暫定 無題  5




 ***** 



 脛を何かが擦る感触で我に返った。
 見下ろせば、黒い和毛(にこげ)に包まれた見慣れた姿が尾をピンと伸ばして僕にからだをこすりつけていた。
「おまえ………」
 名前のない黒い猫を脇に手を差し入れて抱き上げる。別段嫌がるでもなくぶら下がるように力を抜いてされるがままの猫を膝に抱えた。
 ピクニックシートに腰を下ろす。
 イーゼルに立てかけた画布の中では、目の前で威容を誇る緑に染まりつつある大地の只中の環状列石柱(ドルメン)が黒白のコントラストを見せている。それぞれの列柱の隙間に、今も古のドルイドたちドルイダスたちの姿を垣間見ることがあるかのような錯覚さえ覚える古い遺跡だった。古く、アルカーディの先祖はドルイドだという伝説もあったが、その真偽を確かめる術はない。しかし、代々のアルカーディの女性たちは、なにかと神秘的な物事に傾倒しがちな面があった。真実、アルカーディの血を引いていたという母もまた神秘に惹かれるひとりであった。
 母の髪を縛っていたリボンの先についた燻し銀のドルイドベルの高く澄んだ音色が、ふと耳の奥に蘇る。
 昨夜の今朝で、倦怠感は抜けないが、部屋にいるのも苦痛だった。
 食欲などもとよりありはしなかった。それでもと、執事の用意したバスケットがピクニックシートの上に置かれている。バスケットの横にはミルクと果汁まで準備されている。
「ああ。匂いに惹かれたか?」
 バスケットを開けようとすれば、背後で黙したままだったヴァレットが先に動く。
「ミルクと、あればチキンをやってくれ」
 ミルクの注がれた小さな皿とチキンを細かく千切ったものを載せた皿がピクニックシートに置かれるのを見て、猫を近くに下ろしてやる。
「御曹司もなにかお召し上がりになられませんと」
 いらないと言いたかったが、あまりに心配そうな視線に、
「オレンジジュースを」
 肩をすくめた。
 差し出されるグラスを受け取り、口をつける。
 甘酸っぱい果汁が喉の渇きを癒してゆく。渇いていたのだなとそこで初めて自覚した。

 絵を描くことは、学校で覚えた。
 その時間だけが、僕にとっては穏やかなひと時だった。
 まだ健在だった母が僕を手放したがらなくて、学校生活を過ごしたのはパブリックスクールの一年からで結局一年に足りないほどだったけれど、思い出したくもない。
 それなのに、なぜ、思い出したくないことに限って一度堰が切れてしまうと最後、溢れ出してしまうのだろう。
 悪夢でしかない記憶の本流が僕を現実から押しながして行く。



 公爵子息ということであからさまないじめなどは受けなかったが、なぜなのか上級生からの何がしかの嫌がらせが毎日のようにあった。
 寮生活という世間から隔絶された毎日にあって、常識というものが少しばかりいびつになっていたのだろうか。それとも、僕の知る常識がいびつであったのか。
 ささやかな、それでいて執拗な嫌がらせの数々は上級生である第三王子が中心になって行われたものだった。名前は、ウインストンだったろうか? 不敬だろうが、少しあやふやではある。ともあれ、第三王子である上に上級生であったから、逆らうことは難しかった。なにしろ学生である間は身分の上下は関係ないとの建前があっても、上級生の命令は絶対というのが暗黙のルールであるためだ。もちろん、度を過ぎた理不尽な命令であれば拒絶も許されたが、まだ未熟な年齢の集まりであるため、稀に洒落にならない事件となることもあるらしかった。
 プレ・プレップスクールやプレップスクールから寮生活を送っていれば、慣れることもできたろう。しかし、十三の歳までからだの弱かった母と共に領地で暮らしていた僕にとって、初めての他人ばかりとの生活は苦痛でしかなかったのだ。溶け込むことが難しく、馴染むことが辛かった。
 だから、僕は、周囲から浮いてはいただろう。
 馴染もうと努力はしたのだ。しかし、あまり無理をすると始まる頭痛を堪えることが辛くてならなかった。だから、自覚はなかったものの、いつしか一歩周囲から引いてしまっていたらしい。
 そんな僕の楽しみといえば、領地の生活で付けられていた家庭教師(チューター)が絵が苦手ということもあって、ここに来て本格的に基礎から教えてもらえた絵画のスケッチと、母に聞かせるために頑張って覚えたピアノくらいなものだった。
 やり過ごすことができていた嫌がらせが、その域を越えたのは、なにが原因だったのだろう。
 原因ははっきりとしないが、部屋割りか、寮弟制度か、監督生とのやりとりか。来賓の前でピアノを披露する役目を僕が担うことになったことだったのか。それとも、あの非日常な空間にあって蔓延していたらしい同性同士のやりとりが原因だったのか。
 それらすべてが複雑に絡まりあった末に起きたことなのかもしれない。
 その事件で、僕の左手は日常以外のことを行うには力が足りなくなってしまった。
 ピアノを楽しむことができなくなってしまったのだ。

