終わりなき夜



 ビンゴと名づけた仔犬は、庭や田畑を美月と一緒になって駆けまわり、ラブラドール・レトリバーくらいの大きさの、スタイルのいい成犬に育った。長く前に突き出した四角い鼻面と大きな立ち耳、えぐれた腹部や長い四肢がグレート・デンをイメージさせる精悍な犬である。
 はじめてビンゴを見たひとや、犬が苦手なひとは、ビンゴがそこにいるだけで、それ以上進むことをためらうだろう。性格は案外お茶目でラテン系の犬なのだが、初見のひとにはわからないから、しかたがない。
 対人だけではなく、父親が期待したとおり、対サル用の番犬としても、ビンゴは優秀だった。
 ウコッケイを庭に放している時にその場を離れても、もう心配はない。ビンゴが警戒しているからだ。
 ビンゴの威嚇で、山から下りてきたサルは逃げてゆく。
 戸のある納屋に移したとはいっても、力まかせに板戸を破られては、元も子もない。成体のサル、特にオスの力は、なかなかあなどれないほど、強いのだ。
 しかし、大丈夫。
 美月と一緒に寝ていても、サルの気配に反応して、ビンゴは専用の出口から外に出てゆく。もちろん、その出口は、ビンゴの首輪に取りつけてあるしかけから出る信号でしか開錠されないようになっている。でなければ、サルがそこから家の中に入ってくるかもしれない。とはいえ、ビンゴがいるかぎり、そんな傍若無人を許すはずはない。


