ことばに詰まった。
  「昴一………。ユーベル」
   まりあは二人の顔を交互に見比べた。
   二人のまなざしを受け止めて。
   昴一は、家族。これまで生きてきたすべてと繋がっている。なら、ユーベルは? 何なのだろう。まりあは自分の本心がいったい何なのか、見極めようとした。

   ヘルマンの暴挙と突然の炎上とが、モンストゥルムを退治するのだと張り切っていた者たちの毒気を抜いた。ある者は教会の壁に背もたれ、ある者はしゃがみこみ、茫然と燃え盛る狂乱の名残を見つめていたのだ。だから、誰も、ヘルマンの構えなおした銃口がユーベルを狙っていることに気づいてはいなかった。
   モンストゥルムを退治しなければならない。
   それは、もはや、意地だった。
   モンストゥルムをおびき寄せるための、餌。少女を殺しかけたこと。それに、簡単に退治できると思っていたモンストゥルムの思いも寄らないしぶとさに見せてしまった、醜態。
   無様だった。不覚だった。自身は粉微塵で、このままでは、町一番の牧場主として立つことができなくなりそうだったのだ。
   ジャケットのポケットを無意識に探った手に何かが触れた。取り出したもの。それは、
   銀の弾丸だった。
  (これは………)
   随分と前に、お守りだと妻に押しつけられて忘れていたものだ。ヘルマンは、二個の銀の弾丸をライフルに装填した。
   慎重に狙わなければ。二個きりなのだ。
   ヘルマンはライフルの照準を、人間に化けたモンストゥルムの背中、左肩甲骨の下に合わせた。
   その時、少女と目が合ったような気がした。少女が何かを叫んで、モンストゥルムの影に消えた。と、モンストゥルムは体勢を崩しうしろざまに倒れた。完璧に照準から外れたモンストゥルムの後に、少女の全身が現われる。
   それらはヘルマンがトリガーにかけた指に力をこめた、ほんのわずかな瞬間に起きた。
   しかしいまさら取り返しがつくはずもない。
   そうして――――
   ライフルが火を噴いた。
 