 僕が最後に奏でたのは、寮に備え付けのグランドピアノだった。滅多に誰かが弾いていることはなかったが皆無というわけでもなく、翌日に迫った発表に少しでも指を慣らせておきたかった僕は監督生に許可を得て、その日ばかりはと独占していた。
 曲目は、『ピアノのための瞑想曲』のつもりだった。百年以上昔の詩人の詩をイメージして作曲されたという、静かな印象の曲である。教師の許可も出ていた。しかし、あまりきらびやかではないそのメロディのため、来賓たちの好みを考えてもう少し派手なのにすればいいのにと提案をされもしたが、僕はこればかりは従わなかった。なぜなら、その曲は僕の母が好んでいたものだったからだ。

 集中していた僕は、上級生達に囲まれていたのに気付くのが遅くなった。
 気づかない僕に焦れて、暗譜済みではあったがもしもの予防に立てかけていた楽譜を落とされて、手が止まった。
「熱心だな」
 嘲笑うように言われて、右手の主旋律を小指の動きが違えた。
 いつの間に?
 ウィンストンとその取り巻きの上級生たちだった。
 その時は、はっきりと覚えているとは言い難かったが記憶にある少年がひとり加わっていた。
「あなたは、たしか………」
 『もう少し派手なのにすればいいのに』と言ってきたのが彼だったような。ネクタイの色を見れば、上級生らしい。憎らしげにこちらを睨めつけてくる茶色の瞳が、可愛らしい顔には不似合いだった。
 もともとこれが仕上げのつもりで弾き終われば部屋に引き上げるつもりだったこともあって、邪魔されたなと、それだけを残念に感じていた。
 だから、どこかまだ完全に音の宇宙からこちら側へと戻りきっていなかったのにちがいない。
 そんな僕が気に入らなかったのだろう。
「やってよ」
 可愛らしい上級生が短く叫んだ。
 ピアノの蓋に手をかけたのを見て、なんとなく嫌な予感に襲われ手を引いていた。
 それが良かったのだ。わずかなタイムラグののちに大きな音を立てて蓋が閉められる。
 顔をしかめた僕が立ち上がろうとして、椅子に邪魔をされる。そんな僕の動きに逃がさないとばかりに無理やり羽交い締めにしてきた。
「いつも鈍そうにしてるのに、こんな時だけなんで素早いんだよ! 弾けなくなればいいのにっ」
 可愛らしい顔の上級生が僕の顔の近くに盛大にしかめた顔を寄せてくる。
 いつの間にか拾い上げていたらしい僕の楽譜をわざとらしく大きな音を立てて破く。
「え?」
 そうなって、初めて、僕は声を出していた。
「いつだって僕が選ばれて弾いてたんだよっ」
 頬を力任せに叩かれた。
「なぁに、関係ありませんって顔してんだよ」
 ジンジンと熱い痛みを感じながら、それなのにまだ僕はどこか非現実の中にいるような錯覚から抜け出しきるには至っていなかった。
「いっつもお高く止まってんだよなぁ下級生の分際で」
「いっくら公爵令息ったってさぁ」
「そのキレーな顔、泣かせてやりたいんだよなぁ」
 いつの間にか取り出されていたナイフが頬に当たる冷たい感触に、目が見開かれてゆく。
「そうそう。いっつもそうやって感情を出していれば少しは可愛いものを」
