終わりなき夜







その二




 内海に面した漁港は、活気にあふれていた。
 港内に入りきらない船が、夏の間海水浴客で芋洗い状態になる砂浜のほうにまで整列している。
 トンビやカラス、それに、カモメをはじめとする海鳥たちが、ずらり並んでいる船の上空を我がもの顔で旋回し、かしましく鳴き交わす。しかし、港に集まった人々は、彼らよりもはるかに大きな声で、色とりどりの大漁旗で飾られた漁船と乗組員とに向かって口々に叫びながら手を振っている。
 晴れわたる秋空に、花火が打ち上げられた。爆(は)ぜる音はひとびとの喚声に取り紛れ、花火の数だけ現われる爆煙もまた、もやもやとたなびいたと思えば消えてゆく。
「――ちゃん、――ちゃんのおじいちゃん、これからなんがはじまるん?」
 まわりの声に掻き消されないように、連れの老人に向かって声をはりあげたのは、小学校低学年くらいに見える少女だった。
「これからの、漁師さんらが遠いとこにサンマ捕りに行くんじゃ。みぃちゃんサンマ好きじゃったろ?」
「うん!」
 花火の爆音すらもが掻き消される騒ぎを収めたのは、銅鑼の音である。
 ビブラートのよくきいた、金属板を布で巻いた撥で叩いた音色が、空気を震わせた。
 とたん、赤子のぐずる声とカモメの悪声以外は、しわぶきひとつたたなくなった。
 しんと静まりかえった港に、航海の無事と豊漁とを海神(わだつみ)へと祈る神主の祝詞(のりと)が朗々と流れはじめる。
 人々は、頭を垂れ、それぞれの身内の無事を、大漁を祈るのだった。
 儀式が終わり、再度、銅鑼がひとつふたつと、打ち鳴らされる。
 人々の緊張が解け、ざわめきが広がってゆく。
 やがて、港に終結した数十隻の甲板から、船主たちがなにやら陸に向かって投げ始めた。
 歓声をあげて、たくさんの手が空に伸ばされる。
 放物線を描く、無数の餅。それは、船主から留守を務めるものたちへの、感謝をこめた餞別だった。
 やがてすべての餅が見送りに集まった人々の手に拾われてしまうと、海鳥たちよりもかしましかった騒ぎが、徐々に収束してゆく。
 船出の時が来たのだ。
 これから船乗りたちは、漁へと出てゆく。しかも今年は、長い歴史を持つこの港の遠洋漁業の幕を下ろさなければならない。
 最後の漁である
 一月近い日々を、この地方の冬に比べればはるかに寒い北の海で過ごすのも、これで、終わりなのだ。
 この漁から戻れば、否応なく生活は変わってゆくだろう。
 港も変わり、町もひとも、暮らしすら変わる。
 規模を縮小して沿岸漁業に切り変えるか、加工業に転身するか、それとも、漁とはまったく関係のない新たな職を探すことになるかもしれない。
 先々の不安を忘れようと、親や子、恋人や兄弟たちに向かって振る手にも、自然力が入る。
 ただ見物に訪れただけのものたちもまた、彼らの熱気に巻き込まれ、精一杯手を振り返すのだった。
 数十隻の船団が、遠い北の漁場へと、航海を開始する。
 ゆるゆると、満艦飾に飾りつけされた大きな船が、港を離れてゆく。
 家族や恋人の乗り込んでいる目的の船に向かい、色とりどりの紙のテープが、まるで朝日に染まった蜘蛛の糸ででもあるかのように、弧を描く。
 するすると音もなく、芯に巻かれたテープが最後の最後まで、別れを惜しむかのように、たなびき、やがては水面へと淋しく落ちていった。
 そうして、船団が見えなくなるまで、彼らはいつまでも手を振りつづけたのだ。
 船の影すら海のかなたへと消え、やがて見送りに来た人々がその場から踵を返し始める。
 海鳥もまた、先ほどの騒ぎを忘れたかのように、油が輪を描く波間に羽を休めた。
 その時、パラパラとローターの音が大気を騒がせ、一機のヘリコプターが彼らの頭上にさしかかった。しかし、彼らは―海鳥すらもが、ちらりと上空に視線をやっただけで、すぐに興味を無くした。
 遠浅の海には大小の島が点在している。一番岸寄りの、三キロメートルほど沖合いには、このあたりの人たちが竜王島(りゅうおうじま)と呼ぶ島が見える。周囲四、五キロほどの、知らないものは無人島だと思っている島である。
 目を凝らしてよく見れば、角度によってではあるものの、黒々と繁る常緑樹―主に藪椿であろうか―の重なりあうあいだから、建物の一部らしきものが見えている。
 それは、かつてK藩家老職を勤めた名家の別邸だった。
 家老でありながら、海棠は医学もおさめていた。そのためか、単に人里離れた島という立地条件からなのか、百年ほど前に一旦閉めるまで、竜王島の別邸に関する噂には、あまり芳しいものが聞かれることはなかった。
 曰く、なにやらひとに知られてはならぬような実験をなされているらしい―。
 実際、竜王島の別邸は、その瀟洒な外国風の外観からは想像もできないが、医学の研究施設でもあったのだ。普通に治療もしていたらしく、ひところは、定期的に舟の往来もあり、医師や看護婦、患者やその見舞い客らが利用する姿が見られていたくらいである。
 さすがに、それは百年ほども前のことであるから、よからぬ噂話も、別邸にひとの訪れが絶えたため、一時はたち消えていた。しかしそれも、八十年ほど前に数年間ではあったが、ひとの出入りが再開されて以来、いまだにどこか妖しげな都市伝説めいた話として伝わっているのだった。
 ヘリコプターが、竜王島の木々を揺らしながら降り、見えなくなった。
 二十年くらい前から一月に二回、ほぼ定期的に、ヘリコプターが、竜王島に下りるようになった。それは、この地の住人にはもはや珍しくもなんともないものだったが、これもまた、噂が廃れることのない理由のひとつだったろう。


