in the soup  エンリケ視点



 なぜだか厭な予感がした。
 アジアの因習深い闇組織に身を置いてどれくらいになるのか。これまで、あえて考えたことなどありはしなかったが。いつしか私自身にも、太古の人間には備わっていたという第六感と呼ばれる感覚がよみがえっていたのかもしれない。
 私のボスの名を籍昇紘という。この国に移民して百年を数える、華僑の大物である。
 私の名は、エンリケ・チャン。エンリケはクリスチャンネームというわけではなく、これが、旧大陸の血を受け継ぐ私の、本名である。もっとも、フルネームというわけではないが。
 新大陸の片隅、人種の坩堝といわれる都市の華僑を取り仕切る籍昇紘、そのプライベートな秘書が、私の仕事である。表の複合企業の方ではなく、裏の顔のほうに私は属しているわけだ。
 大きな音をたてて、ドアが閉じられた。部屋をかき乱して消えた風圧に、鼻先を漂うのは、華やかな香水の香だ。赤いハイヒールと、同じマニキュアが、脳裏をよぎり消える。
 交渉決裂――ですか。
「養育費は、これまで通りだ」
 淡々と、感情などないかのように、ボスが、言う。
「女……か」
 いつもは冷静な声に含まれるかすかな嫌悪に、私は、くちびるの端が引きつるのを感じた。
 先ほど部屋から出て行ったのは、彼の、息子を産んだ女性である。――あくまでも、公的に、であり、それを、彼がどう思っているのか、私は、知らない。
 重苦しい沈黙に、私は、口を開くタイミングを図っていた。今日一日のスケジュール確認が途中だったのだ。
「あれは、誰だ」
 なにがしかの感情をはらんだ彼の声に、私ははっとなって顔を上げた。
 ボスの黒々とした双眸がつかの間私に向けられ、するりと、窓の外へ投げかけられた。
 窓辺に近づき、私は、彼の視線をたどった。
 そこには、ひとりの少年がいた。
 東洋系の顔立ちの少年の髪が、午前中の陽射しに透けて、コニャックのように琥珀色を帯びていた。白いトラに顔を舐められて、痛そうに目を眇めて、それでも笑っている。
「新しく雇った、青露(チンルー)の世話係です」
 答えながら、私は、なぜか、厭な予感を覚えていた。
「あれが、か。幼すぎないか」
「歳は十七ですし、一応大学生ですよ」
 見た目は確かにジュニアハイくらいに見えないこともないが、幼すぎるということはない。
 ボスは黙って、少年を見下ろしている。
 面接の日、これまで挫折も何も知らずに来たのだろう、少しだけ緊張した少年の顔が、なぜか、まぶしいような気がしたのを覚えている。このままで行って欲しいような気がする反面、背後から突き落として、そうして、その後の彼がどうなるのか見てみたいような、そんな、子供じみて物騒な思考が頭の縁をかすめたのだった。
「呼んでくれ」
 思わぬ指示に、私の思考が、気躓くように止まりかける。
「どうした。彼を、ここにつれて来いと言っている」
 そう言ったボスの黒い眸の奥に宿った光に、私の背中を、冷たいものが、流れた。



