頻闇に惑う〜鈴が鳴る〜




 あたりを閉ざす闇が薄らいでゆく。
 風が雲を押しながしていた。
 風が髪を、服を、揺らす。
 俺はただそれを見あげていた。
 いつからここにいるのか、よく覚えてはいなかった。
 時が流れていることを感じるのは、ただ空に浮かぶ月と雲からだった。
 空腹も渇きも、寒さも暑さもなかった。ただあるのは。
 砂浜から海辺へと突き出すようにして伸びる桟橋の上、俺はぼんやりと空を見上げていた。
 逃げられないことは痛いくらいにわかっている。
 怖くてならない。
 そのため、どうしてもいつも同じような行動を取ってしまうのだ。
 ほら。
 今また、墨を流したような叢雲の間に、黒い蛇のような影が姿を現わした。
 あれが何を求めてここに来るのか。
 わからないはずもない。
 だから、からだが震える。
 それを止めようとする。
 できるのならば姿を消したい。
 しかし、それができないことを痛いくらいに、俺は知っている。
 足首に巻かれた鈴が、鎖が、愚かなほどに自己主張をする。
 俺がいるのはここだとばかりに。
 俺自身は、消えたいというのに。
 いつもと同じく甲斐のない逃亡をしようとして、ふといつもとは違う、誰かの声のようなものを聞いた気がした。
 だから、俺は、音の方向へと顔を向けたのだ。
 そこに、まさか、彼を見ることになるだなどと、予想だにしてはいなかった。
 彼。
 確か。
 名をヘイセルと言ったのではなかったか。
 そう。
 双子の姉の近衛隊長だ。
 すっきりと背筋を伸ばした立ち姿のせいなのか、軍服の上からでも理想的な体格を見て取ることができる。
 無意識に腰のあたりを泳ぐ彼の手が、ああ、俺を助けようとしてくれているのだと知って、喉の奥に嗤いが蟠る。
 どの面下げて。
 偽善者が。
 俺を助けると見せかけて、その実殺せと命じた当の本人が。
 けれど。
 そう。
 しがらみの失せたこの場では、無意識に俺を助けようと剣を探っているヘイセルに、嬉しいと思う自分も確かに存在するのだ。
 なぜなら。
 たとえ、逃げ場としてであれ、ほんのわずかな時間、俺は、ヘイセルに恋心を抱いていたのだから。



 乗っていた自転車の車輪がアスファルトを濡らす雨にスリップをしたと思えば、冷たい水に落ちた。
 疑問に思う暇もなかった。
 寒い。
 凍える。
 苦しい。
 伸ばした手に触れた熱に、縋り付いた。
 と。
 誰かが笑うような気配を感じたのと同時に、俺は熱に包み込まれ、そのまま熱砂に巻き込まれたような恐慌を覚えた。
 衝撃に見開いた視線の先、俺を見下ろす誰かの顔があった。
 月明かりに薄明るいだけのその場所で、
「煽ったのはお前だ」
 俺は、低い声の主に訳がわからぬままに犯されたのだ。
 抱かれたとは言わない。
 あれは、犯されたというのが正しい。
 俺の了承など必要ではなかったのだから。
 痛かった。
 苦しかった。
 恐ろしかった。
 ただただ、逃げたかった。
 それなのに、他人の、よりにもよって同性の灼熱に、俺は深く穿たれた。
 血の匂いに、殺されると思った。
 嫌だと、やめてと、喉が破れるほどに叫んだ。
 それさえも、見知らぬ男にとっては好もしい刺激に過ぎなかったのだろう。
 男は俺を翻弄するだけし尽くしたのだ。