 決意を固めてまりあが瞼を開ける。
   どちらかを選べないのなら、両方を取ればいい。開き直りなのかもしれない。しかし、どうして、こんな簡単なことを思いつかなかったのか。二人が納得するかどうか、自信はない。それでも、言ってみるだけの価値はある。きっと。自分は、たった一人残った家族も、ユーベルも、失いたくはないのだ。
   しかし、告げようとした口が発したのは、悲鳴だった。
  「ユーベル危ないっ」
   叫ぶと同時にユーベルを突き飛ばそうとした。突然の出来事とまりあの渾身の力に、思わずユーベルがよろけ、そうして倒れる。
  「まりあっ」
   それは、昴一だった。なにが起きているのか、弓道できたえられている昴一の視力は瞬時に捉えたのだ。
   まりあに、銃口が向けられている。
  『ユーベル』とまりあが呼んでいる化け物が、よろめいたまりあの腕を掴む。抱き寄せようとしているのだろう。しかし、それでは間に合わない。須臾にも満たないわずかな間にそう判断した昴一がまりあの背中を勢いをつけて突き飛ばした。
   一瞬の出来事だった。
   ライフルが火を噴き、そうして、銀の弾丸が、昴一の左胸を撃ちぬいたのだ。
   倒れた昴一の流す血が、まりあとユーベルを濡らす。
  「こ…ういち? うそ……どうしてっ!!」
   まりあが、昴一を抱き起こす。抱きしめているからだは、まだ温かい。なのに、息をしていない。脈も止まっている。胸の穴から、とろりとぬめる血液が流れ出していた。ドレスがなまあたたかい血に濡れて重くなる。
   その頃になって遅らばせながらシュトルベックが駆けつけ、昴一の脈を確かめる。
   そんなことにも気づかずに、まりあは茫然と、ただ昴一を抱きしめていた。
   いつも自分を慕ってついてきた、ひとつ年下の男の子。自分を姉と呼ぶことを嫌って、いつだって名前を呼び捨てにして。いつの間にか、可愛かった昔とは別人のように生意気になってしまったけれど。それでも、まりあは昴一が好きだった。家族としての愛情でも、昴一が大好きなことは変わらない。今ではたった一人きり、家族と呼べる存在なのだ。
   なのに、この状況は何なのだろう?
   どうして、昴一は血を流している?
   倒れて、息をしていない。鼓動を刻む心臓も動かず、脈拍もない。
   生意気なまなざしは、二度と自分に向けられることは、ない。呼び捨てにされることも、ないのだ。
  「昴一………」
   まりあの流す涙が、昴一の流す血に混ざる。
   まりあの嘆きを、ユーベルはただ黙したままで見守っていた。
   これで、自分からまりあを奪う者はいなくなったのだ。しかし、歓喜は沸きあがってはこなかった。
   弟のような存在―そうまりあは言った。
   家族を亡くしたまりあの嘆きが、ユーベルを苛む。わずかな時間だったが、まりあは自分と昴一という少年とにはさまれて苦しんでいた。
   はるかな昔も今も、自分は結局、愛する者を救うことはできないのだろうか。
   苦しめるだけ苦しめて、まりあを救えない。
   れでは、自分は存在する意味がないのだ。
   人を屠り、恐れられ、そうして愛する者を嘆かせるだけの存在。それが自分だとすれば、意味がないではないか。
   まりあの嘆きが、心を引き裂く。
   熱く冷たい痛みとともに、ユーベルの心から血潮が流れる。
   まりあの肩に伸ばしかけていた手が止まる。
   わずかに戸惑い、思い切って震える手を握り締めた。ユーベルが立ち上がろうとする。
   その時だった。
   ユーベルのこめかみに、熱い鉄が突きつけられた。
   弾を撃った瞬間の熱は少しずつ冷めている。しかし、これが昴一の命を奪ったものだと、ユーベルは察したのだ。
  「この中に残っているのは、銀の弾だ。モンストゥルム。これで、きさまの呪われた時間を終わりにしてくれる」
   これが、ヘルマンの最期のことばになった。
   トリガーを引き絞るのと同時に、ユーベルの猿臂が伸ばされヘルマンの首は圧し折られたのだ。
   絶命したヘルマンの死体を無造作に投げ捨て、ユーベルはゆらりと立ち上がった。
   声もなく、動くこともできず、まりあはすべてを目のあたりにした。
   膝の上の昴一の骸はずっしりと重い。
   こめかみから流れ落ちるユーベルの血潮が、きらめきながら空気に散ってゆく。
   伸ばされるユーベルの腕が、白く霞む。
  「嘆くな。オレはいつまでもあなたの傍にいよう。それには、これが一番いい方法だ」
