暫定 無題  1




 その女性を見た瞬間、頭の中で何かが壊れた。
 そんな鋭い音を聞いたような気がした。
 とてもかわいらしい雰囲気の女性だった。ふんわりとした軽やかなウェーブの髪が小作りな顔を彩る。その栗色の色彩が、日の光を浴びて、きらめいていた。頬をうっすらと染めやわらかな微笑みをたたえて、上天気な空の色の瞳を輝かせていた。今彼女がいる場所からはいくら上を見ようと僕を見ることはできないが、僕からは、彼女のようすをつぶさに観察することができた。
 そんな彼女を迎えるために、”彼”が歩を進めた。
 こちらから見えることはない”彼”の秀麗なまでに整った顔にどんな表情がたたえられているのか。どうしようもなく気になってならなかった。
 そんな自分が嫌でしかたなかったが。
 重厚な内装のせいもあり天井のステンドグラス越しの光やいくつもの照明が灯っていてさえ薄暗い室内からでは、外の明るさはまるで天上の世界のように思えた。
 ステンドグラス越しの光がカーペットの役割を果たす中央ホールにずらりと並んだおびただしい使用人達の間を歩きながら、”彼”が彼女をエスコートするべく手を差し伸べる。
 それを、大階段の踊り場の手すりにもたれて見下ろしていた。
 やがて、何段か降りた自分に気づいただろう”彼”に促され、
「ああ! あなたが、アークレーヌさまね」
 満面の笑みで見上げてくる女性に、背中がそそけ立った。
 嫌悪からではない。
 恐怖からだった。
 彼女の背後に立つ”彼”の昏い眼差しもまた、自分を見上げている。
「アークレーヌ、挨拶を」
 ゆったりとした響きの良い声に突き動かされるように、
「はじめまして、義母上」
 口を開いた。
 差し出された手の甲を無視し、頭を軽く下げる。
 そうして、僕は自分の領域に戻った。
 いいや。
 逃げ込んだのだ。
 長い歴史を誇るアルカーデン公爵家の荘園館(マナハウス)は、たくさんのガーゴイル型の雨樋に守られたように見える四方に放射状に広がる造りの城である。口を大きく開き空を睨みつけるたくさんのガーゴイル達。それは、まるで魔王の城ででもあるかのように、この館を訪れるものたちに印象づけるものだった。
 僕の領域は、この広大なマナハウスの北の尖塔を持つ区画である。
 たくさんのタペストリや絨毯、陶磁器、彫刻、鎧兜に剣や槍、絵画。古めかしい時代の遺物がずらりと飾られた廊下や階段は手入れが行き届いていてさえ、どこか埃っぽく感じられる。
 けれど、その行き止まりにある僕のプライベートルームには向かわない。二階の廊下の途中で召使専用の裏階段に入り、向かうのは、南の領域と東と北の領域とが交差する部分にほど近い屋根裏にあたる五階の大部屋のうちのひとつである。余裕で十人は収容できる部屋だ。その証拠に、片隅に片付けられているベッドもクローゼットも共に十台ある。いつからかそこが、僕が唯一力を抜くことができる部屋になってしまっていた。昔は召使たちの部屋に当てられていたというその階は、パブリックな方面で使われている西の領域を除いて今はほとんどが物置となっている。唯一空き部屋であったそこに、いつの頃からか、逃げ込む癖がついてしまっていた。
 荒い息をこらえることもせず扉を開け、勢いを殺すことなく、片隅に寄せられている簡素なベッドのクローゼットの陰になっているひとつにそのまま突っ伏す。
 丸くなっていた猫が、顔を上げて迷惑そうに小さく鳴いた。
「悪い」
 顔を起こしその黒い小さな塊の顎の下を指で軽く掻いてやれば、その金の目を細めて心地好さげに喉鳴りをこぼす。
 この部屋には窓がない。その代わりのように、大階段の天井のステンドグラス越しの光をおこぼれでもらえるかのように、扉側の壁の上部が元からない。そこから青や赤、黄色や緑の光が、ベッドと小さなクローゼットが片隅に固めて置かれているだけのこの部屋を慰めるかのように彩る。建てられた当初であれば天上をイメージした晴れ晴れとした色彩であったろうそれも、何百年という風雨にさらされて、褪色しどこか黒ずんだ色調に見えている。
 一番奥のベッドの上で僕は態勢を変え、胎児のように丸くなった。
 ザリザリと音立てて僕の額を一心に舐めてくるこの黒い猫も、いつの頃からここにいた。
 何歳になるのか、僕よりも年上であるのは、おそらく確かなことだろう。
 ぼんやりと、先ほどの自分の行いを思い起こす。
 大人気ない態度だったと、顔が赤くなる心地だった。
 来年が来れば十七になるというのに、なぜあんな態度を取ってしまったのか。
「頭が痛い………」
 脈動と同じリズムを刻む痛みが次第に無視できない大きさへと変化してゆくのに、目をきつくつむり、堪える。
 吐き気がする。
 ちらちらと脳裏をよぎるのは、あの晴れ晴れとした空の青にも似た瞳の色だった。
 僕よりも幾つか年上だろうか。
 女性の年齢はわからないけれど、僕よりも年下ということはあるまい。
 頬を染めた、初々しい花嫁。
 古くは流刑地とされていた植民地から来た富豪の令嬢だったと記憶している。
 ”彼”−−−僕の父の後妻となるべくやってきた、女性。
 名は………。
「何といったか」
 つい昨夜、父に聞いた名を、思い出すことができなかった。
 ありふれた名前だったような気がする。
 まぁいい。
 義理の母を名前で呼ぶこともない。
 僕はぼんやりと天井の梁を見上げていた。