 気づいた時、オレは、テントの中に横たわっていた。テント、戦陣の天幕というべきか。俺を目覚めさせたのは金属の触れ合う音だった。命令を繰り返す誰かの叫びとそれに反応する声。慌ただしい動きの気配。
 陽射しが白い天幕の生地を透かして入り込んでいる。それに、外を動く人間の影を見ることができた。
 これは。
 起き上がろうとして、俺は、当然の痛みに襲われた。
 散々に犯されたのだ。
 動けるはずもない。
 では、俺はどうすればいいのだろう。
 逃げることさえできないではないか。
 どうして?
 どうしてこんなところで、男に犯されたのだろう?
 どうして、犯されないといけないのだろう。
 ここは、どこだろう。
 どうしてこんなところに俺はいるんだろう。
 来てしまったんだろう。
 俺は、どうなるのだろう。
 どうなってしまうのだろう。
 俺は、………………帰れるのだろうか?
 混乱と不安と恐怖ばかりだった。
「光ねぇ………」
 光ねぇなら、こんな時、どうするだろう。
 そんなことを考えて、俺の口角が引き攣れる。
 光ねぇがこんな悪目に陥るはずもない。
 これは、どうせ、俺だからなんだ。いつもの俺の、運の悪さのせいなんだ。
 だとしても、いつものちょっとした間の悪さとこれとではあまりに落差が開く気がしてならない。これは、俺にとっても最悪としか思えなかった。
「ひかるねぇとは誰のことだ?」
 突然後ろ首を掴まれて、降ってきた声に、俺は全身を震わせた。
 いつの間に。
 こわばりついた俺は、動くことさえままならない。
 掴まれた首が痛い。
 そのまま猫の仔でもあるかのように引きずり起こされて、
「初めてかと思いきや、そのひかるねぇとやらと経験済みだったのか?」
 そんな風に言われて目の前が血の赤に染まった気がした。
「誰がっ! 光ねぇは、俺の姉だっ!」
 威勢良く罵倒したつもりだったが、その実俺の喉から出たのは、かすれた声でしかなかった。
 喉の痛みに咳き込む俺の腰に、男の手が触れてくる。まさかという恐怖に、後ろ首を掴まれたままだということさえも忘れて思わず逃げようともがくと、
「動くな」
 鞭の鋭さを忍ばせた、命令するのに慣れきった雰囲気の声が俺にぶつけられた。
 じわりと熱くなってくる男の掌が当てられた箇所から、引き攣れるような痛みが消えてゆく。
 え?
 なんだこれ?
 かつて知らない現象に思わず男を見上げて、俺はその肉食獣のような猛禽のような双眼の鋭さに晒されていることを知った。どうしようもない恐怖に駆られて、しかし、あまりの眼光の鋭さに、俺は動くことすらできなくなった。そんな俺が男にはどう写るというのか。
「煽るな。私だとてこの程度の癒しの力は使える」
 引き結ばれている口角が、ほんの少し緩む。それだけで、男の印象はガラリと変わったように見えた。
「これから帰城する。このままでは熱でも出しかねん」
 当然俺も連れて行くかの発言に、俺は首を横に振る。
「否はない」
 誰かおらぬか!
 再び鋭くなった印象の男が、鞭のような声で短く呼ばわる。
 即座に現れた若い男が、片膝をついた。
「これを連れて戻る。そのつもりで準備をさせよ」
 それに疑問を投げかけることもなく、若い男は天幕を後にする男にただ頭を下げた。


 男の騎馬に背後から抱えるように乗せられるようになって、俺はようやく周囲の様子を知った。
 薄々感づいてはいた。
 空気中に漂う金気の臭いに、もしかしたらと思わないこともなかったからだ。
 けれど。
 朝日に朝露に空気さえも洗われただろう朝だというのに、俺はそれを見ていた。
 信じられなかった。
 川ひとつ隔てた対岸に累々と横たわるおびただしい屍。ひとも馬も等しく死臭をまといながらあたりを血の色に染めて無残に横たわっていた。間をうごめくのは、死肉を漁る鳥や獣、それに、屍体から何かを奪う人間であるようだった。かすかな喘鳴さえも聞こえてくるかの錯覚に、俺の胃が変なふうに痙攣するのを感じた。
 予想するのと実際に目にするのとでは、わけが違う。
 俺は、こみあげてくる吐き気に両手で口を押さえた。それでどうにかなるようなものでもなかったが。まだ、馬に乗っていなかったのが幸いだったろう。俺はその場にうずくまり、人目もはばからず、吐き戻した。尤も、食欲などあるはずもなかった俺には、胃液くらいしか胃の中にはありはしなかった。


 男をかばうつもりは毛頭ありはしないが、あの時の男の蛮行は戦塵に駆り立てられたが故のものだったに違いない。
 であるのなら、戦が終われば、俺などには見向きもしないに違いないとの予想は、男の城に帰り着いたその夜に覆されることになった。