   なにを言っているのかわからなかった。ただ、ユーベルの言葉が悲しくて、淋しくて、辛かったのだ。
   ユーベルの掌が両方の頬にそっと触れる。
   近づいてくるユーベルの顔。
   ユーベルの乾いたくちびるが、まりあに重なる。それは、ひんやりと冷たいくちづけだった。そっと触れたくちびるが離れてゆく。
  「ユーベル………」
   思わず伸ばした手が空をきる。そこには確かにユーベルが立っている。なのに、触れることができない。
   いやだ―と、まりあが首を振る。
   振り続ける。
  『まりあ。これは、別れじゃない。あなたは、誰も失わない。家族も、そうしてオレも。決して失うわけじゃない』
   頭に響く声なき声が、告げる。
   涙に霞む視界で、ユーベルが靄のようにとらえどころのないものへと変貌を遂げる。それは溶かしたガーネットで薄く染められたかのような、蜘蛛の糸めいて見える靄だった。瞳と同じガーネットの色に輝く靄は、しばらくその場にたゆたっていた。やがて音もなく昴一の骸を包みこみ、溶けて消えたのである。
   まりあのしゃくりあげる音だけが、その場に響いていた。
  「マリア。いつまでもここにいてはいけない」
   シュトルベックがまりあを別の場所へと連れてゆこうとする。
  「どこにも行かない。ここにいるのっ」
   抵抗したまりあが、肩にかかっているシュトルベックの手を振り払おうと身じろぐ。
   ずるり―と、昴一の上半身が膝の上からすべり落ちる。
  「こういちっ」
   自分に残されているただ一つのもの。―昴一の骸。誰にも奪われたくなくて、昴一を抱きしめる。なにをどうするべきか、わからなかった。ただそうせずにはいられなかったのだ。
   そんなまりあを、シュトルベックが困惑して見守っていた。
  「マリア。本当に、いつまでもそんなことをしていては………」
   シュトルベックの声も、遠く水面から響くようにくぐもって聞こえる。
  (えっ?)
   昴一が動いたような気がした。
  (そんなこと。あるはず…ない)
   錯覚だと自分で自分に言い聞かせて、まりあは慎重に昴一のからだを膝の上に下ろした。
   血の気のない昴一の顔。
   自分を庇って死んでしまった。そうして、ユーベルもまた、消えたのだ。あまりに突然の焼失だった。
  (わたしだけを残して………)
   まりあの頬を流れた涙が、昴一の頬にこぼれかかる。森の中で幽鬼を追い払い意識をなくしたユーベルを目覚めさせたのは、この午前中のことだ。しかし、昴一は死んでいる。目覚めるはずがない。
  (そんな奇跡が、起こるはずない。けれど…)
   自分の涙にそんな力があるはずはない。それでも、もしかしたら…と、期待せずにはいられないのだ。自嘲気味に昴一を見下ろしたまりあは、ギョッと身を退きかけた。
   昴一の瞼が、開いている。
   そうして、そこにはめ込まれているのは、そこから自分を見つめているのは、見間違うはずのないガーネットの瞳だった。
   こみあげてくる涙が、視界を揺らめかせる。
   ゴボッとこもった音がして、昴一の口から鮮血が溢れ出す。
  「………ま…りあ」
   くぐもった声が、名前を呼ぶ。
  「しゃべらないでっ」
   流れる涙は、喜びの涙だった。
   一度まばたきをした後で、昴一の瞳は黒に戻った。それを見て、まりあはようやくユーベルの最後のことばを理解したのだ。―ユーベルは消えたのではなかった。ユーベルは、昴一に同化したのだ。同化して昴一を生き返らせてくれた。それは、まさに、奇跡だった。
  「まりあ……愛している」
   そのことばを言ったのは、昴一なのかユーベルなのか。流れる涙で、昴一の顔が霞む。わかっていると何度もうなづきながら、
  「しゃべらないで。シュトルベック警視。お願い。お願いします。ユーべ……こういち…
   昴一を、助けてっ!!」
   叫んだ。
   ヘルマンの死を確認していたシュトルベックが、まりあに駆け寄る。
   毛布と洗濯物を干す竿で急ごしらえした担架を持って、リンツと三人の男が駆けつけた。それぞれに、昴一とヘルマンとを乗せ、彼らはこの町の病院へと向かったのである。
   少しずつ霧が薄らいでゆくことで、それは比較的簡単な作業となった。
   まりあたちが教会の前を通りかかった時、赤く燻っていた杭が音をたてて焼け落ちた。灰が舞い上がり、風に煽られた火花が周囲を朱金に染めた。
 
