終わりなき夜



 家に続く道路を道なりに下ってゆくと、道路と交差する川のほとりに出る。そこまで来てやっと、一番近いお隣り―ゴンちゃんのおじいちゃんこと山口のおじいちゃんの家があり、木立以外の景色を見ることができる。
 遠く、かなたに、海がきらめいていた。
 しばらく海を眺めて、美月は玄関の戸を開けたのだ。
 薄暗い玄関から、
「おっじいちゃーん。おばーちゃーん」
 呼びかける。
 もう一度呼ばわると、ようやく、ガラスのぶつかり合う音をたてて茶の間の引き戸を開けた山口のおじいちゃんが、出てきた。
「おう、みぃちゃんか」
 陽に焼けた皺深い顔が、くしゃりと笑いを形作る。
「あけましておめでとうございます」
 勢いよく頭を下げた美月に、
「はい。おめでとうさん」
と、山口のおじいちゃんが、おだやかに返す。
「これ、お父さんが、おじいちゃんにって。ウコッケイのたまごです」
「それはそれは、ええもん届けてくれて、ありがとうさん。せっかくやし、あがってき」
「おじゃましまーす」
 茶の間に通されて、コタツに入れと勧められた。
「うん。……あ、おばーちゃんは?」
「ばあさんは今日はお寺さんのお接待じゃ」
 お寺さんのお接待というのが、檀家衆が地区でグループ分けして、檀那寺の本尊さんにお経をあげる役目と、ご馳走を作ったりする役目とが、持ちまわりでまわってくる集まりだったのを思い出す。
「なんだぁ………」
「残念じゃったのぉ。今日はばあさんのホットケーキはなしじゃけんな」
 いつもニコニコしているおばーちゃんは、美月の顔を見れば、都会にいる曾孫を思い出すとか言って、ご自慢の手作りのホットケーキを出してくれる。それはとっても美味しくて、美月はゴンちゃん家に行くのを楽しみにしていた。
「そんなことないもん」
 口で否定してみても、おじいちゃんはそれを知っているので、今更だったりする。
 山口老人が、美月の顔を覗き込んで笑う。
 美月がこの家に来る楽しみは、もうひとつある。それは、山口家の飼犬と遊ぶことだった。だから、美月は、縁側に出て、
「ゴンちゃん、あけましておめでと」
と、声をかけた。
 美月の声に、大きな立ち耳の、香ばしく焼けたホットケーキ色の犬が、縁先に置いてある小屋の中から美月を見上げた。
「おじいちゃん、ゴンちゃんなでていい?」
 レンジでチンしたホットミルクと青いビニール袋をがさがさといわせながら戻ってきた山口老人が、
「う〜ん。今はやめといたほうがええんとちゃうか」
と、首をひねって答えた。
「どうして?」
「なんでじゃと思う?」
 皺深い顔が悪戯っぽい笑いを滲ませる。それに首を傾げて考えた。
 去年の暮れに遊びに来た時も、いつものゴンちゃんと違うみたいで、あまり近づけなかった。 大きなお腹をして、なんだか苦しそうだった。
撫でようと近づいた美月に、老人が、
『近づくと噛みつくかもしれん。危ないけんやめといたほうがええと思うんじゃ』
と注意したので、結局、地面に転がったゴンちゃんのお腹を撫でられなかったのだ。
 美月の顔が、満面の笑みで埋められた。
「ゴンちゃんの赤ちゃん!」
「そうじゃ。じゃけん、後でじいちゃんが一緒ん行ってやるけん、それまで待ちい」
「うん」
「ええ子じゃの」
 おいでおいでと手を振る老人に従い、こんどはおとなしくコタツに入った。
「飲み」
「いただきます」
 ホットミルクに息を吹きかけて冷ましている美月のようすを、老人は目を細めて眺めていた。
「それとな、これは、卵の礼じゃけん」
 脇に置いておいたビニール袋をコタツの天板にのせながら、老人が言う。
「なに?」
 音をたてながら袋の端に指をかけて覗くと、
 ぷんと醤油の匂いが漂った。
「サンマのみりん干しじゃ。こないだ、漁から戻った知り合いが、もうこれで遠洋漁業は終わりじゃゆうて、いつもよりぎょうさんサンマをくれたんや。食べきれんけんな、ばあさんがひらいたんじゃ。みぃちゃん好きじゃったろう」
「みりん干し!」
「今晩でも焼いてもらい」
「おばあちゃんのみりん干しは甘くってほろほろやわらかくって、大好き! おじいちゃんありがとう」
「おお。どういたしまして」
 ようやく飲めるくらいに冷めたミルクを一気に飲み干して、
「ごちそうさまっ」
 美月はマグカップをコタツの上に置き、手を合わせた。