「少しからかっただけだよ」
 両手を挙げた降参のポーズで、ミスター・リィがベッドから滑り降りる。
 朝食でも摂ってくるよ―――ひらひらと手を振って、部屋から出ていった。
 その間、少年、浅野郁也は、ひきつるように全身を硬くして震えていた。
「大丈夫ですか」
 手首を縛るドレスシャツのタイを解こうとからだを屈めると、うわごとのように、イヤだ――と、繰り返しているのが聞こえてきた。
 私の声など、聞こえていないのに違いない。
 純潔だった少年をボスが強引に散らした後、少年からは、いっそみごとなまでに笑顔が消えた。性的にマイノリティではない少年にとって、女のように抱かれるという逆転を楽しむ余裕など生まれてこないのだろう。恐怖と嫌悪とに突き動かされるまま逃げ出して連れ戻される、そんなゲームのような繰り返しに、涙を流し、そうして、痛々しいまでの絶望をたたえるようになった。
 そんな少年の態度は、私を、自分が彼を突き落としたかのような錯覚に落とし込んだ。あの時考えていたままに、少年から笑顔を奪ったのは自分だと。ありえない錯覚は、なぜなのか否定しても否定しきれず私を苛んだ。そのせいもあって私は、これまで、彼にやわらかな態度をとることなどできなかったのだ。
 私は、静かに背中に手を滑らせた。他意などなかった。ただ、起き上がらせようとしただけだった。しかし、刹那、少年は、みごとなまでに硬直した。
 息を忘れたように青ざめた少年に、
「大丈夫ですから」
 ゆっくりと、ささやきかけながら、私は、ベッドサイドからミネラルウォーターを注いだコップをあてがった。
「どうぞ」
 両手で包み込むようにして、コップを傾ける。少年の飲みこぼした水が喉元にを伝って跡を残すさまに、私の心臓が、大きく跳ねた。
 骨の浮いた貧弱な、それでいて滑らかな、象牙めいた肌のあちこちに、ボスがつけたのだろうくちづけの名残が赤く残っている。それよりもなお赤く色づく胸の尖りが、私の視線を釘付けにした。そこに触れれば、少年はどんな声で啼くのだろう。少年の証に触れれば、受け入れる場所に変えられてしまったつぼみにくちづければ、どんな風に乱れるのだろう。これまで関係をもった女性たちのプロポーションよりも、媚態よりも、なぜか、少年の姿態が私を煽った。
 啼かせたい。
 抱きたい。
 私の全身が熱を持ち、同時に、そう思っている自分に、冷水が浴びせられる。
 私もまた、変わらないのだ。このからだには、長く裏社会に属してきた一族の血が、間違いなく、流れている。
 他人の意思など踏みにじり、砕き、そうして、自分の意のままに、他人の人生を狂わせる。紛れもない狂気の血が、流れているのだ。
 それに――――そう、忘れてはいけない。彼は、私のボスの、愛人なのだから。
 そんなことをしようものなら、私は、殺されるだろう。
 ボスは、眉一つ動かすことなく、私を殺せる。
 けれど。
 私は――――――――――――――。
 私を彼の秘書にと駆り立てた情熱。疾うに冷めたはずのそれが、ふつりと、音たててよみがえる――錯覚−―――に、私は、震えた。



 私が子供じみた態度を改めたからなのか、少しずつ少年の態度も変わってきた。態度を改めたとはいえ、相手がボスの愛人だということに変わりはない。改めただけであからさまに変えたつもりはなかったのだが。ボスに対するのととは別に、私の顔を見るたびに全身をこわばらせていた少年から、私に対する硬さが、消えていた。
「浅野、ちょっと変わったんじゃない」
 ミスター・リィが示唆するまでもなかったろう。  結局、彼はウィルコックス氏からボスへのプレゼントであったらしい。この屋敷に部屋を貰い暮らしている。しかし、ボスが彼をベッドの相手にしている気配はない。この事実に、部下たちがひそかに、何であっちかね――オレだったら、あっちのが絶対いいけどな―――と囁いているのを私は知っていたが、ボスにとってミスター・リィは、青露と同じくらいの存在に過ぎないにちがいない。
 青露は、T国の知り合いからボスに贈られたものだ。贈られたものを返すわけにもゆかないから飼っている。そうつぶやいたのを耳にしたことがある。――青露にしても、ミスター・リィにしても、彼自身が選んだものではない。あとひとり、彼の子供を生んだ女も、彼が選んだ相手ではなかったと、政略に過ぎなかったと聞いた記憶がある。ならば、どんなの気まぐれであったにしても、彼が自分自身の意思で選び、手を伸ばしたのは、彼を怖がる少年だけなのだ。
 だとすれば。
 ボスが、彼、浅野郁也を手放すことなど、ありえない。
「エンリケも、変わったよね」
 何気ないように付け加えられた言葉に、ぞっと悪寒が走った。
 ミスター・リィは、色事には長けている。当然だろう。ここに落ち着くまで、その筋の有名な店でトップの男娼だったのだから。
 知られてはいけない。
 まだ、殺されるわけにはゆかないのだ。
 彼を、私がどんなに哀れに思い、同時に、愛しいと、抱きたいとまで思っていることを、誰にも知られてはいけない。
 ボスには、決して。
 そうして、少年にも、知られるわけにはゆかない。少年が、肉欲に対して、嫌悪と恐怖とを抱いていることを知ってしまったからだ。それは、レイプと、その後の監禁生活から考えると、仕方のないことに違いない。