 大食堂や居間、応接室、大小の広間や客間などが備わる、パブリックスペースである西の塔の領域に僕はいた。正確には、大食堂の僕の席に腰を下ろしている。
 長いテーブルの一角についていた。
 カトラリーがかすかな音を立てる。
 いつもより豪華な晩餐のメニューはやはり父の新たな妻のためなのだろう。ここに着いた時点で、彼女は父の正式な妻となっているはずだった。
 そのうちお披露目のパーティがここで開かれるのか、それとも、社交シーズンに首都のタウンハウスで開催するのか。
 ひとがたくさん集うのかと思えば、おそらくは実現してしまうだろう未来に怖気が走る。
 牛の頬肉の赤ワイン煮込みをナイフとフォークで切り分けていた手を、止める。
 原因は、義理の母となった女性の軽やかなさえずりだった。
「本当に?」
 まだ少女のような他愛のない反応に、父がゆっくりとうなづいた。
「一週間後に、披露目のパーティーを開く予定にしている。季節柄領内で身内だけの簡単なものになるが、そこは承知してもらいたい。正式な披露目の会は、それとは別によほどのことがない限り社交シーズンに首都で行う予定を組んでいる」
「はい」
 きらきらとという表現がふさわしいだろうほどに瞳は輝き、頬は薔薇色に染まってとても嬉しそうだ。
「話は変わるが、あなたの領域になにか不足はないだろうか」
「不足………ですか?」
「そう。あれがあればいいのにというものがあれば、遠慮なく言ってもらえると助かる。見ての通り男所帯なのでね。女性の好むものというのにはどうしても疎くなる。欲しいものを告げてくれればこちらで準備をしよう」
「欲しいものですか………? これといっては………………」
 まろい顎の輪郭に人差し指を軽く当てて考えているようすが、稚い少女のように見えた。
「あっ!」
「なにかあったようだね」
「でも………」
「遠慮はいらない。あなたはもうここの女主人なのだから」
「ほんとうに、いいですか?」
「ああ」
「じゃあ………ピアノ」
 少し小さくなる声で彼女が告げたその単語に、僕の手が止まる。カトラリーが皿に当たる音がかすかにした。
「ずっと習っていたので、こちらでも弾きたいのです。その………そんなに上手じゃありませんから、アップライト、古物商で手に入るくらいのもので大丈夫ですから」
 彼女のことばに、
「それならば、グランドピアノを取り寄せよう」
 父が短く答える。
「いえっ。そんなっ! 高価なものですのにっ。上等じゃなくて構わないのです。工場生産のアップライトの質流れとかで。ほん、ほんとうに、弾くのは好きですけれど、みんな………家族に、下手の横好きと笑われていましたからっ、誰か弾かなくなった方のお下がりがいただけたら充分なのです」
「遠慮はいらない。日常雑貨から武器の類まで我がアルケイディア社で取り扱わないものはないのでね」
「アルケイディア?!」
 上天気な空色の瞳が大きく瞠らかれた。
「公爵家が商売を?! アルケイディアって、私が暮らしていたところでも耳にしたことがあります。金色の宿り木をブランドマークにしている大きな会社だって。一般的なものから高級品まで幅広く取り揃えている品揃えは他では見られないって………それを、ウィロウさまが?」
「社会は変わってゆくものだからね。いつまでも領地経営だけでは心もとないことになるかもしれない。ああ、だからピアノは好きなメーカーがあれば遠慮なく言うといい。大抵のところとなら取引をしている」
 頭痛はまだ鈍く続いていた。
 軽い吐き気もあったが、自律神経が不調なのはいつものことだ。
 このせいではないが、僕はまともに学校生活を送ることができなかった。今は、ここで静養という名目で時間を潰しているだけの人間にすぎない。
 情けない。
「アークレーヌさま。ご気分がすぐれませんの?」
 女性の愛らしい声。
 気遣わしげなそれに、僕は顔を上げた。
 かすかに眉根の寄せられた顔がそこにあった。
「だいじょうぶです。それと、ピアノならば、僕のでよろしければ差し上げます。父上、よろしいでしょう?」
 応えながら、父の射るような視線を片方の頬に感じていた。
 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、メインディッシュを切り分ける途中だったカトラリーを動かす。
 湯気の散ったそれに、自分がかなり長い間痛みに気を取られていたことを思い知る。
 小さく切ったそれを一口。
 散ってなお鼻に抜けるふくよかな匂いを歯に感じる肉の感触を、舌に感じる旨味を味わう余裕はなかった。飲み込み、次に人参と玉ねぎを食べる。パンをちぎり、頬張る。ワインの代わりに運ばせたミネラルウォーターを一口飲むと、食欲は失せていた。
 ともあれ、これでサリチル酸(柳から分離。アスピリンが発明される前に使われていた薬品。胃腸障害が出やすいらしい)を飲むことができる。
「お下がりになってしまいますが、お気になさらないのなら」
「いいえ。充分です。でも、アークレーヌさまも、お弾きになられるのでしょう?」
「僕は左手を壊してしまいましたから、もう、弾かないのです。いえ、主旋律だけでは弾けても………ね」
「それは………」
「お気になさらず。明日にでも近侍たちにでも運ばせましょう」
 晩餐をどうにかやり過ごし自分の領域に戻ろうと席を立とうとした耳に、
「アークレーヌ。後で話がある」
 父の声が聞こえてきた。
 全身が震えそうになるのをかろうじて堪える。
 ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく笑みをたたえて、
「お待ちしております」
 答えるのが精一杯だった。