 底意地の悪そうな笑いのにじんだ声で、遅まきに湧き上がってきた恐怖を煽ってくる。
「アイスドールってかぁ」
「はなせっ」
 ジャケットの下、下着でもあるワイシャツがよく研がれたナイフで切り裂かれてゆく。その手際の良さに、背筋が震えた。
 当時の僕には、これらの行動がなにを意味しているのか全くわからなかった。
 なぜ、突然服を破かれるのか。
 皮膚が外気に晒されて、鳥肌が立つ。
 奇妙な空白の時に、加害者達が息を飲み生唾を飲み込む音だけがやけに大きく耳に届いた。
 向けられてくる視線に込められた熱が怖くて、気持ち悪くてどうしようもなかった。
 居合わせた誰も助けてくれなかった。
 そうだろう。
 相手は第三王子であるウィンストンと、その取り巻きなのだ。
 しかも、彼らは寮の最上級生。
 あの時あの場所に居合わせたものたちで、彼らに立ち向かえるものはいなかったに違いない。
「へぇ………顔だけじゃないんだ」
 ウィンストンが、僕の胸にぺたりと湿った掌をくっつけてくる。
 全身が震える。
 僕の肌理を確かめるように撫でさすりながら少しずつ下がって行く掌が、やがて金属音を立てた。
「やめろっ」
 いつの間に溜まっていたのか、涙が下まぶたからこぼれ落ちる。
 吐き気がこみ上げる。
 ガンガンと脳が直に殴られるように、視界がぶれる。
 なぜこんなことをされるのか、こんなことになんの意味があるのか、当時の僕には本当にわからなかった。
 入浴の手伝いをするヴァレットならともかく、建前上とはいえ同等の立場にある彼らになぜ裸を見られ、触られなければならないのか。
 ズボンを引き抜こうとしてくる手に抗う。足をよじるようにして、力を込める。しかし、相手は複数なのだ。ナイフすら手にするものもいる。どうして敵うだろう。ナイフをズボンの前合わせに沿わせて、
「抵抗するなら、このまま切るぞ」
 そう言われて、恐怖に竦み上がらずにはいられない。
「力を抜け」
 少し離れて、ウィンストンと可愛らしい顔をした上級生とが僕を見る。
 舐めずるような、獲物をいたぶる悪魔のような、悪辣な表情をして、楽しげに。
 僕は力を抜くことさえできず、首を左右に振る。
 力を抜けばどうなるか。
 ズボンを奪われれば、シャツの上部はすでに切り裂かれてその態をなしてはいない。残るのはまさに下着と化した残りの部分だ。そんな情けない姿を人前に晒したいわけがない。ナイフの存在をまざまざと感じながら、僕はただ足に力を入れていた。
 誰かから緊急の知らせを受けた監督生が駆けつけてくれなければ、僕はそれよりすら最低の状態へと陥れられていたことだろう。
 その屈辱。
 その恐怖。
 その悔しさ。
 怒り。
 羞恥。
 様々な感情が投げ込まれたスープ鍋の中で必死にもがいていた。
 これ以上どんな屈辱があるのか当時の僕は知らなかったが、それでも、何か良からぬことに襲われるということだけはうっすらと予感していたからだ。
 監督生が来た時、僕は、動くに動けなかった幾人もの寮生たちの中で、見世物のような哀れな格好を強いられていたのだ。