 しかし。

 籍昇紘は、知っていたのだ。
 知っていて、見ていたのだ。
 私が、どうするかを。
 少年が、どうするのかを。

 ベッドに裸の上半身を起こして、私が読み上げるスケジュールを聞き終えたボスが、
「わかった。が、午前中の予定は、キャンセルだ」
と、髪を掻きあげながら言った。
 目の隅に、丸まるようにして眠っている浅野を捉えていた私の反応が一瞬遅れた。
「どうした、今日の午前中の予定はすべてキャンセルする――と、言ったのだ」
 言いながら、少年の裸の肩に手を伸ばす。
「え………」
 寝ぼけてひずんだ声が、悲鳴に変わるのに、あまり時間はかからなかった。
 引き寄せられて、抱きしめられる。それだけで、少年の全身が、こわばりつく。
 くちづけられて、肩に手を突っ張るのをひとまとめにされる。
 背後から膝に抱き上げられ、少年は、はじめて私に気づいた。
 息をするのも忘れたように、少年の涙で潤んだ褐色の眸が、私を見上げ、逸らされる。
 釣り上げられた魚の悲鳴のような声のない悲鳴が、パクパクと開いたり閉じたりするくちびるから、ほとばしる。
「いつまでそこにいるつもりだ。最後まで見てゆく気か。私は別にかまわないが」
 いつものように感情のうかがえない声が、私の呪縛を断ち切った。
「わかりました。では、そのように調整いたします」
 普通にできただろうか。
 声は、震えなかったか。
 部屋を出てゆく私の脳裏に、涙を流す少年の胸元をさまよう籍昇紘の手がこびりついていた。
 


    あれからだ。
 ふたりの濡れ場に居合わせる回数が、増えたのは。このごろ、ボスは、少年を抱くのに時と場所を選ぶようなことはしなくなっていた。
 最初こそ思いも寄らない行為にうろたえはしたものの、私も三十の男である。二度目からは、無様にうろたえることはない。それでも、憎からず思っている相手が嫌がりながら他人に抱かれる場面というのは、心が引き裂かれるかのように痛んでならなかった。
 同時に、自分の無力さを、いやというほどに、思い知らされる。



「馬鹿にしてるよね」
 ミスター・リィを探していた私の耳に、彼の声が届いたのは、ちょうど、廊下の角にさしかかったときだった。
 鼻にかかった甘ったるい笑い声にまじって、
「あなたの父親って、この僕をなんだと思ってるんだ」
 憤っている声が聞こえた。
「怒ってるんなら、出て行けばいいじゃないか」
 面白がっているような声の主は、ボスの息子、籍圭樹である。彼は、三日前からここに滞在していた。一年のうち、夏休みの数ヶ月だけ、ボスの息子はここに滞在する。
 歳も近い二人である。三日もあれば、仲良くなるということか。
「だって、僕は、ウィルコックスから彼に贈られたんだよ。勝手に出てけない」
「いいじゃないか、こうして、誰とどうしたって、親父はあんたを怒ったりしないんだし」
「それが、馬鹿にしてるっていうんだよ」
 まったく。この僕より、あんな、どこにでもいるみたいなガキがいいなんて。
「親父は、他人に押し付けられるものには、うんざりしてるんだよ」
 腰高の壁に腰を下ろした二十歳くらいに見える男が、ミスター・リィを膝に乗せて、くちづける。
「腹が立つね。あ〜んなガキが、ミスター籍の心を捉えてるなんて」
「嫉妬かい? おっかないなぁ」
「そんなわけないだろ。そういえば、あなたは知ってる?」 「なにをだ」
 にやりとにっこりの中間ほどの笑顔で、ミスター・リィが、圭樹を見下ろした。
「あなたの父親、あのガキを養子にするらしいって」
 私のいる角度からでも、ミスター・リィの期待に満ちた表情は見えた。
「………………それはそれは」
 面白がっているような、声だった。
「残念ながら、オレは、実を言えば、親父殿の後継に興味はないんだな」
 あっけらかんと言い放たれて、ミスター・リィの表情から、毒気が抜ける。
「なんで」
「なんで――って。おいおい。リィ、冷静になって、親父殿、あんたの言うミスター籍を観察してみなって」
「……………」
「あのひと、絶対、人生楽しんでないって。そんな一生、オレは、ごめんだね。人生、楽しんでナンボだ」
 だから、な。
 ミスター・リィの長い髪を指でもてあそびながら、
「あんまり、親父殿の人形を弄ってやるなって。あのお人形は、親父殿が自分の意思で手元に置いておこうとしてる唯一だ。あまり弄ると、最後には、血を見るぞ」
 ふたりが、見詰め合っている。
 どれくらいの時そうしていただろう、やがて、
「あなたも、あのガキの味方なわけだ」
 冷ややかな声音だった。
「味方ねぇ――って、他に誰かいるわけかい」
 圭樹の態度は、変わらない。
「ふん。エンリケ・チャン。彼も、だよっ」
 そう言うなり、ミスター・リィは、圭樹の膝から滑り降りた。
 走ってきたミスター・リィと鉢合わせしそうになる寸前を見計らい、
「ミスター・リィ」
 声をかける。
 白い艶麗な顔が、さまざまな感情に歪んでいた。
「ボスがお呼びです」
 バッドタイミングかと、思わないでもなかった。
 こんなに感情の昂ぶっているミスター・リィをボスに合わせて、大丈夫なのか。
 腹の底に、すっきりしない予感が、わだかまっていた。



