螺  旋 



 夏の路上販売は、暇と熱との戦い。
   江戸時代くらいには、地面にござとかをひいてその上に売り物をのせただけの店を『じか店』と呼んでいたらしい。
   そのまんまやんと、テレビに突っ込みを入れて笑われたのを思い出す。
   ぼんやりと人ごみを見ていると、
  「それ、見せてくれる?」
   露店商をはじめて最初の客。
   ドキンと心臓が跳ねたが、それを隠して日名子は顔を上げた。
   ぬっと伸びてきた筋張った腕。重そうな銀の腕輪。捲り上げた皮のジャンパー。ちょっと年をくってしまったバイク乗り風の男の人の長い指が指す先には、トンボ玉に革紐を通しただけのチョーカー。
   トンボ玉を作るのに苦労したのだ。
   バーナーを使うガラス細工。爬虫類をくっつけてみようかと思ったのは、単なる思いつきだった。地面をちょろちょろと走っている、きれいな青緑色のトカゲ。デフォルメ気味に
   作ったそれを冗談半分にくるりとトンボ玉に巻きつけてみて、意外な可愛らしさにみんなで笑った。
  「はい、どうぞ」
   だから、それが目にとまるのは嬉しい。
   にっこりと笑って差し出す。
  「手作りの一点ものですよ」
   ハートマークを語尾にくっつけてみる。
  「これ、君が作ったの?」
   見下ろしてくる瞳は、濃い褐色のサングラスの奥。だから、表情までは、判らない。
   なんとなく、唾を飲み込んで、
  「はい」
   緊張しているのがわかったのだろう、
  「これ貰おう」
   グニッと大きな口が笑った。
  「あ、りがとうございます」
   頭を下げて見送ると、限定解除しないと乗れないだろう大きなバイクにまたがって、エンジンをふかしている。
   目が合ったと思ったら、やっぱり合っていたらしい。
   手を振って走り去った。
  「きっざー。でもちょっとイケてるじゃん」
  「ともこ倫子、葉月、売れた…」
  「うん?」
  「売れたよ、わたしのトンボ玉」
   倫子の剥き出しの肩を掴んで揺さぶる。
  「ドードードー。ヒナ、落ち着きなってば」
   背中を軽く叩かれる。
  「もー、倫子、わたし、馬じゃないんだよ」
  「牛?」
  「もーっ」
   振り上げた手。
  「ほら、もーもーって。牛の場合ヒナって言わないしなぁ。今度から、牛子ちゃんって呼んだげよっか?」
   プーッとふくらんだ日名子の頬を人差し指で葉月がグイッと押さえる。
  「まだ一個目だよ。がんばって売ろうね。三人展の会場を押さえるためのノルマあるんだし」
  「葉月ってばクール」
  「男前って言ってくれ」
   キャラキャラと笑いあう三人の若い女の子たち。
   二十才くらいはいっているだろうか。
   華やかな露天商に、道行く人が少しずつ立ち止まり始めた。
   それでも売れるのは五人に一人くらいで。
   そのたびに一喜一憂する三人の姿は、楽しそうで、とりあえず客足が途絶えることだけはなかった。
 
※ ※ ※
  「ふにゃ〜つっかれたぁ」
   ばさっとソファに仰向けに倒れこむ。
   マンションの居間。
   二十畳くらいはあるだろう、対面式のキッチンとリビング。
   自分の部屋に行かなきゃと思いながら、心地好い疲れがそれを許してくれなかった。
   結局売れたのは、全部で九個だった。
   午前十時から夕方六時までで九個。
   酔っ払い相手のほうが売れるような気がするが、それではあまり意味がないような気がする。
   せめて、気に入ってくれた人が買ってくれるほうが、精魂こめて作ったアクセサリーたちも嬉しいだろう。そう相談して、午前中から夕方までと決めたのだ。
  「焦らない焦らない。三人展までまだ…三月あるんだし」
   間には大学祭もあるから、その時にも少し売れれば軍資金の足しにはなるだろう。
   でも、嬉しかった。
   自分の作品が売れるのは、嬉しくて。
   本当は飛び上がりたいくらいだったのだ。
  「ぜーったい、倫子も葉月も本音は嬉しかったはずなんだよね。クールだし男前だけどさ」
   大学でできた友人。
   ガラス工芸をやりたいという学生は、あまり多くはなく、女の子も三人きりだった。
   本当は、吹きガラスもしたいのだけど。
  「あれは、肺活量がいるから」
   葉月は、たぶんいつか吹きガラスもするだろう。
   背も高いし、運動神経や持久力なんかも抜群だから、きっと向くだろう。
  「あ〜あ、大きな作品を作りたいよ〜」
   じたじたと、まるで小さな子供のように足をばたつかせる。
   そうして、日名子はいつの間にか眠りに落ちた。
   
