死は、総て……
キロ・ル
ロロロロロ……
キロキロキロ………
キロ……ル…………
真円の月が沼を照らし、周囲のヒースの野原を黒々とした影にする。
すだく虫の音。
吹く風が、水面を波立たせ、ヒース野原を海とする。
ふいに、軋るような蛙が、虫が、鳴きやんだ。
風すらもが、息を潜めたかの錯覚があった。
ただ煌々と大きな月が、辺りを睥睨する中に、何かを引きずるような、踏みしだくような音が、した。
沼の岸を、人影のようなものが、覚束なげな足取りで、歩いていた。
一歩進むごとに、頭から足の先までを覆ってなお余る布が、地面を擦り、音をたてている。
ずるり、ずるりと、布が、後方へと流れてゆく。
埃にまみれて薄汚れた透けるような布が、音たてて落ちた。
布の下から現れたのは、すとんとシンプルな足首までのドレスをまとった、少女らしき影。
深く刳られた襟ぐりから伸びるその細い首といい、なだらかな肩のラインといい、まろやかな胸のふくらみといい、女性であることは、間違いない。
惜しむらくは、ざんばらに乱れかかる前髪に、顔立ちを見ることが叶わないことか。
キロキロ
キロ・ル
蛙が、鳴きはじめた。
キロキロキロキロ……………
虫の音が、響きだす。
風が吹きはじめ、押しやられた雲が、月を覆い隠した。
Kill !
Kill ! All !
殺せ、皆殺し――と、頭の中に響いた音色が、途切れる。
我に帰ったわたしの目の前に広がる光景を、認めなければ。
認めたくない――と、足掻く心は、しかし、これをわたしがやったのだと、知っている。
これをわたしが――――
そう思えば、こみあげてくるのは、吐き気だった。
家の中には、誰もいない。
鼻をつく生臭いにおいに、生理的な涙があふれそうになる。
馴染んだ居間は、血と内臓とで飾りつけられたようなありさまだ。
父の先祖が十字軍遠征で略奪してきたという絨毯は、見るも無惨に血を吸いこんでしまっている。
マントルピースも、テーブルもソファも、シャンデリアも、花瓶も、時計も。絵画までも。居間にあるありとあらゆるものが、もはや取り返しがつかないだろうくらいまでに、赤黒く染まっている。
てらてらと光る肉片や、黄色い脂肪、固まりかけた血。シャンデリアからぶら下がっているのは、神経の束や血管、腸の管。キャンドルめいた白い骨が、テーブルの上の肉塊から突き出ている様は、まるで悪趣味なバースデイパーティのよう。
バースデイケーキは、特別の、ふたつ。肉塊の間に、存在を主張している、生首。信じられないといった表情で、闇を宿した眼窩から転がり落ちた四つの目玉が、定まらない視線をあちこちへと向けている。
口元に持ち上げた掌のねとつく感触に、自分を見下ろせば、しとどに濡れそぼっていいた。
赤。
黒味がかった赤が、わたしを染めている。
わたしが屠った、ひとの血に、わたしは塗れているのだ。
「ぐう……」
嘔吐に、喉が鳴る。
膝から力が抜けてゆく。
びしゃり。
絨毯のたてた音に、わたしの堰は、切れた。
生臭いにおいに、酸っぱいにおいが、とってかわる。
そのにおいを嗅いで、嘔吐きが、再びこみあげる。
涙が、頬に白い線を描いてゆく。
クッ……
ああ……
とめどない哄笑とは逆に、心の中に渦巻くのは、後悔、恐怖、それに、絶望。
全身もまた、震えやむことはない。
床の血溜まりに腰を落としたままで、わたしは、窓の外を見た。
ぼんやりと。
流れる涙を拭きもせず、わたしは、不吉な影を宿した大きな丸い月が見下ろしてくるのを、見ていた。
わたしの犯した罪を、月は、あますことなく、見ていたのだ。
禍々しい闇が、一対の目のようで、月は、ひとの顔めいて、見えていた。
暗い闇を宿した瞳。
わたしは、それを、知っていた。
知っていて、そうして、忘れた。
忘れなければ、苦しすぎた。
だから、忘れたのだ。
暗い瞳の持ち主、それは、わたしがこの世に生まれ出たあの刹那から、わたしを、その忌まわしい力で、守っていたのだ。
忌まわしくも、呪わしい、力で。
わたしが、それを、忘れるまで、わたしの望みは、すべてが、叶えられてきた。
望みさえすれば、何だって、叶った。
望みさえすれば、手にはいった。
それが、わたしには、当然のことだった。
すべてが、ひとの死を経ていることに気付くまでは。
守護者のような顔をして、その実それは、地獄へとわたしを導く使者であったのだ――と、気付いた時の恐怖を、わたしは、今の今まで、忘れていたのだ。
全身の震えが止まらない。
大好きだった幼馴染のお守りを欲しいと、羨ましがっていて、迎えることになった結末が、まだ幼かったわたしの心に、その存在が魔なのだと、教えてくれた。
わたしの望みが叶うたび、わたしの周囲からひとは消えて行った。
