呼ぶ声 7





 それなのに。

 今いる場所さえも束の間忘れかけて、恩は我に返った。
 失われてしまった無上のもの。
 それを、奪い去った者たちの末が、自分を見ている。
 ふつりと胸の奥底深く、こみあげそうになる感情を、恩はいつものように圧し殺した。
 あれもまた、ある種の愛故であったのだと、理性が告げる。
 神であり王である自分に対する愛故に、ひとは間違いを犯したのだ。
 後悔が代わりにこみあげてくる。
 絶対者であるはずの自分が、なぜ、愛する存在を守れなかったのか。
 それは、彼らが自分のためにという認識を持っていたからに他ならない。
 彼らは恩のために、恩を誑かす異形の者を殺すことを決意したのだ。
 異形と彼らの呼ぶ存在が何であるのかを、彼らはもはや知りもしなかった。知ろうとさえしなかったのだ。
 神のために。
 その題目は、恩を縛る。
 内容が正しかろうと不正だろうと、人々の思いは、恩を縛り付ける鎖となってしまった。
 だから、恩は、動けなかったのだ。
 その姿形をほぼひとのものへと変貌させてそこに存在するイ・クウアを、ひとは殺したのだ。
 殺されるその刹那にまでも、イ・クウアはただ笑んでいた。
 それは、死ぬことができる悦びだったのか。
 それとも、彼に対する思いやりであったのか。
 今となっても恩には判らないままである。
 ひとであった頃の恩の最後の記憶と同様に、殺されたイ・クウアのからだからあふれだしたのは、血ではなかった。
 彼の同胞たちからあふれだしたのと同じ闇が、イ・クウアからあふれだす。
 イ・クウアの中からあふれだした、闇に、ひとは恐慌をきたして逃げ惑った。
 その光景を、ただ、恩は見やっていた。
 流れる涙にかすむ視界に、おろかな人々の犯した罪を映していたのである。
 それからの幾年かを、ひとは、暗黒の時代と呼び嘆いた。
 イ・クウアからあふれだした闇が、世界を閉ざしたからである。
 恩の流した涙が、彼らに己の犯した過ちを気づかせたからである。
 しかし、それは、既に遅きに過ぎた。
 恩は、その宮の奥深くに自らを閉ざしていた。

 神不在の時代の到来である。

 ひとはただ、遅きに過ぎる罪の意識に苦しみ悶えた。
 そうしていつしか、神が愛し、自分たちが醜い嫉妬故に殺した、古い異界の神の名は、禁忌と化してしまったのである。



 苦しみの時代は永く続いた。
 人心は荒れ、世は荒んだ。略奪も暴行も、人殺しさえもが日常茶飯事となり、力ない者はただ怯えるよりなかった。
 親を亡くした放蕩息子のように、ひとは己の不明を恥じ、いつしか、神そのものが禁忌の様相を呈したのだ。
 ひとは、神を忘れたふりをした。
 しかし。
 そうでないものもいた。
 直接神に仕えつづけた者たちである。
 神が閉じた扉を中心に、かつての神の城は、神殿へと変貌を遂げた。
 幾代もが過ぎてゆく。
 しかし、彼らは祈りと謝罪とを忘れなかった。
 禁忌とされる神を心の奥底で密かに求めるようになっていた襲われ略奪されるだけの弱い者たちは、彼らの元へと集まった。
 それが、世の中心、神王の都のはじまりである。
 元へ。
 ひとの祈りが通じたものか、神が姿を見せたのは、あまりにも唐突だった。
 何の前触れもなく、祈る者たちの前で、扉が開いた。
 神の姿は、彼らの間で語り継がれた、光り輝く男神とは違っていたが、まとうものはあきらかだった。
 神殿の長が、
「我が主」
と驚喜のうちに額付けば、誰が疑うだろう。
 神が連れ立つ黒髪の美貌の主を、かつての轍を踏むまいと、ひとは神に属するものと、認めた。
 その本性を知ることなく。

 そうして、ひとの苦しみは、まだ続くのだ。

 神の絶望は、まだ癒えてはいなかった。
 ひとはただ、己らの犯した罪の深さに、ことばをなくすよりなかったのである。



 逃げることは、不可能だった。
 すべては、神の決めたことであるのだ。
 郁也はくちびるを噛み締め、瞼をきつく閉ざした。
 眉間に深く刻まれた皺が、悦楽に酔う証でないことは、あきらかだった。
 肌触りも極上の敷き布が、郁也のからだの下で捩れる。
 滲む涙は、羞恥か苦痛か。その両方か。
 朱に染まるからだが、小刻みな震えを宿す。
 イヤだと、郁也は思った。
 女のように抱かれることは、郁也にとって、苦痛以外のなにものとも思えなかったのだ。
 誰か助けてと。
 食いしばった口が、空気を震わそうとする。
 しかし。
 それは、からだの上を動く恩によって阻まれた。
 まるで郁也の心の叫びを読み取ったかのように、恩の動きが激しくなったのだ。
 ただひたすらに翻弄されて過敏になっていた郁也のからだは、それを堪えることなどできなかった。
 そうして、郁也は意識を失ったのだ。



 ごめんね。
 イ・クゥア。
 だれかがささやいた。
 耳に心地好い声だった。
 でも、君でなければならなかったんだ。
 私のすべてを抵抗なく受け入ることができる器は、君だけだったから。
 哀しそうな、それでいて、どこか歓喜をはらんだ声だった。
 どんなに探しただろう。
 どんなに求めたろう。
 もう一度彼と共に在るために必要な器を。
 私もまた、私を強く求める彼を求めたのだ。
 彼は私のゆえに罪を犯し、私は、彼を愛したから彼の罪を許した。
 それもまた罪だと知っていて、どうすることもできなかった。
 あんなにも激しい思いが私の心の中にあるなどとは、少しも知らなかった。
 ただ存在するだけでしかなかった自分に、あんなにも様々な感情があるなどとは知らなかった。
 だから。
 愛するという、罪にも似た苦しさに、私は溺れてしまっていた。
 与えられる快美な感覚に、溺れていたんだ。
 初めての感情と感覚に、溺れていたんだ。
 そんな私に罰がくだらないわけが無い。
 たとえ神であれ、罪を犯すこともあれば罰を受けることもある。
 そういうものなのだ。
 だから、彼を失うことは、私が殺されることは、当然のこと。
 それは、私に下された罰だ。
 しかし。
 それでも。
 諦めることのできなかった私を許してほしい。
 これを最後に、私は眠るから。
 だから。

「あ……ああああーっ」
 郁也の叫びに、扉が開いた。
「郁也っ」
「郁也にいちゃんっ」
 駆け寄ったメガンとマルカに、郁哉は抱きついた。



つづく



11:48 2011/3/27 (2010/09/29)




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