あまりにも貴重な 2




「少々手狭になりますが、後しばらくのご辛抱を」
 手を翻すことでビュートに応え、
「怪我人にこちらを譲る」
 御者台側に背を向ける位置にドミニクが移動する。
「お前の膝を枕に、転がらぬよう見ていろ」
「委細承知いたしました」
 鼻をつく異臭が馬車内にこもる。それが、怪我人の体臭であることは確認するまでもない。どれだけの間からだを拭いていないのか。饐えた悪臭に、
「大丈夫でございますか?」
「構わぬさ」
 肩を竦めるドミニクからは先ほどの体調の悪さが形を潜めたように見受けられる。受け答えも、しっかりしているように感じられる。しかし、まだその紫紺の瞳は、茫洋と焦点を結ばない。
「スポンジバス………いや、風呂がいいか。それと医者、寝床は当然だな。食事は目覚めてからか」
 ぼんやりと確認するように呟くドミニクを、ビュートは見つめていた。



 グランビル公爵家のタウンハウスは、家格から鑑みれば質素と思われるような愛想のない黒目の濃い灰色の建前である。ドミニク・アシュレイが公爵を継承するにあたり前公爵が祝いだとばかりに新しく建て直した左右に幅のある両翼造りの二階建ての建物がそれである。王宮から離れた場所に建つのは、初代公爵が変わり者であったためである。ここ最近台頭してきている新興の男爵家のほうがグランビル公爵のタウンハウスよりもより王宮に近い位置取りに陣取っていた。しかし、その敷地面積を見れば、タウンハウスと呼ぶには不釣り合いなほど広大だった。流行りの東洋趣味を取り入れ、川には中洲まで設けられ、橋や飛び石、果ては小舟で水遊びとしゃれ込むことまで可能だった。あまつさえそこに建つ東屋は古代の神殿を模したミニチュアサイズのものである。ミニチュアとはいえ材質は白の大理石でエンタブラチュアの部分には繊細なレリーフの鍍金装飾がされてある。もちろんのこと、富裕層の象徴である噴水も数機設けられている。
 馬車は門番が開けた錬鉄の複雑な模様の黒い門扉をくぐり抜けた。
 門扉から一歩中に入れば、公園のようにも見える広大な敷地である。土がむき出しの道を道なりに馬車を数分駆る。道の頭上を夜空よりも黒々と覆うかのように繁る人工林の木立の隙間を夜行性の生き物の目が金や緑に光っては消えてゆく。
 見慣れた景色が、領地にあるマナハウスの敷地を模したものであることは明白だった。
 馬車寄せ前の噴水を回り込み、琥珀色の常夜灯の下に馬車は停車する。
 馬たちの足踏みが数回繰り返され、御者のなだめる声が聞こえる。
 その間に館の扉が家令(スチュワード)の指示によって開かれた。愛想のない鉄鋲打ちの扉の内側は広いホールであり、奥には両翼二階へとつながる主階段が二箇所ある。主人の邪魔にならないようそこを避け男女の使用人がずらりと立ち並び、待ちわびる。
「足元にお気をつけください」
 石段を登るドミニクに付き従うビュートが注意を促す間にも、主人のために段差を控えめにした石段を主従は登りきる。
「おかえりなさいませ」
 かけられる声はきれいに揃う。その間を家令にシルクハットを渡しながら進むドミニクは、何事かを思い出したように立ち止まった。
「ビュート」
「はい。閣下」
「あれを」
 物憂げな眼差しが、銀髪の執事(バトラー)の肩のあたりを彷徨う。そこには、汚れたひとの形をしたのものが担がれたままである。
「こちらに」
 肩から腕に移動させながら、ビュートが応える。
「いかがいたしましょう」
 そう答えるビュートに、
「そちらは?」
「ローレンスどの。これは、帰途閣下がお助けになられた者でございます」
「怪我がひどいようですね」
 中年の家令が落ち着いたようすで、執事の腕の中意識のない若者を確認する。
「客間にバスタブと、医者を。部屋は客間を適当に。バスルームの風呂はいつものように僕が使う」
 命じる声に、
「御意のとおり」
 家令と執事とが腰を折る。
 手を二度打ち鳴らす家令に、使用人たちが持ち場へと戻ってゆく。その中の数名に、家令が指示を伝える。客間の準備と風呂の用意、久しく使われていないバスタブの準備の指示だった。そこには、下層階級だろう拾われた若者に客間をあてがうことに対する疑問など微塵も見受けられはしない。
「お医者さまには、私が電話をいたしましょう。叩き起こすことになりましょうが、文句も申されませんでしょう。しかし、足が必要ですね」
 誰を使いにやりましょうか。
「でしたら、今宵の御者にもう一働き願いましょう」
 ローレンスに、ビュートが提案する。
「その前に、客人を寝室へ」
 バスタブを運ぶ使用人のひとりに、ローレンスが声をかけた。
 そんな使用人たちのやり取りを尻目に、ドミニクは、ゆっくりと階段を上っていった。