 男の名前も何も知らないまま、俺は、ただ、男の命令のままに動かされた。
 言葉に不自由することはなかったが、それがなぜなのか分かるはずもない。様々にある疑問に答えてくれるものすらいない状況で、ただ権力者であるらしい男の肉欲を解消する道具としての日々が始まったのだ。
 そんな状況に据えられて、逆らう気力は数日も経たないうちに挫かれた。


「いやだっ」
 男が手にする淫がましい形状のものに、俺は震えた。
 忙しい男が不在の時を見計らっての逃亡は、即座に失敗に終わった。
 二度目になるのか。
 たった二回目の逃亡だったそれは、しかし、男の機嫌を損ねるのに充分な回数であったらしかった。
 いつかのように後ろ首を掴まれたまま、俺は俺にあてがわれていた部屋とは違う部屋に連れ込まれた。
 男の纏う香と同じ匂いがほのかにたちこめる部屋は、家具のひとつひとつが重厚で、俺は、放り投げられてすら軋む音さえ立てないベッドの頑丈さに恐怖を覚えていた。
 この男と同じベッドにいることに恐怖以外を覚えたことはない。
 とにかく、一見して生真面目な紳士然とした表面とは裏腹に、雄の欲望を解放した時のこの男は苛烈を極めたからだ。
 自分で言うのはなんだが性に素人でしかない高校生な自分がどうやっても太刀打ちできない手管と力とで、俺を征服してゆくのだ。
 自分が、それまで意識していた生き物ではないと思い知らされるほどの厳しさで、容赦なく。
 二度と同じ生き物には戻れないのだと言わんばかりの変容を強制される時間は、長く、いつ終わったのかいつも俺の記憶は飛んでしまう。ひとり目覚めたベッドの上で、最後まで行為を覚えていないで済むことは俺に許されたギリギリのラッキーであるのかもしれないと、乾いた自嘲がいつも口角を歪めるのだ。
 こみあげてくるのは、生理的な涙だった。
 全身の痙攣が下まぶたに盛り上がる涙を頬へと落とす。
「いやだっ!」
 いざり逃げようとした俺の両手首を無言のまま容赦なく掴み鋭い衣擦れの音をたてて引き抜いた腰帯で束ねる。
 拘束されて嬲られるのだとの直感が、怯えを誘発する。
「手間ばかりをかけさせる」
 私は暇な身ではないのだがな。
 続けられる独白に、
「だったらっ!」
 暇じゃないのだったら、俺の相手なんかしないでいい!
 そう叫びたかった。
 実際は、うめき声にもなりはしなかったが。
「戻れば相手をしてやる。それまで、これで緩めておけ」
 何をと、おぼこぶることもない。
 何でどこを緩めるのか。
 理解できる自分が情けなかった。
「少しは私を楽しませる術を覚えるのだな」
 ただゆるゆると首を横に振り続ける俺を見下ろしながら、男は俺の両手をベッドヘッドの飾りに容赦なくくくりつけてゆく。
 着衣を剥ぎ取られてゆく惨めさに、せめてもときつくすり合わせる足を力任せに開かされ、閉じることを許されない形に縛められる。
 情けないと、そう思う間にも、男は躊躇なく、手にしたそれで目的の場所を穿ってゆく。
 罰なのだろう、その動きに優しさは微塵もありはしなかった。ほぐされることも、濡らされることもなく。ただ機械的に穿たれてゆく苦痛に、全身の熱が下がってゆく。
 硬く冷たいそれが俺の中に収まった後、かすかな蠕動を始めたのを感じる。
 声も出なかった。
 あまりのことに目を見開いた俺の耳元に、
「遂精はならん」
 恫喝めいたことばをつぶやいた。と、その瞬間、俺は、そことは別の俺の中心に何かが差し込まれた感触に全身を跳ねさせていた。
「傷ついていたなら後で癒してやる」
 だから我慢しろとばかりに嘯くと男はベッドから下り、後を振り向くことさえせずに部屋を出て行ったのだ。
 後に残された俺は、己のあまりの惨めさに、ただ涙を流した。
 意思を無視して高められてゆく性感に、せめてもの自尊心は声を噛むことだけだった。他になにができたろう。誰にも声を聞かれたくなかった。誰にも、見られたくはなかった。
 まだ昼過ぎだった。
 男の仕事が終わるのは、夕方遅く、もしくは、夜だ。
 何時間、俺は、この拷問めいた苦痛を耐えなければならないのだろう。
 俺は、奥歯を食いしばり、目を閉じた。


