終わりなき夜



 階下の奥に、この家唯一の和室がある。閉てきられている襖の外に、まるで中の人物を守るかのように、ひとりの黒服の男が立ちつくしている。 鋭い視線が巽と背後の柊一とに向けられた。いつものこととはいえ、気持ちのよいものではない。しかし、不快だからという理由で避けるというわけにもゆかない。軽く一礼をして、柊一は襖の外に正座した。
「巽さまのおいでです」
「入れ」
 しわがれた声だった。
 声に応じて柊一が襖を開けると、心地好い涼風が和室から流れ出してきた。
 床の間を背に、男が一人座していた。七十才くらいに見える。着物と袴という格好の老人は、背筋を伸ばして正座している。
 象嵌細工がほどこされている黒漆の卓上には、残暑のきびしいおりとて、水出ししておいた茶と茶菓子とが供せられている。
「久しぶりですね。清之介」
 濡れ縁に腰を下ろした巽が声をかけた。それは、年長者に対する口調ではなかった。
「兄さん」
 しわがれた声が、巽を呼んだ。
「兄………ですか」
 クスリとひとつ笑いをこぼし、巽が清之介を見返した。
「まだ、呆けてはいないようですね」
 辛辣なことばに、瞬時、海棠清之介が言葉を失くす。
 もっとも、清之介の表情のほうが、言葉よりもよほど饒舌である。
 皺深い弟の顔に表われては消える諸々の感情を見やりながら、
「予定では三日後のはずでしたよね」
 あえて、ゆっくりと、ことばを繋ぐ。
「………」
「随分と、切羽詰っているようですけれど」
「あなたにも関わりないことではないでしょう! ここであなたが悠々と呑気に暮らしていられるのは、私の働きがあってのことだ」
 一息に言ってのけ、薄く白味を帯びた瞳がひたと巽を凝視した。
 巽の瞳が一瞬大きく見開かれ、ついでクスクスと乾いた笑いがくちびるからこぼれ落ちた。
「悠々と? 呑気に? おまえの働き?」
 ヒヤリとするような危うさをたたえた声が、清之介に向けられる。
「忘れているようですね、清之介。やはり、呆けですか」
 清之介の顔が怒りで真っ赤に染まり、膝の上の拳が小刻みに震える。
「そうですね。確かに、私は好きでここにいますよ」
 とろりと黒いまなざしが、剣呑な光を宿し清之介を薙いだ。
「けれど、最初に私を欺き、ここに閉ざしたのは誰です。私の許婚者を殺し、私を殺したのは、いったい誰だったのです。いつもいつも、自分の所業を忘れて、都合よくここに顔を出せるものですね」
 糾弾の声が、清之介の耳に突き刺さる。
「そうとまで言うのなら、私をここから解放しなさい。海棠のすべてはもう既におまえのものでしょう。私をすべてから解き放ったところで、問題はないはず―――ですよね」
 いっそ涼やかな声が、語尾を跳ね上げ清之介を嘲弄する。しかし、清之介からの反論はない。なぜなら、巽の語るすべてが、まぎれもない真実だからだ。
「それとも、ここから私を出せない理由があるのですか」
 わかりきっていることを、巽があえて口にする。
「……………」
「所詮、おまえは、小者ですよ。問題ひとつ自分の手で片づけられない。だから、結局、いつも、嫌っている私のところに来る」
「……れ」
「ぶざまだと思いませんか」
「黙れっ!」
 黒檀のテーブルの上、透明な切子細工のグラスが音を立てて倒れた。
 激昂のまま巽に襲いかかった清之介の皺深い手が、彼の白い首を絞めていた。
 ひんやりとした掌が、清之介の手首にひたりと触れた。
「また、私を殺すのですね」
 投げやりな声が耳に届いた。
 我を取り戻した清之介が、巽の首から手を離そうとする。しかし、適わない。しなやかで細い手は、どこにそんな力を秘めているのか、清之介の手を押さえつけて離そうとはしないのだ。
「何度でも殺しなさい。そのうち、私も本当に死ぬかもしれない」
 清之介の背中に粟が立った。
「………どうしました? 私を殺したところで、殺人罪に問われることはありませんよ。わかっているでしょう。忘れたとは言わせませんよ。すべては、おまえの差し金だったのだから。そう、私は、戸籍上は既に、死んだ人間。それに、私は、おまえが何をしようと、死ねない。おまえが私に何をしようと、K総合病院のおえらい院長先生が失脚する心配は、爪の先ほどもありはしないのですからね。そうでしょう?
 私が憎いでしょう。さあ、遠慮せずに。いつものように、抵抗はしませんよ。気の済むまで何度でも、私の息の根を止めるといい。そう、何度でも。息を吹き返すたび、おまえの感情のままに、私を殺し尽くしてしまいなさい。そうすれば………」
(そうすれば、いずれ、私がすべてから解放される日が来るかもしれません)
 皺深い弟を見返しながら、巽は内心で独り語ちる。
 苦痛がないわけではない。清之介が自分を殺すたび、言い知れぬ苦しみが襲いかかってくる。それでも、巽は、死を望まずにはいられないのだ。
 九十に近い年月。
 それは、この地に閉ざされつづけた月日の長さである。もちろん、唯々諾々と閉ざされつづけていたわけではない。
