少女 3 |
◆◇◆◇◆風が、鼻先へと匂いを運んで駆け抜けた。 つんと鼻を射たのは、血の匂いだった。それに――。 「お父さん?」 かすかな、すぐに血の匂いに紛れて消えた男性用の香水のかおりだったが、少女はそれを嗅ぎ分けることができたのだ。それは、視力のない少女の、代替機能であったろう。損なわれているもの以外の感覚が、研ぎ澄まされていた。 (お父さんじゃ、ない?) 直感に近い閃きだった。相手が父親でないのなら、口を利いたりしてはいけなかったのだ。慌てて口を押さえた少女は、そのままベンチから転がり落ちた。 したたかに打った膝の痛みに、涙がこみあげてくる。 ぐいと涙を手の甲で拭い、ベンチのほうだろうと予想をつけた方向に手を伸ばした。 なめらかな木の感触と、手に馴染んだ人形のドレスごしのボディに安堵して立ち上がった少女は、自分の正面、ベンチを挟んだすぐそこにひとの体温を感じていた。 (だれ?) 父親ではない。少女の全身を、不安が鷲掴む。 わずかに血の匂いがする。それに混じった、感じ取れるか取れないかくらいの、香水の香(か)。 逃げろと、本能が警鐘を鳴らす。 ウェストミンスターの鐘よりも大きく、耳を聾するほどに、鐘は頭の中で鳴り響いた。 本能の命ずるままに、この場を逃げたい。しかし、ここから離れたりしたら、父親とはぐれてしまう。 どうすればいいのか、がんがんと鳴る警鐘に、考えがまとまらなかった。 気配の元が五ヤード(91.44cmx5)ほど後方のベンチだと、青年は近づいた。 充分警戒はしていた。 相手は、自分に気配を感じさせなかったのだ。 邪魔者や目撃者は、消さなければならない。陳腐ではあるが、それは、犯罪の側に身を置くものにとって、当然のセオリーでもある。 そうして、青年の、凍えた灰色の瞳は、黒いまなざしと出会ったのだ。 星々を宿した、満天の夜空。 青年の足元がくらりと揺らいだような錯覚があった。 その、澄んだ一対の瞳が、光すら通すことはないのだという皮肉に、彼はすぐに気づいた。決して合わされることのない焦点に、ひとは、思わず、居心地の悪さと同時に、そう感じてまった自分に罪悪感を覚えてしまうのだろう。 しかし、青年はただ、見られてはいなかったのだという事実に、安堵したのにすぎなかった。 血の気のない頬は、手にしているビスク・ドールと同じくらいなめらかそうだった。東方の血が混ざっているのかと思わずにいられない、黒い真直ぐな髪と、大きな瞳。十二、三才くらいに見える少女を見下ろしていた青年の形良いくちびるの端がひきつるようにじわりと持ち上がった。 踵を返そうとした青年が、かかずらうまいと決めたばかりの少女をベンチを越えて咄嗟に抱えあげたのは、複数の慌しい足音が近づいてくると気づいたせいだった。 「アデル!」 名を呼ぶ父親の声に、切羽詰ったものを感じた。 「お父さん」 伸ばした手が届かないことは、声の大きさから、父との間に、かなりの距離があるだろうだろうと、わかってはいた。それでも、この、胴を抱え込んでいる誰かより、父のほうがいいのに決まっている。 「アデライラを、娘を、離せ」 「ドミニク、その娘を離すな」 父のものでも、自分を抱えている者のものでもない声に、胴にまわされている腕が、震えた。 ドミニクというのは、この腕の持ち主の名前なのだ――と、アデライラが、さとる。 「おまえ、XXXのものかっ」 怒号と言ってもよかった。はじめて聞いた、父親の、恐ろしい声に、アデライラの、全身が、硬く強張りつく。 そうして、アデライラと父親とは、ドミニクの属する組織に、捕らわれたのだ。 to be contenued |
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