最後に残った幼馴染は、黒い瞳黒い髪、遠く東洋から引き取られた、少年。彼は、わたしを見捨てなかった、ただひとりのお友達。わたしのはじめての、幼い恋の相手だった。
父と母以外に、残された、わたしの最後の、大切な、存在。父と母以外には、彼さえいれば、わたしには、それでよかったのだ。
なのに、彼の死と引き換えに手に入った、彼の家に代々伝わっていたのだという、深い緑を宿した翡翠のピアス。それが、その存在を、頑なに拒絶させ、長く存在を忘却させることになったのだ。
わたしの耳を飾る、翡翠のピアスを、彼から贈られたのだと、そう、記憶のすり替えまでもして。
あまた、他の、わたしの罪とともに。
「消えろ!」
振り返らなくても、わかった。
すらりとした黒いものが、わたしの後ろに立っている。
白い顔の中、印象的な赤いくちびるが、下弦の月のような笑みを形作っているだろう。
やさしそうな、ひとを誑かす顔をして。
思い出してくださいましたね―――やっと。
やさしげな声音に、とろける蜜のような歓喜を感じた。
あなたの望みは―――
周囲を見回す気配があった。
後始末ですね。
ひとならざるものの声が、わたしを捉える血の凝りよりもねっとりと、まとわりついてくる。
――違うと、どうして、言えなかったのだろう。
カエサルのものは、カエサルに。
わたしの罪は、わたしに返されるべきもののはず。このままでは、幼い日々の数々の罪と同じく、記憶のすり替えがおこなわれてしまう。
罪は、償わなければ。
違う――と、言わなければ。
しかし、焦れば焦るだけ、口は、動かない。
心の中に、悪いのは彼らなのだ――その思いがあるせいだ。
黒い、夜の影めいた二粒の瞳が、わたしの目を覗き込む。
たしかにある歓喜を、容赦なく、暴いてゆく。
生れ落ちた瞬間に既に犯していた罪は、実母の死。わたしを生んだことで、母は、死んだ。父はもとよりなく、孤児であったわたしは、とある資産家の伯爵夫妻に貰われた。
ひもじいのも、貧しいのも、愛されないのも、イヤだと、わたしが望んだのにちがいない。
厳しく、けれど、心からわたしを愛してくれたふたりを、わたしが心から慕っていた二人を殺し、そうして、わたしを、彼らは、テーブルの上の二つの塊は、殺したのだ。
なぜ、わたしが、死にきれずによみがえってしまったのか。
気がつけば、暗い、何も見えない狭い空間だった。
目が見えなくなったのかと、恐怖した。
こそという音すら、聞こえてはこなかった。
耳が聞こえなくなったのかと、怖ろしくなった。
澄ました耳にながれる血の音が聞こえはじめて、わたしは、自分がいつからか悲鳴をあげていたのを知った。
顔のすぐ上にある、迫った曇天の夜空のような硬いものを引っ掻き、叩き、力を込めた。
息が苦しくなっても、やめなかった。
その頃には、自分がどこにいるのか、理解していた。
死にたくなかった。
“死ぬ”直前の光景を思い出せばこそ、このままおとなしく“死んだまま”ではいたくないと、強く思ったからだ。
悲しみを凌駕する怒りだった。
突然押し入ってきた二人組みの強盗が、一階のリビングでの和やかなひと時を、ずたずたに打ち壊した。
夕食後のひと時だった。
父のフルートと母のピアノ。そうして、私のヴァイオリン。
三つの音色が、銃声に、悲鳴に、とってかわられた。
逃げるわたし達に、向けられていた銃口が、火を噴いた。
ただひとり母屋に残っていたらしい、駆けつけてきた執事にも、凶行の手は向けられた。
わたしを庇おうとして、父も母も倒れていた。
叫ぶことも、逃げることも忘れて、顔をマスクで隠した強盗たちを、わたしは、馬鹿のように見ていた。
――逃げなければと、踵を返したときには、既に、遅すぎた。
弾が尽きたのか、凶賊の手は、白々と光る冷ややかな刃を握りしめ、わたしの喉を掻き切らんと、伸ばされた。
と――――
咄嗟に振り払った手が、賊のマスクを弾きはいだ。
乾いた音とともに、顔全体を覆い隠す、デスマスクめいた面が、外れ落ちた。
灼熱の痛みが、わたしの右手を焼いていた。
振り払った手を白刃が切り裂いたのだ。しかし、流れ出る血も、身を焼く痛みも、驚愕の邪魔にはならなかった。
マスクの下から現れた賊の顔が、わたしの意識を、奪っていたのだ。
「叔父さま………」
意識しない悲鳴が、力なくその場に消えてゆく。
父の弟の、男性的な鋭角の頬には、くっきりと、わたしの爪の痕が刻み込まれている。
いつもは、わたしを可愛がってくれていた叔父の、ハンサムな顔が、醜悪なまでに歪んでいる。
子鬼のように顔を歪めて、口汚くわたしを罵っている。
どこの誰とも知れぬ女の、汚らわしい私生児のくせに。
単なる貰われ子の分際で、伯爵の地位も莫大な財産も、すべてを奪うのか。
強欲な泥棒ネコめ。
おまえが現れるまで、この家の跡継ぎは、オレだったのに、すべてを台無しにしたのが、おまえのような小娘だと!
