終わりなき夜






 生まれること自体が、誤りだった。
 生ませたこと自体が、間違いだったのだ。
 真実を知ったとき、何度となく、そう思った。
 問い質す術も残されてはいなかった。詰るべき相手は、自分に生を強いたものは、既にこの世にはいなかったのだ。だから、代わりにあらゆるものを、憎んだ。
 既に亡い父も、罪のない実の母も、そうして、誰よりも、異母弟を憎悪した。
 かつては、彼がどんなに酷いことをしようと容認することができていた異母弟であったというのに。いや、だからこそ、許せなくなったのかもしれない。
 それまでの自分が偽りをこねあげてできあがったものだとすれば、今ここにこうして憎しみに囚われて存在している自分こそが、真実の姿なのだろう。
 我と我が身を呪わずにはいられない境遇へとこの身を堕としてくれた異母弟――清之介を憎むことこそが、今や唯一、巽の存在の証だった。



◇◆◇◆◇



 藩の家老職までも勤めた家系に育った海棠清一郎は、動乱の時代を乗り切り、新政府となってドイツへと留学した。やがて帰国した彼は、前途洋々たる医学博士だった。
 それが海棠の先代―巽と清之介の父親である。
 清一郎は、帰国後東京から田舎の本家へと戻り、父親の後を継いだ。それは、海棠本家の長男としての役目だった。
 いつの頃からか、竜王島にある海棠家の別宅には、藩主から預けられたという、あるものが眠っていた。
 ―文字通り昏々と眠りつづけているそれは、その血を口にするものに不老不死を与えると伝えられる、竜女(りゅうじょ)だった。
 外見は、滝から流れ落ちる水のような白い髪をべつにすれば、十代半ばほどの少女に見える。しかし、竜女は、おそらくは江戸開闢(えどかいびゃく)よりも以前から、藩主より海棠に預けられるまで、城の奥深くに閉ざされつづけていたのだ。
 海棠の役割は、竜女の不思議な血の解明が主であった。
 おそらく、今ともなれば藩主すらもが知らないだろう、海棠の真の役目は、代々の当主によりなおも引き継がれていたのである。
 巽の母親は、まぎれもなくこの竜女だった。
 ロマンスがあったわけではない。
 清一郎と竜女の間には、愛情はおろか、簡単な意思の疎通すらありはしなかった。
 竜女はただ、眠りつづけるものであり、清一郎の研究対象でしかなかった。研究対象に恋をするなど、彼はそんなロマンティシズムとは、無縁だった。
 竜女は、はるかに昔の藩主の命のもとに、代々の海棠家当主たちによって切り刻まれる存在だったのである。
 巽が生まれるきっかけは、単なる研究の一環に過ぎなかった。
 竜女の子に、その特別な力が遺伝するのか。その疑問の答を得るためだけに、清一郎は竜女の胎内より取り出した卵を受精させた。そうして、それを竜女の内へと戻したのだ。
 体外受精は言うまでもなく、当時においては、時代を先取りしすぎた技術である。充分な設備もなく確固たる手順も知られてはいないこの時代においては、成功する確率は奇跡にも等しいものだった。受精の成否すら正確な証はなかった。実験の過程を記したノートを今読めば、それは恐ろしく杜撰なものと思えるだろう。それを可能にしたものは、唯一、竜女の血だったろうか。
 技術が完成されていなかった証拠に、龍所の体内から取り出された巽は、死んでいた。
 それだけのこと。
 清一郎が、竜女の血を巽に輸血することを思いつき実行に移しさえしなければ、その血が巽に適合しなければ、巽はこの世に存在することなどなかっただろう。
 竜女の血――母親の血が、巽を生かした。
 もちろんのこと、巽誕生の真実を知るものは、清一郎本人、それに、巽誕生より十二年の後に別邸を閉める原因を作った、竜女をつれて逃げた、()の研究助手だけだった。
 どこにも竜女の特徴を受け継いではいないと思われた赤子を処分してしまうほどには、清一郎も冷たくはなかった――と、そういうことなのだろう。
 事実、巽と名づけた赤子の父親は、清一郎だったのだから、なにがしかの情愛が芽生えていたのにはちがいない。
 結局清一郎は、巽を自分の第一子として認知したのだ。
 わけありの女に産ませたこども。清一郎が語ったそれだけが、海棠家の知る巽の出生の秘密だった。