   
   かすかなくすぐったさ。
   鼻先をかすめる、消毒薬の匂い。
   それに惹かれるように目が覚める。
   メガネ越しの薄い色の瞳。
  「あ、お帰りなさい」
   かすれた声で言うと、
  「今日から露店商だったな」
   低くてよく響く声。
   乱れた前髪の間から覗いている、レンズ越しのまなざし。
  「晩御飯は? お兄ちゃん…ごめん………」
   ともすれば出てしまう、長年使い慣れた呼称。
   ちらりと見上げれば、かすかに眉間に縦皺が寄っているような。
  「ごめんなさい…章博さん」
   まだ、使い慣れていない、名前。
   名前を呼びたいと思っていた時期があったなんて、嘘みたいだ。
   いざ呼ぶようになると、くすぐったいというより、恥ずかしいような気がしてならない。
   どうしてだろうと考えてみるけれど、いまだに理由がわからない。
   考えることは、あまり向いていない。右脳の人だか、左脳の人だか。
   とりあえず、本能とかそっちのほうが勝っているらしい自覚がある。
  「今から作るのも面倒だし、外食もな。…店屋物でも取るか。ヒナは何が食べたい?」
   章博のことばに反射的に時計を見て、ギョッと目を剥く。
  「十時???」
   三時間近く寝てしまったらしい。
  「ごめんね、ほんと、ごめんなさい」
  「馬鹿。謝ることないだろ。自炊しないとどうにもならないわけじゃないんだし。ヒナも慣れないことして疲れたんだから、こういうこともあるさ」
   はっきり言って、料理が上手でマメなのは章博のほうだったりするのだけれど。
   それでも、医学関係の緻密な研究をしている章博が帰ってくるまでご飯を作らないなんて言う図太さは、日名子にはない。
   これでもレパートリーは増えたのだ。
   故郷にいた時は、台所になど立とうものなら大騒ぎだったが。それでも、友達から聞いたお菓子のレシピを試してみたくて何度かこっそりと忍び込んだことがある。
  自分の家の台所に忍び込むスリルを思い出して、日名子はクスリと笑いを漏らした。
  本家と分家。
   田舎の古い日本家屋。
   その辺の武家屋敷などよりも広いだろう、大庄屋の家屋敷。
   血が濃くなると他所の人間を入れたり嫁いだりして血を薄め、もう一度血を合わせる。
   そんなことをして続いてきたらしい家系だった。
   霧島日名子と剣崎章博は、その家系の最後の二人。
   従兄妹同士に当たるだろう。分家の剣崎家が先に章博を残すだけとなり、霧島本家の、当時はまだ健在だった当主夫妻が章博を引き取ったのだ。その時、当主夫人は身ごもっていた。
   生まれながらの、否―生まれる前からの、許婚者の二人である。
   血が濃いせいなのか、霧島本家の人間は常に子孫を一人しか残せず、早死にした者が多い。
   それでも、古い家系によくあるように、長年の風習を変えることはなく今日まで来てしまったのだ。
   剣崎章博はその優秀な頭脳を見込まれアメリカに留学した。才能を遺憾なく発揮し、他人の倍近い速さで、大学院までの過程を終了した。しかし、遺伝子の研究をするほどの優秀な頭脳を持ちながら、彼もまた古い因習に縛られた存在だった。
   章博がアメリカから帰国したのは、五才年下の許婚者が独りになったと知らされたからだ。
   霧島の当主夫妻は不帰の人となった。
   まだ中校生だった日名子を、新たな彼の職場近く、東京の彼のマンションへと連れてくるのに反対する者はいなかった。
   そうして、六年。
   すっかりここの生活にも馴染んだ日名子である。
   日名子ももうじき二十一才。
   ところどころにまだやんちゃっ子の面影を残してはいるものの、章博の目には眩しいばかりの女性に成長を遂げている。
   幼い頃から日名子しか目に入らなかった。
   思い起こしてみれば、一種不健全だった少年時代。
   遊んで欲しいと懐いてくる日名子を避けたのは、そんな自覚があったからだ。
   そうして、アメリカ留学の話が持ち上がった時、渡りに船と受けた。
   あのまま霧島の家にいたら、幼い日名子相手にとんでもないことをしてしまいそうで。なによりもそんな自分を恐れたからだった。
   いくら許婚者とはいえ、十才の少女を相手に理性を保てない自分がぶざまでもあった。
   だから、逃げたのだ。
   今にも泣きそうだった、あの日の日名子。
   空港まで見送りに来てくれた少女を、どんなに抱きしめたいと思ったろう。
   それは、今でも続いている感情の揺らぎ。
   このまま押し倒して思いの丈をぶつけたいという激情と、後二年待とうと自分自身を抑えようとする理性。
   だから、どうしても、帰りが遅くなる。
   研究室にこもっている間は、日名子のことを忘れていられる。
   いや、ともすれば日名子のことを考えようとする自分を、研究という名目で律していられるのだ。
   しかし、今日のように不意打ちをされると、揺らぎを抑えるのが困難になる。
   リビングに入った途端章博の目に飛び込んできたのは、しどけなくソファで眠る日名子だった。
   寝返りを打つたびに何度も引っ張ったのだろう、よじれてしまっているレモンイエローのTシャツにジーンズ。
   床に置かれたままになっている大きめのDバッグを見て、三人展の資金集めにアクセサリーを路上で売るのだと張り切っていたのを思い出す。
  「ヒナ…」
   揺り起こそうとして、喉の白さにドキンと心臓が脈打った。
   痛いほどの脈動。
   日名子が寝返りを打つ。その拍子にめくれあがったTシャツの裾。
   気がつけば、日名子のかすかに開いたくちびるに、自分のくちびるを重ねていた。
   掌に日名子の肌の張りつめたすべらかさを感じている自分。
   日名子が目覚めなかったら、おそらくは最後までいっていただろう。
   咄嗟に引っ込めた掌にくちびるに、ダイレクトに日名子に触れた感覚が、その心地好さが、いつまでも熱となって残っていた。
 