 今も僕の左の手の甲から掌にかけて醜く残る傷跡は、あの折り僕に向けられた害意の最終的な形だった。

「やめないか!」
 監督生の声が逆に彼らを煽った感があった。
 短く鋭い声に、学校で一目置かれる監督生を認め、青くなったのは、可愛らしい上級生だった。
「名誉ある×××寮の寮生たるものが何をしている」
 続けられた声は、一転淡々としていた。
「今すぐ愚行をやめないか」
 溜息をつきながらナイフを取り上げようと近づいてくる。
 それに弾かれて、
「くるなっ」
 叫んだのは、ナイフを手にした者だったのだろう。同時に、ナイフが前合わせから離れる。
「また、君か」
 何度目だ。
「うるさい!」
 振り払うようにナイフを握っている手が動く。
 痛みが、僕の頬に走る。
 かすかな呻きに、少しばかりにじんだ血に、一瞬時が止まったかに思えた。
 しかし。
 野次馬と化したものたちが悲鳴を上げた。
 それが、次の動きを決めた。
 第三王子は、いつの間にか傍観者の位置に移動している。そうなれば、取り巻きだということを周知されているとはいえ、実行犯は他ならない彼らなのだ。おそらく、第三王子という立場からウィンストンは、見逃されるだろうことが想像に易かった。そうなれば、アルカーディの権力は実行犯よりもはるかに勝る。学校内での戯れごととみなされるていどの虐めならば問題視されなくても、そこに血が流されたという事実が加われば、実行犯たちの家は潰されるかもしれない。彼等の廃嫡という処置で済めば御の字もいいところなのだから。
 そこまでを理解するほどの余裕がなかったのか。

 ふりかぶられたナイフは、僕の心臓を狙っていた。



 目が覚めた時、そこはすでに、学校ではなかった。
 病院でもなく、馴染み深いマナハウスの自室だった。
 薄暗い部屋の中、誰か、ひとのシルエットが際立つ闇となって見えた。
「誰」
 声はしわがれ小さなものだったが、シルエットはそれに弾かれたように動いた。
 ほのかに立ちのぼるウッディな香水の香りに、
「父上」
 やさしく額に触れてきたその掌の感触に、泣きたくなった。
「アークレーヌ」
 かすれ気味の穏やかな声が、僕の名を呼ぶ。
「………なにが」
 記憶はおぼろで、ただ疑問ばかりが大きかった。
 抵抗しようとかろうじて拘束を解き突き出した左手を貫いたため、ナイフは心臓まで届かずに済んだのだそうだ。
 胸の肉も傷つけられてはいたけれど、それでも、命に関わるものにはならずに済んでいた。
 けれど、僕の左手は、もう自由にピアノを奏でることができなくなってしまった。
 実行犯たちのその後も、その家がどうなったかも、僕は知らない。第三王子もあの可愛らしい上級生も、ただ僕が嬲られるのを見ていただけの傍観者たちも、どうでもいい。
 理由も何もかも、知りたくもなかった。
 言葉をつづけることができずにただ涙を流す僕に、
「全て忘れてしまうといい」
 父は僕の内心を知っているかのように何度もそう囁いた。
 何度も、何度も、思い出すこともできないおぼろな古い記憶と重なりあうような優しい口調で、僕が再び眠るまで、父は僕の頭を撫で、囁きつづけたのだ。

 父は静かに、ただ穏やかにそこにいた。
 多忙な仕事の手を止めて、そこにいてくれた。
 母の死の折りのあの嘆きを、心の奥深くに沈めて。
 向けられる父の視線の意味を、深く考えることなどありはしなかった。
 父は、父であり、それ以外ではなかった。
 それ以外になるはずがない。
 なっていいわけがなないのだから。

