あまりにも貴重な 3




 バスルームに湯気がたゆたう。
 熱い湯にからだを浸した体勢のまま両手を下げたドミニクの表情に、ビュートを捉えていた不埒な熱が一気に下がった。
「閣下」
 青ざめた面(おもて)に、白い髪が乱れかかるさまは幽鬼めいて、冷水を頭からかけらる心地であったのだ。
「かまうなと、重々承知しております。しかし」
 その行動に、わずかの逡巡もありはしなかった。
 鋭い刃が光を弾き、軌跡を描く。
 一刹那の閃光。
 何が起きたのか、鈍いものであれば、理解できなかったろう。
 しかし。
 ドミニク・アシュレイは亡羊とした眼差しで己の執事の動きを捉えている。
 脱いだ手袋の指先を咥えたままの行儀の悪さを、彼がどう感じたのか。しかし、それは彼にとって些末事に過ぎなかった。
 ぷっくりと、ガーネットのように黒をはらんだ赤い粒が執事の手首に盛り上がってゆく。
その赤に、ドミニクの意識は奪われていた。
 心臓が聾がわしいまでの鼓動を一度脈打った。
 それでも。
 ならぬのだと。
 あの時には思いもよらなかった禁忌が警鐘を鳴らす。
 あの、ピンクのガーベラが似合うだろうエウテルペの首筋に煽られた獣性とは似て非なる別のなにかが、そう告げてくる。
「どうぞ」
 静かに、穏やかに、なんらおかしいことではないのだと、まるでその身を捧げる贄のような敬虔ささえ見せて、ビュートが彼に手首を差し出している。
 執事の白い手首に赤が線を描く。
 そのさまが、彼の飢えを刺激する。
 我慢する必要などどこにもないのだと。
 これこそは、彼に捧げられた、供物なのだと。
 全身が震える。
 息が荒ぶる。
 己の息がうるさかった。
 目の前が、白く霞む。
 白くかすんだ視界に、ビュートの流す赤だけが、鮮やかだった。
 赤が。
 赤の醸すその香気が、彼を惑乱するかのように漂う。そんな少量で立ち込めるはずのない香りを、彼は感じ取っていた。
 すでに、己で己を律することは不可能だった。
 ドミニクは、意識の片隅で己の浅ましさを嘲笑いながら、執事の腕を掴みその赤にくちびるを寄せていたのだ。



 夢だとわかっていた。
 重苦しい、夢だった。
 寝返りさえも打つことができないのどの、濃密な空気が、ドミニクであるはずの彼を取り巻いていた。
 苦しくて、苦しくて、苦しくて、狂ってしまいそうだった。
 しかし、同時に。
 己が狂うことなどできないのだと、知ってもいた。
 狂うことなど、許されてはいなかった。
 正気のままで、狂気のような凶器にさらされつづける、それから、逃れることさえも許されてはいなかった。
 空気が重く粘りついてくる。
 空気を求めて口を開けたというのに、入ってくるのは水とも思えるようななにかで。
 救いを求めて伸ばした腕は甲斐なくただどこかに落ちてゆくのだと、諦めた心地でそれでも伸ばさずにはいられなかった腕を、手を、何かが、誰かが、やわらかく受けとめてくれた。
 それがどれほどの奇跡であるのか、誰が知るだろう。
 歓喜であるか。
 そうして、ドミニク・アシュレイは重苦しい夢から解放されたのだ。
「おはようございます」
 静かに穏やかな声が、耳に心地よかった。
 暗い部屋の中、その白皙がおぼろに輪郭を際立たせる。
「ああ」
 うめきとも応えともつかない声が、ドミニクの喉を震わせた。
 握られていた手をそっと引き戻すと、
「失礼いたします」
 そう言う口の下、ビュートが喉の奥で小さく笑ったと思ったのは、勘違いだったろうか。彼を上半身をベッドヘッドにもたせかけるように起こし、数度軽く叩いた枕を背中に当ててくる。そのままそびらを返すと窓を覆っているカーテンを勢い良く開けた。
「今日は良いお天気でございますよ」
 窓を開け放ちながらこちらへと顔を向けてくる執事は、秀麗な容貌にいつも通りのやわらかな笑みをたたえている。そのさまは、まるで一幅の宗教画のようですらあった。



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