※ ※ ※
 

「今日もあの人来るかな」
  「来るって。でも、あれって、絶対ヒナが目当てだよ」
  「うっそだ〜」
  「ヒナ、気をつけないと三角かんけーとかになっちゃうぞ」
  「そんなことないってば」
   クスクスと笑う倫日名子の二人に、
  「フッフッフ。甘いよん君たち。あの人、結婚してるって」
   チッチッチと、人差し指を目の前で振るのは葉月である。
  「え〜?」
  「ウッソ!」
   大袈裟に身を引く。
  「左の薬指にずいぶんと分厚いリング入れてるの気づいてない?」
  「そだっけ?」
  「気づかなかったけど」
  「銀…多分プラチナだと思うんだけど、真ん中にメレダイアが一個だけ埋め込んであるんだよね」
  「え〜?!残念」
   倫子が大きく溜息をつく。
  「倫子っ」
  「あんた」
   日名子と葉月の叫びが重なる。
  「あの人のこと」
  「好きなんだ?!」
   肩を竦めた倫子が頭を掻く。
   話題の主は、最初の日に日名子の作った爬虫類を巻いたトンボ玉のチョーカーを買って行った男。
   あれから十日あまり同じ場所で露天商をしているが、毎日やってきては一個か二個アクセサリーを買っていくのだ。それも、いつも決まって日名子の作品ばかりを。
  「うん。なんとなくいいなぁって。そんなもんなんだけどさ。でも、残念。エンゲージ・リングかぁ。………じゃあ、よっぽどヒナのデザインが気に入ったってことかぁ…いいなぁ。わたしにも一人くらいそんな人現われないかなぁ」
   夢見る乙女モードに入った倫子だった。
  「なんでよ。倫子や葉月のデザインのほうがよっぽど捌けてるじゃない」
   そう。売れ筋は、倫子と葉月のアクセサリーのほうなのだ。
  「コアでディープなファンか。たしかに、ちょっと怖いかな。あの人の格好が格好なだけにね」
  「この暑いのに革ジャンに革のズボンだもんね。まぁ、バイク乗りってこと考えて差し引かないととは思うけど。怪我防止ってこともあるだろうけど。あの髪と髭が………」
   ソバージュみたいな背中の中までの長い黒髪。頭はバンダナで包んでいる。そうして、顎に生えている山羊のような髭。
  「胡散臭いよね」
  「三十くらいだと思うけど、どーだろ」
  「バイク乗り………案外どこかでペンションしてたりして」
  「ペンションなんて今時分掻き入れ時なのに、呑気に露天で買い物なんてできないっしょ」
  「だよねぇ」
  「やっぱ、あやし〜」
   きゃらきゃらと、夏の暑さにもめげない元気な三人である。
   
   
  「あれ? お兄ちゃ…じゃないや。章博さん帰ってる」
   どーしたんだろう―と独り語ちながら、玄関で靴を脱ぐ。
  「あ、ラッキー! お…じゃない。章博さん特製のパスタだ」
   手作りのトマトソースがおいしい、ラザニア。
   玄関までソースの匂いが漂ってくる。
  「たっだいま。章博さんっ」
   ハートマークを語尾にくっつけて、後ろから抱きつく。
  「おっと。こら。ヒナ、危ないだろう。火傷したらどうするんだ」
   湯気の立つフライパン片手にくるりと向きを変え、カウンターの上に置く。
  「先に風呂入ってくるといい」
  「うん!」
   ぱたぱたと荷物を持って離れてゆく日名子の後姿を見ながら、
  「まったく…」
   章博が深い溜息をつく。
  無意識に握りしめた腕が、小刻みに震えていた。
 

  「でね、その人がまた来たんだ」
  「ヒナのデザインが気に入ったんだろ」
  「うん!」
   ごそごそと、日名子がパジャマのポケットを探りだす。
   何をしているんだろうと見ていると、
  「でね、これ貰っちゃった」
   はい―と、目の前に差し出されたのは、一葉の名刺。
   条件反射で受け取り、眺めた。
  「ガラス工房…カザン、店主、入江信俊………」
  「今度よければ遊びにおいでって。章博さんも…」
   瞬間、日名子に向けられた、章博の鋭いまなざし。
   思わずことばを失った日名子に、
  「よかったな」
   章博が、言う。
   章博の目の前で、日名子が満開の笑みを咲かせた。
   ズキン!
   章博の心臓が、悲鳴を上げる。
   限界だった。
   ミネラル・ウォーターを一気に飲み干し、章博が勢いよく立ち上がった。
   見上げる日名子のまなざしが、章博とまだいくらも減っていない皿の上とを往復する。
  「おにいちゃん…気分悪いの?」
   自分が章博を"兄"と呼んだことにも気づかず、日名子の手が、章博の額に触れた。
  「熱は、ないみたい。なんか薬飲む?」
   救急箱…と呟いて踵を返した日名子の手を、咄嗟に掴み、抱き寄せていた。
   バフと効果音の入りそうな、軽い感じ。
   章博の鼻孔を、シャンプーとリンス石鹸の香がくすぐる。
   小さな頃は、腰まであった、長い黒髪。
   今はいっそ思いっきりよく、顎のラインで切り揃えている。
  『ガラスで物作るときって、火を弄らないと駄目だもん』
   そう言って笑った。
   火傷の痕が痛々しくて、本当なら、そんなことさせたくない。
  『火の中で赤く熔けてゆくガラスを見ているのが好きなの。で、それを自由に操って、思うものを作るのは、もっと好き』
   そんなことを言われて、禁止することができるわけがない。
   火ぶくれひとつにも過敏になってしまう自分。そんな縛るような無様な真似など、したくないのだ。
   なのに。
  「どうしたの?」
   覗き込んでくる漆黒のまなざし。
   信頼と愛情とにあふれた、仔犬のようによく輝く瞳。
  「日名子」
   兄と呼ばれるたびに、心が軋んだ。
   そう。
   兄妹のように育ってきた。
   その時間が長すぎたと言う自覚はある。
   甘い痛みをともなう、長い時。
 

