終わりなき夜



 逢瀬の翌日、志津子は、死んだ。


 おそらくは志津子が死を選んだだろう時刻、巽は、志津子の声を耳にしたような気がした。
 しかし、それは、本当にあったことなのか、それとも後につくりあげた、偽りの記憶なのか、今となってはわからない。
 自殺。
 否。
 殺されたのだ。
 追いつめられ、死を選んだ。
 追いつめたのは清之介だ。
 葬儀の翌日に届けられた一通の手紙は、志津子からのものだった。
 なぜ? 
 巽を苦しめた疑問は、死の当日に書かれていた手紙によって、氷解した。
 志津子からの手紙には、自殺の理由がしたためられていたのである。
 手紙が届けられるまでふぬけていた巽に襲いかかり、代わって頭の中を埋め尽くしたのは………。
 相愛のものを亡くした、やるせないばかりの哀惜。その向かう先が、巽に対する謝罪と文面からしたたらんばかりの絶望で埋め尽くされていた文面によって、決定づけられたのだ。
 解消された疑問によって、憎むべき相手が確定した。悲しみは、清之介への憎悪へと変貌を遂げたのだった。
 巽の憤怒が向かう先は、清之介でしかありえなかった。
 それでも、心のどこかでは、迷っていた。
 糾弾したからといって、もはや、どうなるものでもない。
 最後に会ったあの日の、志津子の愛らしい笑顔と、ささやかなくちづけの記憶。
 愛しく切ない記憶ばかりを残して、志津子は永遠に手の届かないところへと旅立ったのだ。
 葬儀の日の、白木の柩に横たえられていた、死化粧をほどこされたはかないばかりの面影。
 どうしたところで、志津子は、決して、生き返りはしない。
 決して、帰ってはこない。
 わかっている。
 医者である自分が、愛しい者の永遠の不在を認められないだなどと、あってはならないことだった。
 どんな死であろうと、冷静に対処しなければならない。―そんなたてまえなど、しかし、愛しい者の死の前には、どれほどの意味もありはしないのだ。
 痛いほどに感じるこの喪失を、どうやって認めればいいというのだろう。
 今にも迸りそうな慟哭を、どうやって宥めればいいというのだろう。
 だれでもいいから、教えてほしい。
 そう願う巽の目の前には、志津子からの手紙が開かれたままになっていた。
 手紙、それは、まがうことのない、遺書だった。
 遺書の内容を信じられず、しばらくの間、放心していた巽の意識の中で、文字の連なりがゆるゆるとした速度で意味をもったものとなった。脳の奥へと染みとおり、やがてすべてを理解した時には、巽の黒いまなざしはきついものをはらんでいた。
 悲しみを過ごした虚脱状態にあった巽のもとに届いた、死者からの手紙が、巽を現実へと呼び戻したのだ。