 こうして、数百年の間恐れられていたモンストゥルム、ユーベル・レムゥレンは森をその呪縛から解放したのである。
 

≪エピローグ≫
 

 八月七日
   午前十一時
   ノックの音に病室の扉を開けたまりあは、そこにシュトルベックとリンツの二人を見出すことになった。
  「ちょっとかまわないかな」
  「どうぞ」
   折りたたみのパイプ椅子を二つロッカーから出してきて、まりあは勧めた。
  「明日帰国するそうだね」
   紅茶を注いだティーカップを二人の前に並べる。
  「はい。昴一の怪我もずいぶん快くなっているから大丈夫だろうってお医者さまが。今昴一は最後の検診に行っています。上月さんは手続きが色々あるからって」
   まりあの発見によって、事件の真相は財産目当ての継母とその愛人による相続殺人未遂だったのだと発覚した。そのことによって、なぞは残るものの、事件は二人の罪の意識による心中事件として片づけられることとなったのである。
   昴一とヘルマンの二人は、異常気象による集団ヒステリーの被害者とされた。ヘルマンの死は、落雷による感電死と処理された。
   シュトルベックとリンツの尽力で、すべては収まるべきところに収まったと言えるだろう。少なくとも公式の書類では、実在したモンストゥルムもまりあの火刑騒ぎもなかったことになっている。
   昴一は心臓被弾という瀕死の状態から驚異的な回復を見せた。起き上がることもできるし、車椅子に乗ることもできる。医師の説明では、完治するのに今月いっぱいはかからないだろうということである。
   すべては終わったのだ。
   自分用のマグカップにいれた紅茶を一口飲んで、まりあはシュトルベックとリンツを見やった。
  「これが発見されたので、届けに来たんだ」
   グレイの小ぶりなスーツケース。
  「君のだよね」
   M・Kのイニシャルが入っている。
  「そうです。わざわざありがとうございます」
   返ってはこないだろうとあきらめていた。けれど中にはスケッチブックが入っている。それだけが、惜しかった。ユーベルと紅薔薇の庭、それに寝泊りしていた部屋の水彩画。確かめずにはいられなかった。
  「ごめんなさい」
   しばらくして二人がいたことを思い出したまりあに、
  「ホテル・メンツハウゼンから盗まれたベッドや調理道具一式も見つかったよ。……モンストゥルムは、君を大切に扱っていたんだね」
   灰色の瞳が、まりあを見下ろす。
  「はい。とっても。とっても大切にしてくれたんです」
   たとえたくさんの人を殺していても、盗みをしたとしても、それはユーベルの自分に向けた真実だったのだ。過ぎるほど確かな。
  「シュトルベック警視さん。あの、お願いがあるんですが」
  「わたしが叶えられることなら」
   先を促すシュトルベックに、まりあは思いきって口を開いたのである。
   数百年にわたって森を覆っていた霧は、あの日を最後に消えた。永い間霧に陽射しを遮られていたというのに、滴らんばかりの濃い緑にあふれている。警察の制服に身を包んだ何十人もの男女が、何かを拾い集めている。それは、あちこちに散らばっているおびただしい数の白骨だった。
  「無理を言ってごめんなさい」
   どうしても行くと言い張った昴一が乗っている車椅子はリンツが押してくれている。リンツは気にしなくてもいいと言ってくれるのだが、どうしても謝らずにはいられなかった。
  「骨をすべて拾ってしまえば、立ち入り禁止の札も撤去されるんだけどね。なかなか済みそうもない。…あっち側に下生えを切り開いた道がある。そこならもう骨はないから」
   制服姿の警官がシュトルベックとリンツの見せた手帳に目を瞠らき、慌てて立ち入り禁止のロープを持ち上げた。
  「ありがとう」
   そうして、四人は森に入ったのだ。  さわやかな森の風。緑の匂い。鳥たちのさえずり。生きものの気配。下生えを踏み拉く、足音と車輪の音。
   樹木の連なりの隙間に現われた石組みの古城は、時代を経て古錆びたさまを見せて聳えている。その堂々たる姿は、かつての城主の権勢を垣間見せるのに充分なものだった。
   裏口らしきところから入って、瓦礫の山を避けながら、四人は進む。車椅子は瓦礫の散った場所を進むのには不適当で、リンツに肩を借りた昴一はゆっくりと歩いていた。やがて、まりあの見慣れた部屋が現われた。
   広間の壁には、肖像画が立て掛けてある。
  (ユーベルの過去。そうして、たぶん、わたしの、前世………)
   過去と今とが重なりあう、不思議な瞬間。
   数百年分の想い。相手のために命を捨ててもかまわない。そんな、情熱。そんな、愛情。その始まりが、彼女だったのだ。そうして、それは今、自分に引き継がれている。
  (大切にするから。たとえ、わたしが本当はあなたの生まれ変わりじゃないとしても…)
   目を閉じているまりあの手を、昴一がそっと握り締める。シュトルベックもリンツもいなければ、抱きしめていただろう。この上なく愛しい存在。まりあに自分の想いが通じないという焦りは、麻酔の眠りから覚めてから、嘘のように消えていた。それは、死に瀕したための悟りなのだろうか。ただ、自分が誰よりもまりあを愛している。それだけが強烈な自覚となっていた。これは、決して揺らぐことのない感情だった。
   シュトルベックとリンツは気を利かせて出て行った。
   まりあは昴一の手をいつの間にか握り返していた。気づいてしまったら、気恥ずかしくて。しかし、まりあは、離さなかった。
  「昴一。もう少しだけ。大丈夫?」
   瞳を覗き込む。
  「平気だよ」
   昴一がほほえむ。
  「じゃあ………」
   手を引いて、まりあは庭に出た。
   赤い蔓薔薇のかおりが甘く切ない。泉水が水盤に水を溜めてゆく音が耳に心地好い。
  「そう………ここに」
   昴一が呟く。
   四日間の残像が、そこここに現われては消えてゆく。そんな錯覚が、まりあを捕らえた。
   涙がこみあげてくる。それが何の涙なのか、まりあはわからなかった。
  「まりあ………」
   背後からもたれかかるようにして、その実昴一がまりあを抱きしめる。
   風が吹く。薔薇が揺れてはなびらが散る。
   背中に確かなぬくもりを感じながら、まりあは瞳を閉じた。
   これから、ここはどうなってゆくのだろう。
   不思議と心地好かった、秘密の地。
   伝説を生んだ土地。
   去りたくはないけれど。明日になれば、自分はこの地を離れ、日本に―現実に、戻る。
   けれど、失われるわけではない。このぬくもりは、失われない。思い出も。そうして、伝説と現実の両方を備えた存在が、いつまでも共に在ってくれるだろう。
   恋人として。
  (ユーベル…)
   昴一の中にユーベルを見てしまう。
  (狡い…ね………)
   そう思った時、甘く鈍い痛みが、まりあの心に生じた。薔薇の棘が刺さるのに似ている。うっすらと思った時、目を閉じたままのまりあの耳もとで、昴一がささやく。
  「愛してる」
   まりあはうなづいた。同時に、痛みがよみがえる。しかし、
  「これは、昴一とユーベル、二人分の告白だからね」
   思いも寄らないことばだった。
  「昴一っ」
   振り向いたまりあに、どこかふとい笑みが返される。それを茫然と見つめながら、まりあは心に刺さった棘が抜けてゆくのを感じていた。
  「まりあが悩むことはなにもない。ただ、受けとめて。………いいね」
   近づいてくる昴一の容貌に、ユーベルのそれがオーバーラップする。
   まりあは、ふたりを強く抱きしめた。
   風が吹く。
   赤いはなびらが、まりあたちを祝福するかのように、風に舞った。
 