 熱を孕み全身を紅く染め上げた俺は、獲物を見て舌舐めずりする獣に差し出された生き餌だった。
 カーテンもかけられていない窓の外はとっぷりと暮れ、ガラスに部屋側の灯火に照らし出された光景が写しだされる。それは目を背けたくなるような光景だったが、もう指一本動かす気力も残されていない俺には、意味をなさないものと見えていた。
 片頬で笑った男が、俺の縛をゆったりと解いてゆく。
 その後で、俺を穿つ淫らな道具に触れる。
 後ろを、前を。
 その摩擦が、俺の意識を揺らし、乱される。
「………て」
 自尊心など疾うに砕け散っていた。
 ゆるい律動へと変化した淫具に煽られ、かなわない遂精にくちびるは解けた。
 助けてと、許してと、たやすいほどにすがりつく。
「少しは堪えたか」
 ほぐれてしまった箇所に指を差し込み、淫具を軽く揺すってくる。
「やだぁっ」
 それだけのことで、脳が灼ける心地だった。
 全身が弾かれるように乱れる。
 苦しい。
「お、願いっ………します。お願いだからっ」
 痺れて感覚のない重い腕を必死に持ち上げて、男にすがる。
 やめてと言いたいのか、遂精させてほしいと言いたいのか、自分でもわからなかった。
「ひっ」
 じくじくと疼く前が、男の指先に弾かれて、軽い衝撃に悲鳴が上がった。
「おね、おねがいっ。おねがいしますっ」
 まるで女の子のようだと頭の片隅でそんな自分を嫌悪しながら、それでも、こうするしか許される方法はないのだと、なぜか知っていた。
 なのに、
「まだだ」
返されたのは熱をはらみ掠れたような無情なひとことで。
「いやあっ」
 後ろの淫具が引き抜かれたと思った解放感を感じる間もなく、男の膝の上に引きずり上げられ、男のものを押し当てられていた。
 生々しい熱と脈動に、俺の混乱は、ひときわ大きくなる。
 背後から抱きかかえられ、そのまま腰を落とされた。
 男が息を飲むのを、感じた。
「まだ狭い」
 何かを堪えるような掠れた声が俺の耳朶を掠る。
 もう少し大きなものを使ったほうがよかったようだ。
 首をゆらゆらと振るしかできなかった。
 ただひたすらに熱を脈動を感じていたからだ。
 熱かった。
 焼けただれるようだった。
 こうして俺はこれから先この男に食らわれてゆくのだと、ひどく悲しく感じていた。


 そうして、俺の反攻はやまったのだ。
 また同じことをされれば正気でいられる自信がなかった。
 だから、俺は、ただひたすら男に従った。
 服従した。
 情けないもなにもありはしなかった。
 狂うのが恐ろしかったのだ。
 男に抱かれる毎日よりも、狂ってしまうかもしれないことのほうが怖くてならなくて。だから、反攻することをやめた。
 男が右といえば右を向いた。
 待てといえば、待った。
 来いといえば、どこへだって行った。そう、それがたとえ執務室だろうと、謁見の間だろうと、誰がいようがいまいが。
 膝に乗れといわれれば、おとなしく膝に乗った。そこで男が淫がましい戯れを仕掛けてこようと、受け入れた。
 まるで女物のような薄い夜着も、元の世界であれば街娼の印だというアンクレットめいた、鈴のついた金の輪を足首にはめられることさえも、受け入れた。
 従っていれば、男はやさしかった。穏やかに見えた。
 けれど、男は満足していないようだった。
 諾々と男に従って見せていても、それが心からではないと見抜かれていた。
 かすかな間を、男は感じ取っていたのだろう。
 俺の心にある、躊躇を。
 だから、時折、罰を受けた。
 罰を受ける原因が何なのか、俺には判然としはしないままに、男の怒りを受けることがままあった。
 そんな毎日に疲弊しないはずもなく、俺は、ただうつらうつらと眠るか、ふらふらと足の向くままに歩き、行き着いたどこかで横たわるような日々を送っていた。
 ただ何故だろう。
 ふと気がつくと、視線の先に、男がいることがあった。
 誰かに指示を下しているのだろう男をぼんやりと眺めていることがあった。
 それは後ろ姿のこともあれば、遠目のこともあった。
 時折、男が俺の視線に気づくこともあった。そんな時は、何故かいたたまれないような心地になってその場を離れるのが常だった。
 そんなある日。
 ことが終わった後で男が俺の髪を撫でながら思い出したように、
「明日から留守にする」
と、そう言った。
 俺の反応を期待はしていないだろう風情に、俺はただ目を閉じていた。
「戦だ。しばらく戻れないだろう」
 それに、俺は振り返っていた。
 いつか見た光景が脳裏に蘇ったからだ。
 男の鋭い視線と目が合った。
 不思議な沈黙の瞬間だった。
 何か言わなければならないような、おかしな強迫観念にとらわれる。けれど、何も思いつかなかった。
 そんな俺を面白いものを見るような目で見ながら、
「浮気などしようものなら、泣こうが喚こうがいたぶりぬいてくれよう」
 本気なのか冗談なのかわからない口調だった。
 だから俺は、小さくうなづいたのだ。
「わかっているならばいい」
 そう言うと、男は俺を抱き枕のように抱え込み寝息をたてはじめたのだった。