 巽がすべてを知るには、この後二十五年を待たなければならない。


 今にして思えば、生まれてから二十五年間が、巽にとっては幸せな日々だっただろう。
 巽は、海棠家の期待と責任を一身に背負った、医学生だった。
 実母を知らないということや、父親の愛情が得られないなどは、幼いころに踏ん切りをつけたつもりでいた。六才年下の異母弟―清之介が巽に向ける視線が、わけありの女のこどもだという出生のいきさつが、彼を苦しめてはいたが、それでも、巽は前途ある若者だった。
 自分自身の進む道を見据え、たゆむこともなく努力をつづけていた。
 言うまでもないことだが、医者になるための勉強は、人命を預かるだけあって、奥が深く厳しい。脇目をふっていていては、周囲に取り残される。自分自身の苦悩など、目的の前には、些細なものでしかなかった。ただ前を、医者になるという、あらかじめ決められていた道に邁進するために、大学でも常に主席を目差していた。そうして、やがて、彼は父親と同じく、ドイツへと留学した。父親が病に倒れるまでの二年間、彼は、彼の国で医学を修めたのだ。
 帰国後一年、父親の死によって、巽は海棠の当主となった。
 地元へと戻った二十五才の若き当主の最初の役目は、妻を持つことだった。
 許婚者である太智花(たちばな)志津子との結婚が、巽の最初に果たすべきことがらであった。
 家同士の結びつきを強くするため、幼いころに決められた結婚ではあるが、巽は志津子を、愛していた。
 志津子は巽よりも十才も年下であったため、情熱的な愛情というよりは、穏やかな、妹に向ける情愛により近いものではあった。しかし、相愛の者がいるということは、それだけで、互いの心を満たすものであったのだ。
 なのに――――
 あの夜は、どんよりと澱んだ空に、赤い月がかかっていた。
 まるで、田の畦に咲き乱れている、彼岸花の色に似た月だった。
 巽は、清之介を待っていた。
 虫の音が、響いては、ついと途切れる。
 湿気を含んだ夜気が、湯を使った後の肌にじっとりとまつわりついてくる。
 海棠本家の近くにある、泉のほとりだった。
 湧きかえる水に、水面が揺れる。
 波紋に砕けた赤い月は、水面に散った曼珠沙華の花びらのようだった。そうしてまた、以前に志津子のくちびるを彩った紅にも似て、巽の思考を空転させる。
 記憶にあるあの紅は、京都から取り寄せたものだったろうか、それとも、留学先から少女に送ったものだったのだろうか。
 ドイツから送ったものだとすれば、彼女の面影は、ほんの五日前の逢瀬の時の記憶にほかならない。
『よく似合う』
 そう言った自分に、紅をさした志津子は、はにかむように微笑んだ。
 白い陶器のような頬がほんのりと色づき、まだいとけなさを残した十五才の少女は、初々しい艶を宿していた。
 そのせいだったろう、突然の衝動にかられて、気がつけば志津子を抱きしめ、くちづけていた。
 それが、ふたりが交わした、最初で最後のくちづけになった。



つづく



from 10:00 2004/03/08
up 10:14 2005/12/17
あとがき

 五回目
 巽くんの過去編です。
 家老職の家柄が医師になるってことができるかどうか、なさそうですけどね。ま、城主の命令なら、とりあえず何でもありかもしれません。深く突っ込まないでくださいね///
 少しでも楽しんでいただけるといいのですけど。


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