 逃げもした。
 逃げて、見知らぬ人々の間で、穏やかな日々を過ごしたこともある。しかし、すぐに見つけ出されて連れ戻される。その繰り返しだった。
 そう。八十八年間の意味のない歳月を、清算できるというのなら、それに勝ることはないのだ。
 戸籍も何もかも奪われ、閉ざされつづけた。逃げ出すたびに連れ戻され、あげく、血で縛りつけられた。
 喉を通ってゆく血の生臭いぬめり。
 逆に、熱をむりやり奪われる苦痛は、自虐的な気分を満足させる。
 歪んだ喜悦に、
(私はすでに狂っているのでしょうね……)
と、内心独り語ちずにはいられない。
 情けない日々のありように、心が軋んで悲鳴をあげる。
 かつては、たとえ数日とはいえ海棠の当主であった身が、半ば絶望の末の無気力のせいとはいえ、今や、虜囚と成り果てているのだ。
 清之介の欲望をかなえるためにだけ、飼われている―そんな己を嫌悪して、幾度、逃げては連れ戻される愚を繰り返しただろう。
 逆らいつづける自分に、清之介の怒りは烈しさを増した。
 逃げつづける自分に業を煮やして、清之介は何かすべはないものかと、探し求めたのだろう。挙げ句、父の研究資料を、清之介は見つけたにちがいない。そうでなければ、清之介がこの身を縛するすべを知り得たとは思えない。
 連綿としたためられた、しかし、巽が知る父の性格とは、けっして相容れることのない、荒唐無稽な、それ。かつて自分も偶然見つけた詳細な記録を遡れば、やがては血による呪縛にたどりつく。
 なぜ、処分しなかったのだろう。
 己の手抜かりを悔やんだところで、遅きに過ぎる。
 記されているのは、ほかならぬ、巽自身の母親に関係することでもあった。
 ―――見も知らぬ、彼の記憶に一度として登場することのない、それでも彼を生んだ女性に関する、記録。
 唯一の、母を知る、手がかり。
 かつては自分だとて、母を求めた時がある。であればこそ、非人道的な研究内容に怯みはしても、自分の出生の秘密を嘆きはしても、記録を処分することはできなかった。
 そこには、母親の面影が存在するのだ。
 一番最初に、血の呪縛を受けたのは、もう、どれほど前のことになるのだろう。
 口中に流し込まれる生臭いものが、自分のからだの隅々に染み渡ってゆくのを、朦朧とした意識で感じていたのは。
 血による縛めは、思いのほか、凶悪なものだった。
 血の主に逆らうたび襲いくるのは、想像を絶する激痛だった。
    からだを内側から引き裂かれるような灼熱の苦痛に、脂汗を流して、のたうちまわった。なおも逆らえば、体内を巡る清之介の血が刃となって、全身を内側から苛む。
   それは、生きている限り絶えることのない、終わりのない責め苦だった。
 我が身を責め苛む激痛に堪え、清之介から逃げつづけるには、それ相応の覚悟が必要だった。
 二十数年前を最後に、巽の意地は挫けた。
 それでも――――唯々諾々と、ただ奴隷のように清之介に従うには、巽の自尊心は高く、強固だった。
 清之介を激昂させるなどという、自虐的でありながら同時に相手を痛めつける手段を、わざわざ選ぶほどに。
 外見同様内面も老いた弟は、かつて彼の犯した罪の記憶すらも、彼自身に都合のいいように捻じ曲げてしまう。そうして、すべては、兄が―――巽こそが悪いのだと、そう言い切ろうとする。そんなことを、どうして、許しておけるだろう。
 あらゆるものを自分から奪っておいて、そのうえ、すべて自分が悪いなどと、好き勝手を言わせておけるはずもない。
 なにも、清之介の罪の意識を掻き毟るなどというまどろっこしい方法を選ばなければならないということはない。それは、巽にもわかっている。そう、かつては、自殺を試みたこともあるのだ。
 ―――幾度となく死へといたる苦痛を味わい、しかし、いつの間にか、よみがえっている。
 いつもいつもいつも………………死にぞこなってしまうのだ、この身は。
 死は、いのちあるものであれば、つねに身近にあるべきものであるはずだ。なによりも親しい、(つい)の安らぎでなければならないはずだというのに、まるで、なにものかの呪いででもあるかのように、巽には、そこへといたる道が、閉ざされているのだ。
 最初に死から拒まれたのは、誕生の時だった。
 いや、違う。
 正しくは、巽は、死んで生まれてきたのだ。
 ――ひとの形をした、ただの肉の塊として。


つづく



from 10:00 2004/03/08
up 10:14 2005/12/09
あとがき

 四回目
 巽さんがますます某遙一クンっぽくなってるような。反省。どうも、彼の影響下から逃げるのは、魚里には、不可能?
 兄と弟の関係が、微妙にお約束で妖しいですね///
 またもや女の子と犬の登場はないですね〜。確認したら、も少し先でした。
 少しでも楽しんでいただけるといいのですけど。


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