 あれから何度も戦があった。
 その度に男は無事に帰ってきた。
 戦塵に薄汚れてそれでも無事な姿を見るたびに、もやもやとした感情にとらわれる自分が、俺は理解できなかった。



 俺はあのたくさんの戦が何のために行われていたのか、ついぞ知ることはなかったし、知りたいとも思いはしなかった。
 そうして、知らされた時、すでに全ては終わりに向かいつつあった。


 男が戦に出るようになって、俺の部屋は男の部屋から城の奥に移された。まるで高貴な女性が暮らすかのような繊細な家具調度に尻の座りの悪い部屋だったが、そこにいろというのならば俺に逆らう術などない。
 戦時下だといわれても、実感は沸かなかった。それもそうだろう。この城周辺が戦場であるのならば格別、戦場はどこか遠い場所なのだ。だから城での俺の日常はさして変わらなかった。部屋の扉に鍵が外からかけられ、部屋から出ることを禁止されたくらいだ。ただ、代わりなのかなんなのか、男の命だと言って、毎日生花が活けられた。可憐であったり豪華であったり、落ち着いたやさしい花であったり、そんな花を見るたびに、男は何を考えているのだろうと、首をひねる羽目になるのだった。
 そうして、そんな日々がどれほど続いたのか。

 ある日突然、本当に突然、全ては覆ったのだ。

 基本的に静かな城に、厳しい軍靴の音が響き渡った。
 悲鳴や、何か硬いものが打ち合わされるような音、何かの壊れる音に、俺は目を覚ました。
 男が戻ってきたのは昨日の朝早く。いつものように戦熱に煽られているだけではなかった男の相手をするだけで俺の精根は尽き果てていた。男は俺を抱き潰すと、そのまま部屋を後にした。その後、夢うつつに聞いたのは、やはり今のような物々しい硬い音であったような記憶があった。
 何が起きているのかわからずに、心臓がただ早鐘のように鳴っている。
 逃げるべきなのか、それとも、ここにいればいいのか。判断に迷っていると、扉が荒々しく開け放たれた。
 紗の帳が揺れるくらいの荒々しさだった。
 俺は、ベッドの上で息を殺して小さくなるよりほかなかった。
 複数の人間の気配がした。
 いつの間にか馴染んでいたこの城の匂いではないものがうっすらとただよう。
 募る不安は、現実となる。
 勢いよく紗が掻き分けられて、見知らぬ人間がベッドを覗き込んできたのだ。
 支柱を背中に、凝りつく。
 伸ばされてきた手に、抗うすべもなく、捕まれ引きずり出された。
 悲鳴などではしない。
 ただ心臓が痛いくらいに暴れていた。
 毛足の長い絨毯越しに、組み木細工の床の感触をしとど感じる。
 顔を上げることは、できなかった。
 狼藉者?
 いや。
 違う。
 実感などなくたやすく忘れていたが、今は、戦時下なのだった。
 これは、おそらく、あの男の敵なのに違いない。
 いつしか着るようになってしまった薄い夜着の膝の部分を握りしめた。
 震えが、止まらない。
 久しく感じることのなかった恐怖が俺を嘲笑するかのようににじり寄る。
 ぽたりと夜着を濡らすのは、脂汗か。
 助けてと、求める言葉さえ声にはならない。
 誰に? と、思う疑問に脳裏をよぎるのは、ほかならないあの男の顔だった。
 そんなことがあってはならない。
 そんなことがあるはずがない。
 否定すればするだけ、どうしようもなく、あの男の顔がまざまざと脳裏を占める。
 こんなにも。
 こんなにもあの男に染められてしまったのか。
 それは、悲哀ではなく、絶望だった。
 確かに、からだの関係から始まる何か、絆のようなものはあるのかもしれない。
 それでも。
 レイプから始まった関係が、確かなものになっていいはずがない。
 これは、気の迷いに違いないのだ。
 ただ、ほかに何もないから。
 誰もいなかったから。
 刷り込まれた結果にほかならないのだ。
 聾がわしいほどにわめく心臓の音を耳のすぐ奥で聞きながら、自分の感情を否定していた。