 怪我も治り、父が再び雇った家庭教師(チューター)が僕の勉強を見るようになって、ふと僕は気付いた。
 他人の視線というのが、恐ろしくてならないということに。
 吐き気やめまいを覚えることに、最初は勉強をしたくないという怠け癖が家庭教師と共にいることを嫌悪させているのだと思っていた。
 しかし。
 やがて、過呼吸の発作となって、それが現れだした。
 家庭教師は僕をいじめはしないのに。
 彼が時々手にする定規の動きに、黒板を指す短い鞭の動きに、心臓が跳ねるような恐怖を覚えるようになった。
 それは日々大きくなっていった。
 見られているだけなのに、からだが震えるようになった。
 相手の、目が怖かった。
 なにを思って見てくるのか、ごく普通のその感覚が、怖くてしかたがなかった。
 けれど。そんなことを知られたくなくて、僕は必死に我慢した。
 それが悪かったのか。
 いつしか、”誰”ということもなく、不特定のその辺にいる”誰か”の視線というだけで、震えるようになっていた。
 自然、人目を避けて行動するようになった。
 父はそんな僕を諌めることはなかった。
 それをいいことに、ただ漫然と、僕は日々を過ごすようになったのだ。
 時々、部屋にあるピアノに触れて、左手が満足に動かないことを思い知らされた。けれど、生活するだけなら、なんら問題はない。右手で主旋律を弾くくらいならできるのだから。それに合わせて、あらかじめコードの幅と形とに左手を開いて軽く鍵盤に置いて上下させる。手をコードの幅に合わせて変えることにも鍵盤を押さえることにも苦痛だが伴ったが、たどたどしく小さな音を出すくらいはできた。
 けれど、それは、辛い作業だった。
 音を奏でる楽しさが、辛い作業へと変じてゆく。
 弱々しい響きに自嘲で口角が引きつった。伴う痛みに、震えが生じた。
 そうやって弾いていると不意に、突然、胸に刺さったナイフの鋭さを、心臓には届くことなく済んだそれを幻のような痛みとして思い出して息が止まりそうになることがあったが。
 自然、僕がピアノを奏でることは、間遠なものとなっていった。
 それでも。
 概ね平凡な日々だった。


 グラスハウスの中は、冬とは思えないくらいの湿度と暖かさに満ちていた。
 弱い日差しが、グラス越しに緑に降り注ぐ。
 ひとのことばを真似ることができる鮮やかな鳥が止まり木でしきりに首を振り立てていた。
 それをスケッチしていた僕は、ふと背後から落ちてきた影に振り返った。
「先生………」
 家庭教師だった。
 かけたメガネを直しながら、僕を見下ろしてくる。
 その視線はなんということもないものだったのに、背筋が不快に震えた。
「アークレーヌさま。今日は調子が良さそうですね」
 空いた手に持っているのは数冊の教本のようだ。
 こうして行き合ったときに僕の調子が良さそうなら、授業が開始される。
 このところグラスハウスがお気に入りになっていた僕を見つけるのは容易かっただろう。
「こちらよろしいですか」
 訊ねてくるのにうなづいて返すと、備え付けられているソファに腰をおろす。
 テーブルの上に教本を広げるのを見て、僕は小さく肩をすくめた。
 集中できたのは三十分ほどだったろうか。
 教本に指を添えての家庭教師の声が、ふいに途切れた。
「先生?」
 眼鏡越しの視線が、教本から逸れて僕の背後に向けられていた。
 それの先に、
「父上?」
 グラスハウスと北の区画とを繋ぐ扉近くに、父が佇んでいた。
 僕の声に、促されたかのように歩き出す。
 家庭教師が、椅子から立ち上がった。
 僕は惚けたようになって父をただ見ていた。なぜなら、父の雰囲気が、いつもと違って見えたからだ。
 姦しい叫びをあげて、極彩色の鳥が止まり木から飛び立った。
「出て行け」
と。
 いつもの父の穏やかさが消えた口調で、家庭教師に命じる。
 その雰囲気に、ぎこちなく一礼して彼が足早に出て行く。
「父上?」
 不思議にかすれる声で、目の前で僕を見下ろす父に呼びかける。
 高く澄んだ音色が、父の手元から聞こえてきた。
 懐かしい。
 母のリボンの先にあった、ドルイドベルの音色だった。
 目の前に掲げられた赤いリボンの先に、燻し銀の丸くささやかなベルがぶら下がり揺れている。僕の意識を奪うその高く澄んだ音色が、だんだん大きく膨らんでゆくような錯覚があった。大きく、まるで僕を包み込むかのように。
「手を出しなさい」
 父の声が、なんらかの膜を一枚隔てたような不明瞭なものになる。
 けれど、言葉の意味はわかった。
 まるで操られるかのように、僕は、手を差し出していた。
 かすかな衣擦れの音を立てて、赤いリボンが僕の両手首に絡められる。
 父の手が器用に動き、僕の手を縛める。
 しかし。
 その時の僕は、すでにおかしくなっていたのだろう。
 それを不思議と感じなかった。
 しゃらしゃらと鳴りつづけるドルイドベルの音色が、まるで亡くなった母の声のように僕の耳の奥でささやきつづける。

