あまりにも貴重な




 湿度の高い夜だった。
 ガス灯の明も間遠な月明かりとてない闇深い夜を、一台の馬車が駆け抜けてゆく。車輪が石畳を荒々しく削り抉る音だけが聾がわしく夜のしじまを切り裂く。町灯の明を時折車体に反射させる黒い箱型の馬車には、紋章もなく、装飾と呼べるものは何一つない。御者台には車体と同じく黒尽くめの御者が、これもまた黒い二頭の馬にたまさかに鞭を振り上げる。
 オレンジ色の車内灯にほのかに照らされたキャビンの中には、シルクハットもさまになる男がふたり振動に身をまかせていた。  やはり黒尽くめの出で立ちのふたりは、赤い別珍張りの内装のためかやけに際立つ闇を抱いているかのような印象を見るものに与える。
 年嵩の男が窓を閉ざす帳をかすかに開き、外を確認する。
「今しばらくのご辛抱を」
 そう告げられた相手は、かすかに首を縦にふるのみだ。厚手のマントの裾を握りしめからだに巻きつけるようにしているさまは、体調が良くないかのようである。なおもよく見やればシルクハットの下のまだ若い白皙に、弓なりの細い眉がしかめられている。形よい鼻梁の下、均衡良く配置された過ぎる赤を宿す薄めのくちびるは、痛々しげにきつく噛み締められている。
 噛み締めたくちびるをようように開き、車内灯にかすかな艶をきらめかせる真珠のような歯列を垣間見せ、
「ビュート」
 絞り出すかに放たれた声は、かすれ気味ではあったが心地よいテノールだった。
「はい」
「膝を貸せ」
 傲慢な口調に、
「かしこまりまして。むさい男の膝ではございますがどうぞ」
 微笑むビュートと呼ばれた男は”むさい”と自己を評するものの、見るものがいれば八割から九割がた陶然と魂を抜かれるだろうほどの美貌を有していた。
「すまぬな」
「閣下の御命令とあれば、いかようなものであれ」
「たすかる」
 ソファの上身をずらし、閣下と呼ばれた若者はビュートの膝に頭を乗せた。転がり落ちそうになったシルクハットを捉えるために少し前傾になったビュートの束ね損ねた細い流水めいた髪の総(ふさ)を、溺れるもののように握りしめる。
 シルクハットの下に現れた若者の白髪が、室内灯に染まりこぼれおちる。乱れた前髪が若者の黒と見まごう紫紺の瞳を隠す。それをビュートは白手袋越しの手櫛で梳きあげつづけた。
「おまえの手は、心地よい」
 それを最後に口をつぐんだ若者に、ビュートの艶めいた口角がかすかに弧を描いた。
「我が君」
 ビュートが味わうように囁くことばが若者に届いたかどうか、ただ沈黙が車内を満たしてゆく。
 静かな時を破ったのは、喉の奥で噛み殺すようなそれでいて周囲を頓着しないかのような、コウモリの羽音のような笑い声だった。ひとしきりひとの悪そうな笑い声が車内に谺すが、その声が若者の眠りを妨げることはないと言わんばかりにビュートは凝然としたままである。
「おまんはあいかわらずやなぁ」
 未だ収まり切らぬらしい笑いを噛み殺しながらの声の主を、
「閣下の御前に不躾ですよ」
 誰何もなく冷たい声で切り捨てる。
「悪い悪い。けど、おまんの部下も質が落ちたなぁ。わいに抵抗もできんかったで」
 口調とは対照的に血の滴るような悪意に満ちた声に、抵抗できなかったという部下の末路は明らかだった。
「それはそのものの自業自得。油断の代償を己が命で払ったというだけのことです」
 口角を吊り上げる。
「然り。然り。甘うなったと思うたが、重畳重畳。おまんはそうでのうてはなぁ」
「侮られては迷惑です。いい加減姿を見せたらどうです、ギール・エ・メル!」
 打擲するかのような声に、御者台の壁をすり抜けて男が姿を見せた。
「わいの名を忘れとらんかったんか。上出来やで。ビュート・バーゼル」
「できれば忘れていたかったのですけどね」
「そない冷たいことを言いなや。おまんとわいの仲やないか」
「どんな仲です」
 現れたのは、肩をすくめるビュートとどこか面差しの似た男だった。洗いざらしのような短めの金髪の下にはやはり見るものを魅了する容色があった。ビュートに対面するかのようにソファに腰を下ろし彼の膝に眠る白髪の若者を見下ろした男の、金に近い褐色の瞳の虹彩がひとならぬ形に収斂する。
「哀れな」
 それまでとは明らかに違う口調で、ギールがつぶやく。その伸ばされた手は、眠る若者の髪に触れていた。