 その時だった。
「まさか」
 やけに鮮明に聞こえてきたその声に、俺の心臓は刹那動きを止めたのに違いない。
 え?
 疑わずにいられなかった。
 背後から俺を押さえつける、何者とも知らない男が俺の顎を持ち上げる。当然顔を上げることになった俺は、そこに、懐かしい顔を見出したのだ。
「陽?」
 懐かしい声だった。
 懐かしい、顔だった。
 幾分か陽に焼けて、凛々しささえも漂わせて、そこに立つ少女。
「………ねぇ?」
 掠れた声で、呼びかける。
 確認するかのようにゆっくりと。
「陽!」
 確信の叫びをあげ、俺を抱きしめてくる少女の体臭さえも懐かしく受け入れる。
 ああ、これは。
 この少女は。
 とても懐かしい。
 とても、慕わしい。
「陽、陽!」
 前髪をかきあげて、顔を覗き込んでくるその仕草は、俺が間の悪さに愚痴を言う時に聞き手を務めてくれた頃と少しも変わってはいない。
 嬉しかった。
 双子の姉に会うことができたのだ。
 昔に戻れたような気分は、しかし、
「どうしてこんな」
 姉のつぶやきに、冷水を浴びせかけられたような心地で消えた。
「………で」
「え?」
「………ないで」
 声が出ない。
 こんな格好で、こんなに変わり果てた自分で、元に戻れるはずがない。
 会ってはいけなかったのだと、痛いくらいに感じた。
「俺を見るな! 触るなっ」
 見ないでくれ、触らないでくれ。
 あの頃のように、あの頃以上に、名前のように光の中にいるかのような姉に抱きしめられるような資格など、俺には微塵も残されてはいないのだから。
 必死に離れようとする。
 けれど、少しも、抱擁は緩まない。
「いやだ………こんな、こんな………………………」
 我が身の不甲斐なさをいたたまれないほどに感じながら、俺はただ泣き伏すよりなかったのだ。



 運ばれてくる食事に手をつける気力はない。
 それでも、目の前の姉を悲しませることはできなくて、パンをちぎってスープに漬ける。行儀は悪いが、こうでもしなければ飲み込めなかった。
 光は俺に何も訊ねなかった。訊ねたいことは山ほどあっただろう。けれど、おそらく、女性特有の勘で何があったか薄々は気づいてしまったのに違いない。
 すぐに探さなくてごめんと謝られたけれど、俺は首を横に振った。
 多分、光が俺をすぐに探していたとして、俺の運の悪さを考えると、きっと今とさして変わらなかったのに違いないのだ。
 だいたい、ふたりしてこの世界にいるなどと思い至れるはずもない。
 たとえ、亡き母の血筋を辿っての召喚がきっかけだったとしても、この世界が欲したのは姉だったのにちがいないのだ。
 姉がポツポツと語ってくれたこれまでを聞きながら、ふと、姉の背後に佇む男と目が合った。
 穏やかな褐色の瞳の男であればああであればよかったのにと憧れただろう理想的な体格の男。名前は、ヘイセル、姉の近衛隊長だと紹介を受けていた。
 ふと、姉ではなく俺がこの世界に必要とされる存在だったのなら、この男は俺の近衛隊長だったのだろうか。
 整った顔立ちが、きっと女性にもてるのだろうなと思わせてくれる。
 最初に出会ったのが、この男であったのなら。
 このどうしようもない感情が向かう先が、この男であったのなら。
 そうであったらよかったのに。
「出立までの間、ここで休んでいるといい」
 光の言葉に首をひねった。
「陽は私の弟なんだから、一緒に王城で暮らすんだよ。体調が良くなったら、王城においで。待ってるから」
「一緒じゃないんだ」
 なんとなく寂しかった。
「さすがに、これでも王さま見習いだからね、忙しいんだよ」
   殊更におどけていう光に、ほんの少し頬がゆるむ。
「いいね。急がなくてもいいから、体調をしっかり治してからおいで。待ってるから。絶対だよ」
 うなづきながら、なぜだろう、もう二度と会うことはないだろう、そんな予感を感じていた。
 そうして、それは、現実になる。