 アークレーヌ、憎くてたまらないわたくしの−−−と。
 思いもよらない母の声を打ち消したくて、首を横に振る。

「アークレーヌ。お前は私のものだ」
 直接に僕に囁いてくる父の言葉と重なり合って、ふたりぶんのことばが僕を呪縛してゆく。

 この時、僕には何もまだ分かってはいなかった。
 ふたりによる呪縛の意味が。
 まだ十五に手の届いていなかった僕にとって、外の世界を学び取ることができなかった僕にとって、迫ってくる父の顔が、押し当てられるくちびるの生々しさが、それらの持つ意味が最初はわからなかった。それを理解することができたのは、すべてのことが終わってからだった。

「お前は、あれが私に残した唯一だ」
と。
「私があれ以外に抱いてもいいのは、血を受け継ぐお前だけなのだ」
と。
 狂人のささやきを睦言に、僕の下肢が開かれてゆく。
 父の充溢したものが、僕の下肢を押し開き、あらぬ箇所へと分け入ってくる。
 灼熱をはらんだ凶悪なまでの質量に、受け入れることなどないはずのその場が引き裂かれてゆく。
 痛かった。
 からだの内側から穿たれ割かれてゆく忌まわしい音が、脳までもを犯してゆく。
 裂けてゆく。
 その頃になってようやく僕の手首を結びつけていたリボンは解け、同時に、痺れたように何も考えられなくなっていた脳が動きだす。
 そうして、理解する。
 これは、禁忌であるのだと。
 人倫に悖ることなのだと。
 実の父親に、同性である父親に、こうして犯されている己の存在は、決して許されるものではないのだと。
 その事実こそが、痛みを凌駕して僕に悲鳴を上げさせる。
 心を捩らせるようにして振り絞りほとばしり出た叫びが、泣(・)き声が、どれほど大きなものだったか。
 救いを求める声が、どれほどまでに悲痛なものであったのか。
 そんな大声が誰にも聞かれずに済むはずはない。
 けれど、誰も、助けに来ることはなかった。
 やがて悲鳴も叫びも貪られる獲物の喘鳴へと変化を遂げて、父の律動に揺さぶられその刺激に声帯からまろび出る呻きがただの嬌声めいたものになりはてる。
 そうして。
 何度目になるのかわからない理性をなくした父の行為の果てに、僕の意識は焼ききれるようにして途切れたのだった。

「アークレーヌ」
 穏やかな父の声が、聞こえた。
 髪の毛を梳いてくる掌の感触が、心地よかった。
 しかし。
 頬に、額に、父のくちびるの熱が触れた瞬間、
「いやだっ!」
 掠れた声で拒絶を叫ぶ。
 思い出したのだ。
 何が起きたのか。
 涙でかすみ、泣き腫らした重い瞼の向こう、木々の隙間から見えるのはグラスハウスの天井以外のなにものでもなく。僕は父に蹂躙されたのと同じ場所で、僕を蹂躙した当の本人に抱きしめられているのだ。
 汗や精液にまみれたからだは重怠く、汚らわしく、ひとの重さと熱量とが、嫌悪ばかりを訴えかけてくる。
 血を流し疼痛を訴えるその箇所が、禁忌を犯した証だった。
 男である僕が同性に犯され、あまつさえ相手は血のつながる父親であるという、背徳極まる現実の、逃れようのない罪の証だった。
 どうして−−−と。
 まともな声にならない声で、糾弾するも、
「お前はあれが私に遺した唯一のものだ」
と、獣のような色を宿した瞳が見下ろしてくる。
 おやこなのに−−−と。
「それがどうした」
と。
「お前はわたしのもの」
と。
 静かに狂ったまなざしが、僕を凝視する。
 涙が、こみ上げる。  鼻の奥がきな臭くなり、目頭が絶望の熱を孕んだ。
 溢れ流れ落ちた涙にくちびるを寄せてくる狂った男を、押しのけようとして、叶うことはなかった。


 その時から、僕の髪は色を失い、老人のような白へと変わってしまったのだ。
つづく  HOME  MENU
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