「おじいちゃん。早く」
 せがむ美月に、
「しゃーのない子やのぉ」
と苦笑しながら、老人が掛け声をかけて立ち上がった。
「ゴンよ、美月ちゃんやぞ。はよ出て来(こ)お」
 中腰になって犬小屋を覗き込む。
 美月は老人の斜め後ろに下がってしゃがみこんでいる。  きゅいきゅいと小さな声が小屋の中からたくさん聞こえてくるので、美月の顔は、期待で、熟れた果実のように染まっていた。
 ゴンちゃんのお仕事は、おじいちゃん家(ち)を泥棒や押し売りなんかの怪しい人から守ること。だから、もちろん、美月は一度もゴンちゃんに吠えられたことがない。
いつだってゴンちゃんは美月に優しい。
 尻尾を盛大に振って、ゴンちゃんはしゃがみこんだ美月の顔を、大きな舌で舐めたりする。時々は、おじいちゃんに鎖を放してもらって、一緒になって庭や何も植えていない田んぼを駆け回ったりして遊ぶのだ。
 本当は、どんなにおじいちゃんが、
『気がたっとるけんなぁ』
とか、
『噛まれんか心配じゃけん』
とか言ったって、美月は本気にしてはいない。
 おじいちゃんが心配してくれてるのはわかっているので、抱きしめたり撫でたりしたいのを、我慢しているだけだった。
 なぜなら、お父さんに、
『ゴンちゃんがおまえを噛んだら、山口のおじいちゃんは、ゴンちゃんを処分するかもしれない』
と、そう言われていたから。
 そう言ったときのお父さんの目の色を、美月は覚えている。
 とっても暗くて悲しそうな目の色をしていた。
 だからだろう、あの時お父さんが言った『処分』ということばが、殺すということなのだと美月は、直感してしまったのだ。
 ぼんやりと、老人の背中を見ていた美月は、老人が膝を叩いた音にハッとなった。
「おまんにあげるもんがあったんじゃ」
と、振り向いて手招きする老人に、美月は近づいていった。
 きゅいきゅいとたくさんの小さな鳴き声が、大きくなる。
 あげるもんがあった――と、おじちいちゃんは、さっき言った。ということは、仔犬をくれようとしているのだ。
「お父さんに聞いてからじゃないと、ダメだよぉ………」
 お父さんがいいと言ってくれれば、もらえる。けれど、もしも勝手にもらって帰って、
『返しておいで』
と言われたりしたら、悲しい。そんなことを考えながら小さく呟いたのだが、老人は聞いていない。
「おった、おった。こいつをおまんにやろう思うとったんじゃ。こら、ゴン! 邪魔するなっちゅうとるじゃろうが」
 そう言って振り向いた老人の手には、丸々と太った仔犬が抱かれていた。
「そら、こいつじゃ」
 焼きすぎたクッキーのような色をした、ころころの仔犬が、美月の目の前にいた。老人に腹部を掬い上げるように持たれて、空中をじたじたと掻いている格好は、まるで、海にたどりついたばかりの、ウミガメの子どものようだ。
 美月の鳶色の瞳が輝いた。
「ゴンちゃんの赤ちゃん」
 両手を絞るように胸の前で握りしめる。
 口の周りがかすかに黒く、からだのわりに大きな四本の足には、くっきりと白いソックスをはいている。しっぽの先も白い。耳はまだたれているが、大きくなれば、立派な立ち耳になるかもしれない。なんといっても、ゴンちゃんがそうなのである。
 老人の手の中で全身を忙しなげに動かしていた子犬を、「ほい」とばかりに手渡されたとたん、美月の頭の中から、先ほどの心配が転がり落ちて砕け散る。
 あったかくてぷくぷくの小さな塊が、今は自分の腕の中にいる。それが、とても、嬉しくてたまらなかったのだ。
「そら。ゴンの仔じゃ。おまんの父さんに言われとったとおり、オスじゃけん、よう番すると思うわ」
 そのことばに、砕け散ったばかりの心配が、どこかに消えてしまった。
 美月は、満面の笑みを浮かべて老人を見上げた。
「ありがとう」
 そうして、不安そうに自分と仔犬を見比べているゴンにも、
「ゴンちゃんありがとう。だいじにするね」
と、仔犬を胸にしっかりと抱え込んで言ったのだ。
つづく



from 10:00 2004/03/08
up 10:08 2006/01/20
あとがき

 九回目
 やっとこさで、犬が登場。この犬が、キーかなぁ? ちょっと動かし方で悩んでいるのだった。


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