 まっすぐに僕の部屋へと戻ると、
「ご入浴の準備は整えてございます」
 家令が僕の部屋で待ち構えていた。
 そういえば今日の給仕は執事だったと思い出す。
「そんなこと、僕の執事か近侍(ヴァレット)たちのうちの誰かに任せておけばいいだろう」
 家令(ハウス・スチュワード)の仕事ではない。
「旦那様のご命令です」
「そうか」
 そう言われては、反論もない。
 父よりも若干年下だったと記憶しているこの男は、代々アルカーディに家令として仕えてきた家の者である。
 ジャケットをタイを、家令が脱がせてくる。
 身を任せながら、溜息が出そうになるのをかろうじて堪えていた。
 溜息をひとつでも吐けば、堰が切れてしまうだろう。そうなれば最後、泣き喚いてしまいそうだったからだ。

 なぜ。

 入浴後にバスローブをまとっただけで暖炉の前のソファに座った僕の背後に立つ家令が髪を拭ってくる。
 青ざめた自分の顔が外の闇を切り取った窓の向こうから見返してくる。
 血の気のない紙のような顔。それを彩るのは濃紺のリボンを解かれて流れ落ちる老人めいて艶のない白糸のような長い髪。
 切りたくないと伸ばしっぱなしの長い前髪の奥にいつもは隠れた覇気のない虚ろな目はアルカーディ一族の特徴でもある黒と見まがうような濃紺ではなく、やけに赤味の目立つ褐色で、見るたびにゾッとする。
 高くもなく低くもない鼻。これだけがやけに目立つ血を啜った後のような色をしたくちびるは、薄く頑固そうに引き結ばれている。
 その実、少しも意志が強くはないというのに。
 ただ、いつも、叫び出さないようにと必死に食いしばっているのにすぎない。
 叫び出したい。
 泣きわめいて、何もかもをめちゃくちゃに打ち壊してしまいたかった。
 できもしないくせに。
 それなのに。
「ご主人様からはこちらをと」
 梳(くしけず)られた髪の毛を束ねるために取り出された繊細なレース細工の深紅のリボンを見た途端、心臓が痛いくらいに縮んだような錯覚に襲われる。
「御曹司?」
 少しばかりうろたえたような家令の語調に、口角が皮肉に持ち上がった気がした。
 しゃらしゃら。
 高く澄んだ特徴的な音色は、レースの先に揺れるたったひとつの燻し銀のドルイドベルの音だ。
 その音が次第に大きくなってゆくような錯覚とともに僕の意識は朦朧となってゆく。
 くらりと目まいがする。
 家令によって束ねられた髪にはつものとは違う深紅のリボン。それが、その音とともに僕の心を縛る。
 亡き母の笑い声のように。
 それは呪いだった。
 亡き母が望み、父が受け入れた、呪いだった。

 両親の確固たる意志の前では、僕はただの贄でしかなかった。



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