けれど、日名子は自分のものなのだ。そんな歪んだ独占慾があった。
 

  豊かな黒髪、白くなめらかな頬。小さなくちびる。
   日本人形のような、従妹が将来は自分の妻になる。
   それを知らされた時、どんなに切望しただろう。
 

 時が早く流れればいいのにと、どれほどまでに願っただろう。
   剣崎の息子と生まれたことを、あの時ほど感謝したことはなかった。
   自分だけが、日名子と、呼べる。
   その、誇らしさ。それは、あの、時の澱んだような土地の者でなければ、判らないのかもしれないが。
   けれど、返されるのは"おにいちゃん"だった。
  『僕は、日名子のお婿さんだからね。お兄ちゃんと呼ぶのはおかしいよ』
   そんな風にたしなめたのを、やさしくほほえんで見守っていた霧島の伯父夫婦。
   やわらかくセピアがかった情景。
   それを、正すのは難しく、今も、直ったとは言いがたい。
   今も、日名子の中では自分は兄でしかないと思い知らされるかのようで、心が軋む。
  「日名子…ごめん」
   漆黒の瞳が大きく瞠らかれ、自分の顔が映っている。
  青く歪んだ自分の顔。
 

  キスされるのだと思った。
   けれど、こんなキスは知らない。
   からだが、小刻みに震えている。
   くちづけは、長く強引で。
   背中に回されている腕の感触すらわからなくなった。
   歯列をたどり、するりと歯の隙間から入ってきた章博の舌。
   びっくりした。
   キスは、日常生活だったけれど。こんな、大人のキスは知らない。
   足から力が抜ける。
   舌の感触が、全身を痺れさせる。
   甘い、毒。
   そんなことを考えていられたのも、最初のうちだけで。
   息が苦しくて章博の胸に腕を突っぱろうとして、かなわなかった。
   よりきつく抱きしめられ、そうして、パジャマの裾から忍び込み、直に肌に触れてくる熱い手。
   刹那、日名子は『ごめん』の意味を、正確に理解した。
   本能的な、抵抗。それさえも、きつく抑え込まれた。ただ、耳元で繰り返される『ごめん』だけが、生々しいほどに現実だった。
   速くなっていた鼓動が、いっそうのこと速度を増す。
   カッと、全身を灼熱感が包んだ。
   頭が、煮えたぎるようで、鼓動が頭の芯まで響き渡る。
   どうすればいいのかなんて、考えられなかった。
   ただ、与えられる感触だけが、全身を侵してゆく。
  それが快感なのか、苦痛なのか、日名子にはわからなかった。
 

  「ばかっ」
   涙声が部屋に響く。
   同時に、何かやわらかなもの同士がぶつかったような音。
   パチンと、日名子の掌が章博の頬で爆ぜた音だった。
   章博は、日名子の手を避けなかった。
   自分がしたことの意味を理解している。
   そう。
   合意なきセックスは、あくまでもレイプでしかない。
   たとえ、どんなに愛情が煮えたぎっていても。
   過ぎた愛情が、自制心を焼き切ったからだとしても。
  「すまない……」
   苦痛を訴える日名子を押さえつけ最後まで暴走したからだは、心地好い疲れに浸されているが。
   精神的には、最悪だった。
   のろのろとからだを起こした日名子が、シーツを巻きつけて寝室を出て行く。
  「ヒナ…」
   伸ばした手は、届かない。
   日名子は振り向きもしなかった。
 

※ ※ ※


  「なに、ヒナ。機嫌悪いね」
  「え?」
   倫子のことばに振り向くと、トンと、眉間をつつかれた。
  「そんなじゃお客さんよりつかないって」
   うんうんと、腕組みをして葉月がうなづく。
   つつかれた眉間を撫でさすり、
  「そんな顔してた?」
  「子供だったら泣き出すね」
   葉月の表現に、げっそりと肩を落とした日名子である。
  「章博さんと何かあった?」
   ずばり指摘されて、
  「うん。まぁね」
   ことばを濁す。
  「ふっふっふ。迫られたりしたんじゃない」
   倫子のことばに、全身が跳ねる。
  「ああ、ビンゴだな」
  「わたしって、そんなわかりやすい?」
   この二人相手に隠し事なんか最初っから無理かぁと、日名子は溜息をついた。
  「ま、ね」
  「あんた、鈍いし」
  「天然ボケはいってるよね、こと男女間」
  「身近に章博さんがいたら仕方ないとは思うけど。ヒナの天然って、章博さんにも全開だろうし」
  「生まれる前からの許婚者ってスタンス、男にゃ辛いだろうしね」
   二人して好き勝手言いあっている。
  「なによ、それ。わたしが悪いって言うの」
   あんなことされたのに。
   日名子にだって夢というのがあったのだ。
   ハネムーン先の、コテージみたいな可愛らしい部屋での、蜜月。
   今時、爆笑されるだろうから、口にしなかっただけで。
   それなのに、あんな!
   最初はフローリングの床に押し倒されて。
   気がつけば、ベッドの上だったけれど。いつの間に移動したのか、記憶にもないなんて。
  「悪いっていうんじゃないけど」
  「ヒナって、章博さんのこと基本的に『お兄ちゃん』としてしか見てないとこあるじゃない」
   うんうんと、葉月がうなづく。
  「そんなことないもん」
  「ほんと?」
  「そうだよ。だって、お…章博さんと大学卒業したら結婚するんだし」
  「その思考の流れが、どうも、ねぇ」
  「刷り込みだよね。結局、ヒナの章博さんに対する感情って」
  「なに、それ」
  「将来結婚するから、章博さんのこと好きなんだってこと。好きだから章博さんと結婚するんじゃないよね、ヒナって」
  「へ?」
   思いも寄らないことを言われて、日名子が硬直する。
   言葉遊びのような気がしないでもないが、なんだか、痛いところを突かれたような気がした。
  「毎日それを感じてたら、章博さんも煮詰まると思うんだ」
  「キれるよね。遠からず」
  「章博さんて抑制強いみたいだから、反動も凄かろう。ヒナ覚悟してないとしっぺ返しが怖いと思うよ」
  「比較的軽くて、家庭内レイプかなぁ」
   遅いってば!
   そんな忠告、今更言われても、遅すぎる。
   しかも、比較的軽くて、家庭内レイプって……。
   その暴力に曝されたのは、昨夜のことだ。
   なにもかもがあまりにも生々しすぎて、忘れることもできない。
  「…じゃ、じゃあ、最悪の場合、なに?」
   好奇心猫を殺す。
   そんなことを考えながら、それでも聞いてみずにはいられない。
  「そ、だね。………小説、ロマン系の小説やコミックスだったら、拉致監禁とか、からだの自由を奪っちゃうとか」
  「そう。鬼畜系のボーイズラブだと、それ結構王道だったりするんだよね」
  「実害のない、乙女の夢ってやつよね」
  「ハハ…たしかに」
   聞くんじゃなかったと後悔しても、後の祭だったりする。
  「ま、大丈夫でしょう。いくらなんでも、そんなことするはずないってば」
  「そう。そう。あくまで、それはフィクション。現実じゃ、リスクのほうが大きすぎて、そんなことできやしませんって」
  「発見されれば、犯罪者。ドメスティック・バイオレンスだって、今じゃ立派な犯罪だし」
  「章博さん、大人だし」
  「い〜よねぇ、ヒナってば。あんな許婚者ならわたしだって欲しいってば」
   ぼんやりと、倫子と葉月の遣り取りを聞きながら、日名子はからだが傾いでゆくのを感じていた。
 