「ドミニク・アシュレイ・グランビル公爵閣下だったか?」
 確認するかのようなギールのことばに、
「なにか?」
 触れるなとも云わずビュートは問い返す。
「この髪、かつては黒かったろう?」
 おちゃらけたような方言まみれの口調を正す。
「当然です」
 諾なうことばがキャビンに転がり消える。
「光を覆う烏羽玉の闇」
 かつてのドミニクの髪の色を、ビュートが思い出したように擬(なぞら)える。
「それはみごとな、濡羽色でしたよ」
「だろうなぁ」
 どさりと重たげな音をたててソファの背もたれに体重を預ける。
「それがこないな白に変わるゆうことは、よほどの仕打ちか大病か」
 思い出したように方言が混ざる口調がどこか痛々しげに響く。
「あなたはいませんでしたからねぇ。まったく。不敬というにもほどがありますよ」
「どいつもこいつも!」
 付け加えられたいまいましげなことばは、
「おまんに似つかわしないことば使うなや」
「仕方ないでしょう! どれだけ私のはらわたが煮えくりかえったと思っているんですか! あなたも彼も、あの男さえ現れない! あれだけの血を! 涙を! 悲鳴を! 我が君が流す羽目に陥ったというのにっ。もうあのみごとな黒髪は、あの暴挙によって奪われたものと等しく、取り戻すことはできないのですよ。我が君であろうと、我ら四つたりの誰であろうとも!」
 絶望にまみれた叫びが音量を絞って放たれる。それは、向かう先を見出したことによってほとばしり出た魂の叫びだったろう。
「力を奪われてさえいなければ、せめてあなたがたのうちの誰かが駆けつけてくれていれば! 我ら四つたりが欠けることなく揃っていさえすれば!」
 ビュートの手袋越しの指が、力任せにギールの胸に突き立てられる。穿ってしまいたいとでもいうかのように、その思いの込められた爪がギリギリとギールの肌に食い込んでゆく。
「悔しいことに、私だけの力では、どうにもならなかったのですよ」
 ハッとばかりに自嘲混じりの音のない笑いを吐き出し、ギールから指を離した。
「あなたの血などに何の意味もありませんけどね」
 絹手袋のつま先をかすかに染めるその色に、秀麗な眉間に皺が刻まれる。手袋を脱ぐと、懐から新たな片方を取り出し、付け替える。
「今更なぜ現れたのです」
 髪と同じ銀色の瞳が刃の鋭さを宿してギールに向けられた。
「我が君の、ご自身さえも捉えかねていらっしゃられる望みを嘲笑うためですか?」
 ならば、容赦しませんよ。
 口角を持ち上げたビュートの顔は、まるで断罪の天使めいて見るものに芯からの震えを与えるものだった。
 眇めた金の双眸をゆるりと閉じて見開いたギールが、手を髪に差し入れて頭部を掻きまわす。喉の渇きをいなすための数度の空咳の後に、
「ようやくなのだ」
 胸元を開き、己の流す血を指先で確認するかのように拭い取り、ギールはいまいましげに、そう言った。
「我が君が血を流されたことは、我らだとて即座に感じた」
「ならば。約定を忘れたとは言わせませんよ」
「わかっている。先走るな。」
 ため息を吐き、眉間を指先で揉みしだく。
「邪魔が入らなければ、当時ともにいた我ら三たりだとて、おまえに遅れることなく馳せ参じたわ!」
 獣めいた唸り声が、その胸の内を言葉などよりもいっそ雄弁に物語っていた。