 地面を踏みしめる音に、巽は記憶の底から現実へと立ち返った。
 足音の主が清之介だと、確認するまでもなくわかっていた。
 一陣の風を皮切りに、風が吹きはじめた。
 草が木が、風に煽られざわめく。
 泉の水面をさざなみが覆い、赤い月が雲に隠されるその寸前に、振り返った巽は、清之介を見た。
 闇の中、そのまなざしだけが、隠されゆく月を宿して、朱に染まっていた。
 なぜ清之介を呼び出したのだろう。
 激情が、ふと、揺らいだ。
 それは、相手が血のつながった弟だからなのか。
 無条件に愛せるはずの、無条件に愛情を注いでくれるはずの肉親、家族。無意識のうちに自分はまだ、幼いころに求めた夢のような存在を求めているのだろうか。
 無意識のうちに、父親の愛情を疑っていた自分を知っている。多忙な父にそんな感情を持ってしまった自分自身に、罪悪感もあった。けれど、愛されているという確信が得られたことなど、ただの一度もありはしなかった。
 もっと欲しい、まだ足りない――と、父親の愛情を求める自分が、愛されている確信がほしいと思ってしまう自分が、疎ましくてならなかったころもある。
 そんなあさましいまでの心の飢えを癒してくれたのは、十も年下の許婚者だった。
 誕生日といいながら、父も継母も清之介も彼を残して出かける予定だった、十二の誕生日に、許婚者だと志津子を紹介された。
 ふくふくとやわらかそうな二才の幼児が、自分を見て無垢な笑みを浮かべた。その瞬間、たったそれだけのことで、それまでの鬱屈が粉々になるのを感じた。
 以来、ときおり乳母を連れて自分に会いに来るようになった志津子は、ただ気にいりの人形のように自分のことを気に入っていたのに過ぎなかったろう。が、彼女のまだあどけない笑みが、どれだけ自分を救ってくれたのかを巽は知っている。
 なのに、志津子の死に、清之介がかかわっていることは確かだというのに、なぜ、心が揺らいでしまうのか。
 おそらく、それは、得られなかったものへの未練なのだ。
 清之介は巽にとって、もはやたったひとりの肉親、片親だけとはいえ、血のつながった弟である。あまり親しんでこなかったとはいえ、なにがしかの情愛めいたものは、存在していた。
 だからこそ。
 せめて――
「何の用」
 月が雲間に隠れた闇の中、落ち着きかえった声が聞こえてきた。
「清之介、おまえは志津子のことを愛していたのか?」
 志津子の名前を口にするだけで、どうしようもなく声が震える。
「志津子?」
「そうだ」
「………」
 長い沈黙の後、
「いや、べつに」
 返されたことばは、巽をしたたかに叩きのめした。
「用件って、そんなこと」
 あっけらかんとした清之介の声からは、後悔のかけらすら感じられない。
「だったら、なぜ」
「なぜ?」
 しばらくなりをひそめていた風が、群雲を吹き払う。雲間から、先刻までと同じ赤い月が顔を出した。
 清之介の純日本風ののっぺりとした容貌が、朱に染まってそこにある。
「何のことを言っているのかわからないな」
 (うそぶ)くとはこのことかと、巽は清之介を凝視せずにはいられなかった。
「………私は、志津子の身に何が起きたのか、知っている」
 声が、震える。ひとこと喋るたび、心が揺らぐ。
「……………」
「清之介。おまえが志津子にしたことを、私は知っているんだ」
 何をしたいのか。
 否。
 何をして欲しいのか。
「だから、志津子の墓前に、手を合わせて欲しい」
 せめて、心からの詫びを。
「志津子に、謝罪して欲しい。それだけでいい」
 それ以上を望まない。
 だから―――――
 しかし、巽の耳を打ったのは、清之介の哄笑だった。
「清之介!」
「謝れば許す? ハッ! もしかりに俺が兄上の思っているようなことを志津子にしていたとして、ほんとうに? それだけで、本当に許すことができる?」
 赤い月を宿した清之介の双眸が、巽のまなざしを覗き込む。
「……ああ」
 声が、かすれる。
「あいかわらず、兄上はおやさしい」
 嘲うようにささやいた清之介の腕が、巽の両肩にかけられる。
「清之介っ」
 肩を握りしめる手をもぎ離そうとして、足をぬかるみに取られた。
 巽はその場に倒れ、清之介が体重をかける。
虫唾(むしず)が走るね」
「放せ」
「それとも、それくらいで許せるほどにしか、志津子のことを愛してなかった……とか?」
「ばかをっ」
 十九才の弟に押さえつけられ身じろげない屈辱、それにもまして自分を弄るかのような言いざまに、巽は逆毛立った。
「俺が、志津子に何をしたか、知ってると言ったね。………そう、こうして、押さえつけて、力づくで女にした。泣いて嫌がる志津子をむりやり犯すのは、たまらなかったよ。……まさか、死んじまうとは思わなかったけどね」
 馬鹿だよなぁ―――――と、哄笑をにじませて清之介が付け加える。
「おまえ、それを本気で言っているのか」
 押し出すように、ようやくそれだけを言った。しかし、
「死んでしまったら、元も子もないじゃないか」
「自分がしたことを棚にあげて、志津子を馬鹿だ―――と? そう言うのか」
 声が、(ひず)む。
「もちろん」
「清之介っ!」
 小気味のよい音が、清之介の頬で爆ぜた。
 叩いた巽と、叩かれた清之介の間で、時が止まる。そんな錯覚があった。と、獲物を捕らえる蛇めいたすばやさで、
「っ」
 清之介の腕が、喉首に絡みついた。
 息がつまり、頭の中で鼓動が耳を聾する。
「ぐっ」
 あまりの苦しさに酸素を求め大きく開いたくちびるから、舌がぞろりとはみ出す。
 苦痛にこみあげる涙が、見開いた視界に焼きついた赤黒い月を、何倍にも大きく映していた。


 こうして、海棠巽は、実の弟に殺されたのだ。


つづく



from 10:00 2004/03/08
up 10:14 2005/12/24
あとがき

 六回目
 巽くんの過去編その二です。
 若い頃の巽くんは、青いですvv
 必死です。
 そんな彼の心の支えを奪ったのが、弟。よくあるパターンではありますが。
 それでも、必死で、自分を抑える巽くんなのでした。
 少しでも、楽しいと思ってくださるひとがいると、嬉しいです。う〜ん。


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