※ ※ ※
 

(あれ?)
   見慣れない天井。
   薄暗い部屋は、どう見ても自分の部屋ではない。
   頭に手をやると、生ぬるく濡れた感触がある。
   固く絞った、タオル。
  「ここどこだっけ? なんで………」
   振り子が揺れている古風な柱時計をぼんやりと見あげると、短針が四を長針が十一を指している。
   なぜだろう、空気が重く、思考も鈍い。
  (喉かわいた…)
   起き上がると、服が弛められている。
   素肌に散った欝血の痕。
   章博の激情の証。
   昨夜の出来事を思い出した途端、霞みがかったように鈍っていた脳がいつもの速度を取り戻す。
   これが、初めて…の名残りだというのが、辛い。
   自然、からだが熱くなる。
  「倫子、葉月…」
   ここがどこかは知らないが、自分をここまで送ってくれたのは倫子と葉月だろうと日名子が襖障子を開ける。
   襖の向こうは板敷きの廊下。廊下の向こうにある手摺がここが階上であることを教える。
   キョロ…と周囲を確認する日名子の視界に、左に向かって廊下の突き当たり、襖を開け放してある和室が飛び込んできた。
   和室に倫子と葉月の姿を認め、日名子はふらりと一歩を踏み出した。
  「ヒナ、大丈夫?」
   日名子を認めた二人が口々に気遣ってくれる。それが嬉しくて、
  「心配かけてごめ………」
   と、言いかけて、思いも寄らぬ人物を見出した。
  「…いりえ、さん」
  「ああ、気がついたようだね。彼女たちじゃ荷が勝ちすぎてるみたいだったんで、おせっかいかとも思ったんだけど」
  「あ、ごめんなさい。ありがとうございました」
   頭を下げると、くらりと周囲がゆらめく。
   思わず襖に縋った日名子に、
  「まだ寝ていないと。ヒナってば日射病の一歩手前だったんだから。家には留守電入れておいたから、心配しないで入江さんの世話になるといいって」
  「ここ、入江さんの?」
  「そう、あそこから一番近いの入江さん家だったから、タクシー拾ってね。心配ない。入江さんのバイクは、葉月が運転してここまで届けたし」
   倫子の説明に、
  「本当にごめんなさい」
   深々と頭を下げる。
  「迷惑だったら最初からオーケイしないから。そんなかしこまらないで。病人が気に病むことじゃない。…ああ、喉が渇いたのかな」
   これで終わりだとばかりに、入江が話を変える。
  「え、ええ」
  「なら、部屋に戻ってるといい。持ってくから」
  「でも」
  「病人が無理しない。君は熱射病の一歩手前だったんだからね」
  「はい。すみません」
   しおしおと引き返す日名子だった。
   日名子はぼんやりとベッドの上に横になっている。
  (倒れるなんて、かっこ悪い……。二人にも迷惑かけちゃったし、入江さんにも………)
   多分、隠したいと思っていたモノは、見られてしまっただろう。
   考えるだけで、顔が熱くなり、頭を抱えたくなる。
  (お兄ちゃんのバカッ!!)
   日名子の顔が、クシャリと歪む。
   腹が立って腹が立って、今朝は一言も口を利かなかった。
   だって、あれは、レイプだ。
   ずっと、待っていてくれると思っていたのに。
  『刷り込みだよね。結局、ヒナの章博さんに対する感情って』
  『将来結婚するから、章博さんのこと好きなんだってこと。好きだから章博さんと結婚するんじゃないよね、ヒナって』
   倫子と葉月のことばが頭の中でぐるぐると回る。
  (わたしって、もしかして、すっごく悪い女???)
   章博のことを、少しも考えていなかったのだろうか。
   だから、こんなにされて。
   でも、これは、だとすると、ほんとうに、しっぺ返しを受けたということなのだろうか。
  (どうしよう)
   判らなくなる。
   入江が持ってきてくれた水を飲み干し、ぐらぐらと煮立ってしまいそうな頭を抱えたままで、
  「入江さん。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
   居ずまいを正して頭を下げる。
   これには、入江が面食らったらしく、
  「…どういたしまして」
   妙な間のある応えを返す。
  「ヒナ、入江さん困ってるってば。あんまり謝られるばかりも、しんどいよ。病人は病人らしく、開き直って世話になってなさい」
  「倫子…」
   そうそうと、倫子の後ろでは葉月が腕組みをしてうなづいていた。
 