おまえのせいだ。
おまえが悪い!
駄々っ子のように地団太を踏みながら、叔父は、泡を吹かんばかりの表情で、白刃を振りかざし、振り下ろした――のだ。
そうして、わたしは、死んだはず――だった。
それでも。
死んだままでいられれば、まだ、幸福だったろう。
すべてを、忘れて、父と母とともに、最後の審判の時を待つ。
安らかな眠りの中で。
なのに、どうして。
流れ落ちた涙が、飴色に艶光る床に転がり、溜まりを作った。
気がつけば、血の汚れなど、どこにもない。
わたしが身につけていた血まみれのドレスさえも、いつしか、緑のドレスに変わっていた。
血の凝りかけていたねとつきも、内臓も、首も、肉も、神経の束も、骨さえも、そこには、何もない。
まるで、すべて、夢であったのだと、そういわんばかりに。
けれども、夢でない証拠に、黒い影が、そこに、わたしの前に、ひざまずいている。
白い美貌を、くっきりと赤いくちびるでひきたてて、
「ミ・ロード」
と、甘い声で、ささやきかけてくる。
「これで、すべては元通り。あなたは、女伯爵におなりです」
「つ……罪は償わなくては」
あえぐようにして紡いだことばは、
「罪? ご両親の敵を討たれただけでしょう。それに、どこに証拠がおありです」
嘲笑うような、歌うような、青年に化けた影の声に、虚しく打ち消された。
「だれひとり、ここであなたが二人を殺したと、そう証明できるものなど、この世に存在しませんよ」
「わ、わたしが」
震えながら、そう返した。
また、罪を忘れるのか。と、それもまた、恐怖で。
しかし、黒い瞳を大きく見開き、青年は、
「あ、あなたがっ?!」
そう、つぶやくなり、弾けるように哄笑した。
しばらくの間、青年の狂ったような笑い声が、居間に反響しつづけた。
耳を塞ぎたいほどの、狂笑。
「あ、ああ。失礼を。ミ・ロード」
肩を大きく喘がせながら、青年が、乱れた髪を手櫛で整える。
「そう。あなたになら、可能でしょう。しかし、ご自身が望まれたこととはいえ、ひとがましくおなりだ」
吟味するように、わたしを見上げ、
「あなたには、自覚していただかなければなりません」
態度を、口調を改めた。
わたしを、更なる、恐怖に陥れるために。
青年は、口を開いた。
「あなたは、私の主人。死を司るもの。死は、すべて、あなたのものなのです」
おわり
from 20:18 2005/10/02(050923〜)
to 13:49 2005/10/10
めちゃくちゃな話なんですが。
書き出しが、ワンパターンながら気に入ってたりするので、アップ。
オリジナルは久しぶりすぎる更新です。反省。
これは、最初、日本が舞台だったのです。ええ! しかも、夢で見たのを弄繰り回してたらこうなったという。夢の面影もありませんが。
蛙と虫の鳴き声が、死の命令をしてるってあたりが、日本語じゃないよなと、まぁ、英語圏の貴族の話に。って、ねぇ、あそこしかないじゃないですか。
キャラ立ちを目指して、あえなく、玉砕。
す、少しでも楽しんでいただけると、ありがたいですxx