 すすめられたソファに腰を下ろし、
「僕が、邪魔なわけですね」
 肩にかかった髪を癇性に払いのけながら、ミスター・リィがボスを見返した。
 陽射しの差し込むリビングで、ふたりは、向き合っていた。
 浅野がぽつんとボスの隣に腰を下ろして、全身を硬直させている。ミスター・リィが部屋に来るまでなにがあったのか、押して知るべしだろう。白いシャツが第三ボタンまではだけて、かすかなピンクを帯びた肉付きの薄い胸元があらわになっていた。
「邪魔というわけではないが」
 ゆっくりと口を開いたボスに、
「僕は、あなたにとって、抱く価値もないというわけですか」
 宝石のような緑の眸が、ちらりと浅野を撫でるように見た後で、ボスの黒い目を見上げた。
「一度くらい、抱いてくれてもいいんじゃないですか」
 よほどの自制心がなければ、彼の秋波には抗えないに違いない。しかし、
「私は君に興味はない」
 無慈悲な一言に、
「わかりました」
 いっそ、淡々と、ミスター・リィが退いて見せる。
「後のことは、できるだけ意に沿うようにエンリケに言ってある」
 そうだな――と同意を求められ、
「承っております」
と、答えた。
「なら、あなたが、僕を身請けしない?」
 小悪魔めいたまなざしとともに言われたことばに、
「私にはそんな甲斐性はありませんよ」
 ほんのわずかに苦笑をにじませてみせた。
「そう? あなた、結構いい線いっているんだけど」
 ね、浅野―――と、続けたミスター・リィの口調に、私の背筋が、逆毛立った。
 無邪気さを装った、その実したたらんばかりの毒をにじませた、甘い声。
 そう感じるまもなく、浅野の全身が、大きく震えたのだ。
「君も、エンリケのこと、そう思ってるよね?」
 赤いくちびるが、下弦の月のような半円を描いた。
 ボスの斜め後ろに立つ私には、浅野の表情もボスのそれも、見て取ることはできなかった。しかし、空気が変わったのを、まざまざと、感じていた。
「後は、エンリケと相談してくれ」
 話は終わりだとばかりに、私とミスター・リィとは、部屋から追い出された。
「この後、彼、どうなると思う?」
 ドアを背に、クツクツとミスター・リィが、笑う。
「君も、他人事じゃないかもしれないよ」
 まるで、獲物を狙いすませる獣のような、緑の眸が、私を見上げる。
「僕の希望を、聞いてくれるんだろ」
 部屋においでよ。
 何事もなかったかのように、ミスター・リィが、私を誘った。


つづく?

start 10:54 2007/09/02
up 11:37 2007/09/09
◇ いいわけ その他 ◇

 やっぱり、中途半端。
 エンリケ視点は、玉砕です。しかも、リィくんが、わがまま君になってしまったし。いや、最初は、クール・ビューティーな頼りになるおにいちゃんっぽい感じのつもりだったのですが。あやや。魚里これまで書いたことないタイプだよ。びっくり。
 やっぱ、郁也クン視点のがよかったなぁ。
 少しでも楽しんでいただけるとうれしいのですが、たるいかな。
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