※ ※ ※
 

 午後九時。
   帰宅した章博は、疾うに帰っているはずの日名子の不在に眉間に皺を寄せた。
   見れば、日名子愛用のDバックもない。
   そういえば、今朝履いて行ったはずのスニーカーもなかったようだった。
  (まだ帰っていないのか?)
   携帯を取り出し日名子の友人に連絡を取ろうとした章博は、居間の電話に留守録が入っているのを見咎めた。もしやと思い再生する。
   日名子の友人の声で告げられていたメッセージに、章博は茫然と立ちつくした。熱射病一歩手前で倒れた日名子が、入江という男の家で世話になっている。
   聞き覚えのある名前に、
  (名刺があったはずだが)
   記憶を検索し、自分が日名子にあんなことをしてしまったきっかけだったと、苦く思い出す。
   探し出した名刺に印刷されている住所を記憶した章博は、車の鍵を手に部屋を後にした。
 

※ ※ ※
 

 工房カザンは、入江の住居を兼ねている。もともと古い民家だったものを工房兼自宅に改築したせいもあり、あまり広くはない。その二階の一室に日名子はいた。
  「本当に安静にしていないとだめだよ。いいね」
   倫子と葉月のことばに、頭を下げる。
  「よし。本当はついていてあげたいんだけど」
  「いいよ。そこまで二人に迷惑かけられないよ…あっ、だからって、入江さんにはかけていいなんて思ってない」
   頭がくらくらする。
  「わかってる。わかってる」
  「じゃあ、わたしたち帰るから」
   そう言うと、二人は帰って行った。
   日名子が、ほっと息をついた。
   章博に会いたくなくて、会わなくて済むのだと思うと、気が抜けたのだろう。
   額に手首を乗せて、瞳を閉じた。
   ゆるゆるとベッドが揺れている。この錯覚に身を任せれば、眠ることができるだろう。それは、わかっている。しかし、今の日名子にはどうやってもそれができない。自分を眠りへと誘うリズムにすべてをゆだねることが、どうしてもできなかったのだ。
   兄―と、もう呼べない。
   もう、元の関係には戻れないだろう。
   あの、くすぐったいような、照れくさいような、それでいて居心地のよかった空気は、もどらない。
   壊したのは、章博だったけれど。
   けれど。
   追い詰めたのは、自分なのだ。
   わかってしまった今、どうして、章博の顔を見れるだろう。
  (帰ろうかな………)
   田舎に。
   家屋敷は、しっかり管理してくれている。
   ずっと、霧島家に仕えてくれた人たち。
  (ばあややじいやを驚かそうか………)
   喜んでくれるだろう。
   墓参りと盆と正月。
   それしか帰省しない自分たちを、咎めるでなくいつも温かく迎えてくれる。
   昔は当然だと思っていた上げ膳据え膳。
   甘やかされていたと思う。
  (章博さんは仕事もあるし、帰れないよね)
   彼の傍を離れたい。
  (追っかけてきても、言ったら章博さんを家に入れないでくれるよね。でも…)
   理由を根掘り葉掘り訊かれるのは、イヤだった。
   知られたくないし、喋りたくない。
  日名子の思考は、あいかわらず空回りしている。
 

  「ヒナ………」
   低くてよく通る声。けれど、いつもの張りはない。
   いつの間にか眠れていたらしい。その声に思わず飛び起きた日名子だったが、目の前が眩みもう一度ベッドに懐くことになった。
   肩で息をしていないと息が詰まりそうで。
   胸が、苦しい。
  (イヤ…)
   首を横に振る。
  「ヒナ…」
  「イヤッ」
   肩にかけられた手を振り払い、そのままの勢いを殺すこともできず、やはり倒れこむ。
   頑なに首を振りつづける日名子を、章博はただ凝視するよりなかった。
   日名子に払われた手が痛む。
   自分の罪を思い知りながら、それでも、今更日名子を手放すことなどできない自分を知っている。
   やりかたはきわめてまずかった。痛いくらいに自覚している。しかし、してしまった後になっては、もはやどうしようもないことだった。
   自覚はある。けれど、一度の過ちで日名子を失うなどと、そんなことがあってはならない。
   じくじくと疼く後悔。
  心臓がキリキリと痛む。
 