「我が君は、我らが光。我らが命! その記憶を無くされておられようとも、それが変わるはずもない。ようやく! と、我らが気付いた時には、我らに敵対する者らも動き始めていた。我らの唯一の希望は、お前が我が君のお側にいるというそれだけだったのだ」
「あの者たちですか」
 銀の瞳が眇められる。
「そうだ。俺だとて探したのだがな………キナイとクゥエンティンとの行方は知れぬままだ」
「見つからないとなると………」
 手袋に包まれた指先を頤に当てて、ビュートがつぶやく。
「封印されたか、囚われたかだな」
「逃げのびることができているといいのですが」
「さて」
 ギールが顔を持ち上げた時だった。
 馬が嘶くとともに棹立ちになる衝撃がキャビンに伝わってきたのは。
「おおっと」
 ギールが腰を浮かせる。
「なにごと」
 ビュートがドミニクがバランスを崩さないようにと支え直す。それに、
「止めろ」
 よく響くテノールが命じた。
「馬車を止めろ」
 紫紺の双眸がビュートを素通りして馬車の天井を見上げていた。その、いつになく焦点の定まった視線に、胸を突かれたかのように動きが刹那止まる。
「了解」
 面白いとでもいうかのような口調と同時に壁を通り抜けたギールに気づいているのかいないのか、ドミニクが上半身を起こした。
 その熱と重みが失われたのを名残惜しく思いながら、ビュートが先に降りる。
 ギールが置いた踏み台を使いビュートの差し出す手を助けにドミニクが石畳に降りた頃には、何が馬を驚かせたのか確かめるまでもない様相がそこには繰り広げられていた。
 どこかの路地から出てきたのだろう、破落戸(ごろつき)が何かを囲んでいた。もちろんそればかりではない。彼らは手や足を使って、格好の獲物であるらしいなにものかをいたぶっているのだった。
「閣下がお気にかけるようなものでは御座いません」
 くだらないと吐き捨てるビュートを、
「下がっていろ」
 無碍に切り捨て、歩を進める。
 コツリと、黒いステッキが石畳を打つ。
 つき従おうとするビュートに、
「お前はそこだ」
 鋭い制止をかける。
「止めろ」
 放たれた鋭い命令口調が、夜の闇を切り裂く。
 それは、男たちの動きを押しとどめる力を秘めていた。
 刹那凝りつき、ついでちらりと投げやった視線が、ドミニクを認めた途端、大きく見開かれてゆく。と、先ほどの鋭い命令口調を忘れたのか、何かしら良からぬことを思いついた証に、男たちの口角がもたげられてゆく。
 少々尾を引く甲高い口笛が三々五々に放たれ、
「お上品な坊ちゃんの見学するもんじゃございませんよ?」
 あからさまな嘲弄と共に、近づく。
「それとも、俺たちと遊んでくださるとでも?」
 ニヤニヤとだらしのない笑いを垂れながら、それまでの獲物には興味がなくなったとばかりにぞろりとドミニクを取り囲んだ。
 男たちの背後にうずくまる、ひとの姿をしたものが、石畳に黒い影を描く。
 それを視線で指し示す。
 一瞥で主人の命令を理解したのだろう、ビュートが静かに動き始めた。



 夜の静寂を姦しい足音が破り、アルコールと暴力に酔い下卑て耳障りな遣り取りが空気を汚す。
 数を頼んでの襲撃だった。
 しかし。
 空気を引き裂く鋭い音を男達が拾ったかどうか。
 濁った悲鳴が次々とあがる。
 次いで、石畳に何か重量のあるものが落ちる音。
 ドミニクの繰り出した攻撃は、的確に男達から力を奪ってゆく。ためらいもなく急所を狙うそこには殺意があった。
 男達の側にドミニクに対する殺意がないことが、彼らの敗因であったろう。それでも、害する意図はあったのだ。
 己らに向けられる底冷えのするような眼差しが、何故なのか、男達にわかるはずもない。
 一見華奢に見える腕が、優美な軌跡を闇に描き、黒檀のステッキが男達を打ち据えてゆく。まるで闇より抜け出た見えぬ敵に襲われてでもいるかのような恐慌に男達は囚われていただろう。容赦ない一打ち、二打ちのうちに、男達は崩折れる。
 骨の一本や二本は明らかに折れているに違いない。
 ドミニクがこの夜使っていた杖が支柱部分に武器を忍ばせているものではないことが彼らの救いとなっているのかどうか。折れた箇所によっては一生不自由な生活を強いられるに違いない。いっそのこと致命傷であればと、後に思うものとているだろう。
「クソがっ」
 刃渡の長いナイフを抱え、突進してくる男を無表情に突き崩す。ステッキの先が穿つかと思えたのは、喉頭部、潰れれば確実に命はない。
 残る男達が、夜目にも青ざめ、後退さる。
「に、にげろっ」
 上ずった声をあげたのがどの男なのか。
 ドミニクには興味はない。
 敵意をなくし敗走してゆく男達が見捨てた仲間を、先までの凍えた眼差しが嘘のように茫洋と見下ろす。
「我が君」
 言外に急げと、ビュートが急かす。
 振り返った紫紺の眼差しは、どこを見ているのか捉えどころのないものへと変化をしている。
 コツリ。
 ステッキが石畳を打つ。
 ジャリと音を立てて、左足が石畳を擦った。
 左足を引く、特徴のある足音が、馬車へと向かう。
 それに従うビュートの肩には、男達に痛めつけられたのであろう、薄汚れた塊がひとの形をしたままで担がれていた。



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