◇◇◆◇◇



 携帯電話の着信音が鳴る。
 時刻は朝の六時。
 クーラーの疾うに切れている明け方の空気は、残暑のまだ厳しいころとはいえ、肌にひんやりと心地好い。
 静まりかえった室内に、初期設定から変えていないだろう着信音が、鳴り響いた。
 部屋の住人は、ちょうどシャツのボタンを嵌めたところだった。
 ベッドサイドの引き出しつきテーブルの上に置いてある充電器から携帯を取り上げ、通話ボタンを押す。
 画面表示で相手の番号を確かめることもない。
 こんな非常識な時間にかけて寄越す相手は、一人しかいないからだ。
「はい。海棠です」
 これがこの日の第一声となる、低くかすれた声で応対する。
「……かしこまりました。それでは、巽さまにはそのように伝えておきます」
 折りたたんだ携帯をシャツの胸ポケットにすべりこませ、青年は、しばしその場から動かなかった。


 時刻は午後三時少し前。巽は、木々をざわめかせる騒音に本のページから顔を上げ、かすかに眉間に皺を刻んだ。
 残暑のきつい陽光が、室内に射し込んでいる。
「早いですね」
と吐き捨てる口調には、抑えようのない嫌悪がありありとこもっていた。
 耳を聾するヘリコプターのローター音がなにを意味しているのか、当事者のひとりである巽が知らぬはずもない。
 やがて島の西端の発着所から、男がふたり訪れるだろう。
 客を迎えるのは、柊一である。
 ほどなくして、飾り彫りのほどこされている木のドアをノックする音が、さして大きくもないのに巽の耳を射た。
「巽さま」
 ドアの開かれる気配に続いて、青年のしっとりと低い声が聞こえる。
 巽が振り返ると、ドアを背に、彼と同じ歳ほどに見える青年が立っている。
 巽のとろりと漆めいたまなざしが、陽光を弾いて刹那きらめいた。
「湿気がおからだに障ります」
 その言いざまのなにかがおかしかったらしい。巽の整った薄い口角がかすかにひきつれた。
 それを視界の隅におさめながら、青年は窓を閉め、クーラーのスイッチを入れた。
「柊一。クーラーの必要はありません」
 巽の薄いくちびるから発せられた青年の名が、玲瓏とその場に響いた。
 しばらく彼はこの部屋から出てゆかなくてはならない。その用件がどんなことなのかも、痛いほどにわかっている。だからこそ柊一は、用を済ませてここに戻ってくる巽の体調を考えればこそ、その間に部屋を居心地のよいものにしておこうと思ったのだ。そう、これから行われることが、彼の望むことではないとわかっているからなおのこと。
 もちろんのこと、これが、自己満足に過ぎないということは、柊一自身、重々承知しているのだ。
 なぜなら、無気力に、ただ自分自身を苛んでいるだけのような巽を、見ていることしかできない自分が、辛いのだ。
 せめて、部屋へ戻った後に、彼がからみつくような湿気を感じないですむように―。
 彼の見張り役を任されているからこそ、ここにいることを許されている自分が巽のためにできることといえば、これくらいしかない。
「清之介さまがお見えになられました」
 柊一が告げた内容に、巽のつくりものめいた美貌に嫌悪の色が刷かれた。
 無言のまま巽の黒々としたまなざしが、柊一の褐色の瞳を覗き込む。
 瞳孔と虹彩との区別がつきにくい巽の瞳を、柊一は静かに見返した。
「巽さま。どうか」
 黒檀の肘掛を、巽の白い手が撫でさする。
「今日は、おそらく出かけることになると思います」
 巽の部屋を心地好く保つことは、実に要らぬ心配りであったのだ。
 巽のことばに、柊一は、巽に課されているもうひとつの用件を思い出す。
 蒼白になった柊一にうながされるようにして、巽が椅子から立ち上がった。


 後には、クーラーの切られた部屋が、静かに残されていた。


つづく



from 10:00 2004/03/08
up 21:02 2005/12/03
あとがき

 三回目
 なんというか、やっぱり、巽さんが某遙一クンっぽいですね。反省。どうも、彼の影響下から逃げるのは、かなり難しい。痛し痒しという感でしょうか。
 まだ、女の子と犬の登場はないですね〜。
 少しでも楽しんでいただけるといいのですけど。


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