  霧島日名子よりもあきらかに年嵩の、いかにもエリートですといった雰囲気の青年。
   剣崎と名乗った青ざめた青年と、日名子。
   二人の間にあっただろう、出来事。
   想像がつく。
   が、自分に何ができるだろう。
   できると考えるほうが烏滸がましくも傲慢だという認識が、入江にはある。
   第一自分は、彼女の作品が気に入り、大学卒業後はこの工房に来ないかと、そういう考えで彼女に近づいただけに過ぎず。
   どう考えても、傍観者に過ぎない。
   しかし。
   壁からやおら背中を引き剥がし、入江が二人に近づいた。
  「剣崎といったかな。しばらく、霧島君をここに預けていかないか。まだ、熱があるようでからだも本調子じゃない彼女を車にもう一度乗せるというのは酷だろうし、落ち着くのを待ったほうがいいと思うんだけどね」
  「入江さんと仰いましたね」
   振り向いた剣崎の、ねめつけるようなきつい視線に、思わず入江が退きかける。
  「日名子を保護してくださったことは感謝しています。が、放っておいていただきたい。これは、僕と日名子の問題です」
   冷徹なまでに淡々とした、日名子に向けるのとは百八十度印象の違う声のトーン。
   思わず背筋に粟が立ち、ぼりぼりと首筋を引っ掻く入江だった。
  「あ、と。それは、そうなんだが………」
   気圧されてことばの接ぎ穂を見出せない入江から視線を外し、
  「日名子、入江さんにご迷惑だろう。さ、辛いかもしれないけど、もうしばらく我慢してくれないか」
   硬く強張った日名子の背中に手をかけ、抱き上げようとした。
   途端。
   パシン!
   振り向きざまの日名子の掌が、章博の手をしたたかに打ちすえた。
   二人の間の空気がその瞬間を境に急速に凝りついてゆくのを、入江は感じていた。
   形容しがたい歪みが、章博の眉間に刻み込まれる。
   それは、苦悩、苦痛、悲嘆………それら負の感情すべてをひっくるめた、絶望だろうか。
   対する日名子の表情は、硬く強張りつき、今にも泣き出しそうだ。
   恐怖と悲哀。そういった感情が、鳶色の瞳の中でせめぎあっている。
  「………日名子」
   奇妙にひび割れた声。
   日名子が耳を塞ぐ。
  「イヤ」
  「日名子…」
  「聞こえない、聞こえない、聞こえないっ!」
   あらゆる感情が混ざり合い、能面のような無表情になった章博の顔。
   目をつぶっている日名子に、それは見えなかった。
  「イヤァ! 帰らない。帰りたくない!」
   耳を塞ぎたくなるような、拒絶。
   乱暴なまでの強引さで抱き上げられた時、日名子の頭の中で昨日の出来事がフラッシュバックした。
   腕の中で暴れる日名子。
   何か言いたそうに再び壁際から立ち上がりかけている、入江。
  「入江さん。今日は本当にご迷惑をおかけしました。お礼は、また後日伺いますので、今日はこれで」
   何も言わせないと、いっそきっぱりと入江を排除して、章博は工房カザンを後にしたのである。
 

※ ※ ※
 

 取り付くしまもない沈黙。
   章博が運転する車の中は、ぴりぴりとした空気に包まれていた。
   ナビゲーション・シートの窓ガラスに額をつけて、日名子は夜の街に顔を向けている。
   そうでもしないと、震えてしまいそうだった。
   激情は、入江のところで出尽くしてしまったかのように冷え固まり、変わりに日名子の心を支配しているのは、背筋が痺れるほどの恐ろしさ。
   章博の変貌を、まざまざと感じたのだ。
   どちらかといえば人当たりのいい好青年。
   だれもが、章博をそう評する。
   エリートなのに、できた人だと。
   あんなに冷たく人を排除する人ではなかった。
   車の中が、すれ違う車のヘッドライトに照らし出されては闇に飲まれる。
   どうすればいいのだろう。
   こんなにもこじれてしまった。
   なにもかもが変わってゆく。
   そんな予感めいたものまでもが、日名子の脳裏を過ぎる。
   不安。そうして、恐怖。
   けっして、明るいものではない、漠然とした。
   ふっと、章博の視線を感じたような気がした。直接振り向きたくなくて、そっと、窓ガラスで確認する。
  (ヒッ!)
   窓ガラスに映っているのは、青ざめた章博の顔だった。
   瞳だけが、炯炯と光を宿して日名子を凝視している。
   日名子は、咄嗟に目を閉じた。
   全身が小刻みに震えてどうしようもない。
   どうすればいいのか。
  (誰か………)
   助けを求めるにしても、誰に?
  途方に暮れた日名子は、自分で自分を抱きしめることしかできなかった。
 

  自分と日名子との関係が変化している。
   章博は、凍りつくような思いでそれを味わっていた。
   帰りたくない―あの、日名子の、悲鳴。
   今では、そういう意味ではないのだとわかっているけれど。
   それでもあの刹那に、日名子が自分よりも入江という男を選んだのだと錯覚した。
   あの後の、自分がとったぶざまな行動。
   腹立たしすぎて心が凍りつきそうだった。
   こんなにも、愛しているのに。
   一度の過ちで、あんなにも否定されなければならないのか。
   存在のすべてを否定されたような、空虚さが、章博を浸してゆく。
   しっぺ返しを食らったようだった。
   あんなにも自分を慕ってくれた日名子。なのに………。
   今、この時、どんなに拒絶されようとも、日名子を手放してはいけない。
   それは、警鐘だった。
   冷たく凍えた心の中で、唯一の。
   もし、今、日名子から目を離してしまえば、間違いなく、日名子は自分から逃げてゆくだろう。
   だからこそ、強引とも呼べる傲慢さで、入江を排除したのだ。
   日名子が自分ではなく、入江を選ぶ。
   冷静になれば、ありえないことだと、馬鹿げたことだと、否定もできるが。しかし、あの時は、それこそが、ありうる未来の姿だったのだ。
  (もう、駄目なのか………)
   それならば、いっそのこと死んでしまおうか。
   このまま、高速の車の波に飲まれて。
   ゆらリ―と、章博が日名子のほうを向いた。
 

※ ※ ※
 

「ヒナ〜もう大丈夫?」
   倫子と葉月の見舞いを受けて、
  「うん。ごめんね。明日くらいからまた行くから」
  「そうか。入江さんに感謝だね」
  「うん………」
   あれから、二日が過ぎた。
   どうにか日名子の熱は下がったが、二人の間の冬のような空気に変化はない。
   あいかわらず日名子は章博に喋ろうとはせず、視線すら向けない。しかし、意識だけは痛いほどしているらしく、ちょっとした章博の動作に思いも寄らぬリアクションを返していた。
 