 こうして、ウコッケイがサルに奪われることは、二度となかった。


 緑に囲まれた山の中で、美月は幸せだった。
 父やビンゴや動物たちと、未来はいつだって毎日の延長線上にあった。



◇◆◇◆◇



 ビンゴの最初の記憶は、心地好く温かなところだった。
 ふんわりとした、頼りがいのある甘やかな匂い。
 耳に聞こえてくるのは、とくんとくんと規則正しい音、それに、いくつもの鳴き声。それは、母の心音と、ミルク争奪戦のライバルたちのあげる声だった。
 たくさんの兄弟たちを踏んづけ蹴倒して吸いついた母の乳房、押しあいへしあいして飲んだ母乳の味だった。
 ビンゴの、次に古い記憶は、兄弟たちと遊びまわったりけんかをしたり。そうして、母親に包まれて、ぬくぬくと眠っていたというものだ。
 ある日、母親に餌や水をくれる人間の老人が、『おったおった』と言いながら、ビンゴを、特等席から掴み出したのだ。
 からだを無造作につかまれて、突然母親から引き離された。
 からだのどこも、母や地面にくっついていない不安から、暴れて鳴いた。
 それは、とても長い時間のことに思えた。
 何が起きたのか。
 大きな黒い顔が、自分を見下ろしていた。
『こいつをおまんにやろうと思うとったんじゃ。一番元気のええオスじゃけん、ええ番犬になるじゃろ』
 次の瞬間、ビンゴを包み込んだのは、母のとは違う甘い匂いだった。
 そうして、母犬や兄弟たちと引き離されたのだ。
 違う匂い、失ったぬくもり、代わりに自分を痛いほど抱きしめる、不器用な腕の感触。ぽちゃぽちゃとやわらかな、甘い匂いのするそれが、環境の変化に戸惑って不安でたまらなかった自分を、ぎゅうぎゅうと締めつけていた。腕の中から逃がしてしまわないようにと、そればかりを考えているのだろう、皮膚の下の緊張を感じて、苦しくてならないと、腕の持ち主の顔を舐めた。
 そうして、はじめて、顔を見たのだ。
 自分を見つめてくる茶色の瞳がある、剥き出しの白い顔は、毛皮で被われていないことが、頼りなげだった。
 だから、最初、自分は勝てる―――と、思ったのだ。母に水や食べ物を運んで来ていた人間よりもとても小さくて、つるんとした相手だから、兄弟たちなんかよりもとっても弱そうな相手だから、自分は優位に立つことができるだろう。
 ――漠然と、そう思った。
 もっとも、それが勘違いだと知るのは、すぐ後のことだった。
 頭に伸ばされた手を避けて、噛みついた。
「えっ」
 頭の上で、びっくりしたような悲鳴があがった。けれど、それは、痛みのせいでも負けを認めるための鳴き声でもなかった。
 肉の感触ではなく、すかすかと噛み心地のない、薄っぺらいものを噛みしめていた。目測を誤ったことが悔しくて、そのまま後ろに力まかせに引っ張ったのだ。
 どうだとばかりに見れば、いつのまに現われたのか、美月と呼ばれる人間よりもずっと大きな人間が、美月の耳もとで何かを囁いていた。自分に聞こえないくらい小さな声だった。それに頷いて、美月は決然とした態度で、袖口に噛みついていた自分の首根っこを、反対側の手で床に押さえつけたのだ。
 ショックだった。
 これまで、負けたことがなかっただけに、信じられなかった。
 自分より大きいけれど、牙もなければひらべったい爪しか持っていない、見るからに弱そうな相手が自分を簡単に押さえつけたのだ。だから、恐ろしくなった。小さな手が、ツルンとした白い頼りなげな手が、実は自分の牙よりも強いのだと知って、どうしようもなく、心細くなったのだ。
 帰りたい。
 そう思った。
 母や兄弟たちの、匂いやぬくもり。
 無性に恋しくて、淋しくてたまらなかった。
 押さえつける手は、自分を解放しない。
 どんなに暴れても、からだを後ろに引いても、その、ツルンとした手の頼りなげな五本の指からは、逃げられなかった。
 全身が震えはじめた。
 耳が寝るのを、抑えることができない。
 ピスピスと哀れな鼻声で鳴いてしまう自分が、情けなくて、でも、相手の力の強さを思えば、もう、逆らう気すらなかったのだ。
「噛み癖がつくと大変だから、そうやって注意して。それに、犬は自分より弱いと相手を見なせば、自分がリーダーになろうとするから、ダメなことはきっちりダメだと叱らないといけない。特にオスは、そういう特性がきついのが大半だから。いいね。わからなければ、父さんが教えてあげるから」
「ビンゴ、もういい?」
「ああ、いいよ」
 やっと解放されて、飛ぶように逃げた。
 どこか、隅っこで、小さくなろう。そうして、隙ができたら、みんなのところに帰るんだ。そう、強く決意した。
 しかし、結局、自分はここにいる。
 夜、寝静まった後、ハンストをするための隠れ家に決めた隅っこから出てきて、外に出てゆこうとした。隣の部屋に彼らがいる気配があったけれど、聞こえてくるのは、彼らの寝息ばかりだったからだ。
 かすかに開いていた扉の隙間に鼻を突っ込み、必死になってこじ開けた。やっとのことで自分が通れるくらいの大きさになった。思ったより狭かったから、むりやり通り抜けないといけなかったけど、どうにかやり遂げた。そうして、いざ逃げようとして、できなかったのだ。
 今となっては恥ずかしい話だが、上がりかまちから下が、見えなかった。暗い闇の中、深い底のない穴の縁を見えない目で覗き込んでいるような恐怖があったのだ。
 下りたくても下りられないそのジレンマにグルグルと歩き回っていた。いつの間にか、鼻声で鳴いていたらしい。
「どうしたの?」
 突然降ってきた声に、思わず飛び上がった。
 振り返ると、美月が立っていた。
 自分を床に圧(お)しつけた、怖い相手だ。思わず腰が引け、耳が寝た。しっぽが自然と足の間に入ってくる。緊張して見上げていると、
「淋しい? おうちに帰りたい?」
 そんなことばと一緒に、あたたかい空気が自分を包み込んだ。
 自分を宥めるようなそれに、何が起きたのかと目を見開いた。目の前に、闇の中でもきらりと輝く瞳が自分を見ているのが映った。
 抱き上げられたのだと、理解した。同時に、美月の質問にそうだと尻尾を振っていた。 「美月、ビンゴ好きだよ。それじゃダメ?」
 悲しそうな声の響きに、恐怖を忘れて、頬を舐めていた。
 それから美月は自分を抱きしめたまま布団に入ったのだ。
 自分を抱きしめて眠る美月に、いつしか、恐怖は消え去り、母と兄弟たちと一緒に眠っているような安らかな気分になった。
 逃げることはない。怖がることもない。ここだってそんなに悪くはない。
 そんなことを考えながら、いつしか眠りに引き込まれたのだ。


 あれから、あっという間に、五年が過ぎた。
 美月は、いつの間にか自分よりも年下になっていた。



◇◆◆◆◇



 ビンゴにとって大切なもの。それは、育ての母であり姉であり、恋人でもある、森島美月だった。
―――――そう。いつか、美月が自分の年に追いついたら、美月を自分のつがいにする。
 それが、ビンゴの夢だった。
 そんなことを言おうものなら、畑の柿の木にとまっているカラスは、
「ありえない」
と鳴いて笑うだろう。
 敵対しているボスザルは、
「人間と犬じゃ、どんなにがんばっても夫婦にゃなれん。そんなことも知らんのか」
と、嘲けるだけだろう。
 けれど、ビンゴにとって、美月は何よりも大切な存在だった。彼女がいなければ、一日が過ぎない。
 美月の父親なら、
『軽い分離不安の気があるようだね』
と、冷静に診断することだろう。
 彼は、田畑で作物を作る合い間に、獣医をしている。だから、彼は、ビンゴにとって、狂犬病の予防と混合ワクチンの、一年に二度の注射や春先から冬までのフィラリアの投薬など、厭なことを自分にする存在だった。もっとも、たまの晩酌のお相伴だけは、そう厭なことではなかったが。
 田畑を駆け回り、サルたちを追い払い、美月の遊び相手をつとめる。
 そんな毎日が、ずっとずっと、いつまでも続くのだと、ビンゴは信じて疑ってはいなかった。
つづく



from 10:00 2004/03/08
up 10:08 2006/02/08


あとがき

 十回目
 この書き方は〜ビンゴが主役みたいですよね。う〜ん。


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