 すり替えてしまってもいいだろうか。
 俺が物陰から見ているのは、ヘイセルなのだと。
 決して俺に向けられることのない、敬愛の眼差しを、親愛の眼差しを、向けられる光を羨ましいと思うのだ。そんな眼差しを向けて欲しいとは思わないけれど、そんな眼差しで見られる光を羨ましいと思ってしまうのは仕方ないだろう。これまで俺に向けられていた、獲物を見るような眼差しを、あのあたたかな褐色の眼差しにすり替えてしまいたかった。
 だから、俺は、ヘイセルを見ていた。
 姉は一足先に王城へと出立し、俺は数名の姉の近衛と共に城に残されていた。
 身の置き所はなかったけれど、向けられる視線はあからさまではない興味だったので、無視するのはたやすかった。
 そうしてその日はやってきた。
 差し出された着衣に着替えて、俺は、ヘイセルの三人の部下に囲まれるようにして城を出た。
 馬に乗れない俺を抱えるようにして馬を操るのは、ヘイセルの腹心だという壮年の男だった。
 王城まであと半分ほどになった頃だった。
 その日は野宿となり、軽い夕食のあと毛布にくるまっていた俺は、何かの気配に目を覚ました。
 それは、殺気だったのだろう。
 俺を見る壮年の男の目には、憐憫と殺気とがあった。
 ああ、そうか。
 やっぱりな。
 俺を浸してくるのは、諦めだった。
 求め続けた新たな王の弟が、こんな俺であってはいけないのだろう。姉と敵対した男に嬲られつづけていた情けない存在などでは。
 自然とこみ上げてくる自嘲を、ヘイセルの腹心は見ただろうか。
「申し訳ございません。陛下のために御命頂戴いたします」
 喋り終わると共に、俺は刃に貫かれていた。

 そうして、俺は死んだはずだった。

 それなのに。
 どうしてこんなところにいるのだろう。
 見たこともない、薄らぐらい、寒ささえ感じそうな場所だった。
 天井にある明り取りから差し込む光は、月の光だろうか。冴えてはいるものの、弱々しい。
 チャリという音にふとその方向を見やると、月の光が差し込むほど近い場所に、何者かの影があった。
 近寄り、足を止める。
 それ以上近寄りたくなかったからだ。
 なぜ?
 震えがくる。
 怖いのだ。
 恐ろしい。
 死んでまで、どうして。
 リアルな質感で恐怖さえも覚えさせる黒々とした鎖に繋がれてそこにいるのは、紛れもなく、あの男、俺を嬲り続けていた男だったからだ。
 俺は男を見ていた。
 繋がれてなお端然としたさまを見せる男を見続けた。
 ヘイセルにすり替えようとした俺の努力はどうなるのか。まるで嘲笑うかのように、目の前にいるのはあの男だけだった。
 単調に時は過ぎてゆく。
 そうしてどれくらい経ったのだろう。
 気がつけば、男の黒々とした瞳が俺を見ているのに気がついた。
 錯覚だと思った。
 俺は死んでいる。
 男に見えるはずがない。
 それなのに。
 男はよく俺に見せた、片頬を歪めた笑いを宿し、俺がいる方向に向かって手を差し伸べてきたのだ。
 そうして、
「陽」
と、味わうようにつぶやいた。
 男に初めて名を呼ばれて、俺の目から涙が溢れ出した。
 今更−−−と。
 それでも−−−と。
 愛などでは決してありえないけれど、確かに、なにがしかの絆はあったのだと。
 だから、俺は、男の手に応えたのだ。



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