 白地に青の模様が異国情緒を漂わせるメインバスルームに、かすかな水音が響く。
 金の猫足に支えられた白い琺瑯のバスタブにドミニクがからだを浸していた。
 側にはタオルを腕に、ビュートが佇む。
 ドミニクがかすかに身じろぐたびに、湯気が大きく揺らぎ密度を薄くする。
 静かな、穏やかな、湿度の濃い空気が、両手で顔を覆う動きに破られた。
 かすかな小さな呻きにも似た音が、手の奥から漏れ聞こえる。
「閣下」
 床が濡れているのも気にかけず、跪きそっとかける声の気遣わしさに、
「いい。構うな」
 かろうじて耳が拾える程度の声が返される。
「しかし」
「かまうな、と、言っている」
 今度はしっかりとした声音だった。指の隙間からビュートをねめつける紫紺の眼差しが、琥珀の光にアレクサンドライトのような黒みの強い赤を宿したかの錯覚があった。
 背筋が震える。
 それは決して、恐怖からではなかった。
 ああ、彼は。
 彼こそが。
 彼に仕えるようになって幾度となく襲いかかる歓喜であり、ある種の情動であった。
 ぞろりと背骨を舐め上げ、からだの中心が熱くなる。
 薄いくちびるが、かすかに震えた。
 ゆるりゆるりと、口角が持ち上がってゆくのを堪えることができなかった。
 今宵は、ドミニク・アシュレイがパトロンをしているオペラ歌手の初舞台だった。期待のエウテルペと前評判の高さにたがわず、彼女はその日の劇場を感動の渦に巻き込んだ。
 ボックス席で見ていた彼もまた、常には感情の薄い口角を満足げにゆるめ、手袋に包まれた手を叩いていた。
「公爵さま」
 ピンク色のガーベラに同色の小花とかすみ草を合わせた花束を持って楽屋へと向かった彼に、彼女は花束の色に負けじと染めた頬を隠すこともなく抱きついた。
 白いうなじが、化粧と汗の混じった匂いが、彼を惑乱した。
 それを堪えることができたのは、ひとえに、彼のある事情のせいであったろう。そのせいで、彼は、他人と必要以上に付き合うことはない。
 ただ。
 千々に乱れた感情は彼の脈動を体温を上昇させ、目の前にあるたおやかで健やかな若い女性の首筋が、彼の中の獣性を刺激することになったのだ。
 あの刹那主人のくちびるの隙間から覗いた真珠色の艶めきを、ビュートは思い出す。
 ねっとりと濃度を増した空気が、楽屋を閉ざした。
 溶かされた琥珀に閉じ込められた哀れな虫ででもあるかのように、息をすることさえも忘れていた。
 もがくことさえも忘れたオペラ歌手が、主人にもたれかかる。
 今にも、彼のくちびるがエウテルペの呼び名を不動のものにした年若い女の首筋に触れようとした。
 しかし、それは、禁忌に他ならない。
 それは、あってはならないことだった。
 他でもない。
 ”彼ら”にとって。
 だから、彼は、そっと。
 ただ。
 ただひとこと。
 なりません−−−と。
 手首に触れて、そう囁いた。
 途端、空気が変貌する。
 瞬時にして凝りついた琥珀が砕け散るかのように、儚い音とも呼べぬ音をたてて、空気が通常を取り戻す。
「きゃあ」
 悲鳴をあげたのは、オペラ歌手だった。
 彼女が抱きついていた相手が、わずかに震えたと思えば、膝をついたのだ。それにつれて、彼女もまた、倒れかけた。
「閣下っ!」
 ビュートが似合わぬ狼狽をあらわにし、ドミニクを支える。
 ガタガタと震える彼の顔は青ざめ、滂沱の汗に濡れていた。
 忘れられた態となった歌手に彼が手を差し伸べたのは、かすかな逡巡の後であった。
「大丈夫ですか?」
 目の前に差し出された白い手袋に包まれた手に我に返った歌手が慌てたように、
「大丈夫です。それよりも、公爵さまを」
 カウチの上のプレゼントを無造作にどかす。
「こっちに」
 横になれと示す彼女に、首を横に振ったのは、当のドミニクだった。
「失礼する」
 掠れこわばった声に、彼女はただ立ち尽くして見送る以外思いつかなかった。そんな彼女に、
「ご心配無用ですよ。それでは、失礼いたします。今宵はごゆっくりお休みください」
 主人のことばを補い、腰を折った。
 ドミニクに肩を貸しドアを閉めた後、ビュートは彼を横抱きに掬い上げ馬車へと向かったのだった。



 あとがきという名の蛇足と注釈
 こんな感じでしょうか。いろいろ調べてたら時間かかっちゃって。特に未だわかりかねるスチュワードとバトラーvv シュチュワード>バトラー らしいですけどね。財産管理人と、主人のプライベートな家庭内の事務役。家令のほうは基本、代々お家に仕えてる。執事は、要は私設秘書みたいなもんかな? あとは、お風呂事情にトイレ事情vv いろいろ説あるけど、とりあえずイリギス舞台じゃないので。似非ですから。あくまでも! 主張です。
 えと、エンタブラチュアは、ギリシャ神殿の、屋根の下の水平な三層くらいに分かれてる部分のことです。いい日本語がなくって、そのまま使用です。
 エウテルペは、ギリシャの芸術の女神(ムーサ)の中の一柱、音楽の女神の名前です。



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