ほろほろと風に散る赤いはなびら。
 
薔薇の根元で一体の骨が塵に還った。
 
人とも獣ともつかない、奇妙に歪んだ骨。
 
しかし、誰一人として、それに気づく者はいなかったのである。
 
おわり
1st : 2000.05.28
2nd : 2001.01.08
3rd : 2001.03.13
 
<参考文献>
求龍堂グラフィックス 『グリム幻想紀行  童話のふるさとを訪ねて』 小澤俊夫 監修/田中安男 取材・文/西盛 聡 写真
新潮社文庫 『グリム童話集T 白雪姫』 植田敏郎 訳
岩波文庫 『完訳グリム童話集3』 金田鬼一 訳
NHKブックス 『ヨーロッパの森から ドイツ民俗誌』 谷口幸男/福嶋正純/福居和彦
Sierra Club Books “WOLVES  CANDACE SAVAGE” L.David Mech
白水社 『オオカミ その行動・生態・神話』 エリック・ツィーメン/今泉みね子 訳
 
あとがき
 原稿用紙で350枚。これ以上書き直しはしたくないかも………。読んでくれた人が少しでも気に入ってくれれば嬉しいです。
 わたし的には、まとも?な少女小説だと思うんだけどなぁ…。ドイツ語の文法が正しいとは思わないでね。あと、ユーベルの喋ってることばが、現代ドイツ語なのは、ご都合主義です。本当ならヘブライ語かなんか古代のことばのはずなんです。でもそうすると、主人公の喋ることばがやばいので。
 
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