章博は、無表情で、淡々としているように見えたが。その頭の中で組み立てられてゆく、ある計画を日名子がもし垣間見たとしたなら、確実に逃げ出しただろう。
 

  大学の長い夏休みが終わった。
   それでも、一旦頑なになってしまった日名子と、感情を表に出さなくなった章博との間の溝は、埋まらない。
   倫子や葉月にも変な顔で見られていた。しかし、日名子はどうにか、やり過ごせるようになっていた。
   風邪をひいたのか、からだが怠い。
   そう感じたのが一週間前のことだった。
   熱でふらふらとしても、人恋しくても、まだ章博を許せない気持ちのほうが強かった。だから、自分で何とかしたくて市販の薬を飲んだ。効かなくて医者にかかったりもした。けれど、これという異常は見られず、風邪だとしか診断されなかったのだ。
   夏から秋。残暑もそろそろ終わろうかという時期だったので、季節の変わり目の風邪だろうと、たかを括っていた。
   そんな、ある朝。
   不思議な喉の違和感で日名子は目覚めた。
   確かめようと、声を出そうとして、声が出ないことに気づいた。
   え? と、思った。
   カスカスとかわいたような変な音が耳に届くが、声が出ない。
   思わず喉に手をやろうとして、日名子は凍りついた。
   手が、動かない。
   指の一本も動かせないのだ。
   恐る恐る全身の力をいれようと何度も試してみたものの、首から上は動くのに、他の場所が動かないのだ。
   厭な考えが、ぐるぐると頭の中を埋めつくす。
  (どうして?)
  (なにがおきたの?)
   とつぜん……。
   小学校時代の同級生に、風邪のウィルスか何かが脊髄に入って凄い闘病生活を送った子がいたのを、ふいに思い出した。
  (まさか)
   不安でいても立ってもいられない。
  (だれか………だれか…おにいちゃん………)
   関係が変化してしまう前の、章博。
  日名子が求めたのは、以前の章博だった。
 

  明りを絞ったデスクライト。
   光といえばそれだけの薄暗い部屋の中で、章博は机に向かっていた。
   机に肘をついた章博の額には、苦い影が落ちている。
   デスク上に散った、研究データの山。しかし章博がそれらを読んでいなかったことは明白だった。なぜなら、章博は、目を瞑っている。
   章博の外してはいなかった腕時計から、アラームが鳴り響く。
   時刻は午前六時。
   章博は目を開けた。
   眠れぬ夜だった。
   今ごろ日名子は怯え震えているだろう。
   以前、アメリカでまだ遺伝子ではなく別の研究をしていた頃、偶然に作り出してしまった薬。
   あまりにも偶然の産物で、すぐに廃棄しようとして、研究者の性がそれを許さなかった。
   だれにも知らせずに、レポートすら作らず、内緒で持ち帰ったそれを保管していた。
   筋肉や神経、下手をすれば直接遺伝子にまで影響を及ぼしかねない、強烈な薬。
   それもあって、遺伝子研究へと転向したのだ。もしかりに、その情報がどこかから洩れでもしたら、もしくは、誰かが自分と同じようにその薬を作ってしまったら。
   それは、恐ろしい想像だった。
   しかし、ありえない想像でもなく。そう。
   人間が作れたものならば、必ず他のだれかが作ることができる。
   だから。
   幸いにも、同じ薬が作られたという情報は、今のところはいってない。
   そうして、悪魔の囁き。
   それは、再び露店商をはじめた日名子を偶然見たことで章博の心に忍び込んだ。
   にっこりと、以前は自分に向けられていた屈託のない笑顔。
   それが、今は、自分以外の人間に向けられている。
 

『日名子に使ってしまえばいい。そうすれば日名子は、おまえだけのものだ』
 

『日名子もおまえだけしか頼れないだろう。鎖してしまえよ。この部屋で不安なら、田舎に帰ればいい。それでもまだ不安だと思うのなら、アメリカでもどこでもいい、外国へ連れて行けばいいだろう。どこか、だれも知らないような場所で、動けなくなった日名子と二人きりで生きてゆけばいい』
 

  外国で………。
   だれにも日名子を見せずに、二人きりで。
   日名子が見るのは、自分だけ。
   自分しか見ない、日名子。
   その瞳がどんなに悲しく辛く塗りつぶされようと、鳶色の瞳に自分だけが映されるのなら、どんな非道なことだとてできる。
   魅力的なささやきだった。
   さいわい、ヘッドハンティングなら常に数件受けている身だ。
   いくらなんでも、霞を食べては生きてゆけない。
 どこか、異国の地へ。
   一月近く、悪魔の囁きと戦っただろうか。
   遂に、章博は、自分の中の悪魔に、膝を折ったのだ。
   そうして、一週間前、日名子の食事に、薬を、混入しはじめた。
   日々確実に弱ってゆく日名子。
   章博以外の者が見ても、日名子の体調が良くないのだとすぐにわかるだろう。
   しかし、そんなになっても、日名子は章博に頼ろうとはしなかった。
   少しでも頼ってくれていれば。
   そうすれば、計画を止めたかもしれない。
   しかし、もうどうにもなりはしない。
   日名子の運動能力は確実に衰え、今ごろは寝返りすらうてない状況に陥っているはずだ。
  「日名子………」
   悲痛な、自分の罪を知っている者だけに可能な胸をえぐるようなトーンで、章博は日名子の名をつぶやいた。
   書類の上に、数滴の涙がこぼれ落ちる。
  しかし、顔を上げた時、そこには、冷徹なまでに無表情な青年がいるだけだった。
 

章博が日名子の部屋に向かう。
  そこで怯えているだろう日名子を抱きしめるために。
 

日名子は、泣いていた。
   何が自分の身に起きたのか、判らないままで。
  これから、自分がどうなるのか、漠然とした不安と恐怖に囚われて。
 

  一度歪んでしまった愛情は、執着と言う名の独占慾に変貌を遂げた。
   独占慾は愛という名を隠れ蓑にして、日名子を閉ざしてゆこうとしていた。
 

おわり
            remaked 15:42 2001/09/24
 
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